Chapter: 最終話:風が通るところ朝が静かにひらけていた。その日、空は高く澄みわたり、風はどこか遠くの山を越えてきたような匂いを連れて、屋敷の窓辺をそっと撫でていった。寝台の上、エリオンがかすかにまぶたを動かし、ひとつ、呼吸の仕方を変える。隣でその気配を感じ取ったリリウスは、胸元にかかる小さな手を包み込むようにして、微かに身を起こした。「……おはよう」まだ眠っていたのか、それとも目を覚ましきれないまま夢の続きを追いかけていたのか。小さな顔が、ゆっくりとこちらを向く。頬にかかった寝癖がやわらかく跳ねて、言葉ではない音が、喉の奥で転がるように漏れた。リリウスはその声を、何よりも贅沢な朝の始まりだと思いながら、片手でそっと抱き上げた。薄手の上着の間から、まだ少しひんやりとした肌がふれてくる。部屋の奥から、木の枝が落ちる小さな音がした。窓の外では、カイルが庭の手入れをしていた。剪定ばさみの音が、葉を払うたびに控えめに響いては消えてゆく。庭の端に咲いた花々が、まだ少し風に眠たげに揺れていた。エリオンを抱いたまま、リリウスは窓辺に歩み寄る。「君の父様はなんでも出来るねぇ……剪定なんていつ覚えたのかな?」家の中を風がすっと通り抜け、軽やかな気配だけが背後に残った。──それだけのことなのに、この場所はもう充分すぎるほど、満ちている。数年前には考えられなかったことだ、とふと思う。国の未来を守ることと、自分の未来を守ることが、こんなふうに重なる日が来るなんて。エリオンが胸元でくすりと笑ったような気がして、リリウスはその顔をのぞき込んだ。「何か、いい夢でも見た?」もちろん返事はない。ただ、ひときわ大きな瞬きが返ってきた。そのとき、控えめなノックの音が響いた。リリウスが「どうぞ」と返すと、セロが扉を開けて、丁寧に頭を下げた。「封印記録の最終報告が届いております。お手元へお運びしましょうか?」「……ありがとう。こちらで受け取るよ」受け取った封筒は、革表紙の簡素なものだった。中には古びた文書が三つ。アルヴァレス旧王家の血統書、王政下で使われていた符号付きの外交記録、そして──レオン・アルヴァレスの“最終記録”。あの日の再会から、誰にも何も告げなかったけれど。彼が何者かとしてではなく、ただ穏やかな一人の青年としてそこにいたことは、リリウスの中でずっと残っていた。あの日見
Last Updated: 2025-11-05
Chapter: 第179話:はじまりの肖(かたち)政庁の広間は、いつもより少しだけ明るかった。それは朝の光の加減ではなく、窓辺に立てかけられた白いキャンバスのせいかもしれない。壁を覆っていた地図や書類棚が一時的に移され、空間にぽっかりと生まれた“何もない場所”は、どこか特別な舞台装置のようでもあった。肖像画の制作が始まる――クラウディアとヴァルド、ふたつの国の“今”を象徴するものとして、政庁の中心に飾られる予定だという。だが、それは同時に、リリウスとカイルと、そしてエリオンという家族の始まりを記録する、静かな宣言でもあった。「……やっぱり、緊張するね」リリウスは椅子に腰かけたまま、窓の向こうをぼんやりと見やりながらそう呟いた。そばにいたカイルが小さく笑う。「そうか?俺はこうして三人で時間を残せることは嬉しいと思う。筆で描いてもらえるなら、少し曖昧で、ちょうどいい」「曖昧のまま残るものって、あるのかな……」そう言いながら、リリウスは抱いていたエリオンの頬をそっと撫でる。眠っているのか、それとも退屈して目を閉じているのか。その柔らかな呼吸が、腕の中でかすかに上下していた。間もなく、画家が現れた。白い衣に淡く絵の具の飛沫をまとわせたままの年配の男は、軽く礼をしてから、ふたりの前に腰を下ろす。背筋は年齢を感じさせぬほどまっすぐで、その眼差しは絵筆を持っていなくとも、人の輪郭を捉えることに長けた者のものだった。「本日から、構図の下絵に入ります。その前に、少しだけお話を。……おふたりにとって、この肖像は何を映すべきものなのでしょう」曖昧ではないが、鋭すぎることもない声だった。けれどその問いは、リリウスの中に深く静かに届いた。何を、映すべきか――それは、事前に何度も政庁内で議論されたことだったはずなのに。カイルが先に応えた。「……未来の誰かが見たときに、“始まり”だと思えるものであってほしい。戦や政争や血の歴史の続きを、ただ記録するのではなくて――そこから一度、深く息を吐いたような……そんな一枚に」リリウスはカイルの言葉に目を向けた。ふだんは寡黙な彼が、こうしてはっきり言葉を持つとき、それはいつも、どこか優しさと誠実さのあいだに揺れていた。「……リリウス様は?」画家に問われて、ふとリリウスは息を飲んだ。目の前には、まだ真っ白なキャンバスがある。そこにどんな色を乗せるのか、
Last Updated: 2025-11-04
Chapter: 第178話:記憶のない町季節は駆け足のように過ぎ去っていく。秋の気配が、まだ夏の名残を遠慮がちに押しのけながら街路の石畳を冷やしていた。風の中には少しだけ乾いた匂いが混ざり、緩やかに色づき始めた街の木々が、ひと足先に季節の歩みを知っているようでもあった。リリウスはその風に外套の裾をなびかせながら、視察の名目で訪れた小さな町を歩いていた。エリオンが生まれてから、初めて国の外縁部まで足を延ばしたことになる。クラウディアとヴァルド、二国の統治機構の再編成もようやく落ち着き、政治の基盤は以前よりも確かに“安定”と呼べるものになってきていた。……けれど本当のところを言えば、今日この場所に足を向けたのは、政務のためというより、もう少し曖昧で個人的な理由によるものだった。一日のなかで幾度となくエリオンを抱き、名を呼び、微睡んだり泣いたりするその顔を見ていると、ふと、“ここではないどこか”の空気を吸いたくなる瞬間がある。過去に心を引かれているのではなく、今という時間を深く、もっと深く掘り下げていくために。昼過ぎの市場は人の声で満ちていた。野菜や果実が色鮮やかに山と積まれ、手籠を提げた買い物客があちこちを行き交っている。リリウスは同行の者たちに遠巻きに付き従われながらも、自然と足が市場の角の花売りの少女に向いていた。「お安くしてます、今朝咲いたばかりです――」愛らしくもしゃんとした声が、通りに響いていた。籠のなかには、色とりどりの小さな草花が無造作に、けれどどこか丁寧に詰められていて、咲き誇るというよりも、どれもが自分の居場所にすっと馴染んでいる。その素朴さに、リリウスはふと足を止めた。「これを、もらえるかな」「はいっ。ありがとうございます!」少女が明るく答え、籠からそっと小さな花束を取り出す。そのとき、わずかによろけた彼女の手から数輪の花が零れ、地面に散った。リリウスが反射的に身をかがめた、その瞬間だった。「……あっ」誰かと肩が、ほんの少しぶつかった。目線を上げた瞬間、リリウスは言葉を失った。そこにいたのは、あの男だった。けれど、その顔にはかつての影がなかった。整った輪郭は変わらず、髪も瞳もそのままの色なのに、彼の眼差しからは、あの冷たい緊張や、底知れぬ焦りのようなものがすっかり消えていた。「ごめんなさい、大丈夫ですか?」その男――レオン・アルヴァ
Last Updated: 2025-11-03
Chapter: 第177話:君を名づける日神殿の石階を踏みしめるたび、どこか音が吸い込まれていくような静けさがあった。幾重にも積み上げられた歳月が、空気に微かな重みを与えている――そんな場所だった。正殿へと向かう回廊を、リリウスはゆっくりと歩いた。胸元には白銀に刺繍された襟があり、その腕には、まだほんのわずかしか重さのない子を抱いている。眠っているのか、それとも目を閉じて空気の振動を感じているのか。生まれてまもないその存在は、小さな寝息すらこの場の清浄さと溶け合うように、まるで“初めからここにいた”かのような静けさで、リリウスの腕の中に収まっていた。そのすぐ隣には、カイルがいた。彼の装いもまた、軍の色を離れた正装で、浅青に銀の糸が織り込まれた布が肩を優しく包んでいた。ふたりがこの子に名を与えるために、はじめて神殿の中心に立つ――それは、クラウディアとヴァルド、二つの国の象徴が、個人として“親”になるという儀式でもあった。だが、重さを感じたのは肩ではなく、胸だった。リリウスはゆるく息を吐く。何もかも、まだ夢の続きのようで、けれど夢ではなくて――言葉にしてしまえば、何かが壊れてしまいそうな、そんな緊張が、ずっと身体の奥にあった。神殿の扉が開いたとき、そこには思いがけない姿があった。「……兄上?!」反射的に、声が出ていた。白の法衣に身を包み、正殿の中心で佇んでいたのは、まぎれもなく、リリウスの兄――神王アウレリウスだった。その静かな眼差しは、昔と変わらず、何かを超えて見つめるようで、それでいて少しだけ、弟に向ける目の奥に、柔らかさがあった。「今は、ただの神官として来ただけだよ」軽く片手を挙げて、少しだけ目尻を下げてみせる。その仕草に続くように、隣のカイルがすぐに頭を下げた。「神王陛下……私たちの名付けに立ち会ってくださること、光栄です」「ああ。……けれど今は、ただ一人の兄として。お前たちの選んだ始まりを、見届けたいと思ったのだよ」そう言ってから、アウレリウスはそっと近づき、リリウスの腕に目を落とす。まだ名前を持たぬその存在に対して、祝詞のように低く、短く、古語が唱えられた。それは祝福というより、承認のような響きであり、命という偶然を、神殿という空間が、正式に迎え入れるための古式に則った鍵でもあった。正殿の中心に敷かれた青の布の上に、リリウスとカイルは膝をつく。あ
Last Updated: 2025-11-02
Chapter: 第176話:夏の始まり、産声屋敷の空気が、あきらかに変わったのは、まだ陽も昇りきらぬ静かな朝のことだった。リリウスの呼吸が不規則になったのは、明け方をすこし過ぎた頃。その報せを受けて、助産の神官たちが部屋へと急ぎ、医師団がすぐさま術式の準備に入った。階下では、魔力遮断と保護結界の陣が淡く光を灯し、癒合処置を担当する補助術者たちが低く神聖語を唱えている。空気は、張り詰めていた。けれどそれは恐れや不安ではなく、限界まで集中した静謐――。命がひとつ、この世界に現れる、その瞬間を迎えるための、準備だった。「魔力補助、安定しています」「神経遮断、完了。意識状態、やや低下」神官の声に、医師が頷き、正確に指示を重ねていく。リリウスの身体は薄い術布に包まれており、意識はやや遠のきながらも、覚醒の端にとどまっていた。痛みはない。だが感覚はあった。押し上げるような圧と熱、そして腹部の奥で光のようなものが蠢くような――そんな、未知の感覚。(ああ……もうすぐだね)誰にも伝えることなく、けれど確かに、リリウスはそれを“感じていた”。この子が、もうそこにいるのだと。「切開始めます。どうぞお気を楽に」青白い魔術陣が、腹部上空に展開された。肉体を侵さず、けれど正確に内部組織を分離し、胎膜を守りながら“門”を開くための、古代由来の補助術。産声はまだない。だが、部屋の空気が一瞬、確かに――震えた。「取り上げます」術者が静かに告げる。その手の中に、包まれるようにして現れたのは、赤子だった。血の気の薄い、けれどしっかりとこの世界に繋がっている小さな命。閉じた瞼。丸く縮こまった手足。小さく、微かに、呼吸を始めた胸。そして、その口から――「……ぁ」音にならないほどの、けれど確かに“初めての声”がこぼれた。産声というにはあまりにも静かな、ささやかな風のような音。けれどそれは、間違いなくこの世界の空気に触れた命が、自ら放った“存在の証”だった。「……おかえり」リリウスは、微笑んでいた。術後の痛みも、呼吸の浅さも、すべてが遠のいていく中で――彼はその子を、胸に抱いていた。「おかえり。……よく、来てくれたね」神官が浄化の布を差し出し、医師が術痕の癒合を確認する。周囲では誰も声を発さない。ただその一言だけが、部屋の真ん中で、空気よりもやさしく響いていた。やがて、扉が静かに
Last Updated: 2025-10-30
Chapter: 第175話:光の胎衣雨の音が、夜を染めていた。乾いた季節を過ぎ、ようやく葉の緑がしっとりと深さを帯びはじめた頃、その小さな屋敷の庭には、夜露をたっぷりと含んだ土の匂いが満ちていた。リリウスは書を閉じると、静かに息をつく。かすかにきしむ音を立てて揺れた椅子の背が、まるで誰かの肩越しのため息のようで、思わず片手で腹をなだめるように撫でる。そこにある命は、今や確かに“在る”と言えるものとなっていた。初夏の空気に濡れた窓の外では、雨が絶え間なく降っていた。粒の細かいそれは、時折風に押されて軒先を打ち、ひっそりと揺れる鉢植えの影を揺らしている。春はすでに過ぎていた。それが過ぎ去ったことに気づいたのは、庭の柘榴の花が、咲きかけてはすぐに雨に打たれて落ちていくのを目にした日だった。膨らんだ蕾が破れ、赤い花びらがあまりにもあっけなく地面に散ったとき、リリウスはようやく“季節”というものの、曖昧で、けれど不可逆な流れに、身体ごと包まれていることを知った。──それでも、毎日はゆるやかに進んでいる。朝が来て、誰かが扉を叩き、誰かが紅茶を置いてゆく。リーネが花を替え、マリアンが本の感想を語る。カイルは変わらず夜に帰り、変わらず傍らにいて、変わらず共に眠る。そういう、当たり前になりかけている日々の中にあっても、ふと、深く息をしたくなる瞬間がある。それは決まって、雨の夜だ。理由はわからなかった。けれど雨の匂いは、いつもリリウスの心をどこか遠くへ引き戻す。誰かの声が、名を呼ぶ。だれの声ともつかない声で。……リリウス。その名が、夢の中で呼ばれたとき、眠りの底にいたはずの彼ははっとして目を開けた。けれど開いたはずの瞳の中にも、まだ現実は訪れていなかった。*燃える天幕、血に濡れた枕、魔法陣の上に横たえられた自分。薄く開いた口元から零れた息を、誰かが奪おうとしている。身体の奥にあったはずの何かが、ひきはがされる感覚。この身が誰かの“願い”のためだけに消費されようとしていた、あの時の記憶。「リリウス」耳元で、名を呼ぶ声がした。「君はもう、誰の呪いの中にもいない」その声は、遠くからやってきたようで、けれど確かに傍にあった。「君が選んだ未来を、誰も裁かない」目を開いたとき、雨の匂いはもう、ただの雨の匂いに戻っていた。隣には、カイルがいた。深く腰を下ろし、手を
Last Updated: 2025-10-29
Chapter: 【第40話】終焉、そして夜が明けかけていた。けれど、それは朝のはじまりを告げる光ではなく、どこか夢の続きのような、仄かに漂う薄明かりだった。夜がまだそこに横たわっていることを、しぶとく、しなやかに主張してくるような──そんな、静かな曙。琉苑は、窓辺に寄りかかるようにして座っていた。いや、本当はそう見えただけで、実際のところ、彼がどこまで「そこに在る」のか、判然としなかった。視線を向ければ姿はある。だが、瞬きをして目を凝らせば、その輪郭は薄くなり、そこに差し込む光の線に紛れて、形を失ってしまう。それでも──シュアは、琉苑のそばにいた。腕をまわしても、もう、肌の温度は感じられない。それでも、手を伸ばすことをやめることはなかった。そこにいなくなったからといって、存在が消えるわけではない。そんな当たり前のことを、ようやく身体の奥で理解しはじめたばかりだった。「リウ」名を呼ぶと、琉苑はほんの僅かに、振り向いたように思えた。呼吸の気配がない。言葉の応えもない。だが、眼差しはあった。まるで、風がそっと瞼をなでるように、シュアの胸の中で、琉苑が振り向いたことが、確かに伝わった。「もう、そんなに遠いのか」呟くような問いに、答えはなかった。けれど、黙してなお、そこに応えは在った。空白の中に置かれた感情が、ただ静かに、しかし重く、二人の間に横たわっていた。寝台の隅に小さな箱が置いてある。蓋を開けば、銀の環が一つ、指輪の形で光っていた。「……これを、お前の指に通していいか?」答えはなかった。それでも、何も否定されていないことが、すぐに分かった。だからシュアは、そっと琉苑の左手を取った。それが本当に触れているのか、それとも空間をなぞっているだけなのか。判然としないままに、彼は指輪を琉苑の薬指に通した。銀の輪は、すこしだけ琉苑の身体に沈み、そのまま収まった。それが、「在る」ことの証だった。琉苑の口元が、ほんのわずかに、緩んだように見えた。目は閉じられ、まぶたは穏やかだった。唇にはもう色がない。それでも、シュアには分かっていた──彼が、満ち足りていたことが。「……ありがとう、リウ」それは本当に、心の奥から出た声だった。名前が、名前として、彼の中に焼きついていくのを感じた。そして──その瞬間だった。琉苑の身体の輪郭が、ゆるやかに崩れはじめた。細かな光の粒が、空気
Last Updated: 2025-12-16
Chapter: 【第39話】臨界夜は深く、しかし時間そのものが鈍っているかのように、どこまでも静かだった。シュアは隣にいなかった。どこかに出たのか近くにいるのか。身体の一部がわずかに透けて見えるその奇妙な光景を、琉苑は動かないまま見つめていた。触れようとしたら消えてしまうかのような輪郭が、そこにあるのにないようで、世界の外側へと引きずられていく気配。その時、空気が浅く震え、世界の奥の方から低い音が漂ってきた。風とは違う、空間そのものがひび割れるような音。琉苑の視線はその不協和音の方へ流れ、そしてそこに、マースがいた。マースはいつものように立っているが、その姿はどこか精彩を欠き、影が濃く落ちていた。目の奥に浮かぶ光は、冗談めいた色を含みながらも、どこか静かな焦燥を帯びている。「呼ばれた気がしてね」その声は遠くから聞こえるように、しかし確かにそこに存在していた。「……そうだな。呼んだかも」琉苑の声音は低い。胸の奥で、言葉よりも先に感覚がうずく。自分の身体が世界から薄れていくのを、ひどく実感していた。「正確には、もう時間がないって知らせが来たんだよ」マースは歩み寄り、琉苑の透けていく指先をじっと見下ろした。その視線は悲観とも諦観ともつかない静けさを持っていて、琉苑の胸に小さな棘を刺した。「……俺は、何をすればいいんだ」琉苑は問う。問いながら、それが自分自身への呼びかけでもあることに気づいていた。身体の熱は消え去る気配と拮抗し、魂はどこで終わり、どこから始まるのかをさまよっていた。「方法はある。だが、今からじゃ間に合わない」マースは淡い光を背にして言った。その声はやけに静かで、しかし重みを欠いていなかった。「……魂の輪郭が崩れすぎている」シュアが側にいないのに、その名前が胸の奥で震えた。琉苑は息を吸い、重みのある空気を吐き出す。「じゃあ……俺はどうなるんだ?」震えるのは恐怖ではなく、問いそのものの形の不確かさだった。シュアと過ごした時間の熱と冷たさが、身体の奥で渦を巻く。「ひとつだけある」マースは手をかざし、空間の奥から淡い器を取り出した。形の定まらぬ何かが柔らかく揺れ、光と影が混じり合っている。「これに魂を保存することができる。だが、これは君という存在の痕跡を留めるだけのものだ」琉苑の胸に、冷たい沈黙が重なる。「……その代償は?」問いはまっすぐだっ
Last Updated: 2025-12-14
Chapter: 【第38話】声のない時間、番の刻朝ではなく、夜でもなかった。ただ、光の気配だけがぼんやりと天幕の布を透かし、時間というものが遠くの海の波のように寄せては返す、曖昧な時刻だった。琉苑は寝台の上で静かにまばたきをした。眠っていたのか、目を閉じていただけなのか、自分でもよく分からなかった。ただ確かなのは──身体の内側で、何かが熱を持って蠢いている、ということだった。それは微熱のようでいて、風邪とも違う。気だるさや鈍い重みの下に、ごく微細な疼きがあった。皮膚の奥からじわりと滲み出すような湿気、下腹を緩やかに押し上げるような圧。それは本来、身体が発しているはずの言葉のようだった。(……今、なのか。いや……今だからなのかもな)思考がまとまるより先に、身体はすでに知っていた。周期など知らぬはずのものが、魂の変容とともに姿を変え、いつしか不可逆な兆しとなって現れ始めている。あたたかく、けれど確かに自分を蝕む熱。寝返りを打つと、隣にいたはずの存在が気配だけを残していた。琉苑は片手を伸ばし、その空気の中に指を差し込む。誰もいない。だが、ぬるく残る残滓のようなものが、そこにはあった。思わず、首元に手をやる。首飾りがある。だが今は、それに触れようとしなかった。触れてしまえば、きっと何かが動いてしまうようで。「……俺、もう……どうなってるんだろうな」声は出た。けれど、それに応える者はいなかった。だからこそ、すぐに戸が開いて、シュアが静かに戻ってきたとき、琉苑の胸には奇妙な安堵が走った。「……目覚めていたのか」「ん。なんか……熱くて」言葉にすれば簡単すぎて、何も伝わらない気がしたが、シュアはただ近づいてきて、琉苑の手を取った。その手は、熱かった。琉苑の熱に応じるように、あるいは、それを映すように。まるで、ふたりの熱が互いに循環しているかのような──そんな錯覚さえ覚えた。「……発情期か?」「たぶん。周期がおかしい気がするけど……もう、そういう理屈じゃないのかも」琉苑は、目を閉じた。何よりも先に、身体が、感情が、何かを選び取ろうとしていた。シュアの指が首元を撫でる。ゆっくりと、丁寧に、柔らかく、琉苑という存在を確かめる指先。それだけで、もう充分だった。「……最後かもしれないからさ」ぽつりと漏れた言葉に、シュアの動きが止まった。「何が」「全部。お前、もう分
Last Updated: 2025-12-13
Chapter: 【第37話】記録にない者春だった。璃晏宮廷の庭に、白桃の花がはらはらと降る季節。枝の影が石畳にまだらな模様を落とし、風が吹くたびにそれがゆるく流れて、地面さえも夢を見ているように見えた。琉苑はその中に立っていた。かつて毎朝のように歩いていた、宮の裏庭。兄弟たちにとっては退屈な回廊も、彼には唯一無二の聖域だった。あの頃と何も変わらぬ配置のまま、花の香りと朝露の気配が漂っている。けれど、そこにいる人々──姉や兄たちも、幼い侍女も、下働きの書吏すら──誰ひとりとして、琉苑の存在に目を留める者はいなかった。琉苑は名を呼ぼうとした。けれど、喉からは声が出なかった。いや──声はあるのに、空気に届かない。音になる直前で消えていく。まるで、彼の「在る」が、この庭にとって“無”であるかのように。視線を下げると、縁の紙を束ねた書類が風で捲れていた。かつて自分の名が記されていた、璃晏皇族の系譜。そこには、もう「琉苑」という字はなかった。筆跡の歪みも、修正の跡もない。ただ、初めから、そこに名などなかったかのように。(──俺は、最初から……)その瞬間、胸元で何かが熱を持った。懐に手をやると、シュアから渡された小さな首飾りが、静かに輝きを放っていた。名を呼ばれるような、声が届く。──リウ。低く、深く、どこか遠い場所から、けれど確かにその名を抱き寄せるような声が、夢の淵を震わせた。※汗ばんだ額に指を当てながら、琉苑は目を開けた。寝台の上、まだ夜が明けきらぬ静かな空気の中。窓の向こうで鳥が鳴いている。朝が近い。首飾りを取り出し、指先で撫でると、そこには微かに残る温もりがあった。夢ではなかったのかもしれない、と琉苑は思う。あるいは、夢の形を借りて何かが告げられたのだ、と。「……俺の庭だったはずなのにな」ぽつりと呟いた声が、妙に薄く響いた。まるでこの部屋そのものが、彼の発した言葉を受け取りかねているかのように。外に出ると、空気は冷たく、早朝の石廊下に足音がひとつだけ響く。書庫に向かう途中、ルシェリアとすれ違った。彼女は目を見開きかけ、そして一瞬、何かに迷うように──言葉を飲み込んだ。「お……おはようございます」「……今、“お”の次、詰まったな?」琉苑の言葉に、ルシェリアははっとして伏し目になる。すぐに立ち去ってしまった背中に、何かを問いただす気には
Last Updated: 2025-12-12
Chapter: 【第36話】境界の影夜の余韻がまだ室内の空気を曖昧に濡らしている頃、琉苑のまぶたは重く、けれど、まどろむほど安らかでもなかった。重なったままの布の感触や隣で眠るはずの温もりが、どうにもいつもとは違う圧をともなって肌に伝わる。それは、確かに感じるはずの呼吸の気配なのに、どこか遠く、響きだけが近くにあるような、不確かな距離感だった。琉苑はそっと目を開けた。視線の先で、シュアの身体はまだ睡りの中にあった。だがその胸の動きは、ふつうなら心臓の鼓動と連動するはずのリズムを、どこかたゆたうように刻んでいる。じっとしているのに、揺れが静かに波打つようで、時間そのものが粘度を帯びているようにも感じられた。(……なんか、おかしいな)眠気の膜が思考の芯を鈍らせようとしても、気配の違いを本能的に察してしまう。蜜月は深く甘く、魂の輪郭を溶かすような時間ばかりだった。それが今、皮膚の下でゆっくりと溶け残ったまま、薄い膜のように全身を包んでいる。寝台からゆっくりと身体を起こし、琉苑は隣のシュアの肩口にそっと触れた。その感触は温かい。だが、指先が皮膚をなぞるとき、そこにはじんわりと光が滲むような、不思議な反応が起きた。まるで世界の仕組みの一部がゆらいでいるかのようで、琉苑の胸を疼かせた。「……っ」その息に、シュアが低く唸るように目を開けた。視線は琉苑を捉えたまま、言葉を発することなく静かに起き上がる。ふたりのあいだで、言葉のない時間がゆっくりと流れた。止まっているようで、確実に進んでいる時間の中で、ふたりの周囲の空気だけが淡く揺れた。遠くから、折敷を整える音と淹れたての茶の香りが廊下越しに漂ってきた。ルシェリアが朝の支度を進めているらしい。ふだんなら当たり前のことが、不思議なほど遠い出来事に感じられた。琉苑がそっと布団から身体を起こしたとき、ルシェリアは静かに戸を開けて一礼をした。しかし、琉苑を視界に入れたルシェリアの手が止まった。目を細め、すぐに視線を逸らす。「おはようございます。お食事の用意ができておりますので」ルシェリアも何かに気付いたのだと、琉苑にもわかった。琉苑は軽く頭を振って、それ以上を問いたださなかった。食事の時間は静かだった。重い、というほどではないが、どこかに気まずさがある。沈黙が互いの距離を測るように漂い、食後、琉苑とシュアのふたり
Last Updated: 2025-12-11
Chapter: 【第35話】蜜月のかたち寝台に横たわりながら、琉苑は仰向けのまま、天井の淡い影を眺めていた。夜は深く、窓の向こうでは風の音がささやいていたが、それすら遠く感じる。今、自分の周囲にあるのは──肌に触れる柔らかな掛布の感触と、左隣にいるあたたかな生き物の気配だけだった。その気配は、うごめくでも、じっとしているでもなく、ただ、重さと熱と呼吸だけで存在している。ふと、その呼吸が耳に触れた。低く、規則正しく。まるで焚き火のように。琉苑は少しだけ身体を傾けて、隣にいるシュアを見た。「なあ今までの俺って……どんなだった?」声は布団の中でくぐもった。視線を向けられたシュアは、ひとつまばたきをして、やや間を置いてから、唇の端をわずかに上げた。「それは……昔のお前の話か?」「そう。……俺にはあんま思い出せないけど、お前、知ってんだろ?」シュアは琉苑の頭にそっと手を置き、乱れた髪をなぞる。爪が当たらないよう、力加減はやけに優しくて──思わず、くすぐったくなる。「昔のリウは、今よりずっと無鉄砲だった。怒るとすぐ喧嘩を売った。なのに、誰より情に脆かった」「へえ……」シュアの指が耳の裏を掠め、琉苑は肩をすくめた。それを面白がるように、竜はもう片方の腕を伸ばして彼を引き寄せる。「……それに比べれば、今のお前はずいぶん慎重だ。よく考えるようになったし、言葉も選ぶ。だが、そのぶん迷いも深い」「それはどーも。成長したってことだろ」「そうかもしれん」「でもまあ、よく分かんないけど──きっと、俺は俺なんだな、今までも今も」「そうだな。リウはずっと、リウだ」ふたりの額がかすかに触れ、そこから体温がじんわりと交わる。ひとつの触れ合いが、どうしてこんなにも落ち着くのか──琉苑はそれを、考えるのが億劫になるくらいには幸福だった。「……いつも、オメガなのか?」ぽつりと、琉苑が口にした言葉に、シュアの動きが止まった。ふたりの身体の間に、ふわりとした沈黙が広がる。だがそれは、否定の重さでも、拒絶の冷たさでもなかった。「必ずしも、とは限らない。だが……お前は、幾度の生のうち、たびたび受け入れる側であった」「ふーん……そういうもんか」琉苑は、少しの沈黙の後、シュアを見上げる。「……じゃあさ、子供がいたことって、ある?」布団の中の空気が、少しだけ冷たくなる。それは、感情の揺れでは
Last Updated: 2025-12-10