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アルヴァレス国境地帯、北部山岳ルート。雪解けを迎えたばかりの峠を、十数人の一行が進んでいた。先頭には、リリウスとヴェイル。その背後に、マリアンを含む魔塔の戦闘員たち。そしてその中に、一人だけ、まったく異なる気配を放つ人物がいた。──リーネ・ヴァルド。評議監であり、元首の妻。ヴァルドを代表して“監視と報告”の役を担う、“目”。厚手の外套に身を包んだ彼女は、雪解けの岩場をものともせず、無駄のない足取りで部隊を追う。けれどその眼差しは、終始リリウスを見ていた。「……まさか、この山を超えるとは思わなかったわ」そう呟いたのは、リーネではなくマリアン。目の前の岩肌に手をかざし、結界の痕跡を探る。「これは……封印結界ですね。アルヴァレスの術式ですが、だいぶ粗い」ヴェイルが横から覗き込む。「つまり、急ごしらえだな。こっちの動きを見て、“間に合わせで張った”可能性がある。マリアン、いけるか?」「魔力の流れが乱れてる。これなら、通れるわ……」マリアンが手をかざすと、岩肌に走っていた紋様が微かに震え、霧のように崩れていった。「やった……通れます。今のうちに」全員が無言で頷き、一行は境界を越える。その瞬間だった。リリウスの背後から、リーネの声が届く。「あなたが導く道が、彼らを“光”へ運ぶと信じましょう。……でも、“道標”が折れれば、部隊は迷う。くれぐれも、自分を見失わないで」振り返ったリリウスに、リーネは静かに微笑んでいた。それは威圧ではなく、“見ている”というだけの存在感。けれど──それだけで、彼の足元を正すに足る、重みだった。「……ええ。約束します」リリウスは短く答えた。そして、薄く開いた霧の中へ──静かに足を踏み入れる。一行は言葉少なに、その背を追った。ヴァルドから続く山岳ルートは、“天然の要塞”と称される険しさを持つ。切り立った岩場、風を遮るもののない尾根、足元に広がる絶壁。それでも彼らは歩を止めなかった。やがて陽が傾き、空が灰色に染まり始める頃──一行は、谷間のくぼ地に野営地を設けることにした。吹きつける風が、静かに火の粉を揺らしていた。リーネは少し離れた岩場に腰をかけ、風に髪を遊ばせていた。「こんな冷える場所で、何をしている」背後から声をかけたのは、カイルだった。彼は分厚い外套を肩にかけ、手に湯気の立
地下執務室。リリウスの「潜入宣言」を受けて、少人数での緊急会議が招集された。顔をそろえたのは、ヴェイル、マリアン、魔塔の護衛兵、クラウディアからの補佐官──そして、カイル。「僕が行きます。あの国に、もう一度。……自分の意志で」はじめにそう言ったのは、リリウスだった。「無謀だ」と誰かが口にしようとした瞬間、ヴェイルが口を開いた。「──止めたいとは思う。しかし、彼があの国に何を置いてきたか、私は知ってる」「私はリリウス様の指示に従います。……あの国を、あのままにはしておけません。同士が殺されているのです。不当な理由で、ただ“信じた”というだけで」マリアンの言葉に、場が静まる。それでも懸念の声は消えない。「安全が保証できない」「外交使節の立場が──」そんなやり取りが続いたあと、最後に口を開いたのはカイルだった。「……この件、元首に通さずに動くわけにはいかない」全員の視線が彼に向く。「ヴァルドとしての公式な“黙認”がなければ、リリウスを“ただの暴走者”にしてしまう」「例外処理で進めるのは……やはり無理です、か」リリウスが言うと、カイルはわずかに肩をすくめた。「国を動かすということは、“国が責任を持つ”ということだ。例外で動けば、切られるのは君になる」リリウスは息を飲む。「だから、俺が通す。“ヴァルドとして、この件に一定の支援を行う”と、元首に言わせる。それが……お前を守る“公の盾”になる」「……ありがとう。でも、それ、絶対に大変ですよね」「ああ、大変だ。……だから、君も明日、覚悟して来い。──父に、“国家”じゃなく、“人間”として語れ」全員が黙る。その言葉の重さが、室内の空気を変えていた。リリウスは、まっすぐにカイルを見て頷いた。「……ええ。僕が始めたことだから、責任を持って、届けます」夜の静寂の中、ただ一つ、決意だけが熱を持っていた。※翌朝。王宮本棟の奥、元首執務室。石造りの扉が開く音とともに、カイルとリリウスが通された。そこにいたのは、ヴァルド連邦元首──ゼノ・ヴァルド。窓から差し込む光を背に、彼は椅子に腰を下ろしたまま、手元の書状を閉じた。「……特使殿。再び君に会う理由が、どうやら必要になったようだな」声に棘はなかった。だが、“試す者”の口調だった。リリウスは進み出て、深く一礼する。「この度は、
ヴァルド宮の朝。城壁を越えて届く報せは、沈黙を引き裂く刃のようだった。「アルヴァレスが“異端者”の粛清を始めた。国境沿い、旧ハリナ村だ」報せを受け取ったのは、城内の簡素な執務室。そこにいたのは、カイル、リリウス、そしてヴェイル。報告書の文字を追いながら、リリウスの指が微かに震えた。「……セラフィア教の信徒が“光を語った”というだけで、集落ごと……」「火を放たれたらしい。民間人に混ざっていた神官の遺体も確認されている」カイルの声は低い。けれど、その眼差しの奥にあったのは、怒りではなく静かな怒気だった。ヴェイルが口を開く。「……これは、明確な戦端の布告だ。クラウディアへの“信仰戦争”が、既に始まっていると見ていい」沈黙が落ちる。やがて、リリウスが顔を上げた。「──神王陛下から、密書が届きました」手渡された封筒には、クラウディア王室の封蝋。中には、短い言葉が記されていた。『アルヴァレスは既に剣を抜いた。君の“意志”が、盾となり得ることを願う』その文面を見たカイルの眉が僅かに動いた。リリウスは机の縁を握り、息を吸い込む。「あの国はもう、駄目でしょうね……ならば、終わらせるしかない」その言葉に、カイルがはっきりと首を振る。「違う。“終わらせる”んじゃない。“変える”んだ」リリウスが目を見開く。「終わらせた者は、敵になる。“変えた者”だけが、生きて戻れる」カイルは、静かに言い添えた。「そして……お前が変えるというなら、俺はお前の剣になる」言葉の裏には、何の打算もなかった。それは、すでに軍人としてのものではなく──ひとりの“番”としての覚悟だった。※その夜──渡り廊下の奥。薄く開けた扉の先、ランタン一つで照らされた空間に、リリウスとヴェイルの姿があった。「……ここは、カイル殿の目が届かない場所ですね」「“目”というより、“手”かもしれないな」リリウスの返しに、ヴェイルは小さく笑う。けれど、その視線は冗談を許さない。「……アルヴァレスに、僕が行きます」一拍の間。ヴェイルは深く息を吐いた。そして、目線を逸らさずに言う。「──そう言うと思っていた。ただ、……心配だよ。正直に言えば」リリウスは驚かない。けれど、その声の温度には、少しだけ心が揺れる。「君は、“見捨てられた者”の気持ちを誰よりも理解している。…
明朝──ヴァルド宮の謁見の間は、昨日と変わらず冷たく静かだったが、そこに立つ面々の顔ぶれは、ひとつだけ違っていた。今日はカイルが同席していた。ゼノ=ヴァルド元首は玉座を離れ、中央の対面式の長卓に着席している。その横にはユリウス=ヴァルドの姿もあった。表向きの議題は「協定の継続に向けた実務的な確認」──だが、場の空気は儀礼ではなく、“信頼”を試す色を帯びていた。「さて──」ゼノがゆっくりと視線をめぐらせた。鋭く、曇りなく。昨日と同じ“国家の目”だった。「お前が王子殿下を“籠絡”しておいてくれたら、こんな回りくどいことにはならなかったのだがな」静かな声だった。だがその一言で、場の空気が一瞬だけ凍りついた。リリウスは目を見開き、カイルは鼻で笑った。「……冗談にしては毒が強いな」「冗談に聞こえるかどうかは、お前次第だ」ゼノはごく自然に続けた。「少なくとも、ヴァルドの議会には“王族同士の婚姻”を軸にした同盟を望む声があった。それを断ったのは──お前の判断だったな」「……はい。それは、俺の責任です」カイルは声を荒げずにそう答えた。「だが責任とは、ただ名乗ることではない」ゼノの声に重みが乗る。「“選ぶ”というのは、“代償を払う”ことだ。お前がその意味を理解した上で、なお今ここに立っているなら──その意志を見よう」沈黙が流れる。やがて、ユリウスが口を開く。「──父上。申し上げます」「言ってみろ、ユリウス」「この場は外交の場であり、私情を持ち込むには不適です。兄上の選択は公として記録されていますし、結果としても、クラウディアは我々の隣に立とうとしています。それ以上の詮索は、国益を曇らせます」ゼノはわずかに笑った。「正論だな。……まったく、口うるさい息子ばかりだ」カイルが肩をすくめる。「それでも黙っていては家が傾く。我が偉大なる元首殿はちゃんと意見を聞くお方であったと記憶していますが?」「……全く本当に、うるさい息子だ」ゼノがゆっくりと息を吐き出して、苦笑をこぼした。その時、「あの、宜しければ……私からもお話ししていいでしょうか」その静かな声は、リリウスだった。ゼノがわずかに眉を動かす。「クラウディアは、この協定を“同盟”として進化させたいと考えています。軍事だけでなく、交易、文化、教育、それら全てにおいて。だ
ヴァルド宮の謁見の間は、まるで巨大な石の心臓のように、冷たく静かだった。厚い扉が重々しく閉じられ、石造りの壁には幾何学的な装飾が施されている。リリウスはひとり、静かに立っていた。両脇には見張りの兵が控え、玉座の奥には──この国の頂点に立つ男がいた。カイルとユリウスの父。ヴァルド連邦元首、ゼノ=ヴァルド。彼はカイルによく似ていた。だがその眼差しは、カイルよりも遥かに鋭く、重く、曇りがなかった。「人間ではなく、国家そのものが人の形をしている」──そう表現されるのも頷けるほどの存在感だった。「王子殿下。いや、特使殿か」低く、くぐもった声が響く。「クラウディアからの旅路、ご苦労だったな」「……貴国に迎え入れていただき、感謝します」リリウスは静かに礼をとる。緊張はしていた。けれど、逃げる気はなかった。ゼノ元首は、ゆっくりと玉座から腰を上げた。「では早速、本題に入ろう。我々は軍事協定を交わしたばかりだ。……だがそれは、国益を軸に据えた“取り引き”に過ぎない。その裏付けとして、クラウディアが“君”を使者として送ってきた理由を、私は知りたい」「僕は……ただの外交官ではありません」リリウスは真っ直ぐに答える。「この国との協定を、言葉ではなく意志で繋ぐために来ました。僕がここに立つことそのものが、クラウディアの誠意であり──覚悟です」「ふむ」ゼノは短く唸ると、歩み寄ってくる。「君は“戦争の火種”にもなりうる存在だ。そのことは自覚しているか?」「はい。だからこそ、僕は“自分の足”でここに立っています」「自分の足、か……。それは良い」ゼノの目が細められる。「だが、足元がぐらついたままでは意味がない。君が王子であるというだけでは、我々は協力せん。……君が“どう選ぶか”、そこにしか価値はない」「分かっています。僕は、誰かの飾りや象徴になるつもりはありません。この旅で、“僕自身”の意味を見つけると決めてきました。たとえそれが、望まれぬ答えになったとしても」ゼノは小さく笑った。それは皮肉でも嘲笑でもなく、どこか微かな満足を含んだ笑みだった。「やはり……どことなく、カイルと似ているな」リリウスは少し驚いて顔を上げた。「……そうでしょうか?」「あいつも昔、“意志は名よりも重い”と言って、議会を黙らせたことがある。──その結果、あいつは未だに“
ヴァルド連邦、首都エルセア──空は高く、雲ひとつない快晴だったが、空気には容赦のない冷たさがあった。クラウディアからの一行を乗せた馬車が、城門を通過する。警備兵の視線は鋭く、街の人々の視線は遠巻きだ。好奇よりも警戒が勝っていた。それでも、クラウディアの紋章とともに並ぶヴァルドの軍旗。そして、何よりその中心に立つ男──カイル=ヴァルドの姿が、迎える側に一定の敬意を強いた。「歓迎こそされていないが、拒絶もされていない……そんな空気ですね」馬車の中、リリウスがぽつりと呟く。「ここは交渉の地だ。感情よりも理が先に立つ」カイルの返答は淡々としていたが、彼自身の緊張もまた、目に見えない形で周囲に滲んでいた。※城に入ってからも、歓迎の式典などは一切なかった。到着の報告すら最低限で、あとは粛々と手続きが進められる。そして、その最中。玉座の間に通されたリリウスとカイルの前に現れたのは、もう一人の「ヴァルド」だった。「……兄上。お帰りなさいませ」その声は柔らかだが、芯のある響きを持っていた。年若い印象ながら、整った顔立ちと、控えめな身振りには隠しようのない知性があった。「紹介しよう。俺の弟、ユリウス=ヴァルド。議会の対外政策を担当している」カイルが紹介すると、ユリウスは一歩進み出て、リリウスに向き直る。「クラウディアの王子殿下──いえ、特使殿。ようこそ、ヴァルド連邦へ。……貴殿のような存在が外交の場に立つのは、前例が少なくてなにかと難しいと聞いております」「……異例であることは自覚しています。けれど、それでも来る意味があると考えました」リリウスは丁寧に、しかしはっきりと答える。ユリウスの眼差しが僅かに揺れる。けれど、すぐにいつもの無表情に戻ると、今度は兄に目を向けた。「兄上。ひとつ忠告を」「聞くだけ聞こう」「……私情で判断を鈍らせぬよう。あなたが“傍にいる人間”であることが、時として障害になる可能性もあります」その言葉に、空気が張り詰めた。だがカイルはわずかに口角を上げると、短く返す。「それは忠告か? それとも、脅しか?」「政治的な計算です。……あなたなら理解していただけると信じています」「弟殿には信用が足らぬ兄のようだ」言葉の応酬に冷たさはあったが、根底には兄弟としての信頼があった。ユリウスは兄を信じているがゆえに、