日付を跨いで、午前零時過ぎ。 キルシュは窓辺で、ぼんやりと降り積もる雪を眺めていた。 真夜中というのに雪明かりで辺り一面が青白く明るかった。窓辺から望む湖畔周辺は白々とした輝きを放ち、凍てついた湖面に処女雪が薄く積もっている。 〝南部〟辺境地とは言え、レルヒェ地方は厳冬だった。寧ろ、北部よりも降雪量が多いとも言われている程。その理由は、高々とした山脈が帝国南西部に走っているから。雪雲がそれにぶつかり、この一帯を根深い雪に閉ざすのだ。 さも当たり前の毎年の光景ではあるが、雪が降ればいよいよ本格的な冬が始まったのだと思う。(寒い……) ほぅと息をつくと、白い息が漂った。 明日も街に行くシュネを見送るのだから、早々に寝るべきなのだろう。それなのに、どうにも瞼が重たくならなかったのだ。 自分で自負できる程に単純な性質だ。悩みなんて大抵、湯浴みをしてさっぱりしてしまうか、少し眠れば吹き飛んでしまうのに。今回ばかりは、どうにも簡単に掻き消される事は無かった。 これまで自分の力が厭わしいと思った事は何度だってあるが、美しい花や生命力溢れる蔓草を芽吹かせるこの力自体は決して嫌いではなかったのに。 自分が怖いと初めて思ってしまったのだ。 キルシュは澱を吐き出すように、もう一度深い息をつく。(どうして、こんな力をクレプシドラは授けたのだろう……どうして私が) キルシュは自分の手の甲に描かれた花と蔓草を模った紋様を片手で摩る。 しかし、触れている手の感覚なんてもう無かった。 長い事窓辺でぼんやりしすぎただろうか。いい加減に寝よう。そう思って、キルシュが踵を返してベッドに向かおうとする最中だった。 ボーン。と一つ、静謐とした空間に柱時計の音が響き渡る。 その途端だった。たちまち鼻腔の奥に蘇ったのは、焦げ臭い匂いだった。 助けて、熱い、痛いと。聞こえる数々の悲鳴はやがて炎の音に掻き消されていく。 薄く開けた視界には橙色の火の粉が舞っていた。
「《聖痕保有者(スティグマ)》は具象で出現させた物体及び自然物の操作を……」 その一文を読み上げて、キルシュはその続きに書かれた、各属性の自然物についてさらりと読み上げる。「そういえば、キルシュちゃんって古典文学と語学が得意なのよね……さすがね。私は少しの単語しか拾えなかったの」 そこから分かったものだけを拾い上げ、なんとなく解読したのだと。そして実際にやってみたら、できてしまったと。そんな風に説明すると、シュネはキルシュの肩に手を置いて一緒になって本を覗き込む。「ねぇ、他にどんな事が書いてあるの?」 「ちょっと待ってくださいね」 興味津々にシュネが訊くので、キルシュはその続きを読み始めた。 能有りがクレプシドラによって選出されたとは先程も書かれていたが、その固有の力──権能の発現比率などについても記載されていた。 火・水・木の属性。この三つから氷、光、磁力、重力など、多種多様なものが派生しているそう。 主体となる火と水の属性を持つ者は権能者の中では最も多いが、木の属性は少ない。 その理由は、この権能は唯一命を芽吹かせるからと……。 命を生み出す。それ故か、この権能を持つ者は女性だけで出現率が少ないのだと。 しかしその次の一文に目を通し、キルシュは震えた。 唯一、命を生み出す事ができるその権能は、自然植物の命を奪う事ができるのだと。衰退の枯死の具象。木の属性──草花の権能は最も美しく、最も醜い。 言葉に発する事もできなかった。キルシュは目を見開いたまま青ざめた。 脳裏に過ってしまった。この森一帯を枯らす自分を。命を吸い上げ、青々とした針葉樹が褐色に染まり、生命を失っていく様を。「……キルシュちゃん?」 そんな様子に見かねたのだろうか、シュネはキルシュの顔を心配げに見る。「私の力……枯らす事ができるみたいです……」 唯一、命を生んで育み、命を奪う権能。 そう付け添えた直後、シュネは何も言わず、キルシュを抱き寄せた。「ごめんなさい。私、想像力が乏しすぎた」 ──ごめんなさい。とシュネは今一度謝るが、キルシュはすぐに首を振るう。 シュネは自らの話題で、失意に落としたと思ったのだろう。当然そこに悪意や裏など無いのは理解できる。 キルシュ当人でも想像できなかった事だ。当事者でないシュネが想
【聖痕保有者(スティグマ)】 ────具象の力を持つ者を示す。 神々が人を創造した時に生まれた副産物。人知を越えた聖法の力を受け継いだ変則的な存在。刻の偶像クレプシドラによって選出されると言われている。その者たちが力を発動させる糧。それは《心(ヘルツ)》そのものである。 閉ざされた書斎の中。旧語で綴られた分厚い本を抱えたキルシュはその一文を指でなぞっていた。 ここは以前、ケルンに教えてもらった礼拝堂の内陣(チャンセル)奥にある隠し部屋。内陣とは聖者の控え室であるが、ここでさえ漆喰装飾が施されるなど絢爛豪華なのに、この隠し部屋はびっくりする程に質素だった。 正面の壁は全て本棚。床から天井まで一面に古書がギッチリと詰まっている。 部屋は随分とこぢんまりとしていたが、隅には書き物机と椅子も備え付けられていて、古書の解読を好む本の虫──キルシュにとっては、まさに夢のような空間だった。 窓の無いので、空間は薄暗く空気もひんやりとしている。だがそのおかげで、並んだ書物はどれも驚くほど保存状態が良い。 空間が狭い分、カンテラと毛布、それにコートさえあれば、十分に暖を取る事もできた。 そんな現在は、《狂信者》の弔いから一ヶ月以上。もうすぐ年末を迎える。 あれ以降、この森で《狂信者》を見る事は無くなった。 二百年以上続いた呪縛を完全に解き放つ事ができた事に、ファオルも奇跡のようだと驚いていた。 しかし……あれ以降、ケルンは《裁く者(リヒター)》としての責務が完全に無くなってしまったのである。 それは良い事に違わないだろうが、どうにも持て持て余しているようで、夜明け前から薪割りをする軽快な音を聞く事が増えた。 相変わらず湖に釣りに行くようだが、それ以外の時間は部屋で寝てばかり。 そのせいもあって彼は、ファオルから『力を持て余した無職』だの『引き籠もり機械人形』だのと新たな不名誉な呼び名で弄られていた。 何もする事が無い。或いは、張り詰めていたものから解放されたからだろう。 彼の面輪は以前よりも、和らいだようにキルシュは思う。 その影響もあってだろう。ケルンと過ごす時間は以前より格段に増えていた。 だが、困った事も一つあるもので……掃除に入れば「添い寝して」と年中言われるもので……。 そうしてベッドに引き摺り込
遠くから男女が言い争っている声が聞こえる。「貴方ね! どれだけ危険な事をしたか分かっているの!」 「分かっているさ。だけどな、俺だって尊重したいって思ったんだよ。結果的には最善には向かった。キルシュが居なければ、無かった奇跡だ」 「そうだとしても!」 シュネとケルンの声だった。 その声に促されて、キルシュがゆったりと瞼を持ち上げると、彼らは言い争いをぴたりと止めた。 「二人とも……」 瞼を擦りながらキルシュは起き上がる。するとシュネに肩をやんわりと押されて「まだ寝ていなさい」とやや厳しく言われた。だがその面輪はどこか愁いを帯びていて……。 「シュネさん……」 キルシュは昨晩の出来事をすぐに思い起こした。 《狂信者》たちを弔った。そして、彼らの呪縛を解き放つ事に成功したが、大量のスノードロップを芽吹かせた直後から記憶が無い。 恐らく、その後倒れてしまったのだろうと憶測が経つ。 果たして、どれ程の時間が経過したかは分からないが、窓の外の明るさを見る限り、昼前か昼過ぎくらいだろうか。 「ケルン私……」 シュネの隣で腕を組んでいるケルンは、一つため息をつき── 「おはよ」と平坦に言いつつ困ったように笑んだ。 そして彼の隣に立つシュネをもう一度見ると、彼女はこめかみを揉みつつ椅子に座し、キルシュに手を伸ばすと乱れた前髪を撫でる。 「キルシュちゃん。ケルンから色々と聞いたけれど、一つだけ忠告しないといけないわ。ここは森の奥深く。もしも大きな怪我をしたり病気になったりしても、お医者さんを呼べないのよ? 連れて行くにしても一時間以上。私が言いたい事はなんとなく分かるわよね?」 手つきも面輪も優しいまま。だが、その声色はいつもとは比べようもない程に厳しく、キルシュはしゅんとしてしまった。 ……隠れての共同生活だ。それも世話になりっぱなしの匿って貰っている身。怪我や病気をすれば迷惑をかけてしまうには違いない。 「ごめんなさい……」 キルシュが詫びると、彼女は頷きキルシュの頬を撫でる。 「別にね。怪我とか風邪引いちゃったら仕方ないの。だけど、自分からそんな危険を顧みない事はしちゃいけないと思うわ。私たちは能有りだとしても人間。命は一つしかないんだもの
まるで、硝子片を砕くようなバラバラとした音だった。 《狂信者》たちの鱗はまるで風に散る花片のように剥がれ落ち、次々に青白い光の粒子を巻き上げ暗闇の中に漂った。 そうしてやがて、姿を現したのはぼんやりと薄く透けた人の姿たちだった。 年老いた男性や老婆、小さな子どもを抱えた妙齢の女性、それから若い青年……と数多の《狂信者》は本来の姿へと戻ったのである。 「**お嬢ちゃん。とても嬉しいわ。本当にありがとう**」 春の暖かい日差しのように、優しく穏やかな女性の声だった。 それは先程、これ以上進めないと言った狂信者だった者とすぐにキルシュは理解した。 その女性の姿は、ふくよかな体躯の中年女性だった。その相好はとてもにこやかで、人の良さが面輪から滲み出ていた。「**まだよ! ここは教会じゃない。まだ先よ?**」 キルシュは慌てて言うが、婦人の亡霊は首を振り、ふわりと優しく微笑んだ。 優しい面輪ではある。だが、今にも消えそうな程に儚くて、そんな笑みにキルシュの胸は痛い程に締め付けられた。 「**もう、ここで充分よ。私たちは、この先には進めない。意志に反して動き回って、とても苦しかったの。そして救ってくれた。私たちの願いを叶えてくれた事、とても幸せに思うわ。ここに居る人たちみんなそう思っているわ」 婦人の問いかけにそこに集まった幽霊たちは皆頷き、それぞれがキルシュに暖かな眼差しで向けていた。 「**お嬢ちゃんは、本物の聖女様だったのね。私たちを信じてくれて本当にありがとうね。ここまで導いてくれただけで本当に幸せよ**」 婦人の亡霊はキルシュに笑顔で礼を言う。 同時にキルシュが思い返す言葉は〝地縛霊〟だった。 本当に、死しても目的地には行けないのだろう。 そして、キルシュの頭に最悪な予測が頭を駆け巡る。 ……たとえ人の姿に戻ったとしても、また翌晩になれば闇の因子を取り込み、またも《狂信者》に成り果ててしまうのかもしれないだろうと。 先程、この婦人は言った。 意志に反して動き回って、とても苦しかった……と。つまりは、闇の因子を取り込んで《狂信者》に成り果てた時、彼ら自身もとてつもない苦しみの中にあったのだと。 それも、人としての意識があったのだろう。 だからこそ、真摯に向き合い話が通じたのだ。
──静謐に包まれた真夜中の森に二匹の《狂信者》の不気味な咆哮がこだまする。 それに答えるかのように、次々に身の毛もよだつ程に叫びが上がり、まるで悲壮の歌のように森の深層に響き渡っていた。 やがて、凍てつく程に冷たい風と共に一体二体とその数は増え、キルシュとケルンの目の前には数十体の《狂信者》の群れがぞろぞろと集まって来た。 男か女かも分からない、低くもか細い声で『憎い憎い』と彼らは繰り返す。 ケルンは緊張した面輪で手を下ろして、防壁を消す。だが、彼らは二人に襲いかかって来る事も無かった。 あの叫びで話を通してくれたのだろうか。キルシュは集まった《狂信者》たちの前に一歩み、スカートの裾を摘まむと膝を折って淑女の一礼を再びした。「**突然だったのに、集まってくれてありがとう。全員いるかしら? お願い、私たちについて来て欲しいの。その前に約束をしたいわ**」 ──私は彼に力は使わせないように監視する。もし、彼が先にあなたたちを攻撃したら、私を食べて構わない。ただし、あなたたちが約束を破れば、今まで通り。 それを約束する。不満は無いかと、キルシュは言葉も添えたが、彼らは何も言わず それぞれが静かに頷いた。 「**じゃあ、みんなで一緒に教会まで向かいましょう。絶対に私と彼を見失わないで、ちゃんと付いてきてね。どうか私たちを信じて欲しいの**」 願うように、祈るように。キルシュは《狂信者》たちに朗らかに告げて背を向ける。「ケルン行こう」 傍らに立つ彼を一瞥して、キルシュはゆったりと真夜中の森を歩み始めた。 ──寒々しい晩秋の木枯らしが吹き抜ける森。 その中を、一つの群れが列をなして進んでいた。 先頭に立つのは、人間の少女と、青年の姿をした機械人形の二人。 そのすぐ後ろからは、異形の怪物――《狂信者》たちが、ぞろぞろと行進するように後に続いている。 キルシュは民族衣装の上にウールのケープを羽織っていたが、それでも身を刺すような寒気を覚えていた。けれど、それは気温のせいばかりではない。 ここまで懸命に言葉を尽くし、彼らに〝信じて欲しい〟と願った。 それでも、背後を歩く異形の《狂信者》たちを怖がらずにいられる訳がなかった。 元は、争い事を嫌がった人間だった事を信じようとは思っ