釣り書きを見せ、ニコラスに冷たい言葉を投げかけられてジェニファーは部屋を出た。――パタン扉を閉め廊下に出たジェニファーは、ニコラスのあまりの変貌ぶりに我慢できず、とうとう目に涙が浮かんでしまった。「……うっ……」(駄目よ、泣いたりしたら……泣いたら、もっと私の立場が悪くなってしまうわ……)ジェニファーは必死に自分に言い聞かせ、目をゴシゴシこすったそのとき。「ジェニファー様でいらっしゃいますか?」不意に背後から声をかけられ、ジェニファーは振り向いた。「は、はい」すると、そこにいたのはジェニファーとさほど年齢が変わらないメイドだった。メイドは振り返ったジェニファーに会釈した。「私、本日よりジェニファー様の身の回りのお世話をさせていただくことになりましたメイドのジルダと申します。よろしくお願いいたします」会釈してきたジルダにジェニファーも慌てて挨拶した。「こちらこそよろしくお願いします。ジルダさん」「私はメイドなので、ジルダで結構です。それではまずはお部屋にご案内させていただきます」表情一つ買えず、ジルダは前に立って歩き出したので、ジェニファーも後をついていくことにした。テイラー侯爵家は少女時代、一時的にお世話になっていたジェニーの別荘よりもずっと大きかった。長い廊下を歩いていると途中何人ものメイドやフットマンに出会った。けれど、皆挨拶するどころかジェニファーをチラリと一瞥するだけだった。まるでジェニファーには少しも興味を抱いていない様子だ。(ニコラスの態度で分かったけど……ここで働いている人たちからも、私はよく思われていないのね……)そのことが、ますます悲しかった。ニコラスは明らかに自分を憎んでいるし、使用人たちも自分が誰なのか分かっているはずなのに冷たい態度を取っている。ここには、自分の味方が誰一人いないのだということをジェニファーは感じていた。けれど、何故ここまで自分がテイラー侯爵家から憎まれているのか分からなかった。ただ、一つ思い当たることがあるとすれば……。(きっとニコラスが私のことを憎んで……それで、ここにいる人達に悪く言っていたのでしょうね……。ジェニーの遺言状さえなければ、ニコラスは私の顔すら見たくなかったはずだわ)だとしたら、自分はこれからこの屋敷でどのように暮らしていけばいいのだろう?そんなことを
――その頃大豪邸であるテイラー侯爵家のエントランス前で、ジェニファーは不安な気持ちで辻馬車の御者と待たされていた。「あの、お客さん。失礼ですが、本当にテイラー侯爵家と関係のある方なんですよね? お金は支払ってもらえるんですよね?」御者がジェニファーに尋ねてきた。「え、ええ。大丈夫のはずです……多分」「多分とは、どういうことですか? まさか、このまま締め出されたんじゃないでしょうね? 最初に応対してもらってから既に15分近く待たされていますよ? もし後5分待って誰も来なければ、無賃乗車で警察に連れていきますからね!」「そ、そんな……警察なんて……!」御者の脅迫めいた言葉にジェニファーが青ざめた。――そのとき。眼の前の扉が開かれ、執事のモーリスが現れた。その後ろにニコラスの姿もあるが、ジェニファーと御者は気付いていない。「どうもお待たせいたしました。それで、馬車代はおいくらになるのですか?」モーリスは男性御者に尋ねた。「え、ええ。銀貨3枚になります」モーリスは頷き、金貨1枚を御者に渡した。「どうぞ、お持ち下さい。お釣りはいりませんので」「え!? ほ、本当によろしいのですか!?」金貨1枚という大金を手にした御者は驚きの声をあげる。「ええ、もちろんです。ですが今回のことは決して口外しないようにしてください。もし約束を破れば……ここはテイラー侯爵家です。どうなるかはお分かりになりますよね?」モーリスの言葉に御者はゴクリと息を呑む。「はい……も、勿論分かります。そ……それでは失礼いたします!」御者はお辞儀をすると慌てた様子で御者台によじ登り、まるで逃げるように走り去っていった。「あ、あの……馬車代を用立てていただき、ありがとうございました」ジェニファーは深々と頭を下げてお礼を述べた。「……いいえ。別にこの程度のこと、お礼を言うまでもありません」そしてモーリスはじっとジェニファーを見つめる。「あ、あの……?」ジェニファーが戸惑い、声をかけようとしたとき。「君が、ジェニファー・ブルックか」扉の奥から声が聞こえ、ニコラスが姿を現した。「ニ……コラス……」15年ぶりに再会したニコラスを見てジェニファーは目を見開く。ジェニファーの初恋だったニコラス。辛い時、悲しい時はいつもニコラスの写真を眺めて自分を元気づけていた。その彼
『ドレイク王国』は巨大な交易都市で、ジェニファーの住む国からは遠く離れていた。2日かけて汽車を乗り継ぎ、大きな船着き場がある港へたどり着く。そこからさらに船で5日乗ると、ようやくニコラスの住む国へ到着した。――13時1週間の旅を終えて港へ到着した頃には、ジェニファーは疲労と船酔いでぐったりしていた。「や、やっと到着したわ……」フラフラになりながら船を降りると、港のベンチに座り込んだ。(きっとニコラスは私の為に少しでも快適な旅が出来るように、旅費として大金をくれたのね……なのに、私ったら……)小切手はアンに奪われてしまった。せっかく自分の為にニコラスが大金を用意してくれたのに、活かすことが出来無かった。そのことがジェニファーは申し訳なくてたまらずにいた。旅費を節約する為に、指定席も買わずに混雑する車両と雑魚寝しか出来ないような船の中で5日間を過ごしたジェニファー。ひとりきりで窮屈な旅は若い女性のジェニファーにとっては不安でならなかった。(最初はどうなることかと思ったけど無事に到着できて本当に良かったわ……きっと、神様が見守ってくださったのね)少しの間ジェニファーは、荷物を抱えたままベンチに座って身体を休めていたが、ショルダーバッグからニコラスの手紙を取り出した。「ニコラスが住んでいるところは、ここから離れているのかしら……」手紙に目を通しながら、ジェニファーはポツリと呟く。手持ちのお金は、もう殆ど無くなっていた。「馬車のお金……間に合うかしら」不安な気持ちで、ジェニファーはポツリと呟くのだった――****――同日、15時半。家督を継いだニコラス・テイラーは書斎で仕事をしていた。27歳になったニコラスは、周囲の目を引くほどの美しい青年に成長していた。妻のジェニーが昨年、出産と同時に亡くなってからは、ひっきりなしに縁談の話が舞い込んでくるありさまだったがニコラスは一切の興味を示すことは無かった。自分の妻は、生涯ただ1人。愛するジェニーだけだと決めていたからである。あの遺言状を目にするまでは……。「……ふぅ」書類にサインを終えたニコラスはため息をつき、ペンを置いたその時。――コンコン『旦那様、少々よろしいでしょうか?』ノック音と伴に、扉の外から声をかけられた。「ああ、いいぞ」返事をすると扉が開かれ、長年ドレイ
――その日の夜「何ですって!? お母さんに小切手を取られてしまったの!?」部屋にサーシャの驚く声が響き渡る。「お、お願い。あまり大きな声を出さないで。叔母様に聞かれてしまうわ」ジェニファーはオロオロしながらサーシャに声をかける。「別に聞かれたっていいわよ! 事実なんだから。自分の親ながらイヤになるわ。はっきり言って犯罪よ! かと言って、取り返すのは難しいわね……本当にごめんなさい。ジェニファー」「え? 何故あなたが謝るの?」「だって……いつもいつもお母さんはジェニファーに酷いことばかりしているし……」「いいのよ、サーシャは何も悪くないもの」けれど、小切手を取られてしまってはニコラスの元に行くことが出来ない。ジェニファーがサーシャの為にコツコツ貯めた貯金を全額投じても旅費には満たない。かと言ってニコラスに手紙でお金のことを告げることは出来なかった。あの手紙の文面では、とてもではないが金銭の相談は無理だった。思わずため息をつくと、サーシャがそっとジェニファーの両手を包みこんできた。「大丈夫よ、ジェニファーにも貯金があるのでしょう? 実は私もお金を貯めていたのよ。2人のお金を足せば、旅費を工面できるはずよ」「え? そんなこと駄目よ!」その言葉にジェニファーは驚いて首を振る。「いいのよ。ジェニファーが貯金してくれていたのは知っていたわ。でもそれは私達のためでしょう?」「そ、そう……よ」「私もね、ジェニファーのためにお金を貯めていたのよ。だからこれを使って」サーシャはポケットに手をいれると、麻袋を手渡してきた「これは……?」「私が貯めたお金、金貨5枚入ってるわ」「ええ!? 金貨5枚!」驚いて、ジェニファーは中身を確認すると確かに金貨が5枚入っている。「私が貯めた全財産、こんなこともあろうかと思って今日銀行から引き出してきたのよ」「だ、だけど……こんな大金……」「いいのよ。だって私達、ジェニファーのお陰で今があるのよ? あんな母親だけだったら、今頃どうなっていたか分からないわ。このお金を使って、旅費の足しにして?」サーシャは笑顔を向ける。「サーシャ……あ、ありがとう」「実はね、これだけじゃないのよ」サーシャは立ち上がると、自分のロッカーの扉を開けて洋服を取り出した。濃紺のボレロに丈の長いスカートはとても上品なデザイ
「叔母様、ニコラス様から手紙の返事が届きました」ジェニファーは自室で本を読んでくつろいでいるアンの元にやってきた。「そうなのね!? 早く見せなさい!」アンは読んでいた本を閉じると、手を突き出してきた。「はい。この手紙です」ジェニファーの手から手紙をひったくりると、訝しげに首を傾げた。「開封されているわ。まさかもう読んだの?」強い口調で問い詰めてくる。「あ、あの……宛先が私だったので……読んでしまいました」「いつも言っているでしょう!? この家の主は私なのよ? 先に私に手紙を見せるのが筋でしょう!」「すみません……次回から気をつけます……」「全く……いつまでたっても融通が効かないんだから……」ブツブツいいながら、アンは手紙に目を通し……眉をひそめた。「……何よ。この手紙……随分素っ気ないわね。命令口調なのも気に入らないわ」アンは自分のことを差し置いて手紙の内容にケチをつけてくる。「ねぇ、ジェニファー。本当にこの相手は、あなたを妻に望んでいるのかしらねぇ? 私には相手が少しも乗り気が無いように見えるのだけど」「……そう、ですよね……」痛いところを突かれてジェニファーは俯く。「まぁいいわ。相手がどんな人物だろうと、こちらにお金を融通してくれればよいのだから。それでいくら私達に支払ってくれるのかしら? 小切手があるのよね?」手紙に小切手が同封されていることが記されているので、アンは尋ねた。「はい、これです」エプロンのポケットから、小切手を出したジェニファー。「よこしなさい」「で、ですが……この小切手は、ニコラス様の元へ行く為の小切手で……」「いいから寄越すのよ!!」アンの叱責が飛んできて、ジェニファーは思わず肩をすくめた。「わ、分かりました……」ついに観念したジェニファーはアンに小切手を手渡す。「全く、始めから素直に渡せば良いものを……あら、まぁ! すごいじゃない。金貨50枚ですって! これだけあれば、半年は余裕で暮らせそうだわ」「叔母様、ですがその金貨には旅費も含まれていて……」するとアンから驚きの言葉が出てくる。「何を言ってるの! 旅費ぐらい自分で何とか出しなさい! こっちはねぇ、あなたという貴重な働き手を先方に渡すのよ? むしろ、金貨50枚なんて足りないくらいよ。だいたい、私の言った通り結婚相手に援助金の
ニコラスに手紙の返事を送り、10日後――この日、ジェニファーは仕事が休みで朝から家事に追われていた。「ジェニファー。手紙の返事は届いたのかしら?」庭で畑仕事をしているジェニファーの元に、アンが現れた。「いいえ、まだですけど」ジェニファーは採取していたトマトをカゴに入れながら返事をする。「ふ〜ん……嘘をついてないでしょうね?」「嘘なんてついていません。手紙が届いた翌日にはポストに投函していますから」「あら、そう。ならいいけど……ところで、そのトマトはどうするのかしら?」「今夜の夕食の材料ですけど?」「……そう、とにかく返事が届いたらすぐに教えなさいよ」「分かりました」返事をすると、アンはさっさと家の中へ入っていった。「……さて。次はじゃがいもの収穫をしなくちゃ」そしてジェニファーはじゃがいもの畑へ向った―― 太陽が真上に登っても、ジェニファーはまだ野菜の収穫作業をしていた。カゴの中には様々な野菜が入っている。「これだけあれば、今夜の夕食の材料は足りるわね」ジェニファーが家に入ろうとしたそのとき。ガラガラと荷馬車の音が聞こえ、顔を上げた。見ると、郵便配達の馬車が近づいてきている。「もしかして、郵便かしら……」そのまま待っていると門の外で荷馬車が止まり、配達員がやってきた。「ブルックさんですか?」「はい、そうです」「速達が届いています」配達員はカバンの中から手紙を手渡してきた。やはり思っていた通り、その手紙はニコラスからのものだった。「ありがとうございます」「ではこの受取用紙にサインをお願いします」配達員から用紙とペンを預かると、ジェニファーはサラサラとサインして手渡した。「お願いします」「……はい、確かにサイン頂きました。ではこれで失礼しますね」配達員が再び荷馬車に乗って去って行くのを見届けると、早速ジェニファーは、逸る気持ちを抑えて手紙を開封した。『早速の返事、確認させてもらった。それでは、結婚を了承したということで話を進めさせてもらう。まずは自分の釣り書きと戸籍を用意すること。必要な物は全てこちらで揃えるので、特に持参する必要はない。旅費は同封した小切手を使うように。準備が出来次第、すぐにこちらに向ってくれ。アドレスは手紙と同じだ。屋敷の者たちには分かるようにしておく』手紙にはそれだけが書かれていた