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第847話

Author: 藤原 白乃介
電話を切った知里は、咲良の母の傍にやって来た。

彼女はしゃがみ込みながら尋ねた。

「おばさん、あのクズ、誰かに助けられて逃げたんです。普段、誰と一番つるんでるか、心当たりありませんか?」

咲良の母は涙を流しながら答えた。

「アイツは悪い仲間がたくさんいてね……ケンカや賭け事ばっかりしてる連中よ。私はほとんど会ったことがないの。家に連れて来たときも、咲良を連れて外に出てた。子供に何かあったら怖いから……」

「もう一度思い出してみてください。誰か一人でもわかれば、そこから手がかりが掴めます」

咲良の母は地面にしゃがみ、しばらくの間黙り込んでいたが、やがて口を開いた。

「……伊藤正男(いとう まさお)って名前の人がいた。修理工場で働いてるって聞いたことがある。何度か見たことある」

「わかりました。おばさん、ご安心ください。必ずあのクズを捕まえますから」

咲良は病室に運ばれたが、まだ意識は戻っていなかった。

咲良の母は娘の手を握りしめながら、泣き続けていた。

その様子を見て、知里の目にも涙が滲む。

誠健がそっと彼女の背中を叩き、低い声で言った。

「君は一度家に帰って休め。こっちは俺が見てる。心臓のことも、なるべく早く手配する」

知里は目を上げて彼を見つめた。

「もし、適合する心臓が見つからなかったら……咲良は助からないの?」

誠健の目が一瞬沈んだ。

「ちゃんと静かに療養できれば、数ヶ月は持つ。ただ、今回の件はショックが大きすぎる。手術が間に合わなければ、1ヶ月もたないかもしれない……」

その言葉を聞いて、知里は胸が締めつけられるような思いに駆られた。

彼女の瞳には、透明な涙が光っていた。

「誠健……私、咲良に特別な感情がある気がするの。小さい頃、どこかで会ったことがあるような……そんな気がしてならないの」

誠健は目を伏せたまま、ぽつりと答えた。

「結衣に似てるからかもな。子供の頃、君は結衣に会ったことがある。あの子、君に抱っこされるのが好きだったよ」

「でも、結衣に会ってもそんな気持ちにならないのは、どうして?」

「……アイツに裏切られすぎて、昔の綺麗な記憶なんて、全部消えちまったからだ」

彼の言葉を聞いて、知里はそれ以上何も言わなかった。

そのとき、病室のドアの外から声が響いた。

「お兄ちゃん、知里姉、咲良の様子を見に
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