All Chapters of 機械仕掛けの偶像と徒花の聖女: Chapter 1 - Chapter 10

68 Chapters

プロローグ 終末を告げる大聖堂の鐘の音

 大聖堂に響き渡る鐘の音は、まるで終りの時を知らせるように寂しい音を響かせていた。  誰も居ない筈の場所で、いったい誰が鳴らしているかは分からない。  それはまるで、計り知れぬ悲壮に慟哭しているかのように聞こえてしまった。 眼下に望む見慣れた錆色の町並みは、まさに終末と呼んで良い程……。  横殴りの雪が降りしきる中で赤々とした炎の群れが至るところで広がり、崩れた落ちた建物から黒煙が上がっていた。 そんな終末の大聖堂──頂点へと続く途方もなく長い石造りの階段を茜髪の少女はひたすらに駆け上っていた。その合間も砲弾が撃ち込まれる鈍い音と、尋常ではない振動が襲い来る。    来た道を振り向けば、石造りの階段はバラバラと崩れ落ち、ぽっかりとした虚ろができていた。  もう引き返せない。そう思いつつも、彼女は前を向き再び階段を駆け上る。 窓の外に見える、屋根の上に佇むものは教会の雨樋〝ガーゴイル〟を彷彿させる姿の怪鳥だった。  しかしそれは、鉄錆びた色合いの機械仕掛け。極めて人工的な姿をしていた。 ……彼女自身も認めたくない事実ではあるが、これが彼女の愛した青年の成れの果てだった。 ──ケルン。 少女は身を焦がす程に恋した青年の名を呟き、溢れ落ちた涙を拭って再び階段を駆け上る。 実を結ぶ花の名を持つ癖に、何をしても結果を出せず、努力さえ実を結ばず恩さえ仇で返す。よって〝徒花〟と、不名誉にも呼ばれた日々の事。彼と過ごした短くも幸せ過ぎた日々の事。そして、忘却の彼方にあった断片的な記憶の数々。 茜髪の少女、キルシュ・ヴィーゼは一つ一つを思い返した。
last updateLast Updated : 2025-03-05
Read more

1話 少女の憂鬱

 帝都ファルカを色にするのであれば、赤銅あるいは鈍色だろう。豊かな自然を彷彿させる緑色が極端に少なく、人造的な色が多い。 煉瓦造りの背の高い建物がゴチャゴチャとひしめき合い、都市西側には轟音と粉塵を上げて蒸気機関車が走っている事から、どこか窮屈な印象を感じてしまうものだった。 製錬や機械化学と工業技術が発展した経済的水準も高い先進国、ツァール帝国。  その中心地なのだから、この景色はさも当たり前の事には違いないだろう。 ──空気は悪く、人が多い。労働者を寄せ集めたファルカの朝早い。  早朝五時に市街中心部に高々と聳える古びた大聖堂の鐘の音が響き渡り、皆その音で一日を始める機械的な街だった。 そして今現在……ファルカの朝が始まって数時間。  とっくに空は青に色付いて、太陽も昇ったにも関わらず〝埃っぽい街〟が災いし、部屋に差し込む初秋の陽光はあまりに弱々しかった。 暗緑色のカーペットにクリーム色の壁。弱々しい陽光の差し込む質素な部屋の中、カリカリと羊皮紙にペンを走らせる音だけが静謐な空間に反響する。「それで、君はまた暴力を振るったのか?」 ──これで五度目だ。なんて、付け添えたのは初老の男だった。  彼は、大きなため息を吐きながらペンを置き、正面に立つ茜髪の少女をギロリと睨み据える。「もう! だから、どう考えても正当防衛だって言っているじゃない!」 茜髪の少女、キルシュ・ヴィーゼはジトリと若苗色の瞳をジトリと細めて、初老の男を睨み返した。 まるで、豪雨に打たれたように、彼女はずぶ濡れだった。  茜色の艶やかな髪は水に濡れてぺったんこ。  クリーム色の襟付きブラウスに焦茶のスカート、革のコルセットとブーツ──パトリオーヌ女学院の制服は頭の先からつま先までびっしょりと濡れ、彼女の華奢な身体にぴたりと張り付いていた。 唇をへの字に曲げて、眉を釣り上げたその面持ちは、明らかな怒りに満ちていた。  その顔には「私は悪くない!」と書いてある。「だからね、私は何もしていないわ! 悪くないの!」    この部屋に来て、数度目の台詞をキルシュは甲高く叫ぶと、初老の男──この女学院の最高責任者、学院長はこめかみを揉んで深いため息を吐いた。 事の始まりは、朝の登校時に遡る。  ……いつも通りの登校中。寮から校舎に入ろうと外階段を上っている最中、頭
last updateLast Updated : 2025-03-05
Read more

2話 謹慎処分

   まずい。  キルシュは手のひらから芽吹いた蔦を見て、咄嗟に息を呑んだ。 ──まただ。いけない。 内心に焦燥が走った。  落ちつけ。自分に言い聞かせ、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。  すると、手のひらに咲いた花と蔦は光の粒子となってふわりと舞い、空気に溶けて消えた。 これが、キルシュの〝能有り〟としての力──植物の具象。 芽吹き、花を咲かせるだけ。基本的には美しく、無害に見えるそれは、感情が昂ぶった時にこそ不意に現れる。  今回はまだ良かった。だが一歩間違えば、鋭い棘を備えた茨の蔦が相手を傷つける事もある。 この力が今、帝国では忌避され、差別の対象になっている事を、キルシュは誰よりも理解していた。  だからこそ、こうして人前で、無意識に〝芽吹かせてしまった〟事は──致命的だった。「……驚かせて、ごめんなさい」 絞り出すような小さな声でそう告げると、学院長は明らかな蔑みを含んだ目でキルシュを見つめ、深くため息をつく。「君は……一カ月の謹慎処分だ。家にはすでに連絡をしてある。レルヒェに帰りなさい」 その声音は静かだったが、有無を言わせぬ冷たさを含んでいた。  それを聞いた瞬間、キルシュの内にたぎっていた怒りは、どこかでふっと萎えていた。「……分かりました」 キルシュは素直に頷き、濡れたスカートの裾をつまんで膝を折り礼をすると、学院長室を後にした。 外に出れば、教室の窓という窓から嘲笑が降ってくる。  案の定、三階の窓からは──ブリギッタとその取り巻きたち。「あら~、徒花ぁ~! どぉこいくのぉ~?」 「田舎にお帰り? あらあら、お可哀想に」 「ブリギッタ様に歯向かった報いよ、身の程を知りなさい!」 ハンカチーフを振るブリギッタの姿に、キルシュの額にピキリと青筋が立つ。 ……西方メーヴェ地方の侯爵令嬢、ブリギッタ。  透き通るような青磁色の髪、セレスタイトのような淡い青の瞳。確かに、外見だけなら絵に描いたような美少女だ。 ──だが、性格は最悪だ。先程言った通り、ヘドロが相応しい。(……もう、どうせ謹慎なんだから) キルシュは呟くように思い、静かに手を上げる。  手のひらから再び蔦が芽吹き、ブリギッタのハンカチーフをぱしりと攫った。「きゃああ!?」 響き渡る悲鳴。集まる視線。  もう構うものか。キルシュ
last updateLast Updated : 2025-03-05
Read more

3話 消えない差別の理由

帝都ファルカから南部レルヒェ地方へ向かうには、汽車で半日。そこからさらに馬車で数十分――なかなかの長旅だ。 キルシュが汽車に乗り込んだのは昼過ぎ。帰る頃には、きっと日が落ちている。 対面式の四人掛けの座席はすべて埋まっていた。日中の便なのだから当然だ。 帝都の人間は基本的に他人に無関心だと、頭では理解している。それでも、キルシュは能有りの証である紋様を隠すため、薄手のレース手袋を身につけていた。視線ひとつで突き刺さるような経験を、幾度もしてきたからだ。 学院から課された謹慎中の課題には、まだ手をつける気にもなれない。 ただ、移ろう景色に目を預け、心の奥では「このまま時間が止まってしまえばいいのに」と、非現実的な空想ばかりが浮かべていた。 帝都の錆色の建物群──その向こう、左右対称の双塔を有する大聖堂が車窓に小さくなりはじめた頃、キルシュはようやく窓から目を離した。 ふうっと一つ、息を吐き出してから鞄を開き、一冊の古びた書物を取り出す。 それは、ツァール帝国建国の時代に編まれた神話や伝承を寄せ集めた、キルシュお気に入りの古書だった。 文字は現在ではほとんど使われない旧語で書かれていたが、彼女には読む事ができた。 ──否、キルシュだからこそ読めるのだ。 成績最下位、劣等生。学院でそう蔑まれているが、それは、理数学における評価に限った話。 キルシュは古典文学、史学、語学といった副科目では群を抜いており、とりわけ語学においては、周辺五〜六カ国語の読解が可能な程の才を持っていた。 言語の法則を見つけ出す事は、キルシュにとって楽しい遊びのようなものだった。旧語の構造も理解していれば、それほど難しくはない。 文語特有の冗長ささえ乗り越えれば、現在のツァール語と大差ない内容である。 だが──それには、何の意味も無い。 このツァール帝国において女が評価されるのは、理数の才と社交性、家柄。それに成績である。 多くのクラスメイトは、既に縁談を持っていた。中には婚約者を持ち、次の学期には休学予定という者さえいる。 キルシュはまだ十七歳。恋をしてみたいという願いはある。 誰かに愛され、求められる未来を夢見る気持ちも、確かにあった。 だが、今の自分ではそれは、到底叶わぬ願いなのだと、自嘲する気持ちの方が強かった。き
last updateLast Updated : 2025-03-10
Read more

4話 冷ややかな再会

 ──古書の解読に没頭する事、どれ程の時間が経過したのだろう。    周囲の乗客の会話も随分と賑やかだったが、それも次第にと消え始めキルシュは本を閉じる。 車窓から差し込む光も茜が射し、黄昏時となっていた。  やがて、空は橙から紫へ変わり天井に埋め込まれた丸い電球に明かりが灯り始める。  ぼんやりと宵闇迫る外の景色を眺めてみれば、あんなにもひしめき合っていた建物は減り、ライラックの帳が広がった世界は、随分と牧歌的になった事が分かり、辺境に近づいた事悟る。 それから暫しして、紺碧の空に黄金や白銀を散りばめたかのように星が瞬き始めた頃、列車はレルヒェの駅に着いた。    同じ車両に乗っていたのはキルシュ一人だけ。  レルヒェ駅に降りる乗客は誰一人おらず、車掌に切符を渡したキルシュは一人、革製の大きな鞄を抱えて降り立った。    誰も迎えが来ていなければ良い。伯爵家まで遠いが、一人で時間をかけてゆっくり歩いて帰りたい。……と、そんな事を思いながらホームを歩むが、改札を出たと同時にその願いは打ち砕かれた。    そう、明らかに見覚えのある馬車が留まっていたのだから。  御者台に座す男はキルシュの姿に気が付くと、手を上げ軽い挨拶をする。「おお、キルシュ嬢。遅かったな、道草でも食ってきたのか?」 男は義兄とそう年も変わらない。ヴィーゼ家に仕える使用人ユーリだった。  宵闇と同じ濃紺を基調とした使用人服に身を包んだ彼は、皺の無いシャツをキッチリと着こなしていた。風格だけ見れば、貴族と変わらない気品を感じるが、彼も彼で能有りだ。だが、その証である紋様はいつも白の手套で隠されている。   「ユーリ久しぶり」  迎えに来て貰って、あからさまに嫌な顔はできなかった。キルシュはフリルがふんだんにあしらわれた卵色のスカートの裾を摘まみ、礼儀正しくお辞儀した。「久しいな。とは言え、数ヶ月前の夏の休暇で会ってた気もするが……」 艶やかな淡い金髪淡い金髪を掻き上げたユーリは、指折り暦の計算をする。
last updateLast Updated : 2025-03-12
Read more

5話 埋まることのない亀裂

「……でも」 ようやく出た言葉はたった一言。イグナーツは更に眉根に寄せた。「言い訳か? 恥さらしが。おまえは何の為に生きている? 誰に拾われて生かされたんだ」    続けて言われた言葉に、キルシュは一瞬目を瞠るが、すぐに俯いた。  きっと分かってくれない。聞いてくれる訳がない。たったこの一言で悟る事ができたからだ。     〝誰に拾われて生かされた〟これを言われてしまえば、もうおしまいだ。  自分には、何も言う権利も持ち上がらせていないという事だ。 悔しくてやるせなくて堪らない。どうしてこうも……何も言わせないようにするのだ。  たちまちキルシュの若苗色の瞳には分厚い水膜が張り、それはみるみるうちに水流となって頬を滑り落ちる。「ごめんなさい」 俯けば、ポタポタと熱い雫が落ちてきた。義理とは言え兄だと思い、大切に思ってきた。  昔は優しかった。怖い夢を見て夜中に起きてしまい眠れなくなった夜、一緒に寝てくれた事もあったし、転んで泣いてしまったら、抱き締めて慰めてくれた事もあった。   『……大丈夫だ、キルシュ。俺がいる』  同じベッドの中、名前で呼んでくれた。抱き締めて背を撫でてくれた。涼やかな双眸を細めて、穏やかに笑んでくれた。    けれど、そんな優しい兄はもういないのだ。    キルシュは溢れ落ちる涙を拭い、肩で呼吸する。嗚咽が絡んで苦しい。  心がひどくヒリヒリとした。しかし、気を緩められない。気を緩めて、感情に飲み込まれてしまえば、具象の花が芽吹いてしまう。  そうしたら、もっとひどい叱責をされるのは分かっていた。  これ以上叱られるのだって癪だった。  なるべく思考に感情に飲み込まれぬよう、呼吸を整えていれば、ふと一つの疑念が過った。 ……兄が変わったのは、婚約の破綻のあったあの日。  具象の花をあげた事は、空気が読めない自分が悪かったと思うが、ここまで何年も引きずり冷淡にする程なのだろうかと思う。    本当に、私は全てが悪いのか?   本当に私は許されないような事をしたのか?   私は生きる価値も無い程に落ちぶれているのだろうか?     初めて義兄に対して、冷ややかな憎悪が芽生えそうになり、キルシュは震える唇を血が滲む程に噛みしめた。  落ちつけ。落ちつけ……と、肩で呼吸し、溺れるように
last updateLast Updated : 2025-03-14
Read more

6話 それは天使か悪魔か

 部屋に籠もって、何時間が経っただろう。キルシュはベッドに突っ伏したまま動けずにいた。 夕刻には食事が運ばれてきたが、起きる気力もなく、返事もしなかった為、ワゴンは廊下に置かれたままだ。(……言っちゃった。もう、巻き戻せない) 寝返りを打って仰向けになると、薄く開けた目に、天蓋の裏がぼんやりと映る。 時刻は既に深夜。屋敷はしんと静まり返り、足音一つ聞こえない。  電灯もつけず真っ暗な部屋の中、暗順応で部屋の輪郭だけがかすかに浮かぶ。目は冴えて、眠気は一向にこなかった。(何も考えない方が良い……) そう願うのに、頭の中はぐちゃぐちゃに散らかっていた。  イグナーツの不機嫌そうな顔。学院長。皮肉な笑いを浮かべるクラスメイト。耳にこびりつくのは、蔑みの声ばかり。(こんな力、いらない。欲しくなかったよ) 再び涙が滲むと、キルシュの手のひらから蔓が伸び、小さな白花が静かに綻び、そして散った。 好きで能有りに生まれたわけじゃない。  ……でも、自分が不幸だとは思わない。むしろ、幸せすぎるくらいだった。 最も古い記憶……この屋敷に来た日、義父は優しかった。 『今日からここがキルシュのお家だ』と笑い、ドレスも装飾品も、お人形も、欲しいものは何でも与えてくれた。甘いお菓子、可愛い靴、部屋に差す陽の光。幸せそのものだった。 十四歳で学院に入れてもらえた。家庭教師もついた。教育も、生活も、何ひとつ不自由はなかった。 ──怖いくらいに、恵まれていた。 けれど、それでも……心にぽっかりと穴が開いている。 だが、改めて考えると、〝自分の存在意義〟は何だろうかと思う。 貴族の娘に課された最大の勤めは、結婚だ。  しかし、自分は養子で身元不明の孤児。忌まれた能有りで、成績は最底辺。政略結婚の使い道なんてあるのだろうか? と、今更のように疑問に思った。    それでも屋敷の為に、いつかは結婚するのだろうか? 相手は貴族ではなく、地方豪族や商人だって考えられる。  恋にずっと憧れているが、考えるほどに出来損ないの自分が花嫁になるのは、想像できなかった。    それに使用人たちもよく自分の噂をしているのは、キルシュも知っている。  皆「お嬢様」として優しく接してくれるが、その裏では「問題を起こしてばかり」「忌々しい能有り」「どうしてあんな子を養子に引き
last updateLast Updated : 2025-03-17
Read more

7話 生まれて初めての反抗

 頭上に広がる紺碧の夜空には、星々がくっきりと瞬いていた。  今夜は新月。月の姿はどこにもなく、星たちの光だけが澄んだ空気にきらめいていた。 初秋の夜風には、かすかな冷たさが混じっていたが、身をすくめるほどではない。  キルシュは夏制服のまま、着の身着のまま、伯爵家の坂道を一人──否、一羽の鳩と共に下っていた。 その横顔には、さっきまでの陰りが嘘のように消えていた。むしろどこか、晴れやかで清々しい。「……勢いだけで、本当に出てきちゃった」 歩みを緩め、ふと後ろを振り返る。  闇に溶けるように沈む屋敷の影だけが、かすかに浮かび上がっていた。 ──何のために生きるんだ? 自分の存在意義を、どうしたい? 突然現れた「喋る鳩」にそう問われた時、キルシュは何も答えられなかった。  けれど、考えるよりも身体の方が先に動いていた。『わかった。出ていく。後で考える』 そう言い残し、最低限の荷物だけを鞄に詰め、そして──『探さないでください。兄様、さようなら。  出来損ないの妹より』 短い置き手紙を残し、家出を決行した。    もちろん、玄関から出れば使用人に気付かれる。だから、キルシュは窓からの脱出を選んだ。  使ったのは、自分の能有りの力。蔓を操作し、出てきただけ。  しかし、これが存外簡単に成功してしまったのである。    ほんの少し運動神経が良かった事も幸いしただろう。しかし。まさかこんな事に自分の力が役立つとは思わず、キルシュ自身も驚いてしまった。   「私の力って、家出に向いてたのね……なんか便利かも」 普段遣うなと制限しているものが、こうも簡単に思い通りに扱えて、目的を達成してしまうとは。ちょっとした達成感があった。 少しだけ嬉しくなって「嬉しい」なんて言うと、キルシュの肩に留まった鳩はケラケラと無邪気な笑い声を溢す。『そいで、徒花のお嬢様。この後はどうするの?』 「どうするって、どうすればいいのよ?」 問い返せば、鳩はキルシュの耳に噛みついた。   「痛ったぁ!」 『馬鹿! そんなの自分の脳みそでしっかり考えろよ!』 「だって、あんたが助言したじゃない!」    ──だから屋敷を出たのに。と言うと、鳩は心底呆れたようなため息を溢す。『まぁ。そりゃそうだろうけどさぁ……行動に出たのは、誰でも無く徒花、
last updateLast Updated : 2025-03-19
Read more

8話 森の先にある未来

 無計画に歩む事、幾許か。  真っ暗闇に静まり帰った真夜中の街を横切り、林檎畑の続く農園地帯を横切り、領地の南端の方までやってきた。  そもそも伯爵家のある場所が領地の南寄り。実際には大した距離ではない。 ……無計画とはいえ、家出は成功させたい。  やはり兄の言った言葉は到底許せぬもので、キルシュ自身むきになっていた。だからこそ、せめてこれくらいは成し遂げたいなんて思えてしまった。    とはいえ、二度と帰らないという程の心構えではなかった。  いつか帰って来て、立派になって見返してやりたい。と、ふんわりとその程度に思うだけ。  それでも屋敷を出るのに成功したのだ。何だか、今なら何でもできる気がして仕方ない。   (あの兄様に〝ぎゃふん〟と言わせてあげたい。そうできたら最高) この家出を本当の意味で成功させるには、絶対に見つからないように、探し出せぬように。これが必須だ。そこで考えたのは、国外逃亡だった。 今、キルシュの目の前には鬱蒼と茂る森が広がっていた。この森はシュメルツ・ヴァアルト……ツァール帝国と隣接するオルニエール王国の境となる森だった。 ……そう。レルヒェ地方でもヴィーゼ領は国境沿いの街だった。  だが、この深い森──シュメルツ・ヴァルトが理由してここには関所が無い。オルニエール王国との行き来するには、二つ以上離れた領地の川の関所を通らねばならない。  まさに抜け道と言えば抜け道だが……誰もこんな場所を通って他国に逃亡しようなんて考えもしないだろうと思えた。 だが、この選択は不思議と〝意図して〟というより自然と浮かんだものだった。  むしろ、勝手にこの方向に足が進み、直感的に悟っただけで……。(オルニエール語は一応話せるけど……ツァール語が普通に通じる地域が多いって聞いたわ。あちらで何かしら、仕事を見つけてどうにか生計を立てていけば暮らしていけるはず) きっと大丈夫だ。と、根拠も無い自信を心を弾ませて、キルシュは暗闇に広がる森を見る。  しかし、足は震えて一歩がなかなか踏み出せなかった。 この森、シュメルツ・ヴァルトは……通称〝痛みの森〟と言われている。  広大な森なので、オオカミやクマなどの獰猛な肉食獣もそれは勿論生息するだろうが、そういった獣害の話はこの近辺で聞いた事が無い。 どちらかと言うと、霊的な要素
last updateLast Updated : 2025-03-21
Read more

9話 痛みの森

 新月の夜という事もあって、森の中はひたすらに暗かった。  しかし、カンテラなどの明かりをもっていたら、〝見えてはいけないもの〟が見えそうで、逆にこの真っ暗な方がかえって怖くない気がした。    森に入って一時間近く。キルシュは獣道を歩んで森の奥へと進んでいた。  時折、木の枝に引っかかったりもするが、問題なく歩けている。  こうも暗くとも暗順応が働き、目が慣れるものだった。それに針葉樹の隙間から見える星空を見る限り、星たちは西の方向へ動いている。  あと数時間で空が白み、夜明けを迎えるだろう。  それを理解すると、なぜだがホッとしてしまい、キルシュはその場にしゃがみ込んだ。「さすがに疲れたわ……」    家を出てから、ほぼ立ちっぱなしの歩きっぱなしでだった。  もう足が棒のようだ。膝も笑って力が入らなくなってきた。大都会で寮暮らしをするお嬢様にしては根性を出しただろう。ほんの少し自画自賛して、キルシュはその場に腰掛けた。 だが、そこで座ってしまった事が間違いだっただろう。  疲労から来る眠気は容赦無く襲いかかり、瞼が重たくなってきたのだ。  そもそも普段の生活では、日付が変わる前には確実に寝ているのだ。今の詳しい時間は分からないが、恐らく午前二時を過ぎたのではないだろうか。キルシュは瞼を擦って欠伸をひとつ。(せめて陽が昇るまでは起きていよう……) だが、もう一度立つ気力が湧かない。それに瞼は段々と持ち上がらなくなってしまった。国内屈指の心霊スポットだ。こんな場所で眠れるなんて自分の神経が意外にも図太いなんて自分でも心のどこかで感心してしまうが、体力的にもう限界だった。   (少しだけ、ほんの少しだけ……休もう)    すぐに起きるんだと自分に言い聞かせて。キルシュは、背を木の幹に背を預け眠りに落ちた。 それからどれ程の時間が経過しただろうか。  心地良い眠りを彷徨っていたキルシュは、どこか聞き覚えのある子どもの声に突如として叩き起こされた。『おい、キルシュ起きろ!』 あの鳩──ファオルとの声と分かるが、キルシュは眠気に勝てず適当な相槌を打つ。  〝独りにしない〟なんて言っておきながら森に放置した。突然湧いて何事か。『──っ! 起きろよ馬鹿!』 「もう何よ……」 キルシュが薄く、瞳を開けた時だった。『おい、死
last updateLast Updated : 2025-03-31
Read more
PREV
1234567
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status