乾杯の声が狭いワンルームに弾けた。 六畳にローテーブル一つ、ソファなんて高価な物はないから畳に直に座る。 キッチンの換気扇がうなり声をあげ、窓の外では近所の犬が遠吠えを上げていた。まるで俺たちの打ち上げをお祝いするように…… 買い込んできた総菜のパックがひしめき合って、唐揚げ、ポテサラ、枝豆、コンビニ寿司、なぜか甘いプリンまで並ぶ。 冷蔵庫の野菜室から引っ張り出されたペットボトルが汗をかき、コップは足りないので紙コップに名前を書いた。壁際には乾いた洗濯物のハンガー。ベッドは布団を上げて畳んであり、その上に学校鞄が二つ。凛の生活の全部が、狭い四角にぎゅっと詰まっている。「改めて、謹慎前夜に────かんぱーい!」 エマが音頭を取り、紙コップが触れ合った。パシ、と軽い音。「「「かんぱい」」」 吉岡は遠慮なく唐揚げに箸を突き立て、梅田はプリンを見つめ、竹田は缶のプルタブを器用に開ける。 陽川は最初、座布団に正座していたけれど「足がしびれる」と小声で言ってあぐらに変えた。凛は湯呑みみたいに紙コップを両手で包む。「でさ、処分どうなるのかなあ……」と唐揚げをほうばりながら吉岡。「けんちゃん。行儀が悪いよ」と陽川。「覚悟を決めるしかないんじゃないかなあ」と半笑いでエマが変わりに答えた。「覚悟は……まぁ……」 吉岡は語尾を濁して唐揚げをもう一個口に放り込んだ。「唐揚げで覚悟を決めるな」 俺が突っ込むと、エマがクスクス笑った。 そんな軽口が二、三巡したあとだった。エマが唐突に手を叩く。「はい注目。ここで本日のメインイベント~」「……いや、もう終わっただろ。トークショーは」「違う違う。恋バナ。みんな、知らないんでしょ? 桐生くんと凛ちゃんの“アレ”」 紙コップを持つ手が止まる音が、一斉にあった気がした。「アレ?」竹田の目がきらり。「アレって何……?」梅田はプリンのスプーンを宙で止める。「え……えぇと、その」凛はコップを胸元まで引き上げ、俯いた。「え、え、何それ。マジでニュース?」吉岡がソワソワし、陽川は無言でこちらを見る。目だけで「説明」と言ってくる。 エマはわざとらしく咳払いを一つして、にこっと笑った。「凛ちゃんが桐生くんに告白したんだよね?」「ぶふっ!?」吉岡が炭酸を吹き出し、竹田と梅田が同時に「えぇぇ~!」と声を上げる。凛
生徒指導室へ続く薄暗い廊下を、俺たちは縦一列に並んで歩いた。 前から順に、俺、エマ、凛、陽川、吉岡、竹田、梅田。前後には見張りの先生が二人。はたから見たら完全に護送だ。「ねえ桐生くん、これってさ……」 小声でエマ。「囚人移送ごっこじゃないからな。現実だよ」「うわ、辛辣」「二人とも喋るな」「「はい」」ピリッとした雰囲気を帯びた体育教師が振り返り注意をしてきたら、そう返事をするしかなかった。 曲がり角を抜けるたび、好奇と不安の視線が飛んでくる。「なにしたの?」「配信炎上組?」みたいなヒソヒソ声が背中を刺す。 吉岡が俺の肘を小突いた。「なあ姫、俺らって……ニュースに出る?」「こんなことでニュースになってたら世の中のメディアはきっとパンクしてしまっているわ」 注意されても喋るのをやめない俺たちに呆れたのか体育教師は大きな咳払いをした。それを受けて吉岡も陽川も黙った。吉岡に関しては本来関係ないはずなのに悪いことをしてしまったなとも思ったが、責任者は責任を取るためにいるんだよな。 生徒指導室の扉が開く。中には、腕を組む理科ちゃんと、書類を持つ横島先生。二人の背後の窓から、傾いた光が床に長い影を落としていた。「座りなさい」 全員が並んで座ると、理科ちゃんが机を指で二回、コン、コンと叩いた。鼓動がそこに重なる。「質問するわ。────誰の指示?」「わた────」 陽川が声を名乗り出ようとすると、全員の視線がいっせいに俺へ刺さる。知ってた。 俺は椅子から半分浮いて、軽く頭を下げた。「……俺です」 理科ちゃんは鼻で笑った。「無断で外部者を呼び、宣伝をし、集客を煽動した。学園祭は学校の行事なのよ。私物化するのはよくないよね」「結果的にですけど……来場者は増えました」 エマが、笑っていない笑顔で口を挟む。「お黙りなさい」 机がびしりと鳴った。エマは「はーい」と肩をすくめ、凛がびくっとする。 先生の視線が俺に戻る。「桐生くん。君は危険性を考慮したの?怪我人が出たらどうする。責任は誰が取る」「……そこまで、考えが、足りませんでした」 横島先生が、ふっと息を吐いた。叱責のための息ではなく、場を落ち着かせるための、あの息だ。「状況を整理する」 横島先生が書類をちらりと見る。「志津里アイリさんと、その同行者には先ほど帰ってもら
「陽川!」 扉を開けた先には、こめかみを押さえた陽川が立っていた。「まったくあなたたちは……教室の前で話していたら嫌でも耳に入ってきちゃうじゃないの」 どうやら俺たちの相談は全て丸聞こえだったらしい。「竹田さんに梅田さん。あなたたちはもっと冷静な人だと思っていたわ。残念だわ」 ピシャリと告げる声に、教室の空気が一気に張り詰める。 けれど、ここで退いてしまったら全てが水の泡になる。「……陽川、聞いてくれ。俺たちは本気なんだ」 俺がそう言うと、陽川は鋭い目をこちらに向けた。「本気?今さら三時間もないのに?観客を集めて、進行もして、何事もなく終われるとでも思ってるの?」 言葉は正論で、ぐうの音も出ない。 だが、ここで怯んでいる場合じゃない。「……でも、私たち、やりたいの」 一歩前に出たのは凛だった。 彼女は真剣な眼差しで陽川を見据え、声を震わせながら続ける。「誰も来てくれなくて悔しかった。準備を頑張ったのに、報われないのは嫌なの」 陽川の眉が、わずかに動いた。 その揺れを見逃さず、エマが軽やかに口を挟む。「そうそう!このまま灰色の文化祭で終わるなんて、私たちらしくないよね?」 ふざけているようで、その笑顔には本気の熱が宿っていた。 凛の直球と、エマの軽口。二人の声が合わさって、重い空気を少しずつ溶かしていく。「……だけど、人はどうやって集めるの?宣伝なんて、もうできるはずもないし」 陽川は最後の砦を崩させまいと、冷静さを装った。 しかし────「拡散なら任せて!」 梅田が勢いよく手を挙げ、スマホを取り出した。「うちのフォロワー三千人いるんだよ!【志津里アイリが緊急トークショー】って書き込んだから、絶対話題になる!」「私だって二千はいるし!」竹田も負けじと画面を操作し始める。「森流祭のハッシュタグで回せば、地域の人も見るでしょ!」 ふたりは指をすべらせ、矢継ぎ早に投稿を投げていく。 タイムラインには「え、アイリが来てるの!?」「マジで!?」と興奮したコメントが次々と流れた。「ちょ、ちょっと待って!勝手にそんなこと────困るわ……」 陽川が慌てて止めようとするが、もう遅い。 リツイート数はうなぎ登り、あっという間に桁が一つ増える。拡散されてしまったものがもう元に戻らないということは陽川だって、俺は凛だって経験
アイリの言葉で空気が少し和らいだ気がした。 さっきまで固くなっていた凛の肩も、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻しているように見える。「……協力してくれるのか?」 俺が確認すると、アイリは俺から目を逸らしながら頷いた。「あなたには借りもあるし。協力をしてあげる」 態度とセリフが伴っていない。こいつも素直じゃないんだな。 ストリーの正体を引き受けてくれたアイリ。むしろ借りがあるのは俺の方なのに。「こんなこと言ってるけど、居ても立ってもいられなくなって出てきたんだ許してやってくれ」 秋斗はそう言いながら肩をすくめる。「ちょ、ちょっと!」 アイリは秋斗のセリフを慌てて否定しようとするが、秋斗に真っ直ぐ見つめられると、頬を赤らめて黙った。 凛もそのやり取りに安心したのか、小さな声で「よかった」と呟いた。「じゃあ……あとは姫ちゃんだね」 陽川を説得しなければ、いくら俺たちが団結してもこの計画は実現できない。 その重みを感じ取ったのか、誰もすぐには言葉を発せなかった。 沈黙を破ったのは、アイリだった。「なら、すぐに行きましょう。迷っている暇なんてないもの」 俺はスマホを取り出し、エマにだけ短くメッセージを送った。 ────教室に来てくれ。大事な話がある。 送信を終えると同時に、俺たちは屋上を後にした。 狭い階段を下り、ざわめきに包まれた廊下を歩く。 外からは模擬店の片付けを始める声、焼きそばの焦げた匂いが漂ってくる。 教室前に着いたとき、ちょうど当番が交代するタイミングだった。 扉から出てきたのは竹田と梅田。竹田は俺たちの姿を見て、声をかけていた。「あなたたち、なにかやらかそうとしたんでしょ?陽川さんが愚痴をこぼしてたわ」「……まあ、ちょっとな」 言葉を濁して誤魔化そうとした。だけど、それをアイリが遮った。「あなたたちも桐生のクラスメイトなのでしょう?だったら協力しなさい」 アイリの態度を受けて、竹田はムッとしたような表情を見せたが、梅田が耳打ちをした。「……ねえ、この人、志津里アイリじゃない?」 内緒話をしているつもりなのだろうが、全てダダ漏れだ。 唐突に目の前に現れた芸能人を前に興奮を隠せなかったのだろう。 しかし──── 「芸能人だろうが関係ない。あなたなんなの?どういうつもり?」 高圧的に迫られた
「……実は、俺、アイリのトークショーを推しとして発表しようとしてたんだ」 凛の問いに、しばらく沈黙していた俺はついに口を開いた。「でも横島先生に気づかれて、止められた。根回しもしないで突っ走ったから、無理だって」 凛は驚いたように目を見開いたが、やがて真剣な表情に変わった。「……陽葵がやりたいなら、私は協力するよ……でも、どうしてそんなことをやりたいと思ったの?」 きっと凛に嘘をついたって見破られる。だから全て本当のことを話そう。「ああ、それは────最初は、クラスで発表する【推し】についてなんにも思い浮かばなかったんだ。だから、それを誤魔化すためにアイリにお願いをすることにしたんだ────」 俺は凛から視線を外して、空を眺めた。そこには高い高い秋の空と、ゆったりと浮かぶ雲の姿があった。「でもさ、クラスのみんなで協力して【推し発つ】について取り組んでたらさ、少しずつ俺の考えも変わってきたんだ。こんなに一生懸命やっている奴らのために1番を取らせてやりたいなって。この学校の全部のクラスを見回したって、俺たちくらい情熱を持って取り組んでいたクラスはないと思うんだ。凛もそう思うだろ?」 凛は少し考えるように首を傾げた。そして、少しの間があって口を開いた。「……うん。私もそう思う」「凛だってあんなに一生懸命頑張ってたもんな。竹田と組まされるなんて最悪だったろうにさ」「今はもう、仲良しだよ」 たしかに、最後のほうは竹田も凛に敵対的な行動はとっていなかった。俺の相棒だった梅田だってそうだ。「最初は俺と凛の問題もあったから、こんなクラスって気持ちが強かったけどさ、今は違うんだ。こいつらに、いや、こいつらとテッペン取りたいなって」「うん。そうだね」「陽川がストリーでやらかした時、校門の前に人が凄い集まったろ?この分だと今は中身だってことになっているアイリは芸能人でもある。SNSで告知なんてしたら多分どえらいことになるぜ」「うん」「そしたらさ、きっとうちのクラスが後夜祭で最優秀クラスに選ばれるんだ」「うん」「陽川なんて、凄い入れ込みようだから喜ぶだろうな」 「そうだね。……まずは、どうしたらいいんだろう」「そうだな。まずはアイリの説得からかな。多分もうやらなくていいものだと思っていると思うから」 その瞬間だった、俺の横の扉のドアノブがガ
1-Dの教室前は我がクラスとは違い、多少の賑わいはあった。 模造紙にペンキで殴り描きした「お化け屋敷」の看板が、かろうじて風に揺れている。「……なんか、チープだね」 思わず凛の口をついて出た感想に、俺は笑ってしまった。 なにせ、それは昨日エマとこのお化け屋敷を訪れた時に発した言葉だったのだから。 でも、それは黙っておいたほうがいいだろう。なんとなくそう思った。「そうだな」「……入る?」「凛が入りたいなら、そうするか」「う、うん」 何組かの入場を見送ったあた、受け付けにチケットをもぎって渡し、俺たちは黒いビニールシートの入り口をくぐった。 中は窓という窓が黒布で覆われ、照明もろうそく風の豆電球が点々と並ぶだけ。昼間だというのに、足元が見づらいほどの暗さだ。 背後で入り口が閉じられると、凛がびくりと肩を跳ねさせた。「暗いところが苦手なのか?」「べ、別に……ちょっとびっくりしただけ」 そう言いながらも、凛の袖口が俺の手首に触れるくらい近づいてきている。 凛に暗いところが苦手なんてイメージはなかったな。一人暮らししてるわけだし。 通路の両脇には、新聞紙とガムテープで作った人形が並べられていた。 小学生、良くて中学生向が悪ふざけで作ったようなでき。でも、それが逆に不気味さを演出している。狙ってやっているのならすごいな。「……誰も出てこないな」 油断しかけたその瞬間。 ガサッ。 ビニールが揺れ、白い顔のお面をつけた誰かが飛び出してきた。「っ……!」 凛が小さな悲鳴を上げ、反射的に俺の腕にしがみついてくる。 彼女の指先が、制服越しに肌に食い込んだ。「お、おどかすなよ……」 俺が苦笑すると、演者はすぐに引っ込み、また闇に溶けていった。 小声で「また別の女と来てやがる。ちくしょう」と呟いていたような気がした。もしかしたら彼は昨日の彼だったのだろうか。 凛は腕をつかんだまま、下を向いて息を整えている。 鼓動の速さが、手首越しに伝わってくる。「……陽葵は、平気なんだ」「いや、びっくりはしたけどな。声は出さなかっただけ」 昨日も同じ目に遭っているとは言えない。言えるはずがない。 そう答えると、凛がかすかに笑った。その笑顔は出会った当初より自然に笑えていた。 そんな仕草を見て、普通に可愛いと思ってしまった。凛にこんな感