author-banner
めがねあざらし
めがねあざらし
Author

Novels by めがねあざらし

捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される

捨てられたΩは沈黙の王に溺愛される

番に捨てられ、雪の中に置き去りにされたΩ・リリウス。 魔力を封じられた彼を拾ったのは、“沈黙の王”と呼ばれる軍総帥カイルだった。 「役に立つなら使う」──そう言いながらも、冷たいはずの手はなぜか優しい。 やがて始まる、命令でも義務でもない愛。 そしてリリウスを捨てた番は、全てを奪われていく。
Read
Chapter: 最終話:風が通るところ
朝が静かにひらけていた。その日、空は高く澄みわたり、風はどこか遠くの山を越えてきたような匂いを連れて、屋敷の窓辺をそっと撫でていった。寝台の上、エリオンがかすかにまぶたを動かし、ひとつ、呼吸の仕方を変える。隣でその気配を感じ取ったリリウスは、胸元にかかる小さな手を包み込むようにして、微かに身を起こした。「……おはよう」まだ眠っていたのか、それとも目を覚ましきれないまま夢の続きを追いかけていたのか。小さな顔が、ゆっくりとこちらを向く。頬にかかった寝癖がやわらかく跳ねて、言葉ではない音が、喉の奥で転がるように漏れた。リリウスはその声を、何よりも贅沢な朝の始まりだと思いながら、片手でそっと抱き上げた。薄手の上着の間から、まだ少しひんやりとした肌がふれてくる。部屋の奥から、木の枝が落ちる小さな音がした。窓の外では、カイルが庭の手入れをしていた。剪定ばさみの音が、葉を払うたびに控えめに響いては消えてゆく。庭の端に咲いた花々が、まだ少し風に眠たげに揺れていた。エリオンを抱いたまま、リリウスは窓辺に歩み寄る。「君の父様はなんでも出来るねぇ……剪定なんていつ覚えたのかな?」家の中を風がすっと通り抜け、軽やかな気配だけが背後に残った。──それだけのことなのに、この場所はもう充分すぎるほど、満ちている。数年前には考えられなかったことだ、とふと思う。国の未来を守ることと、自分の未来を守ることが、こんなふうに重なる日が来るなんて。エリオンが胸元でくすりと笑ったような気がして、リリウスはその顔をのぞき込んだ。「何か、いい夢でも見た?」もちろん返事はない。ただ、ひときわ大きな瞬きが返ってきた。そのとき、控えめなノックの音が響いた。リリウスが「どうぞ」と返すと、セロが扉を開けて、丁寧に頭を下げた。「封印記録の最終報告が届いております。お手元へお運びしましょうか?」「……ありがとう。こちらで受け取るよ」受け取った封筒は、革表紙の簡素なものだった。中には古びた文書が三つ。アルヴァレス旧王家の血統書、王政下で使われていた符号付きの外交記録、そして──レオン・アルヴァレスの“最終記録”。あの日の再会から、誰にも何も告げなかったけれど。彼が何者かとしてではなく、ただ穏やかな一人の青年としてそこにいたことは、リリウスの中でずっと残っていた。あの日見
Last Updated: 2025-11-05
Chapter: 第179話:はじまりの肖(かたち)
政庁の広間は、いつもより少しだけ明るかった。それは朝の光の加減ではなく、窓辺に立てかけられた白いキャンバスのせいかもしれない。壁を覆っていた地図や書類棚が一時的に移され、空間にぽっかりと生まれた“何もない場所”は、どこか特別な舞台装置のようでもあった。肖像画の制作が始まる――クラウディアとヴァルド、ふたつの国の“今”を象徴するものとして、政庁の中心に飾られる予定だという。だが、それは同時に、リリウスとカイルと、そしてエリオンという家族の始まりを記録する、静かな宣言でもあった。「……やっぱり、緊張するね」リリウスは椅子に腰かけたまま、窓の向こうをぼんやりと見やりながらそう呟いた。そばにいたカイルが小さく笑う。「そうか?俺はこうして三人で時間を残せることは嬉しいと思う。筆で描いてもらえるなら、少し曖昧で、ちょうどいい」「曖昧のまま残るものって、あるのかな……」そう言いながら、リリウスは抱いていたエリオンの頬をそっと撫でる。眠っているのか、それとも退屈して目を閉じているのか。その柔らかな呼吸が、腕の中でかすかに上下していた。間もなく、画家が現れた。白い衣に淡く絵の具の飛沫をまとわせたままの年配の男は、軽く礼をしてから、ふたりの前に腰を下ろす。背筋は年齢を感じさせぬほどまっすぐで、その眼差しは絵筆を持っていなくとも、人の輪郭を捉えることに長けた者のものだった。「本日から、構図の下絵に入ります。その前に、少しだけお話を。……おふたりにとって、この肖像は何を映すべきものなのでしょう」曖昧ではないが、鋭すぎることもない声だった。けれどその問いは、リリウスの中に深く静かに届いた。何を、映すべきか――それは、事前に何度も政庁内で議論されたことだったはずなのに。カイルが先に応えた。「……未来の誰かが見たときに、“始まり”だと思えるものであってほしい。戦や政争や血の歴史の続きを、ただ記録するのではなくて――そこから一度、深く息を吐いたような……そんな一枚に」リリウスはカイルの言葉に目を向けた。ふだんは寡黙な彼が、こうしてはっきり言葉を持つとき、それはいつも、どこか優しさと誠実さのあいだに揺れていた。「……リリウス様は?」画家に問われて、ふとリリウスは息を飲んだ。目の前には、まだ真っ白なキャンバスがある。そこにどんな色を乗せるのか、
Last Updated: 2025-11-04
Chapter: 第178話:記憶のない町
季節は駆け足のように過ぎ去っていく。秋の気配が、まだ夏の名残を遠慮がちに押しのけながら街路の石畳を冷やしていた。風の中には少しだけ乾いた匂いが混ざり、緩やかに色づき始めた街の木々が、ひと足先に季節の歩みを知っているようでもあった。リリウスはその風に外套の裾をなびかせながら、視察の名目で訪れた小さな町を歩いていた。エリオンが生まれてから、初めて国の外縁部まで足を延ばしたことになる。クラウディアとヴァルド、二国の統治機構の再編成もようやく落ち着き、政治の基盤は以前よりも確かに“安定”と呼べるものになってきていた。……けれど本当のところを言えば、今日この場所に足を向けたのは、政務のためというより、もう少し曖昧で個人的な理由によるものだった。一日のなかで幾度となくエリオンを抱き、名を呼び、微睡んだり泣いたりするその顔を見ていると、ふと、“ここではないどこか”の空気を吸いたくなる瞬間がある。過去に心を引かれているのではなく、今という時間を深く、もっと深く掘り下げていくために。昼過ぎの市場は人の声で満ちていた。野菜や果実が色鮮やかに山と積まれ、手籠を提げた買い物客があちこちを行き交っている。リリウスは同行の者たちに遠巻きに付き従われながらも、自然と足が市場の角の花売りの少女に向いていた。「お安くしてます、今朝咲いたばかりです――」愛らしくもしゃんとした声が、通りに響いていた。籠のなかには、色とりどりの小さな草花が無造作に、けれどどこか丁寧に詰められていて、咲き誇るというよりも、どれもが自分の居場所にすっと馴染んでいる。その素朴さに、リリウスはふと足を止めた。「これを、もらえるかな」「はいっ。ありがとうございます!」少女が明るく答え、籠からそっと小さな花束を取り出す。そのとき、わずかによろけた彼女の手から数輪の花が零れ、地面に散った。リリウスが反射的に身をかがめた、その瞬間だった。「……あっ」誰かと肩が、ほんの少しぶつかった。目線を上げた瞬間、リリウスは言葉を失った。そこにいたのは、あの男だった。けれど、その顔にはかつての影がなかった。整った輪郭は変わらず、髪も瞳もそのままの色なのに、彼の眼差しからは、あの冷たい緊張や、底知れぬ焦りのようなものがすっかり消えていた。「ごめんなさい、大丈夫ですか?」その男――レオン・アルヴァ
Last Updated: 2025-11-03
Chapter: 第177話:君を名づける日
神殿の石階を踏みしめるたび、どこか音が吸い込まれていくような静けさがあった。幾重にも積み上げられた歳月が、空気に微かな重みを与えている――そんな場所だった。正殿へと向かう回廊を、リリウスはゆっくりと歩いた。胸元には白銀に刺繍された襟があり、その腕には、まだほんのわずかしか重さのない子を抱いている。眠っているのか、それとも目を閉じて空気の振動を感じているのか。生まれてまもないその存在は、小さな寝息すらこの場の清浄さと溶け合うように、まるで“初めからここにいた”かのような静けさで、リリウスの腕の中に収まっていた。そのすぐ隣には、カイルがいた。彼の装いもまた、軍の色を離れた正装で、浅青に銀の糸が織り込まれた布が肩を優しく包んでいた。ふたりがこの子に名を与えるために、はじめて神殿の中心に立つ――それは、クラウディアとヴァルド、二つの国の象徴が、個人として“親”になるという儀式でもあった。だが、重さを感じたのは肩ではなく、胸だった。リリウスはゆるく息を吐く。何もかも、まだ夢の続きのようで、けれど夢ではなくて――言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうな、そんな緊張が、ずっと身体の奥にあった。神殿の扉が開いたとき、そこには思いがけない姿があった。「……兄上?!」反射的に、声が出ていた。白の法衣に身を包み、正殿の中心で佇んでいたのは、まぎれもなく、リリウスの兄――神王アウレリウスだった。その静かな眼差しは、昔と変わらず、何かを超えて見つめるようで、それでいて少しだけ、弟に向ける目の奥に、柔らかさがあった。「今は、ただの神官として来ただけだよ」軽く片手を挙げて、少しだけ目尻を下げてみせる。その仕草に続くように、隣のカイルがすぐに頭を下げた。「神王陛下……私たちの名付けに立ち会ってくださること、光栄です」「ああ。……けれど今は、ただ一人の兄として。お前たちの選んだ始まりを、見届けたいと思ったのだよ」そう言ってから、アウレリウスはそっと近づき、リリウスの腕に目を落とす。まだ名前を持たぬその存在に対して、祝詞のように低く、短く、古語が唱えられた。それは祝福というより、承認のような響きであり、命という偶然を、神殿という空間が、正式に迎え入れるための古式に則った鍵でもあった。正殿の中心に敷かれた青の布の上に、リリウスとカイルは膝をつく。あ
Last Updated: 2025-11-02
Chapter: 第176話:夏の始まり、産声
屋敷の空気が、あきらかに変わったのは、まだ陽も昇りきらぬ静かな朝のことだった。リリウスの呼吸が不規則になったのは、明け方をすこし過ぎた頃。その報せを受けて、助産の神官たちが部屋へと急ぎ、医師団がすぐさま術式の準備に入った。階下では、魔力遮断と保護結界の陣が淡く光を灯し、癒合処置を担当する補助術者たちが低く神聖語を唱えている。空気は、張り詰めていた。けれどそれは恐れや不安ではなく、限界まで集中した静謐――。命がひとつ、この世界に現れる、その瞬間を迎えるための、準備だった。「魔力補助、安定しています」「神経遮断、完了。意識状態、やや低下」神官の声に、医師が頷き、正確に指示を重ねていく。リリウスの身体は薄い術布に包まれており、意識はやや遠のきながらも、覚醒の端にとどまっていた。痛みはない。だが感覚はあった。押し上げるような圧と熱、そして腹部の奥で光のようなものが蠢くような――そんな、未知の感覚。(ああ……もうすぐだね)誰にも伝えることなく、けれど確かに、リリウスはそれを“感じていた”。この子が、もうそこにいるのだと。「切開始めます。どうぞお気を楽に」青白い魔術陣が、腹部上空に展開された。肉体を侵さず、けれど正確に内部組織を分離し、胎膜を守りながら“門”を開くための、古代由来の補助術。産声はまだない。だが、部屋の空気が一瞬、確かに――震えた。「取り上げます」術者が静かに告げる。その手の中に、包まれるようにして現れたのは、赤子だった。血の気の薄い、けれどしっかりとこの世界に繋がっている小さな命。閉じた瞼。丸く縮こまった手足。小さく、微かに、呼吸を始めた胸。そして、その口から――「……ぁ」音にならないほどの、けれど確かに“初めての声”がこぼれた。産声というにはあまりにも静かな、ささやかな風のような音。けれどそれは、間違いなくこの世界の空気に触れた命が、自ら放った“存在の証”だった。「……おかえり」リリウスは、微笑んでいた。術後の痛みも、呼吸の浅さも、すべてが遠のいていく中で――彼はその子を、胸に抱いていた。「おかえり。……よく、来てくれたね」神官が浄化の布を差し出し、医師が術痕の癒合を確認する。周囲では誰も声を発さない。ただその一言だけが、部屋の真ん中で、空気よりもやさしく響いていた。やがて、扉が静かに
Last Updated: 2025-10-30
Chapter: 第175話:光の胎衣
雨の音が、夜を染めていた。乾いた季節を過ぎ、ようやく葉の緑がしっとりと深さを帯びはじめた頃、その小さな屋敷の庭には、夜露をたっぷりと含んだ土の匂いが満ちていた。リリウスは書を閉じると、静かに息をつく。かすかにきしむ音を立てて揺れた椅子の背が、まるで誰かの肩越しのため息のようで、思わず片手で腹をなだめるように撫でる。そこにある命は、今や確かに“在る”と言えるものとなっていた。初夏の空気に濡れた窓の外では、雨が絶え間なく降っていた。粒の細かいそれは、時折風に押されて軒先を打ち、ひっそりと揺れる鉢植えの影を揺らしている。春はすでに過ぎていた。それが過ぎ去ったことに気づいたのは、庭の柘榴の花が、咲きかけてはすぐに雨に打たれて落ちていくのを目にした日だった。膨らんだ蕾が破れ、赤い花びらがあまりにもあっけなく地面に散ったとき、リリウスはようやく“季節”というものの、曖昧で、けれど不可逆な流れに、身体ごと包まれていることを知った。──それでも、毎日はゆるやかに進んでいる。朝が来て、誰かが扉を叩き、誰かが紅茶を置いてゆく。リーネが花を替え、マリアンが本の感想を語る。カイルは変わらず夜に帰り、変わらず傍らにいて、変わらず共に眠る。そういう、当たり前になりかけている日々の中にあっても、ふと、深く息をしたくなる瞬間がある。それは決まって、雨の夜だ。理由はわからなかった。けれど雨の匂いは、いつもリリウスの心をどこか遠くへ引き戻す。誰かの声が、名を呼ぶ。だれの声ともつかない声で。……リリウス。その名が、夢の中で呼ばれたとき、眠りの底にいたはずの彼ははっとして目を開けた。けれど開いたはずの瞳の中にも、まだ現実は訪れていなかった。*燃える天幕、血に濡れた枕、魔法陣の上に横たえられた自分。薄く開いた口元から零れた息を、誰かが奪おうとしている。身体の奥にあったはずの何かが、ひきはがされる感覚。この身が誰かの“願い”のためだけに消費されようとしていた、あの時の記憶。「リリウス」耳元で、名を呼ぶ声がした。「君はもう、誰の呪いの中にもいない」その声は、遠くからやってきたようで、けれど確かに傍にあった。「君が選んだ未来を、誰も裁かない」目を開いたとき、雨の匂いはもう、ただの雨の匂いに戻っていた。隣には、カイルがいた。深く腰を下ろし、手を
Last Updated: 2025-10-29
紅の番契 〜Ω皇子は封印竜に寵愛される〜

紅の番契 〜Ω皇子は封印竜に寵愛される〜

紅い瞳を持つΩ王子・焔琉苑は、「神の番契」を結ぶために火の神殿へと捧げられた。 だが封印の奥にいたのは、何百年も眠っていた伝説の黒竜――シュア=ラグナ。 夢で囁かれていたあの声が、現実となり彼を支配する。 抗えない番契の運命。 「おまえはもう、俺のものだ」 神に選ばれたΩと、神に見放されたα。 ふたりの魂が交わるとき、この世界の“番”の意味が変わる――
Read
Chapter: 【第11話】契の名を持つ者
夜は静かに更けていった。人の声はとうに消え、月明かりさえ届かぬ離宮の中に、琉苑はひとり、座したまま目を閉じていた。布団にも入らず、灯も落とさず、ただ座り、時折、胸の内側からせり上がってくる息苦しさを堪えては、喉の奥に戻している。眠ることに、もう恐れはなかった。眠らなければ出会えない声があることに、琉苑は気付いていた。それは夜の底、真に意識がほぐれた瞬間、脳裏ではなく、魂に直接降りてくる。音でも言葉でもない、けれど確実に“誰か”のものと知れる、それは……名。――リウ。今夜もまた、同じ呼びかけが届く。けれど、それはこれまでのように一言で消え去りはしなかった。息を吸い込んだ次の瞬間、琉苑の意識はぐらりと倒れ込み、視界のすべてが闇に沈む。無音。無色。無重力。けれどその虚無の奥に、確かな気配があった。重く、鋭く、それでいてどこか懐かしさすら滲ませた存在感が、彼の足元から――否、内側から、静かに立ち上がってくる。(あいつ、だ……)そう思った直後、空間が音もなく開かれ、そこに“声”が現れた。『……リウ、我が番よ』それは、人の言葉でありながら、人の声ではなかった。耳では聞こえず、胸骨の奥で直接響くような、鼓膜を通さない響きがそこにはあった。「……シュア……」自分の口が、それを復唱していた。無意識に。その瞬間、首筋の痕がぴたりと熱を放ち、そして、痺れるような疼きが広がった。「ッ――……ああ……」まるで、骨の奥に火が点ったかのようだった。それは痛みではなく、共鳴。皮膚の表層を超えて、血と骨と精神のすべてが、その名に反応している。「……お前……俺を、どうしたいんだ……」この状況を見ても、攫うわけでもなく。ただ、琉苑はここに残されている。琉苑が言葉を繋ごうとした時、再び、声が降りてきた。『……汝が痕が疼くとき、我が在り処もまた開かれる』「……どういう意味だ」問いかけた言葉に、返答はすぐにはなかった。そのかわりに、空間全体がわずかに色を帯びる。闇の中に、金と緋が混ざりあったような光が、細く長く、彼の視界を斜めに裂いた。その中心に、輪郭を持たぬ何かが立っていた。まだ姿はない。ただ、存在だけが、空間を歪ませている。その影が口を開いた。けれど、そこに唇も喉も見えはしない。『我は神に契された者。竜を纏い、竜を従える身。封印
Last Updated: 2025-11-12
Chapter: 【第10話】神意に選ばれし者
それは、夢かどうかも定かではない。けれど、見た記憶は確かにある。大地が焼け、空が割れ、金色の眼が、彼を真下から見上げていた。名を呼ぶ声が、耳ではなく、身体の芯から響いてくる。それは警告のようでもあり、祈りのようでもあった。目覚めた瞬間、布団の中は蒸し風呂のように熱く、額や背中には汗がべったりと張りついていた。寝具はいつの間にか乱れ、掛け布の片端が床まで垂れている。ふと、喉の奥が乾いていることに気づいて身を起こしたとき、首筋がぴりり、と疼いた。「……くそっ」手探りで首に触れると、その下から、かすかな熱の波が指先に伝わってくる。それは皮膚の表層ではなく、もっと奥――肉の内側、いや、血の源から湧き上がってくるような、じくじくとした火照りだった。昨夜までは、痛みではなかった。ただの違和感だった。けれど今は違う。熱い。疼く。明らかに、何かが――動いている。琉苑はそのままの姿でふらりと立ち上がった。部屋にはまだ朝の光が射し込んでおらず、格子窓の向こうの空はほのかに白み始めている程度だった。足を引きずるように歩きながら、低い位置にある鏡台の前に膝をつく。顔は……やつれていた。ただ、それ以上に気にかかるのは、首筋に現れた痕――。その紋が、ほんのわずかにだが、光っていた。「……なんなんだ、これは……」琉苑は息を止め、鏡の中の自分に目を凝らす。まさか、と思って何度も瞬きをするが、錯覚ではなかった。肌の上、紋の一部が淡く――灯火にも似た光を、絶え間なく放っていた。それは、あまりに微細で、見逃してしまうような光だった。だが、彼の目はそこに釘付けになる。この光を――彼は、知っていた。かつて、夢の中で竜の瞳に照らされたとき、身体の奥に灯ったあの光。それが今、外へと滲み出し始めている。琉苑はそっと、紋に手を当てる。「なんだ……これは、何を意味する」指先がかすかに痺れていた。熱は、今や皮膚の下だけではない。脊椎を通じて全身に広がり、思考すらも熱に焼かれ始めている。そのとき――不意に、空気が、揺れた。音はない。風もない。けれど、確かに何かが部屋の中に入り込んだ。目を閉じたまま、琉苑は息を呑んだ。気配、だ。誰かの――いや、“何か”の。それは人ではなかった。背中から、右肩のあたりに向かって、冷たい視線のようなものが這ってくる
Last Updated: 2025-11-11
Chapter: 【第9話】監視の宮
朝の光が障子の縁をすべり落ち、まだ温もりきらない空気の中で、琉苑は簡素な支度を終え、何度目かの深呼吸を繰り返していた。呼吸を整えたところで、この胸のざわつきが収まるわけでもなかったが、それでも、意識して整えなければ声すらきちんと出せない気がしてならなかった。鏡に映る自分の顔は、前日と同じで、少し青白く、やや焦点が合っていないような目をしていた。けれど、たった一つだけ違っていたのは、首筋に浮かぶ痕の色が、ほんのわずかだが濃く、深く――まるで何かが発芽しはじめたように、紅を増していたことだった。昨日、老神官から手渡された古文書。番契の痕が意味する“災厄”と“王家の粛清”。王家の誰かが、それを嗅ぎ取った。いや、最初から、気づかないふりをしていただけだったのかもしれない。部屋の扉が静かに開かれ、侍女が低い声で告げる。「殿下。お支度を」その声音に、いつもの柔らかさはなかった。幼い頃から仕えていた、あの女官ではない。声の調子も、足音も、身のこなしも、まったく違う。誰かがすべてを入れ替えたのだ。誰か──いや、琉花だろうとはわかっている。琉苑は黙って頷いた。否応なく与えられる「保護」の名のもとに、正殿を離れ、離宮へと送られる。それは建前に過ぎず、実態は、事実上の幽閉だった。廊下を歩くあいだも、目に映る者たちはすべて見知らぬ顔だった。誰一人として言葉をかけてこない。会釈すら、どこか制度化されていて、生身の人間を介した温度がない。離宮は王宮の東端にあり、かつては重臣や高僧が客人として滞在した場でもある。しかしいま、その建物には、宮中の華やかさとはかけ離れた、張りつめた冷気が漂っていた。その冷気を、琉苑は皮膚ではなく、肺で吸い込む。何もかもが、じっとりと乾いていて、空気だけが異様に澄んでいた。「この感じ……結界か」立ち止まって、廊下の端に目を向ける。扉の周囲、床と壁との境に沿って、ごく淡い光の帯がうっすらと走っていた。たぶん、普通の人間では視認できないほどの、ごくわずかな術式の痕。内と外を、確実に切り離すためのもの。琉苑が神殿の力に接触することを、王家が――いや、琉花が、拒絶している。離宮の部屋に通されたとき、彼ははじめて、そこに音がないことに気づいた。鳥のさえずりも、木々の葉擦れも、遠くの水音さえもない。張られた結界は、視線
Last Updated: 2025-11-10
Chapter: 【第8話】通過儀礼の虚構
神殿の外苑は、朝靄に沈んでいた。敷石に落ちる光が淡く揺れ、木々の間を縫う風が、白い布を纏った神官たちの衣の裾をふわりと撫でていく。琉苑は一人、その空気の中を歩いていた。どこかへ急ぐふうでもなく、かといって何かを待っているふうでもなく――ただ、誘われるようにして、神殿の裏手に続く石段へと足を運んでいた。誰かに呼ばれた気がしたわけではない。けれど、あの夜以来、自分の中にずっと何かが燻っている。それは、痕の疼きとは別種の感覚――もっと静かで、もっと確かで、まるで、古い記憶が身体の底から這い上がってくるような、そんな感覚だった。石段を上りきった先の回廊。壁に刻まれた碑文と古い吊灯が、まだ誰も足を踏み入れていないことを物語っていた。そこに、ぽつりと佇んでいた一人の老人――神殿でも最古参に数えられる老神官・亜遠(あおん)が、琉苑に気づいてゆるやかに振り返った。「……来たか」そう言ったきり、亜遠は琉苑を手招きした。その声音に、驚きも畏れもなかった。ただ、ずっと前から今日という日を待っていたような、どこか宿命じみた平静さがあった。回廊を抜けた先、灯も届かぬ書庫の一角。厚く閉ざされた書架の裏から、亜遠は布に包まれた一冊の文書を取り出すと、無言のままそれを琉苑に手渡した。その重さが、妙に生々しかった。「これを、殿下にお見せしてよいか、私は長らく悩んでいた。だが……それも、もう時機を過ぎたらしい」琉苑は言葉を返せぬまま、布をほどいた。中から現れたのは、皮装の古文書。表紙には刻まれた題もなく、ただ、焼け焦げたように煤けた跡だけが残っていた。ページを開いた瞬間、乾いた紙の匂いが鼻をつき、そこには見慣れぬ筆跡で記された祭礼の記録が並んでいた。――番契の儀。――Ωと呼ばれる者の覚醒。――“痕”の出現。「……これは……」震える指先で読み進めるうちに、琉苑の目が次第に見開かれていく。そこに記されていたのは、過去に“番契の痕”が出現したわずか数例の記録。そして、すべての記録に共通して記されていたのは――『災厄の兆し』『王家粛清』『神意の暴走』「……嘘だろ……?」呟いた声が、自分のものとは思えなかった。「どうして……“番”と認められた者が、災いとされる? それじゃあまるで……」「……まるで、神に選ばれることが、呪いであるかのようだろう?」
Last Updated: 2025-11-09
Chapter: 【第7話】痕を隠す者
夜明け前の薄灰色の空が、王都の外れまで続く石柵に影を落とし、琉苑はそっと羽織を固く握り締めながら内側を歩いていた。彼の首筋には、いまや“痕”と呼ばれる赤い紋が淡く浮かび上がっており、それを隠すための襟の高さは日に日に増していく。とはいえ、襟をあげただけでは視線を塞ぎきれず、後宮の廊下で彼が感じるのは――自分が既に異物と化しているという、静かな告知だった。部屋の鏡台に立った琉苑は、手鏡を持って顔を覗き込む。顔色は正常の範疇に見えた。だがその裏で、身体の奥には、重く確かな違和感がゆっくりと根を張っていく。熱は首筋から肩甲骨へとじりじり広がり、まるで自分の中に別の生命が目を覚まし始めているかのようだった。琉苑は唇を噛み、自嘲気味に呟く。「調子が悪いだけだ。そう……それだけの話なんだ」そう言い聞かせなければならなかった。もしそれが真実であれば、誰にも説明する必要はない。だが、真実ではない以上、何らかの形で説明しなければならないのだ。その午後、第一皇女・琉花の腹心であり、王都の防衛を司る軍師・桐生(きりゅう)将軍が訪れた。将軍の鎧が放つ鋼の鈍光が、淡い灯の下で沈み込み、彼の視線は言葉以上に鋭く琉苑を射抜く。桐生は静かに座を勧め、琉苑に向けてこう告げる。「殿下、ご体調がご回復されたと伺っております。しかし、この屋敷にご滞在なさる時間が以前よりも増しているように見受けられる。何か、気がかりなことでも――」琉苑は咳ばらいをひとつ挟み、軽く肩を竦めて見せた。「いや、ただ……完全ではないようだ。回復したと思っていたのだがな」その言葉に、将軍は黙して応じたまま、琉苑の襟元に一瞬だけ視線を滑らせる。襟の上端がわずかに浮いている様子を。その視線を琉苑が見逃すはずもなかった。口元に走ったわずかな引き締まりのあと、将軍はそっと琉苑の肩に手を置いて立ち上がる。「ご無理なさらぬように」その一言には、単なる配慮以上の、監視と保護が巧妙に織り込まれていた。桐生が退出した後、琉苑は静かに窓の外へ目をやる。強風が木の葉をはたき、夜の帳が少しずつ引かれていく。彼は羽織の裾を掴み、低く息を吐いた。「――見せてはいけない」その言葉にこめたものは、怯えではなく、明確な意志だった。痕を見せた瞬間、王家も神殿も、今とは異なる螺旋を描き出す。自分はまだ、その軌道に
Last Updated: 2025-11-08
Chapter: 【第6話】破れゆく夢と、竜の影
深い夜の帳が、王都の塔を包み込んでいく頃、琉苑は再び神殿の最奥部へと足を向けていた。扉の前に立ったまま、彼は自分の手のひらを見下ろし、赤く淡く浮かび上がる紋に触れそうで、しかし恐れを抱いてそのまま静かに引いた。選ばれた者としての印とは、こうして自分の皮膚に刻まれている。だが、それを認めたくないという気持ちが、胸の奥で重たく沈んでいた。神殿の奥廊を進むたび、空気が変わった。燃えるような熱気ではなく、冷えた金属を噛むような冷たさ。床の石は静まり返り、輝きを削がれた灯が壁にぶつかってきて、彼の影を伸ばした。その影の中に、自分ではない何者かの輪郭が映り込んだような気さえして――琉苑は息を止め、つぶやいた。「誰か…いるのか」しかし返ってきたのは、ただ闇の深さだけだった。だが、扉のひとつが音もなく開いた瞬間、背後で侍女たちの揃った気配が揺れ、二度とは戻らぬ静けさを告げていた。扉の向こう、薄暗い間。壁面には古びた碑文が刻まれていて、それらは琉苑の呼吸に反応するかのように淡く光を宿す。指を走らせると、文字のひとつが淡紅に染まり──「…番を悔いず、契を留める者、神と共に在らん」読み上げる声はなくとも、言葉が身体の奥に飛び込んでくる。琉苑は立ちすくみ、足元の石が微かに震えるのを感じた。そのとき、彼の肩を冷たい風が撫で、視界の隅に“動く影”が映った。振り返ると、そこには人型の竜が立っていた。褐色の肌を銀の髪が覆い、金色の瞳が琉苑を捕らえている。その姿に、彼は一瞬、足が止まり、鼓動が荒くなった。「シュア…?」声にならない呼び名を、彼の唇が漏らした。竜は言葉を選ぶように、静かに口を開く。「おまえは、俺に選ばれた。魂の番だ」その声に、世界が揺れた気がした。琉苑は首筋に手をあて、痕が熱を帯びているのを知った。「なぜ…俺なのか」問いは空へ放たれ、竜は微笑んだ。「理由など、俺にも不要だ。お前の全てが俺を呼んでいる。そして、おまえはここに居る。だから、運命だ」その言葉を聞いた時、琉苑の吐息は凍り、その身体が反応してしまったことを認めざるを得なかった。竜の手が、彼の頬に触れる。温かさというよりは、沈んだ焔のように燃えていた。「触れるぞ」その一言のあと、竜は琉苑の首筋に口づけを落とした。「……っ、あ」それは儀礼ではなく、侵食だった。深く
Last Updated: 2025-11-07
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status