「どう?」エレナが身を少し前に傾け、少女に微笑みかけた。「……美味しい」 少女は串を握ったまま、わずかに視線を落として言った。その声は焚き火の音に紛れるほど小さかったが、リノアとエレナの耳に確かに届いた。 温かな肉汁が少女の唇を濡らし、表情には安堵の表情が浮かんでいる。 リノアが薪をくべると、火花がぱちりと弾け、夜空に舞い上がった。 焚き火の光が三人を柔らかく包み、森の闇の中で穏やかな時間が流れる。「私はリノア」 リノアがぽつりと呟いた。声が夜気に溶けていく。 それは問いかけでも、名乗り合いの始まりでもない。ただ、そこにいた者として自分の名を置いただけだった。 焚き火の揺らめきがリノアの顔に柔らかな陰影を描き、その瞳には誰かを包み込むような深い慈しみが映っている。「そして、こっちがエレナ。こう見えても、狩りの腕は確かだよ」 エレナが小さく笑って、肩をすくめた。 言葉に添えられた笑みは、焚き火の揺らぎに溶けるように柔らかい。 少女は視線を落としたまま、唇を少しだけ動かした。 だが、声にはならなかった。 火の粉がひとつ、ふわりと宙を舞い、夜空へ吸い込まれていく。 リノアはその軌跡をゆっくり目で追った。「別に、無理に名乗らなくても良いよ」 エレナは焚き火の熱を確かめるように串を動かしながら言った。声は穏やかで、どこか遠慮がちだったが、冷たさは微塵も感じられない。 焚き火の炎がウサギの肉をじりじりと炙り、脂がほとばしるたびに香ばしい匂いが立ちのぼる。 その匂いに包まれながら、エレナはちらりと少女の横顔を見た。「色々、事情がありそうだしね」 串の先から滴る脂に目を留めながら、エレナが言った。 その仕草は何気ないようでいて、少女の沈黙を壊さないように配慮されたものだ。 炎の揺らめきが少女の心の揺れを映し出しているかのように揺らめいている。 少女の瞳は何かを見ているようでいて、何も見ていない。 過去の教えが鎖のように少女を縛りつけているのだろう。名を名乗るといった、その単純な行為が少女にとっては、果てしない一歩のように感じられている。 名は立場を与え、誰かに見つけられるための印でもある。 少女が何者なのかは分からない。だけど置かれる立場によっては、名乗るという行為は、時に自分を差し出すような感覚を伴うものだ。 それは過
焚き火の明かりの中、リノアは立ち上がって少女に歩み寄った。 怖がらせないように、慎重に少女へと歩を進める。 少女は逃げる素振りを見せない。リノアを見つめたままでいる。 リノアはしゃがみ込んで、蔦に絡まれた少女の手元に目を落とした。 蔦が生き物のように肌に巻きついている。 少女を傷つけないように、できる限り、しなやかな蔦を選んだつもりだったが……。長い時間、伸縮しなかったせいか、蔦が柔軟性を失っている。「少し痛いかも。ちょっと我慢して」 リノアはそう言って、短刀を取り出した。 刃は細く、よく研がれていて、蔦の繊維を傷つけずに切るにはちょうど良い。 少女は微動だにせず、ただ、リノアの目をじっと見ている。痛みを訴えることもなく、怯える様子も見せない。 リノアが蔦の根元に刃を入れ、ゆっくりと蔦を切り離していく。蔦は抵抗するように震えたが、やがて力を失ってぱさりと地面に落ちた。 手首が自由になり、少女が息を吐く。 焚き火の光が少女の頬に淡い影を落としている。その影は、少女が過ごしてきた時間の重さを雄弁に語っていた。「こんなに蔦が締め付けるとは思わなかった。ごめんね。これで少しは楽になったでしょ」 リノアは微笑むと、少女に背を向けて歩き出し、焚き火のそばに腰を下ろした。 エレナが焼いている肉が、じりじりと音を立てながら香ばしい匂いを漂わせている。夜気に溶けていくその匂いに、リノアはふと意識を向けた。 少女はまだ、解かれた手を見つめている。 指先をゆっくりと動かしながら、何かを確かめるかのように……「ねえ、少し食べてみる? あったかくて、おいしいよ」 エレナが少女に声をかけると、少女が顔を上げた。 その瞳には、まだ警戒の色が残っている。鋭くて夜の獣のように周囲を切り裂く視線だ。しかし、焚き火の揺らめく光に照らされた、ほんの一瞬、柔らかな揺らぎを見せた。 少女の中で、何かがほどけていっている。 少女は解かれた両手を見つめたまま、焚き火の薪がはぜる乾いた音と、じわりと漂う肉の香りに身を委ねている。 時間はその場に留まり、森の闇と火の温もりが織りなす狭間で、少女の呼吸だけが小さく響いていた。 リノアとエレナが見守っていると、やがて少女はゆっくりと立ち上がった。 足元の蔦が少女の意志を試すように足元に絡みつく。だが、少女は怯まない。一
イオは黙ってセラを見つめた。 その沈黙がセラに重くのし掛かる。──エリオが誰かに追われている。 友人のナディアから、そう聞かされた。 私はリセルの不安を取り除く為、その正体を暴こうと奔走したが、誰も危険な想いなどしたくはない。協力を申し出る者はおらず、些細な情報すら口を閉ざされた。 アークセリアを守るはずの警備隊でさえ…….「そのような人間は存在しない」「被害を受けていないじゃないか」「お前たちの気のせいだ」といったように…… 彼らは様々なことを言っては、調査することを避けた。 冷たく、どこまでも無関心── それは父であるイオも例外ではなかった。 当時の父は研究に明け暮れ、私に関心を寄せなかった。──私、一人ではどうすることもできない。 そう思った私は、焦燥するナディアを連れて、情報屋の元を訪ねた。「私は情報屋から、エリオを追う組織の名を確かに聞いた」 セラはイオを正面から見据えた。 情報屋の言葉にすがった、あの夜のことは今でも鮮明に思い出すことができる。街の灯が遠ざかるように感じられた、あの孤独な夜。「ああ、知ってる。だから……それが嘘なんだ」 イオはセラの視線を正面から受け止めることができず、セラから視線を逸らした。 私と情報屋とのトラブルは一つだけだと思っていた。──それは私から得たナディアの情報を他人に売り渡したこと。 これが原因でエリオだけではなく、ナディアの身の安全までもが脅かされ、二人は街を離れることになったのだ。 それなのに、私に告げた組織の名ですら嘘だったなんて……。「どうして、そんなことを……」「私が情報屋に頼んだんだ。セラには本当のことを話さないでくれと」 宙を彷徨っていたセラの視線が、ふと一点に定まる。「本当のこと?」「セラのことを想ってのことだ」──私が余計なことをしたばかりに、二人を追い詰めたのかもしれない。 その思いが、私をずっと苦しめてきた。 リセルの手を握ったときの温もり。そしてエリオが振り返ったときに見せた、あの冷たくも優しい眼差し。それらが脳裏に焼き付いて離れない。「もう隠す必要がないから言うが、エリオを追っていたのは、もっと深い闇──ゾディア・ノヴァだ」 その名を聞いた瞬間、セラの動きが止まった。 呼吸も、まばたきも、忘れたように。「……ゾディア・ノヴァです
イオの問いに、ヴィクターが“枯れない葉”を貰った経緯を説明した。「それは……妙だな」 イオはわずかに首を傾け、視線を宙に泳がせた。 指先の動きが止まり、万年筆が机の上に転がる。「その人物は、本当にゾディア・ノヴァだったのか?」 イオは再び、ヴィクターを見据えた。「目撃者の多くは、恐怖で顔を引きつらせていた。まるで道理が通じない、狂気に染まった連中だとね。そんな者が何の敵意もなく葉を渡すなんて……どうにも辻褄が合わない」 沈黙が落ちる。 その場にいる誰もがイオの言葉の重みを感じ取った。「ヴィクターが言うには、服に星型を重ねた印が付いていたみたいなの。だから……多分、そうだと思って」 セラは指先で袖の端をぎゅっと握りしめて、視線を落とした。「星型の重なり……」 イオは呟いて、何かを思い出そうとするように遠くを見た。「もし、そうだとしたらゾディア・ノヴァで間違いない。試みの果てに生まれた歪みだ」 その言葉を聞いたアリシアが身を乗り出した。「歪みって……どういう意味ですか?」 イオはすぐには答えなかった。 その沈黙は、語るべきことの重さを測るようでもあり、語ってしまえば戻れない何かを恐れているようでもあった。「話すには順序がある。まずは、君たちがどこまで知っているかを聞かせてほしい。それによって、どこまで踏み込むかを決めよう」 アリシアは言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。 リノアとエレナが、フェルミナ・アークへ向かった理由と目的。そして、グリモア村の村長・グレタが見せ始めた不穏な動きについても、イオに伝えた。「そうか、自然破壊を止めにラヴィナに会いにね。ラヴィナが一番詳しいのは確かだが、あの人は滅多に姿を現さない。会えるかどうかは……運次第だな」 アリシアは少し間を置いて、イオに問いを投げかけた。「フェルミナ・アークにゾディア・ノヴァが住んでいるのですか?」 イオは首を傾け、遠くを見つめた。「フェルミナ・アークではあるが、そのずっと奥と聞いている。なにせ、そこにまで辿り着いた人の話を聞いたことがないもんでな、詳しいことまでは分からないんだ」「そこって……エクレシアですよね? グレタが、そこへ向かったとも聞きました」 アリシアが地図でエクレシアの場所を確認しながら言った。 フェルミナ・アークのずっと奥にエクレシア
不穏な雰囲気にアリシアは一瞬ためらったが、イオの視線に押されるようにして椅子へと腰を下ろした。 ヴィクターも無言のまま隣に座る。セラは少し遅れて、二人の間に身を滑り込ませた。 沈黙が落ち、窓の外の葉が擦れる音が耳の奥にそっと触れる。 イオは机の上の万年筆に触れ、指先で転がした。その動作はイオの思考の迷いを物語っているように見える。「フェルミナ・アーク……」 イオの視線が宙を彷徨う。 誰かの記録を思い出しているのか、それとも、まだ言葉にならない何かを探しているのか。 イオは机の上の万年筆に触れた指が止めて、視線を上げた。「私が行ったわけじゃない。行けるほどの腕がなく、許可は取れないだろうからな。それでも聞くか?」 誰も返事をしなかった。だが、沈黙が肯定に傾いたのをイオは感じ取り、語り始めた。「フェルミナ・アークの記録は断片的で、真偽も曖昧だ。なにせ足を踏み入れた者たちから聞いた証言だからな。そこではアークセリアや周辺の村では起こりえない不可思議な現象が起きる。突然、視界が切り替わり、見知らぬ場所が目の前に現れ、存在するはずのない生物が何の前触れもなく姿を見せるといったようにな。時間も、空間も、そして記憶すらも──この世界の理とは異なる法則で動いている。そう語った者がいた」 一通り語りが終わると、再び部屋に短い沈黙が落ちた。 セラは目を伏せ、アリシアは腕を組み、ヴィクターは椅子の背にもたれて天井を見上げている。 イオは三人の反応を確認し、言葉を継いだ。「先ほど、真偽が不明だと言ったが──それには理由がある。彼らが語る内容は、確かに一致している部分もある。だが、本人が気付いているのか定かではないが、精神が……何と言うべきか……こちらの世界の感覚で言うと、壊れているんだ。中には精神を保っている人もいた。だが、その人の発言も、やはりどこかおかしかった」 セラが顔を上げた。 その瞳に映っていたのは恐れではなかった。理解しようと努めながらも、なお掴みきれないといった複雑な表情をしている。「……そんな場所でも、行く人たちがいる。戻ってこれる保証はないのにな。あの飽くなき探求心は見上げたものだよ」 やや哀しげな表情を浮かべて、イオは深く頷いた。 沈黙が一瞬だけ場を包んだ後、アリシアが口を開いた。「あの……“枯れない葉”について訊いても良いで
舗道に落ちる光が色褪せ、空は深い群青に沈みかけていた。 夜風がセラの髪をそっと揺らす。その風には、遠くの鐘の音や誰かの足音の残響が入り混じっている。 セラは扉の前で一度立ち止まり、振り返ってアリシアとヴィクターの顔を見た。「お父さんなら……少しは教えてくれるかも。だけど、全部は話さないと思う。ゾディア・ノヴァに関わることは、私には見せたがらないの」 セラが言葉を口にしたとき、アリシアはその横顔に目を留めた。 セラの瞳が扉ではなく、どこか遠くを見ている。表情は穏やかだが、唇はきゅっと結ばれていて、胸の奥に渦巻く何かを押し留めているように見える。 その姿にアリシアは言葉にならない違和感を覚えた。だが、問いかけることはせず、ただ黙ってセラのそばに立った。 セラが木製の扉に手をかけ、ゆっくりと中へ入る。 その瞬間、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐった。 家の中は、静謐そのものだった。 壁際には背の高い本棚が並び、古びた資料や地図がぎっしりと詰め込まれている。色褪せた背表紙の列が、積み重ねられた時間の重みを語っていた。「セラか?」 奥の部屋から、張りのある声が響いた。 その問いかけには、セラ以外の誰かが来たのではないという疑いが含まれている。 研究に没頭していたところへ、予期せぬ訪問者が現れた──そんな空気が、廊下の奥から流れてきた。 セラは「ただいま」とだけ答え、靴を脱いで家に上がった。 声のした方へと歩を進め、アリシアとヴィクターが後に続く。 書斎の前で足を止めたセラは、扉越しに一声かけた。「入るよ」「ああ」 そっと扉を押し開けると、奥の窓辺に背の高い男がひとり佇んでいた。 落ち着いた色の髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の視線が三人を見定めている。その佇まいには、長年の思索に裏打ちされた厳しさが漂っていた。 セラの父──イオ・マルヴェル。「久しぶりだな。……そちらの方々は?」「友達。話を聞きに来たの。フェルミナ・アークのこと、それから……ゾディア・ノヴァについても」 イオは眼鏡の位置を指先で直し、眉をひそめた。 ゾディア・ノヴァ──その名が放たれた瞬間、空気がぴんと張り詰める。 イオはしばらくセラを見つめていたが、何かを押し殺すようにして、視線をアリシアとヴィクターへと移した。「……なぜ、それを知りたいんだ? それに