Chapter: 第85話:瓦解の音──王都南門、その場に残された兵たちは、誰も口を開けなかった。雨はすでに止んでいたが、空気は冷たく重たいまま。リリウスが去ったあとにも、その言葉の余韻が、石畳に染みついたように残っていた。「……あれ、本当なのか……?」誰かが低く呟いた。「番の儀式は、偽物だったって……」「けど、じゃあ……なんでずっと神子として隣にいたんだよ。王太子と……ずっと番だって……」「偽物って……リリウス様が、騙したのか? それとも……」ざわ……と、小さな混乱が兵士たちの間に広がる。否定ではない。盲信でもない。ただ、情報が足りない。「……わかんねぇよ。じゃあ、騙してたのはどっちなんだ……?」剣を握る手が、ふと緩んだ。今までは“アルヴァレス王家”に忠義を尽くしていた者たちの中に、わずかな“裂け目”が生まれた。それは怒りや裏切りではない。ただ、確かだったはずの“前提”が、一つ揺らいだだけ。それだけで、人はこんなにも静かに、動けなくなる。「……俺たち、何のために戦ってるんだろうな」誰かの独り言のような声に、誰も応えなかった。武器の手入れをする手が止まる。巡回する者の足音が鈍る。何気ない命令に、従うまでの時間が一瞬だけ遅れる。それらは些細な変化だったが、確かに“崩壊の兆し”だった。そして、火種はすぐに見つかった。王都内で、リリウスの庇護を試みた兵士が、密告によって拘束された。広場の真ん中、群衆の前で殴られ、罪状を読み上げられた。「王命に背き、反逆者に肩入れした咎により、この者を……」読み上げる声は冷たかったが、聞く側の胸には、別の熱が芽生えていた。(……なにが咎だ。祈っただけで、処罰かよ)静かに目を伏せる者。そっと、ポケットに隠し持った祈りの布を握る者。その手のひらの温もりは、言葉より雄弁だった。※その日の午後、リリウスは再び捕らえられていた。「命令だ。お前を“再教育”する。陛下が直々にお望みだ」その言葉に、そばにいたヴァルド軍の斥候がすぐに動こうとした。「待て、それは正気の沙汰じゃ──!」「リリウス様を行かせては──!」叫びかけた者たちの声を、リリウスは手で制した。その顔には、怯えも怒りもなかった。「……いい。僕は応じるよ」静かに、そう言った声は、ひどく落ち着いていて──それゆえに、周囲を黙らせた。「僕は、逃げるために
Huling Na-update: 2025-07-31
Chapter: 第84話:再会、そして執着──王都、南門近くの城壁下。霧雨のような細かな砂塵が舞う中、重たい足音が石畳を打つ。リリウスの前に立ち塞がるのは、王都を守る最後の門──そしてその中央に、かつての番・王太子レオン・アルヴァレスの姿があった。剣も鎧も纏わず、ただ漆黒の軍衣に身を包んだその姿は、どこか異様に静かで、そして不気味だった。「ようやく来たか。──俺の“番”」冷たい声。その言葉に、リリウスの足が止まる。「……違う」しばしの沈黙の後、リリウスが静かに言った。「僕は……あなたの“もの”なんかじゃない」声は震えていない。けれど、レオンの瞳が微かに揺れた。「何を言っている。番の儀式は、あの日確かに交わされた。神に誓っただろう」「……あれは偽りだった。あなたが“そうした”んだ。僕には、拒む力も、逃げる自由もなかった」リリウスの声は静かだった。けれど、その言葉は確かに、過去に縋る王太子の胸を貫いた。「じゃあなんだ。お前はあの儀式を“なかったこと”にする気か?」レオンの目が血走る。口調が荒くなり、雨粒が頬を伝っても、それに気づかぬまま言葉を続けた。「俺は……あの時からずっと、お前を“俺のもの”として扱ってきた。何をしても、どこへ行っても、それが変わると思ってるのか!」「だから、違うって言ってる」リリウスはまっすぐにレオンを見た。「あなたは、僕を“もの”のように扱った。番でも、家族でもない。ただの所有物として、利用して、飽きて、雪原に捨てた」淡々としたその口調に、レオンの呼吸が乱れる。「僕はね、アルヴァレスに来たとき……ずっと考えてたよ」ふと、リリウスが目を伏せる。そのまなざしの奥には、過去の自分が確かにいた。「“番”って言われたからには、きっと一生一緒にいるんだって……そう思った。だから、あなたを愛そうとした。わからなくても、好きになれるように努力した」言葉のひとつひとつが、痛みと共に落ちていく。「でも……どれだけ近づこうとしても、あなたは僕を見ていなかった。ただ従うことだけを求めて……僕の祈りも、感情も、名前すら、ただの“役割”に押し込めてた」その言葉が、レオンの胸を苛むように響く。「あなたは、“番”じゃない。ずっと対等じゃなかった。最初から“上から繋いでいた鎖”で、僕をつなごうとしていた」リリウスの表情が、ほんのわずかだけ、哀しげに揺れる。
Huling Na-update: 2025-07-30
Chapter: 第83話:前線の誓い──風は冷たく、地は濡れていた。灰色の空が、いつ降り出してもおかしくない雲を孕み、戦場に影を落としている。その最前線の陣地に、カイル・ヴァルドは立っていた。鎧の隙間から覗く肌には、既にいくつもの古傷と新しい泥がこびりついている。剣を引き抜き、返り血を払いながら、視線だけは常に先を見ていた。背後には、兵たちが控えている。戦の気配は途切れない。斥候からの報せでは、アルヴァレス軍の動きはますます苛烈を極めているという。それでも、ヴァルド軍は崩れていなかった。理由は、一つだった。「……リリウス様のために」誰かが、呟いた。セラフィア教の信徒がここにも居た。刃を磨く兵士の声。矢を束ねる弓兵の声。休息中の若き従兵の、小さな祈りのような声。その名は、ただの神子の名ではなかった。それは“信じる理由”であり、“立ち続ける意味”だった。「リリウス様って、昔、王都にいた神子なんだろ?」「王太子の番だったんじゃなかったか?」「いや、違うって。あの人、ずっと……国のために祈ってたって、聞いた」様々な噂が、兵の間を行き交う。“神子”という存在への信仰だけではなく、“彼という人間”がもたらした言葉や行動が、じわじわと兵たちの心を溶かしていた。ヴァルド軍の兵士たちは、何も知らずに従っているわけではない。彼らは見ている。戦地に立つ神子の姿を。傷ついた兵士の傍らで、手を取り、話を聞き、祈る者の姿を。その信仰は、誰かに強いられたものではなかった。「なあ、カイル将軍は、なんでここまで……戦えるんだ?」そう問われたとき、カイルは黙って空を見上げた。雲の切れ間から、わずかに光が射している。「……命令のみで動いてると思ってるのか?」誰にでもなく、静かに言う。「俺がここに立っている理由──“あいつ”を信じてるからだ」兵たちが息を飲む。カイルの声はいつも通り平坦だった。だがその内側にある強さと確かさが、兵たちの胸を揺らした。「ヴァルドに忠誠を誓った将としてここにいる。だが……今回はそれだけじゃない。神にすがって戦ってるわけでもない」カイルは、腰の剣を鞘に収める。その動作すらも、戦場で鍛えられた無駄のないものだった。「……けど、リリウスは違う。あいつは、目の前にいる誰かのために祈ってる。敵味方関係なく、傷ついたやつのそばに立って、ただ、“
Huling Na-update: 2025-07-29
Chapter: 第82話:砕ける信仰と蘇る声──それは、静かに、けれど確実に始まっていた。アルヴァレス王国各地で、煙が上がった。焼かれているのは、かつて神子リリウスが祈りを捧げた神殿跡。それは石と祈りで積み上げられた、民たちの心の拠り所だった場所。聖堂に描かれていた壁画や装飾は、兵士の刃で削られ、古の象徴たる彫像は無残に槌で砕かれた。松明が投げ込まれ、木の梁が火を噴き、濡れた石の床に煤が滲む。天に届かぬ祈りの声を、煙と炎が一つずつ消し去ってゆく。──敵軍ではなかった。それを命じていたのは、アルヴァレス王国軍自身。王都からの命令と称して、「神子の名を騙る反逆者への制裁」として、信仰の“浄化”が始まったのだ。「偽神を祀ることは、王家への叛逆である」と。「信仰の再構築のため、旧い象徴は破壊されねばならない」と。それは祈りを守ってきた者たちにとって、まさしく神への反逆に等しかった。神官たちは問答無用に引きずり出され、抵抗した者は足を折られ、叫ぶ者は口を塞がれた。祈祷書は泥に踏まれ、魔除けや護符は「偽りの加護」として人前で焼かれるよう命じられた。だが──それでも、声を上げる者がいた。「なぜ、神を……神子を穢すのですか……!」初老の神官が地面に押し倒されながら、血混じりの声を振り絞る。衛兵の剣が彼の背を押さえつける中でも、彼の目は折れていなかった。「リリウス様は……あの方は、誰よりも祈りを……人を信じて……!」その声は剣の柄で殴打され、地に沈められた。しかしその光景を目の当たりにした信徒たちの目には、逆に鮮烈な印象として焼きついた。「あの方を、神子を、なぜここまで憎むのだ……?」「本当に、神の敵は外にいるのか……?」小さなざわめきは、やがて疑念の囁きへと変わる。沈黙してきた多くの人々の胸の奥に、それまで口にできなかった問いが芽吹きはじめていた。そして──その火は、想像より遥かに早く広がった。地方の小村、ひっそりと残された礼拝所。若い神官がひとり、蝋燭を前に立ち上がる。「神子は“旗”ではありません。……“人”です。そして、神子が語った“言葉”こそが、我らの信仰を支えてきたのではありませんか?」かすれた声だったが、迷いはなかった。その場にいた村人たちは、最初こそ黙っていた。だが、次第に一人、また一人と膝をつき、胸に手を当てる。それは、誰かに教えられた祈りでは
Huling Na-update: 2025-07-28
Chapter: 第81話:アルヴァレスの王太子──アルヴァレス王都、王宮地下の私室。石造りの重厚な壁に囲まれたその空間には、陽の光は一切届かず、唯一、蝋燭の揺れる灯だけが影を刻んでいた。分厚い扉は固く閉ざされ、外界からの音も断たれ、まるで世界から切り離されたような静寂が支配している。その中心に、王太子レオン・アルヴァレスは、一人座っていた。豪奢な椅子にもたれかかるでもなく、前屈みに背を丸めて机に向かっているその姿には、王族としての気品は見られなかった。机に広げられた戦況報告書を睨みつけていたが、視線は焦点を持たず、ただ文字の海を泳いでいた。目の奥には怒りが、そしてその奥には隠しきれない“喪失感”が、じっとりと滲んでいる。「……リリウス」名を呼ぶその唇が、わずかに歪んだ。そこに込められたのは、怒りだけではない。悔しさ、羨望、未練、そして……後悔にも似た感情が滲んでいた。──“番”であるはずの存在。──隣で、王としての道を支えるはずの存在。──“自分のもの”としてあるべきはずだった。彼の脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。神殿の奥、誰の目も届かぬ聖域で交わされた“番の儀”。だがそれは、真実ではなかった。あれは演技であり、作られた神話だった。本来、レオンは偽りのアルファ──ベータであり、リリウスのようなオメガと番になることはできない。結びつける資格はなかった。それでも、彼は儀式を強行した。真実を隠し、自分の隣に立たせるために。&nbs
Huling Na-update: 2025-07-27
Chapter: 第80話:奪われた象徴──夜明け前の、まだ薄闇の残る前線野営地。空を覆う霧は冷たく、湿った土の匂いが肌にまとわりついていた。その静寂を破ったのは、一人の伝令の叫びだった。「神子旗、奪取されました──!」荒く息を切らせ、天幕の幕を押し開いた伝令の声が、張り詰めていた空気を鋭く引き裂いた。次の瞬間、空間そのものが静止したかのように、周囲の動きが凍りついた。──旗。それはただの軍旗ではない。神子リリウスの紋章が刻まれた、祈りの象徴。人々が集う理由であり、傷ついた心を結ぶ光でもあった。その神聖な布が、敵の手に落ちたと。「……冒涜、だ……!」低く、誰ともなく呟いた声。神官のひとりが膝から崩れ落ち、その目は茫然と虚空を見つめていた。その声はやがて、さざ波のように天幕内を包み、祈りの場を不安と混乱の渦へと変えていった。「神子の加護を、敵は……穢したのか……」「これは、我々への……試練なのか?」「神は、沈黙されている……?」誰かの囁きが、周囲の神官たちの心の綻びを容赦なく押し広げる。うつむく者、震える者、肩を寄せて祈ろうとするが、指先の形すら乱れている者もいた。「もし……象徴が汚されたのだとしたら……この祈りも、失われてしまうのでは……」「いや…&h
Huling Na-update: 2025-07-26