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第572話
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結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第583話
ギアがまるで巨大なサメのように血まみれの口を開けて、彼らに襲いかかろうとした、その瞬間だった。俊介が突然佳奈を抱きしめた。その声はかすれていて、抑えきれない感情が滲んでいた。「佳奈」そう小さく呼びかけたあと、彼は力の限り佳奈を抱きしめた。まるで彼女を体の中に取り込んでしまいたいかのように、強く、強く。同時に、彼のもう一方の手が、う○こ色のボタンを押した。その場にいた全員が、目を見開いて固まった。ギアの回転する方向を、一瞬たりとも目を離さずに見つめる。この一押しを間違えれば、ギアは止まらないどころか、部屋に仕掛けられた他の罠が一斉に作動して、彼らに襲いかかってくる。二重の危機、助かる見込みはない。――まさに一触即発の状況だった。ゴロゴロと響いていたギアの音が、徐々に小さくなり……やがて完全に止まった。ギアは、彼らの目の前、わずか一メートル足らずの位置で、ピタリと静止した。佳奈は恐怖に目を見開き、震える声で俊介を見上げた。「俊介……助かったの？」俊介は微笑みながら、彼女の頭を優しく撫でた。「言っただろ。お前が俺の彼女になるまでは、絶対に死なせないって」佳奈はその言葉に、ふと二年前の智哉との日々を思い出した。あの人も、いつもこうして彼女を安心させてくれた。なのにどうして、俊介と智哉を、いつも重ねてしまうのだろう。そのときだった。斗真が駆け寄ってきて、部屋全体を見回してから叫んだ。「早くここを出よう。あの女、まだ他のボタンを持ってるかもしれない。俺がこの爺さんを背負う！」そう言って、瀬名お爺さんの元へ駆け寄り、背負おうと腰を屈めた。だが、老人は彼を力強く突き飛ばした。そして、自分の尻を指差して言った。「ワシがここを離れたら、この部屋は一瞬で爆発する。全員、ここで死ぬぞ。ワシのことはいいから、お前らは早く行け！」斗真がよく見ると、老人の下には圧力式の爆弾が設置されていた。少しでも圧力が抜ければ、即座に爆発する仕組みだ。斗真は怒りに満ちた声で叫んだ。「クソ女め……罠が次から次へと……俺たちを絶対に生かして帰す気がねぇ！」そのときだった。あの女の声が、再び部屋に響いた。「正解よ。私は全員ここで死なせるつもり。佳奈、あなたはあの爺さんの正体も、うちのお
結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第582話
この老人は他でもない、智哉の外祖父、瀬名お爺さんだった。だが、瀬名お爺さんは浩之に囚われてM国にいるはずじゃなかったか？ しかも、毒を盛られて昏睡状態のはずだ。 それなのに、目の前の老人は悠々と棋盤の前に座り、のんびりと将棋を指していた。 佳奈は深く考える暇もなく、隣のスイッチを押して扉を開け、そのまま部屋の中へと駆け込んだ。 だが、彼らが入った直後、ガラスの扉は自動で閉じられた。 そして部屋全体がゆっくりと下降し始めた。 その下降先は……まさにあの巨大な歯車が回転している場所だった。 佳奈は一瞬で顔色を変え、俊介の方を慌てて見た。 「これ……罠だったみたい」 俊介は部屋の中にある中枢操作台を見つめながら言った。 「慌てるな。これはセンターコンソールだ。歯車を止めるボタンさえ見つければ、助かる可能性はある」 そう言って、彼は操作台をじっくりと調べ始めた。 その時、部屋にまた少女の笑い声が響いた。 「佳奈、このセンターコンソールには九九八十一個のボタンがあるの。どれも一つ一つがトラップよ。 一つでも間違えたら、あなたたちはもちろん、そのお爺さんもまとめて即死。 信じられないなら、試してみたら？」 佳奈は操作台に並ぶ複雑なボタン群を見つめ、額に冷や汗を浮かべた。 色も形も違う大量のボタン……その中から正解の一つを見つけるなんて、天に昇るより難しい。 彼らが直面しているのは、歯車に潰されるか、トラップで吹き飛ばされるかの二択。 どうやっても生きて帰れる気がしない。 佳奈の声が震えた。 「田森坊ちゃん、ごめんなさい。私のせいで……」 だが、俊介の顔には彼女のような焦りはなかった。 代わりに、静かに微笑んだ。 「藤崎弁護士と一緒に死ねるなら、俺も悪くない人生だよ」 「でも……私はまだ死にたくない。帰りを待ってる人が大勢いるの」 父も、智哉も、佑くんも。 もし自分がここで死んだら、あの人たちはきっと悲しむ。 特に、佑くんの顔が浮かび、もう二度と会えないと思うと胸が引き裂かれそうになった。 あの痛みは、かつて赤ちゃんを失ったときのあの感情とそっくりだった。 どうして自分は、こんなにもあの子に執着して
結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第581話
佳奈の脳裏には、その少女の顔が焼き付くように刻まれていた。何度も思い返しながら、ついにある名前が脳内に浮かび上がる。ぱっと目を見開いた佳奈の口から出たのは、ひとりの人物の名だった。――玲子。あの少女の目元も鼻筋も、玲子によく似ている。まさか……何か関係があるのだろうか？佳奈は地面から立ち上がろうと必死にもがいたが、手足を縛られていて身動きが取れない。小さな声で呼びかけた。「斗真くん、田森坊ちゃん……」返事はない。ただ、自分の声だけが虚しく響いた。もう一度、声を張って呼んだその時、少し離れた場所から低くかすれた声が聞こえた。「佳奈、俺はここにいる」その男の声には、切迫した焦りと心配がにじんでいた。だが、その声を聞いた佳奈の脳裏には、またしても智哉の面影がちらついた。「田森坊ちゃん、斗真くんは……？」佳奈が尋ねると、俊介が隣に倒れている斗真くんを足で軽く蹴りながら言った。「ここにいるよ。こいつはちょっと薬が効きすぎたみたいだ。心配すんな、すぐそっちに行く」そう言って俊介は地面に這いつくばりながら、佳奈の元へと慎重に移動した。佳奈の顔が真っ青になっているのを見て、俊介は心を痛めながら尋ねた。「大丈夫か？」佳奈は首を横に振った。「大丈夫……ここ、たぶん地下室よ。あの子、玲子と何か関係があるはず。顔がすごく似てるの」「俺もそう思ってた。まずは縄を解こう」俊介はそう言うと、口で器用に佳奈の縄を解き始めた。やがて三人とも縄から解放され、俊介は地下室の構造を見上げながら警戒するように言った。「ここ、ただの地下室じゃないな。何か仕掛けがある。下手に動かない方がいい」三人は慎重に、音を立てないようにしながら出口の方へと進んだ。一歩進むたびに、心臓が跳ねるような緊張感が走る。もう少しで扉に手が届きそうなそのとき――地下室に響き渡る、不気味で冷たい笑い声。「ふふふ……佳奈、ここから出られると思った？来世に期待しなさい」佳奈は顔を上げ、声の主を探して問いかける。「あなた、玲子とどういう関係？」その問いに、少女は冷笑を浮かべながら答えた。「彼女は私の母よ。もしあなたと智哉がいなければ、あんな最後にはならなかった」「今日ここで、あなたは死ぬ。私は母の仇を取る」
結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第580話
人影が手にしていたのは、かすかに光る懐中電灯だった。まるで何かを探しているように、あたりを照らしている。「花ちゃん、花ちゃん、どこにいるの？」と、繰り返し叫ぶ声が闇夜に響いていた。すると突然、草むらから小さな何かが飛び出し、佳奈の太ももをかすめて駆け抜けていった。「きゃあっ！」と悲鳴を上げた佳奈は、恐怖のあまり俊介の胸に飛び込んだ。俊介はすぐに反応し、佳奈を背後にかばいながら、落ち着いた声で言った。「大丈夫だ……猫だよ、小さな猫だ」佳奈はようやく目を開け、前方の人影がしゃがみ込んで猫を抱き上げるのを見届けた。その人影は彼らに気づいたようで、懐中電灯を向けて照らしながら尋ねた。「あなたたち、篠原先生を探してるの？」その言葉を聞いた斗真はすぐに駆け寄った。「すみません、篠原先生のお宅はどこでしょうか？」距離が縮まると、斗真はその人影が二十代前半と思しき女の子であることに気づいた。粗末な布の服をまとい、髪は乱れて肩に垂れていたが、素朴で純粋な雰囲気を漂わせていた。彼女は手を挙げて、少し先を指差した。「すぐそこの家ですよ。案内しますね」その言葉を聞いた佳奈は、どこか警戒した様子で俊介の服を引っ張り、小声で囁いた。「こんな夜中に、なんで彼女が外にいるの？……ちょっと怪しくない？」俊介は笑いながら佳奈の頭を軽く撫でた。「分かった。俺と一緒に行こう」数人が彼女の後ろについて進むと、大きな庭のある家にたどり着いた。庭は広いにもかかわらず、野菜などは植えられておらず、代わりに大量の薬草が置かれていた。佳奈は周囲をじっと見つめながら、どこか違和感を覚えていた。特にその女の子が自分を見つめる視線に、妙な既視感を感じていた。部屋の中に入ると、女の子が扉を軽くノックして、静かに呼びかけた。「篠原先生、患者さんが来ましたよ」何度も呼んだが、中からは返事がない。彼女は扉を開けて中に入り、きちんと整えられた寝具を確認したあと、後ろの棚を一瞥して言った。「今、往診に出てるみたい。薬箱もないし……ここで少し待っててください」彼女が出て行こうとした時、斗真がすぐに尋ねた。「どのくらいで戻りますか？」「うーん、それは分からないけど……出産とかだったら、何時間もかかるかもしれません」「
結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第579話
どうして佑くんは初めて俊介に会った時から、あんなに懐いているの？佳奈はベッドのそばまで歩いていき、落ち着いた声で呼びかけた。「佑くん」彼女が戻ってきたのを見て、佑くんはすぐに俊介の膝から降りて彼女の元へ駆け寄り、彼女の足にしがみつきながら言った。「おばちゃん、会いたかったよ。おばちゃんは佑くんのこと、恋しかった？」佳奈は腰をかがめて彼を抱き上げ、おでこをこつんと合わせて答えた。「もちろん恋しかったよ。でも、どうして一人で来たの？」「ママがお兄ちゃん連れて検査に行ったの。佑くん、待ちきれなくて自分で来ちゃった。でもちゃんと看護師のお姉さんに連れてきてもらったから、おばちゃん心配しなくていいよ！」その言葉に、佳奈はようやく安心した。彼の小さな鼻をつまんで、笑いながら言った。「おばちゃん、これからおじいちゃんにお医者さんを迎えに行かなきゃいけないの。数日間、会えないかもしれないけど……あんまり寂しがらないでね」すると、佑くんはしっかりとうなずいた。「じゃあ、おばちゃん、早く行って早く帰ってきてね。佑くん、おばちゃんと一緒にお誕生日お祝いしたいんだもん！」その言葉を聞いた瞬間、佳奈の表情に苦しげな色が浮かんだ。気づけば、もう二年が経っていた。彼女の赤ちゃんが彼女のもとを去って、もう丸二年。あと三日でその子の誕生日……いや、命日でもあった。そのことを思い出すと、佳奈の目に自然と涙が滲んだ。それを見た佑くんは、小さな手でそっと彼女の頬を包み込み、優しく聞いた。「おばちゃん、お兄ちゃんのこと考えてるの？」佳奈はかすれた声でうなずいた。「うん……お兄ちゃん、佑くんと同じ誕生日だったの」「じゃあさ、お誕生日の時に、お兄ちゃんの分のケーキも切っておいてあげよう？いい？」「うん……ありがとう」佳奈は佑くんをぎゅっと抱きしめ、何度も何度もその頭を撫でた。彼女はこれまで何度、赤ちゃんへの想いを佑くんに重ねてきただろう。夢の中で赤ちゃんが成長した姿を見る時も、そこには佑くんの顔があった。この二年間、佑くんは彼女の喪失感の大半を埋めてくれていた。もし佑くんがいなかったら、きっと彼女は壊れていた。三人は簡単に荷物をまとめて、車に乗り込み出発した。桃花村はかなり偏僻な山村で、交通も不便
結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて 第578話
俊介は抵抗せず、低く笑みを漏らした。「俺にそんな口きいた前の奴が、今どこにいるか知ってるか？」斗真はその脅しに一切怯むことなく、冷ややかな目で俊介の顔を睨みつけ、再び問いかけた。「どうして千尋のことを知ってる？佳奈姉に近づいた目的は何なんだ？」俊介はまた軽く笑った。「あの人の母親が神医だって調べがついたからな。今日はその話を佳奈に伝えに来たんだ。まさか先にお前に出し抜かれるとは思わなかったけどな」「じゃあ言ってみろ。その小さな山村の名前と場所を」「ここから400キロ離れたR市にある桃花村ってとこだ。神医の名前は聡美……合ってるよな？」斗真はその言葉を聞いて、俊介の顔を疑わしげに見つめた。あまりにも出来すぎた話だった。 二年間探しても見つからなかった人間を、この俊介って男は来て一週間も経たずに突き止めた。 もしそれが本当なら、こいつの背後には相当な力があるに違いない。斗真はゆっくりと手を離したが、警戒心は解かなかった。「佳奈姉に変な気を起こすなよ。そうしたら、絶対に許さないからな」俊介は低く笑った。「へえ？お前のそのヘッポコな腕で俺に勝てるとでも？やれるもんならやってみなよ」やさしげな笑顔のまま、口から出る言葉は容赦なく鋭かった。二人が冷たい視線をぶつけ合っていると、突然、佑くんがドアを開けて入ってきた。彼の黒くて大きな瞳が部屋の中を一通り見渡し、佳奈の姿が見当たらないとわかると、がっかりしたように斗真を見上げた。「おじさん、うちのおばちゃん見なかった？」斗真は腰をかがめ、彼のぷにぷにした頬をつまんで、さっきまでの鋭い声が少し和らいだ。「お医者さんのところに行ったよ。すぐ戻ってくる。君は誰と来たんだ？」「ママと来たよ。ママはお兄ちゃんと検査に行ったから、僕一人で来たの」そう言って、彼は小さな足でちょこちょこと清司のベッドのほうへ走って行った。椅子を使ってベッドに上ろうとしたそのとき、俊介の顔が目に入った。佑くんは目をまんまるにして、じーっと彼を見つめた。「あなたはイケメンおじさん？」それは彼が初めて智哉に対して使った呼び名だった。その言葉を聞いて、俊介は思わず笑い、やさしく答えた。「俺、そんなにカッコいいか？そう呼んでもいいぞ」佑くんは俊介の周りを
