「毒を出してる……」 低く絞り出すような声だった。 ヴィクターの言葉にセラが振り返る。「毒?」 セラの声が礼拝堂の薄闇に震えながら響いた。「ああ、花から出てる。あの蔓の根元に咲いてる赤いやつだ」 ヴィクターが低く答え、窓の外を指差した。「あれは“喰い花”だ。木工に色を塗る時に使うこともあるけど、使い方を誤ると空気を濁らせる。いつもは白い。赤い色は初めて見るな」 毒を放つ時は、花が危険を察知した時──喰い花が自然に毒を放つことはない。「何もしなければ無害なんだが……」 ヴィクターの脳裏にゾディア・ノヴァの名がよぎった。ゾディア・ノヴァが何かを仕掛けに違いない。危険性を知る街の人たちがむやみに刺激するはずがないからだ。それに、あの花はアークセリアには自生していない。フェルミナ・アーク特有の花だ。 ゾディア・ノヴァが喰い花の性質を利用して何かをしようとしている。その目的は一体、何なのか。 街を破壊する利点があるとは思えないが…… ヴィクターは壁を這う黒い茨に目を凝らした。木目の奥に赤黒い筋が脈打つように走っている。それは蔓の侵食ではなく、毒が染み込んだ痕跡だった。 毒素の拡散、構造物への浸食、自然の秩序をねじ曲げる力── これらがゾディア・ノヴァの計算ずくの行動だとすれば、単に蔓を切り払うだけでは足りない。毒の根を断たないと、街ごと飲み込まれる。 窓辺に立つヴィクターの目は、赤い花の不気味な輝きを捉えていた。ヴィクターの拳が、静かな怒りで握り締められる。 自然を愛するヴィクターにとって、この異様な花の変貌は、ゾディア・ノヴァが自然の秩序を冒涜する証だった。自然を愛するのはリノアやエレナだけではない。おそらくは自然に囲まれ、共に生きて来た村人たち全員の共通意識だ。 ヴィクターはセラに目を向けた。「セラ、よく聞いてくれ。色で毒の種類が変わる。だが、喰い花の赤い毒は俺も知らない。《エアリス鉱》を使って、毒の正体を突き止めてくれないか」「うん、分かった」 セラは震える手を抑え、心を奮い立たせた。 アリシアが扉の向こうで横たわり、街の人々が赤い喰い花の毒に蝕まれている。礼拝堂の薄闇に響く黒い茨の軋みと、遠くで途切れる住民の叫び声が、セラの心を急き立てた。 街に異変が起きる前、礼拝堂でセラは《エアリス鉱》と薬草を組み合わせた調合を始めた
礼拝堂の外壁を這う黒い茨の蔓は、意思を持った獣のごとくうねり、出入り口を這い回っていた。 蔓の先端が扉の隙間に食い込み、悲鳴のように音を立てて木材が軋む。 セラは心臓を締め付けられる恐怖に囚われ、思わず一歩後ずさった。 蔓の動きは執拗に獲物を追う捕食者そのもの。駆け寄ろうとするが、足がすくみ、動くことができない。セラは、ただ目を見開き、その場で立ち尽くすばかりだった。「あっ」 突然、目の前で呼吸するかのように扉が膨らみ、ゆっくりと閉ざされた。「閉じ込められた……」 光が遮られ、礼拝堂の中に薄闇が満ちていく。 ステンドグラスから差し込んでいた色彩も蔓の影に飲み込まれ、赤と青が濁った紫に変わった。 呆然と佇むセラ──「セラ、大丈夫か」 ヴィクターが声をかけた。 その声に我に返ったセラが扉に駆け寄る。蔓に覆われた隙間に指を差し入れ、わずかな空間から外を覗き込んだ。 扉の向こうにアリシアがいる──「アリシア! 聞こえる? そこにいるの?」 セラの声は礼拝堂の高い天井に反響し、冷たい石壁に吸い込まれるように消えた。 必死に黒い茨の隙間から声を投げかけるが、アリシアからの返事はない。蔓が音を吸い込んでしまったかのように、外界との繋がりが目に見えない膜で断たれている。 セラは震える手で扉に触れ、隙間から目を凝らした。 霧の中で揺れる衣の裾が視界をかすめる。 アリシアだ── だが、アリシアは地面に横たわり、動かない。力尽きたかのように身を投げ出している。 セラの胸に冷たい不安がじわりと広がった。 アリシアはまだ生きているのか、それともゾディア・ノヴァの魔術に飲み込まれたのだろうか。「アリシア……!」 セラは蔓を押しのけようとした。 だが、蔓は冷たく、硬く、意志を持つかのようにセラの手を拒む。指先に力を込めても、蔓はびくともしない。 焦りが胸を締めつけていく。 このままでは、アリシアが──「ヴィクター、何か方法は……!」 アリシアを、そして町の人たちを救い出すために早く動かなければならない。 ヴィクターの視線は礼拝堂の外に注がれている。「クラウディアさんたちが来るまで、持ちこたえようかと思っていたけど……これは……」 言葉が喉に引っかかり、息が漏れるように途切れた。 ヴィクターは声を失った。──街が破壊されている
アリシアは立ち上がり、礼拝堂の扉へと歩み寄った。 扉を押し開け、外の冷たい空気の中へと身を滑り込ませる。アリシアはその中心に立ち、掌に乗せた鉱石へと視線を落とした。 青灰色の結晶は、冷たい空気に晒されながら、まるで呼吸するように光を帯びている。 街の空気は重く、風は沈黙している。 遠くの物音は鈍く、まるで自然そのものが息を止めているかのように、人々の出す音が鈍く、遠く聞こえる。 その沈黙の中で、アリシアはゆっくりと足を滑らせた。 舞うためだけでは、自然は反応してくれない。 風の道筋を探り、空間の歪みに触れるための、意図を込めた所作が必要だ。 自然に問いかける動きをしなければ── アリシアの呼吸が整い、身体が空間に馴染んでいく。 エルヴァイト鉱がアリシアの想いに応えようとするかのように、掌の中で熱を帯びた。──自然よ、応えて。 アリシアは声には出さず、心の中でそう呟いた。 この沈黙の奥に何が潜んでいるのか。 風が止まる理由、そして空気が拒むものの正体を探らなければならない。 アリシアは深く息を吸い込み、舞い始めた。 一歩、また一歩── 空気の層に触れながら、風の裂け目を探るように身体を動かす。 その瞬間、何かが弾けた。 空気の緊張が軋むように揺れ、足元の石畳に亀裂が走る。 突然、礼拝堂の外で地面が震え、異様な軋みがアークセリアを包み込んだ──「何これ!」 アリシアが、その場に立ち尽くす。 石畳の隙間から、黒い茨の蔓が這い出し、まるで生き物のようにうねりながら街を覆う。住民たちの叫び声が響く中、蔓は木々の形に成長し、血のような赤い花を咲かせ、その花弁から毒々しい香りが漂った。「逃げて……このままでは……」 花弁が不自然に震え、花の中心から聞き覚えのある声が漏れる。しかし、言葉は途切れ、その概要を掴むことはできなかった。「今のは──」 ヴィクターが顔を上げた。 震えが礼拝堂の奥にも届く。 自然の拒絶、空間の震え、そして何かが目覚める気配────これはゾディア・ノヴァの魔術だ。 瞬時にヴィクターは悟った。背筋に冷たいものが走る。 ヴィクターとセラが反応するより先に、礼拝堂の窓が軋み、黒い茨がガラスを突き破り、内部に侵入してきた。 蔓が触れるもの全てを絡め取り、壁に巻きついてく。蔦の重さに耐えきれず、石壁が枯
「それじゃ、私は?」 アリシアの問いに、ヴィクターは少しだけ間を置いてから答えた。「風を読んでくれないか。毒が空気に乗るなら、どこへ向かってるかを探る必要がある。風脈が乱れている場所を見つけて、流れを遮る方法を考えてほしい」「風の流れ……」 アリシアがヴィクターの横に立ち、窓の外に目を向けた。 外は異様なほど静かだ。 日中だというのに石畳の広場には誰もいない。私たちのように街の人たちも不穏な空気を感じ取っているのだろうか。外出するのを避けているのかもしれない。 風が通るはずの道筋が、何か目に見えぬものに押し返されているかのように、風の流れが滞っている。 この空気の淀み── それは舞手としてのアリシアにとって、身体の動きに風が応えてくれない拒絶感に似ていた。 風の通り道に見えない壁でもあるのだろうか。「風を読むか……」 アリシアが逡巡していた時、ふと記憶がよみがえった。「そう言えば……」 道具屋の主人との会話を思い出す── 自分の特性に適した鉱石を探していたとき、アリシアは何度も店の主人に質問を投げかけた。「私に合いそうな鉱石って、ありますか?」 主人は少し首を傾げてから、アリシアの顔を見つめた。「合いそうな鉱石?」 主人がアリシアに目を向けて問いかける。「はい、こういった物を使うのは初めてなんです。何を買って良いのか分からなくて……」 アリシアは少し肩をすぼめながら答えた。 主人は頷き、棚の奥を見ながら言った。「こういうのは自分の性格に合うものや、特性に合ったものを選ぶのが一番だよ」 主人が動きを止め、そしてアリシアに目を向けた。 アリシアは、どうしたのかと思い、主人を見つめる。「君は確か……、舞踏会に出ている人ではないか? 動きが滑らかで、風を巻くような……。あの人気の舞手……だったら、これなんかどうだい?」 そう言って、主人は棚の奥から小さな鉱石を取り出し、アリシアの掌の上に置いた。青灰色の結晶が柔らかく震えている。 振動というより、呼吸をしているような、それ自体に生命を帯びていると思わせるものだった。 たった今、目を覚まし、世界の気配に耳を澄ませているかのように、水晶は微細な揺らぎを繰り返している。 アリシアは思わず息を止めた。 この結晶の震え── 指先に染み込むように伝わってくる。それは皮膚
「それじゃ、私は?」 アリシアの問いに、ヴィクターは少しだけ間を置いてから答えた。「風を読んでくれないか。毒が空気に乗るなら、どこへ向かってるかを探る必要がある。風脈が乱れている場所を見つけて、流れを遮る方法を考えてほしい」「風の流れ……」 アリシアがヴィクターの横に立ち、窓の外に目を向けた。 外は異様なほど静かだ。 日中だというのに石畳の広場には誰もいない。私たちのように街の人たちも不穏な空気を感じ取っているのだろうか。外出するのを避けているのかもしれない。 風が通るはずの道筋が、何か目に見えぬものに押し返されているかのように、風の流れが滞っている。 この空気の淀み── それは舞手としてのアリシアにとって、身体の動きに風が応えてくれない拒絶感に似ていた。 風の通り道に見えない壁でもあるのだろうか。「風を読むか……」 アリシアが逡巡していた時、ふと記憶がよみがえった。「そう言えば……」 道具屋の主人との会話を思い出す── 自分の特性に適した鉱石を探していたとき、アリシアは何度も店の主人に質問を投げかけた。「私に合いそうな鉱石って、ありますか?」 主人は少し首を傾げてから、アリシアの顔を見つめた。「合いそうな鉱石?」 主人がアリシアに目を向けて問いかける。「はい、こういった物を使うのは初めてなんです。何を買って良いのか分からなくて……」 アリシアは少し肩をすぼめながら答えた。 主人は頷き、棚の奥を見ながら言った。「こういうのは自分の性格に合うものや、特性に合ったものを選ぶのが一番だよ」 主人が動きを止め、そしてアリシアに目を向けた。 アリシアは、どうしたのかと思い、主人を見つめる。「君は確か……、舞踏会に出ている人ではないか? 動きが滑らかで、風を巻くような……。あの人気の舞手……だったら、これなんかどうだい?」 そう言って、主人は棚の奥から小さな鉱石を取り出し、アリシアの掌の上に置いた。 青灰色の結晶が柔らかく震えている。 振動というより、呼吸をしているような、それ自体に生命を帯びていると思わせるものだった。 たった今、目を覚まし、世界の気配に耳を澄ませているかのように、水晶は微細な揺らぎを繰り返している。 アリシアは思わず息を止めた。 この結晶の震え── 指先に染み込むように伝わってくる。それは皮膚
「そんなに悪いことが起こってるの?」 セラが薬草を握る手を止め、心配そうにヴィクターの背中を見つめた。 セラの声は小さく、震えている。「ああ、状況は良くはない」 ヴィクターが窓の外から視線を外し、ゆっくりと振り返った。自然の息吹を感じ取るヴィクターの目は、鋭くもどこか不安に揺れていた。「それって……今、動かなきゃいけないってことよね」 アリシアの声が礼拝堂の重い空気を切り裂いた。「そうだな。何かが起きてからじゃ、遅いかもしれないからな」「それなら、さっそくやりましょう」 アリシアは地図を畳んで、胸の奥に湧いた焦りを振り払うように立ち上がった。 沈黙に飲み込まれる前に行動を取る──それがアリシアのやり方だ。「ヴィクター、指示を出して。私たちに何ができる?」 アリシアの声が仲間を鼓舞するように力強く響く。 自然の知識ではヴィクターが誰よりも頼りになる。彼なら、この異様な現象に立ち向かう術を知っているはずだ。 ヴィクターが率先して動く人間ではないことは分かっている。いつも誰かの影に隠れて、必要とされるまで口を開かない。 木のように黙ってそこに在り続ける。ヴィクターとは、そういう人間だ。だけど、この状況では、そうも言っていられない。 自然が沈黙している今、誰かがその声を代弁しなければ。それができるのは、木の呼吸を知るヴィクターしかいないのだ。 アリシアはヴィクターの背中を見つめながら、息を整えた。 ヴィクターは何かを見極めるまで決して焦らない。それは急ぎすぎれば見落とすものがあることを知っているからだ。その慎重さは時に苛立たしくもあるが、ヴィクターの言葉にはいつも、根を張ったような確かさがあるのも事実だ。 仮に上手く出来なくても構わない。周りにいる誰かが補えば良い。ただそれだけのことだ。「そうだな……。確かセラは《エアリス鉱》を購入してたな」《エアリス鉱》(別名・風脈鉱)──薬草の香気と組み合わせることで、空気の層に潜む異常を可視化できる鉱石。 植物が空気中に良からぬものを散布するなら、これ以上のものはない。「これだっけ? たしか、この薬草と合わせれば作れるって言ってた」 セラはすぐに動き出した。 セラは道具袋から小瓶を取り出すと、それらを礼拝堂の石台に並べた。そして手際よく薬草を刻み、エアリス鉱の粉末と混ぜ合わせる。 香