Accueil / ファンタジー / 蛇と桜と朱華色の恋 / 肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 5 +

Share

肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 5 +

last update Dernière mise à jour: 2025-05-13 19:16:49

「大樹さまはどちらに!」

 少女は必至な形相の里桜を楽しそうに一瞥し、つまらなそうに応える。

「あやつはもはや代理神になることは叶わぬぞ」

「……あたくしが、逆さ斎のちからを奪われてしまったからでしょうか」

 完全に術がかけられたわけではなさそうだが、里桜は自分の烏羽色の髪を忌々しげに指で掬って至高神に確認する。

「いや。里桜のそれは大した問題ではない。逆さ斎でなくなれば紅雲の娘に戻るだけ、竜頭が意識を覚醒したいまなら妾からすればどっちでもよい。問題は大樹じゃ。すべてのはじまりはあやつが、『天』の加護を手放したから……ま、そのおかげで妾は眠りつづけておった莫迦息子に再会できるわけだがの」

「え」

 ――大樹さまが至高神に与えられた『天』の加護を自ら手放した?

 だが、至高神はさらりと話題を変えてしまう。終わってしまったことを今更口にするのも莫迦らしいと言いたげに。

「そうそう。雲桜の裏緋寒と呼ばれる朱華(あけはな)という女子(おなご)……里桜、おぬしとも因縁があるのだったな」

 しかも裏緋寒の番人に愛され、記憶を操られているという。おまけにその月の影のなりそこないの逆さ斎は彼女を自分だけのものにするために自ら幽鬼となったとか……

「さすがに騒がしくて竜頭も目が覚めるだろうよ。だがの、あやつがそう簡単に花嫁を娶るかねぇ……雲桜を滅びへ導いた娘を、好き好んで、のぉ?」

 他人事のように、いや、他人事だからか、少女の瞳は愉快そうにきらきらと輝いている。その色は、蒼穹を彷彿させる、真っ青な、空の天色(あまいろ)。

「里桜よ」

 ふたたび、名を縛りつけられ、里桜は至高神が降臨している少女の前に、跪かされる。けして死ぬことのない最強の、最凶の神は、代理神という役割を担っていた半神の逆さ斎に、取引をもちかける。

「裏緋寒のためにと遺した花王の、強大な加護のちからを、おぬしは欲しいと思わないかえ?」

 雲桜の花神、茜桜が自分の神嫁にしようと産まれた頃から莫大な加護を注ぎ込んだのが、カイムの
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 10 +

     定められた寿命を捻じ曲げ、生命の終わったものを甦らせる。  それは、神であろうが許されない、不変の理。 雲桜が滅んだとき、無意識に朱華が施したのも、甦生(よみがえり)の禁術だったとされる。  朱華の場合、代償として茜桜とその御遣いがちからを奪われ、その隙に、幽鬼が侵入したことで、結果的に土地神とその御遣いは生命を落とした。  至高神は一連の出来事を傍観し、禁じられた術を使いながらも土地神に愛されたがゆえに生きのびた少女を、裏緋寒の乙女に定め、月の影のなりそこないの逆さ斎を番人として竜糸の地で暮らさせた。眠りつづける竜神の花嫁にするためだとばかり思っていたが……  もしかしたら、自分はひとつ思い違いをしていたのかもしれない。  ――いったい、彼女は”誰”を生き返らせたの?  きっとそれは、竜糸に因縁を持つ誰かに違いない。けれど、雲桜が滅んだとき、竜神は湖底で眠りつづけていた。それに、結果的には茜桜も彼女に折れたかたちで、甦生の禁術に協力している。幽鬼に侵略される危険性を知りながら、朱華が生き返らせることを花神は認めた。 生きつづけることを土地神に認められた人物。それは、カイムの集落を自由に行き来することのできる特別なちからを持つ者に限られる。たとえば、桜月夜のような…… 至高神なら、その人物を知っているに違いない。だから、彼女を竜糸の裏緋寒に選んで、その人物と再会させたのではなかろうか。そして、観察している。  至高神は見守ってなどいない、ただ、見ているだけ。  運命の悪戯に翻弄されつづける人間たちを?  ――いいえ、翻弄されているのは、幽鬼も神も、同じこと。  あたまに浮かんだ思考を退け、里桜は目の前で泣きじゃくる氷辻の手を握りながら、諭すように言葉を紡ぐ。 「甦生術は、莫大な代償が必要になる禁じられた秘術。神々でさえ大半のちからを失うというのに、大樹さまは、貴女を救うためにひとり、犠牲になることを選ばれたのね」  大樹の場合、自分自身を代償に、禁術を施したのだろう。

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 9 +

      * * * 「申し訳ございません!」 逆さ斎の姿を取り戻した里桜の前で、侍女見習いの少女が土気色の表情で平伏している。「なぜ、貴女が謝る必要があるの?」 目の前で震えている少女は自分が至高神の依代として乗り移られたことに気づいたのだろう、里桜を前にいまにも泣きだしそうになっている。だが、至高神は里桜にかけられた呪詛を破ってくれたのだ。たとえ気まぐれとはいえ、彼女に憑いたから、里桜は窮地を脱することができたのだ。至高神の使役する黄金の羊と同じ名を持つ、少女……氷辻(ひつじ)に。  だというのに、氷辻は自分が悪いのだと言いたげに、里桜の前で頭をさげている。「わたしが悪いのです、わたしが、大樹さまの気持ちを、受け取ってしまったから」 わたしはもう、この世に留まっていてはいけないというのに。  そう訴える幼い少女に、里桜は目をまるくする。「――大樹さまが?」  至高神はなんと言った? たしか、大樹は恋に狂って『天』の加護を放棄したと…… 「貴女が」 目の前にいる縹色の髪と濃藍色の瞳の少女から、強力な加護のちからは見いだせない。だが、至高神が使役する黄金の羊のように、その身を依代として天神に貸し与えることができることを考えると、彼女はその身に微弱ながらも『天』の加護を受けていることに違いはない。その加護をもともと持っていなかったと考えれば、行きつく先は…… 「大樹さまが、貴女に『天』の加護を与えたのね。自身を犠牲にしてまで」  そのとおりだと、氷辻は強く頷く。  そして、そのせいで大樹は姿を保つことができなくなったのだ、と。 「――逆さ斎が命ずる。至高神の加護を受けし半神よ、かの声に応えよ」  氷辻の濃藍色の瞳から一筋、流れた涙を無視して、里桜は手にそっと触れる。  大樹のちからは、死んではいない。  だから、神殿は彼が生きていると思い込んでいた。  けれどそれは違った。  生きて

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 8 +

       * * * 「そなたが此度の我が裏緋寒となる者か」  誰何を問う朱華の声に反応するように、夜澄の瞳の色が黄金色へ煌めく。  飴色の湯船に浮かぶ桜の花びらが、重力に逆行するように雫とともに天空へと浮かび上がってゆく。「お初にお目にかかります、竜頭さま」 朱華は興味深そうに視線を注ぐ竜頭に、ぺこりを頭をさげる。 「まだ子どもではないか」  竜頭は湯帷子ごしにのぞく朱華の身体の線をじろりと見つめ、残念そうに溜め息をつく。「……あの?」 「わしはもっと豊満な肉体を持つ女性がすきじゃ。いくら神術に優れていようが、これではわしの子を孕むのは無理じゃろう」 失礼なことをぽんぽんと呟きながら竜頭は朱華の反応を眺める。一気に顔が赤く染まるのを楽しそうに見つめたのち、竜頭はゆっくりと朱華の前へ近づいていく。「な」 「あと数年もすれば誰もが羨む美貌の持ち主になるかの? 凛とした風情の|里桜《りお》とはまた異なる、雅な美人になりそうだな」 にこにこと笑みを浮かべるさまは、この身体の主が夜澄でないことを暗に示している。「だが、わしの好みではない」 「そう言いながらじりじり近寄ってくるのはどうしてですかっ!」 手を伸ばせば触れられる距離に、竜頭は立っている。このまま抱き寄せられたり押し倒されたりしたら朱華は抵抗できない。湖のなかで本体が眠っているというのに精神体だけ夜澄に乗り移った状態で、竜頭はいったい何をしようとしているのか。「決まっておる。そなたの記憶を元に戻す」 「……記憶のことも、知って」 「そりゃああやつの体内を借りておるからのう。これの思考が手に取るようにわかるわい」 ふぉっふぉっふぉという夜澄では絶対に言わない笑い声をあげて、竜頭は朱華の手を取る。てのひらに触れられた途端、朱華のなかで、ぞわり、と何かが蠢く。 『――やめろ』  それと同時に朱華の耳元に別の声が響く。

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 7 +

      * * *  パァン、という耳を劈くような破裂音が身体の内部から生じた。  未晩が猛烈な吐き気から口を開くと、ごぽり、と湧き出た泉のように血の塊が外へと流れ落ちていく。真っ赤な血は衣を染めた後、吸い取り切れなかった液体がポタポタと床に垂れ流された。その姿を見て、同朋はからからと嗤う。 「呪詛が、破られたっ……!」  里桜から逆さ斎のちからを奪おうと未晩が施した呪詛が、どうやら返されてしまったようだ。口から血を流しつづける未晩を見つめていた男は、つまらなそうに呟く。 「――代理神の半神である表緋寒を痛めつけようとした天罰だよ」  月の影のなりそこないの逆さ斎と、逆井一族に認められた表緋寒では神々からの信頼の差も歴然としている。未晩が裡に飼っていた闇鬼のちからを取り込み幽鬼となったことを、傍観者である至高神が見逃すわけがない。たとえ至高神が未晩を裏緋寒の番人に選んだとしても、優先順位を考えれば表緋寒の、竜糸の土地神に代わる存在に選ばれた少女のちからがそのまま土地へ還ってしまうのを退けるために動くのは仕方のないことである。 男の説明を耳に入れる余裕もないのだろう、未晩は血の塊を吐き出しながら顔を真っ青にしている。常人ならば放っておけば出血多量で死に至るだろうが幽鬼と契約を交わした彼のことだ、呪詛を返されただけならば簡単に死ぬこともなかろう。せいぜいしばらくのあいだ使い物にならない程度だ。 「とはいえ、ここで未晩が使えないとなると、都合が悪いんだよなぁ」  彼の目的はあくまで裏緋寒の乙女を自分の手元へ取り戻すこと。そのためなら神々を滅ぼすことも厭わないと幽鬼である自分と契約を交わし、自らも幽鬼となった。もともと人を襲う鬼をその身に封じ、心の裡に闇鬼を飼い慣らしていた未晩は幽鬼と融合する際に拒否反応を起こすこともなかったため、呪術の能力と身体機能が上昇したくらいにしか思っていなかったのだろう。その分、自分が放った呪詛を返されれば、その身に食らう術式の量が増えるのも仕方のないことである。「……だけど、彼女を求める気持ちは

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 6 +

     だというのに、至高神はいま、なんと言った? 「――そんな、ことが」 「裏緋寒の番人がそなたに施した忌術は完全なものになりつつある。一晩でこうも逆さ斎の色が抜けるとは妾も思わなかったがのう……いまのそなたは神皇帝に選ばれた代理神の半神でも逆井一族に連なる逆さ斎でもない、神と対話をすることすら憚られるただの紅雲の娘じゃ。それは逆に、『雲』のちからを発揮するにはもってこいな状況になる。どうかの? いっそのこと、表緋寒から裏緋寒に、そなたが成り代わり、莫迦息子の嫁になっては」 朱華に返すはずの花神のちからを、至高神は里桜に渡せるのだと暗に告げる。神々の誓約を、自ら破棄しても構わぬと豪語する。どこまでも気ままで、傲慢で、自分勝手な、この世界に遊ぶ、哀れな女神。  もし、ここで里桜が頷いたら、朱華はどうなるのだろう。竜頭の花嫁として神殿に迎えられたはずの彼女が、手にするはずのちからを、里桜が、奪い取って、裏緋寒の資格を手に入れたら…… 地に従う逆さ斎となった里桜には許されざる願望だった、土地神の花嫁。その願いを、至高神は叶える手段を持っている。だが。 「……何が目的なのです?」  腑に落ちない。取引を持ちかけている彼女の方に、何の得があるのだろう。「目的とな? そんなもの存在せぬ。ただ、その方が面白そうだと思ったからじゃ」 「――お断りします」 その言葉が、決め手になった。この神は、竜糸の将来がどうなっても別に構わないのだ。竜頭が死んだらそれまでのことと見切りをつけて、また別の集落に悪戯を仕向ける。  神々と幽鬼の戦いに人間を巻きこみながら、高みで見物することしか許されない、唯一の、孤高の神。かの国を興した始祖神の姐神(あねがみ)であろうが、竜頭の代理神として竜糸の集落を守護してきた里桜からすれば、強いちからを持ちながらひとびとのために尽くせない至高神など、必要ない。 それに、里桜は幽鬼を滅することのできる逆さ斎のちからを、雲桜が滅亡したことを端に自ら手に入れたのだ。そのちからを失った状態で、雲桜の、死んだ土地神が別の少女のために遺したちからを自分

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 5 +

    「大樹さまはどちらに!」 少女は必至な形相の里桜を楽しそうに一瞥し、つまらなそうに応える。「あやつはもはや代理神になることは叶わぬぞ」 「……あたくしが、逆さ斎のちからを奪われてしまったからでしょうか」 完全に術がかけられたわけではなさそうだが、里桜は自分の烏羽色の髪を忌々しげに指で掬って至高神に確認する。「いや。里桜のそれは大した問題ではない。逆さ斎でなくなれば紅雲の娘に戻るだけ、竜頭が意識を覚醒したいまなら妾からすればどっちでもよい。問題は大樹じゃ。すべてのはじまりはあやつが、『天』の加護を手放したから……ま、そのおかげで妾は眠りつづけておった莫迦息子に再会できるわけだがの」 「え」  ――大樹さまが至高神に与えられた『天』の加護を自ら手放した?  だが、至高神はさらりと話題を変えてしまう。終わってしまったことを今更口にするのも莫迦らしいと言いたげに。「そうそう。雲桜の裏緋寒と呼ばれる朱華(あけはな)という女子(おなご)……里桜、おぬしとも因縁があるのだったな」 しかも裏緋寒の番人に愛され、記憶を操られているという。おまけにその月の影のなりそこないの逆さ斎は彼女を自分だけのものにするために自ら幽鬼となったとか……「さすがに騒がしくて竜頭も目が覚めるだろうよ。だがの、あやつがそう簡単に花嫁を娶るかねぇ……雲桜を滅びへ導いた娘を、好き好んで、のぉ?」 他人事のように、いや、他人事だからか、少女の瞳は愉快そうにきらきらと輝いている。その色は、蒼穹を彷彿させる、真っ青な、空の天色(あまいろ)。「里桜よ」 ふたたび、名を縛りつけられ、里桜は至高神が降臨している少女の前に、跪かされる。けして死ぬことのない最強の、最凶の神は、代理神という役割を担っていた半神の逆さ斎に、取引をもちかける。 「裏緋寒のためにと遺した花王の、強大な加護のちからを、おぬしは欲しいと思わないかえ?」  雲桜の花神、茜桜が自分の神嫁にしようと産まれた頃から莫大な加護を注ぎ込んだのが、カイムの

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 4 +

    「……なによ、これ」 里桜は水鏡にうつる自分の姿に唖然とする。  月の影のなりそこない、逆さ斎でありながら幽鬼と手を組んだ未晩に忌術を施されたのは昨日の夜。あれから騒がしいと夜澄の身体を依代にして竜頭が現れ、神殿内の邪気を払ってくれてはいたが、呪詛は里桜の身体に刻まれたままになっていた。「こんなに早いなんて……」 蒼白な表情で紫に近い唇を震わせ、里桜は両腕で己自身をきつく抱きしめる。  水鏡の向こうに映るのは幼いころの自分……烏羽色の髪と瞳の、『雲』の姿。  朝衣の上を波打っている黒々とした髪。それを見つめる同じ虹彩の双眸。  未晩は逆さ斎のちからを土地に還元すると言っていたが、だとしても早すぎる。 「――土地に仕える逆さ斎が命ず……っく!」  逆さ斎としてのちからは既に奪われてしまったのだろうか。里桜は土地のちからを呼び寄せ、手の甲に刻まれた呪詛を破ろうとしたが、言葉を唱えはじめた途端に生じた激痛に、声を失ってしまう。 「……詠唱できない?」  そんな莫迦な。  里桜は何度か試みたが、完全に唱えることは一度もできず、逆に喉を痛めてしまう。「表緋寒さま、お目覚めでしょうか?」 「――来ないで!」  侍女見習いの少女の声が扉を叩く音とともに耳に届く。咳き込んでいた里桜は入って来てはいけないと叫ぶが、三つ編み姿の少女は無慈悲にも堂々と扉を開けはなっていた。 「表緋寒さま。恐がらなくても大丈夫ですよ」  銀の髪が一晩で烏羽色へ変化した姿に気づいた少女は、怯えることもなく里桜へ近づき、俯いていた顔を強引に持ち上げる。頤に手をかけられ、口づけすらされそうな近くで視線を交わす。「……お前は」 里桜が侍女見習いの少女の名を口にし、抗うように術を放とうとするが、少女は「無駄ですよ」とくすくす微笑むだけで、怯えた里桜の瞳を満足そうにのぞきこむ。「幽鬼ではなさそうね」

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 3 +

    「もうあがるのか」 「だって、夜澄が入ってるなんて知らなかったもん」 「俺もそう思う」 「何よそれ」 ぷぅと頬を膨らますと、すまなそうに夜澄が弁解をはじめる。「さっきまで俺のなかに竜頭がいた。だから瞳の色が黄金色になっていたんだ」 「竜神さまが……?」 たしかに、朱華が滑って転んだときに発した彼の声は、彼のものではなかった気がする。「起きたの?」 「完全に覚醒したわけではなさそうだが、大樹さまが姿を消しているいま、依代になれるのは俺しかいないからな……不覚だった」 いつの間に覚醒し、自分の身体に入り込んだのだろう。夜澄は悔しそうにひとりごちる。  いったんは湯船から立ち上がった朱華だったが、夜澄が興味深いはなしをはじめたため、ふたたび湯船に腰を落とし、耳を傾ける。「よりしろ……土地神が乗り移る媒介ってこと?」 おとなしく自分の傍に腰を下ろした朱華に気づき困惑する夜澄を気にすることなく、彼女は質問を繰り返す。「じゃあ、夜澄はやっぱり、それだけのちからを持っているんだね」 土地神をその身に移すことができるのは、代理神のような特別な術者や、土地神の御遣いと呼ばれる精霊に限られている。眠りにつく以前の竜神を知っていると口にしていたことを思い出し、朱華は黙り込んでいる夜澄に確認するように、言葉を紡ぐ。「あたし、見たの。九重と逢ったとき。逢って、拒絶に近い反応をされたとき。夜澄……あなたが|雷土(いかづち)を起こしたのを」 桜の花びらが浮かぶ飴色の湯のなかで頬を淡く染める朱華が、糾弾する。 「ねえ。あなたは」  目の前にいる年齢不詳の青年が、わからなくなる。  竜糸の代理神に仕えるという桜月夜の守人。  けれど彼は、代理神よりも竜頭に重きをおき、彼の花嫁になるであろう朱華のことを第一に考えている。竜神が過去の幽鬼との戦いで傷つき、深い眠りにつく以前から、彼は竜神に仕えているのだ。百年以上もはるか、昔から。 朱華は彼を竜神さまの

  • 蛇と桜と朱華色の恋   肆 秘されし記憶に黄金の鍵 + 2 +

       * * *  ――なぜ、こんなことになっているのだろう? 夜澄は自分が抱きとめた少女を見て、硬直する。どうやら、竜頭が勝手に身体を使って湯に浸かっていたらしい。そこへ、身を清めるために彼女、朱華が入ってきた…… 「夜澄?」  朱華もまた、何が起こったのか理解できていない表情で、自分を見つめている。なぜそんなに無防備なんだ。侍女と一緒じゃないのか。こんなときに幽鬼がやってきたらどうするんだ。白い湯帷子が湯に濡れて透けているぞ。襲ってもいいのか。「お前……状況を考えろ」 「あ、やっぱり夜澄だ。さっきまで瞳の色が黄金色だったから違うひとかと思った」 朱華の言葉に、夜澄は怒りを萎ませる。黄金色の瞳、それは竜頭の瞳の色。やはりさっきまで自分の身体には竜頭が入っていたようだ。いつの間に身体に入ったのだろう。  だが、竜頭は朱華と会話をつづける気がなかったらしい。いきなり姿を消してすべてを夜澄に任せたのだ。たぶん、彼女が自分の神嫁になる少女だということにも気づいていないに違いない。「……それより夜澄、いい加減放してよ」 さすがに湯帷子一枚を素肌の上にまとっただけの姿で抱き合うのは、どうかと思う。  朱華がまともに意見したのに気づき、夜澄は慌てて朱華から手を放す。ふわり、花の甘い香りが周囲を包んでいく。朱華は夜澄からすこし離れたところで、ふぅと腰を下ろす。  夜澄は気が気でない表情で彼女を見つめる。湯帷子越しだから気を許しているのだろうが、彼女の淡い桜色の乳首がほんのり透けていて、前夜のことを思い出してしまったからだ。  小ぶりでありながら弾力のある乳房に敏感な乳首。野外の暗闇では確認できなかった彼女の色めいた姿を想い、これではいけないと首を横に振る。「すまない。ちょっと考えごとをしてた」 とろみのある飴色の湯に、桜の花びらが閉じ込められている。昨日の薔薇の香りも悪くはなかったが、今日の桜の芳香の方が、朱華には似合っていると、夜澄は心の中で呟く。「……顔、赤いけど。いつから入ってるの?」

Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status