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ひとつの道 ④

last update Last Updated: 2025-09-08 22:41:19
 エレナは弓を下ろした。

 張り詰めた空気の中、指先に込めた意志が、矢の先端に微かな震えとなって現れる。

「リノア……」

 エレナの声が風に紛れてか細く響く。だが、その一言が意識に触れたのか、リノアの身体がわずかに反応した。

 リノアの唇が再び動く。今度は、かすかな囁き。

「エレナ、逃げて……」

 ガラスが砕けるような儚い声がエレナの胸を突き刺し、 周囲の空気をさらに重く、冷たいものに変えた。

 風の流れが変わり、何かが迫る予兆のように枝葉が揺れる。

 頭上で旋回する羽根に乱れが生じ、そのうちの一つが再び、リノアの胸元へと舞い降りた。

 それは先ほどのものよりも暗く、夜そのものを切り取ったような黒い輝きを放っている。

 羽根がリノアの身体に触れるたびに表情が歪み、瞳に宿る光が消えていく。

 エレナは歯を食いしばり、矢を構えたまま一歩踏み出した。

 リノアを救うには敵の術を断ち切るしかない。

 本体を叩けば終わる──それは分かっている。

 だが、その本体は……

 エレナは素早く周囲に目を走らせた。

 霧が濃く、視界は限られている。

 木々の間に人影はない。

 リュカの姿も見えない──

 リュカは、どうやら森の奥で本体と交戦しているようだ。

 エレナは息を詰め、思わず矢を握る手に力を込めた。

 術の影響がここまで及んでいる──距離を隔ててもなお、これほどの干渉が可能とは……。

 しかも、リノアの中に入り込み、内側からリノアを変えようとしている。

 かなり手ごわい相手だ。術の精度も、意志の強さも、常軌を逸している。

 エレナは唇を噛み、視線をリノアに戻した。

 リノアをこの場に残して行くわけにはいかない。リノアを置いていくことは、見捨てることと同義だ。

 この場を離れれば、リノアは確実に術に飲まれてしまうだろう。

 風が枝葉を揺らし、羽根が空中で軌道を描く。

一体、どうすれば……

 エレナの心は凍てつく絶望に捕らわれていた。

 弓を握る手は震え、矢はもはや無意味な重さにしか感じられなかった。

 矢を放てばリノアを傷つけるだけ──その確信がエレナの決意を鈍らせた。

 リノアの身体が小刻みに震えている。

 呼吸は浅く、途切れがちで、喉の奥から漏れる音は言葉を形作れず、ただ苦しみを吐き出すだけだった。

 指先が痙攣し、その瞳に宿っていた温もりも、意志も、すでに遠くへ引き離されて
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