水谷苑にはそれがはっきりとは聞こえなかった。実際のところ、彼女ははっきり聞きたくもなかった。今さら、二人の間に話すことなんてないはずだから。離婚前、彼はとことん自分を傷つけた。離婚後には買春までして......しかも自分に見つかった後、逆ギレしてここに乗り込んできたのだ。水谷苑は顔を背け、「手を離して!これ以上、あなたを軽蔑させないで」と言った。そうは言ったものの、彼女は簡単にはいかないだろうと思っていた。しかし、九条時也はゆっくりと手を離した。薄暗い光の中、彼は彼女の白く美しい顔を見つめ、思った。今の自分に、彼女と人生をともにする資格などあるのだろうか。破産寸前で、これほどまでにみすぼらしい自分に比べ......佐藤家から紹介される男なら、誰だって自分より百倍はましだ。彼はゆっくりと彼女の服を元に戻した。しかし、彼はその場を去らず、ベッドの端に座り、上着のポケットからしわくちゃのタバコを取り出し、震える手で火をつけた。深く吸い込むこともなく、うつむいたまま、細長い指の間でちらつく赤い光を見つめていた。一本のタバコが燃え尽きるまで。彼は彼女の方を向いた。淡い月の光が彼の横顔を照らし、堀の深い陰影を浮かび上がらせていた。彼は手を伸ばし、彼女に触れようとした。しかし、空中に伸ばした手は、なかなか下りてこなかった。結局、彼は去っていった。一言も残さずに――......長い間、彼はめったに姿を見せなかった。たまに高橋と連絡を取り、九条津帆に会ったりする時には、河野美緒を抱きしめることもあった。子供たちにお菓子を買ってはくれるものの、会うたびに佐藤家で少しの間だけ座って、30分以上いることはなかった。時々、水谷苑も彼と顔を合わせることはあった。だが、会っても、まるでよく知る他人同士のように、会釈するだけで「久しぶり」の一言さえ交わすことはなかった......これで終わったのだ。二人の関係は、本当にこれで終わってしまったのだ。徐々に、水谷苑にも九条時也の事業はうまくいっていない、むしろ落ちぶれていることが分かってきた。男にとって、外見は看板のようなものだ。彼の高価な服はすっかり姿を消し、真っ白なプリーツシャツや黒いベルベットの礼服を着ることはなくなった。着古したシャツに、紺色
しばらくして、九条時也はようやく声を取り戻した。「お見合いか?」水谷苑は否定しなかった。彼女は軽く頷き、「家の人から紹介されたの。ちょうど今、一緒に食事をしてきたところよ」と言った。そう言うと彼女はコートを受け取り、男に別れを告げた。男は九条時也の身分を察し、それ以上詮索するような野暮なことはしなかった。一歩下がり、水谷苑に軽く微笑みかけた。明らかに彼女に好意を抱いていて、交際を続けたいという意思表示だった。水谷苑の車は、ゆっくりと走り去っていく。男も去った。九条時也は深夜の街角に佇んでいた。辺り一面のネオン、傍らで甘い声をあげる女性たち。それらすべてが彼の惨めさとみすぼらしさを際立たせているようだった。そうだ。自分は本当にみすぼらしいのだ。道端で、苦しみに耐えながら彼は吐き気を催した。そんな中過去の記憶が、波のように押し寄せてきた――「時也、あなたと香市に行くわ」「学校に着いたら、あなたは私の夫だなんて言っちゃダメ。お兄さんと呼ぶね......人に笑われたくないから!」「時也、私はまだ22歳なのよ!」......そうだ。あの時、彼女はまだ22歳。若くて初々しかった。それを、罪深い奈落の底に自分が引きずり込んだんだ。今になって思えば、あの頃の水谷苑は、P市で自分に命を賭けようとした頃とは違い、ずっと朗らかだったのだ。今の彼女は落ち着きと優しさを取り戻している。それは、きっと彼女に自分よりもいい選択肢ができたからだろう。彼女はもう自分のものではない。九条時也はよろめきながら前へ進んだ。熱い涙が目に浮かび、どうしようもない惨めさと情けなさに苛まれた。かつて、彼がだらしなくしている姿を、何度も水谷苑に見せてきた。しかし今夜、彼は初めて自分が彼女に相応しくないほど汚れていると感じた。初めて、恥ずかしさに打ちのめされ、問いただす勇気さえ失ってしまった。ああ、自分に彼女を問い詰める資格なんてあるだろうか?あるはずがない。そんなの、あるはずがなかった。そう自己嫌悪に陥っていると、隣にいた女が言葉をかけた。「九条社長、今、うまくいっていないんでしょ!それで、さっきの男ほど金持ちじゃないから、自信をなくして諦めようとしているんじゃないの!でも、もし彼女が社長を愛してるなら、どん
......あたり一面に、スープは散りばめられていた。九条時也はうつむいてそれを見つめ、それからゆっくりと保温容器を拾い上げ、玄関先のゴミ箱に捨てた。女からの同情なんて、必要ない。彼はいつも酒を飲むようになった。泥酔するまで飲んで、目が覚めると水谷苑の名前を呼ぶのだ。たまに、夢を見ることもある。彼女と初めて会った時の夢を。ふっと、目が覚めた。目の前にいるのは、この前の女の子だ。彼女は恐る恐る彼の額の汗を拭い、頭を下げて小さな声で言った。「九条社長はさっきずっと『苑』って呼んでいたけど、好きな人なの?」九条時也は、すぐには意識がはっきりしなかった。しばらくして、彼はかすれた声で言った。「俺の妻だ」女の子は思い切って尋ねた。「どうして家に帰らないの?」九条時也の表情は、どこかぼんやりとしていた。しばらくして、彼はポケットからタバコを取り出し、火をつけてゆっくりと吸い始めた。目を少し赤らめながら言った。「家がなくなったんだ。彼女も出て行ったんだ」女の子はそれ以上、何も聞けなかった。彼女は少し躊躇してから、彼の掌を取り、自分の胸に当てた。自分の体を触るように促した。九条時也は黒い瞳でじっと彼女を見つめていたが、彼女の体には触れなかった。女の子は唇を噛み、細々とした声で言った。「九条社長、私をもらってください!私の体......まだキレイなままなの」九条時也は手を引っ込めた。マネージャーから、この女の子は家が貧しくて、仕方なくここで小遣い稼ぎをしようとしていると聞いていた。彼はポケットから小切手を取り出した。4000万円だ。今の九条時也にとっては、大金だ。彼は小切手を彼女に渡した。彼の口調は淡々としていた。「この話はマネージャーにはしないでおくから。まともな仕事を探すか、故郷に帰るんだな......若い頃を男と寝て稼ごうとすると、後で後悔するぞ」女の子の目は赤くなった。小切手を握った指は震えが止まらず、何か言おうとしても声が詰まってしまう。彼女は九条時也に頭を下げようとした。九条時也はそれを受けなかった。女の子は4000万円の小切手を受け取り、心から感謝し、彼を見送りたいと言った。九条時也は断らなかった。彼が先を歩き、女の子は彼の傍らを歩いた。習慣なのか
「それに、あなたの言うとおりよ。離婚したんだから、今のあなたは自由だ。詩織があなたを待ってるわよ」......水谷苑はそう言うと、勢いよく車のドアを閉めた。彼の手が挟まれようともお構いなしだった。九条佳乃のことを思い出し、彼女の目に涙が浮かんだ。心の中では彼をひどく恨んでいた......白いBMWはあっという間に彼を通り過ぎて行った。そして、車が通り過ぎると、あの宝石箱は粉々に砕かれた。九条時也は箱を拾い上げ、破片を払い落とし、中から指輪を取り出した。ピンク色のダイヤモンドは無事だったが、水谷苑に合わせた9号のリングは、すでに歪んで変形していた。彼は静かにそれを見つめ、心臓が締め付けられるような痛みを感じた。......一週間後。深夜、彼は九条グループ本社ビルを出た。かつて栄華を誇った九条グループは、倒産の危機に瀕していた。会社の株は取引停止になった。九条時也個人名義の不動産や高級車は、ほぼすべて担保に出され、九条グループの抜け殻を何とか守ったものの、会社運営には依然として問題があり、多くの人材が流出していた。彼は彼ら全員に解雇手当を支払った。彼らは皆、普通の生活を送る人たちだ。食べていく必要がある。彼の結婚の尻拭いをする必要はない。今、彼には九条グループ以外何も残っていない。家もなくなってしまった。彼は30坪ほどのマンションに引っ越した。身の回りの世話をする使用人すら雇わず、今はあらゆる面でコストを削減しなければならなかった。九条時也は車に乗り込み、煙草を二本吸ってからエンジンをかけた。この車が彼に残された唯一のものだった。商談をするには、ある程度の体裁が必要だ。30分後、彼はマンションの1階エントランス前に車を停め、ドアを開けて玄関へ向かって歩いていた――「時也」聞き覚えのある声がした。なんと、田中詩織だった。田中詩織と再会しても、九条時也は喜びも悲しみも感じなかった。彼は冷淡に尋ねた。「何しに来たんだ?」田中詩織は保温容器を持っていた。彼女は近づいてきて、優しく言った。「時也、お腹空いていない?あなたが好きなスープを作ったの」九条時也は冷淡な表情になった。八つ当たりだったのだろう。彼は田中詩織の手からスペアリブのスープを叩き落とし、汚い言
翌日の午後、区役所。水谷苑が到着した時、九条時也は既に来ていた。彼は車の中で煙草を吸っていた。黒髪にはワックスをつけておらず、服も昨夜ほど華やかではなく、目には幾筋もの血走った線が見える。とても疲れているようだ。車の窓越しに、彼は彼女を見つめていた。名残惜しそうな目で。しばらくして、彼は腕を広げて車のドアを開け、彼女と一緒に建物の中へ入った。水谷苑は静かに言った。「わざわざ来る必要なかったのに!弁護士がいるんでしょ?いつも手続きは彼がやってくれていたじゃない!」九条時也は深い眼差しを向けた。もうすぐ離婚が成立するからか、彼女は機嫌が良い。自分に話しかけてくれるなんて。こんなに長い言葉を交わすのも久しぶりだ。前は、頼み込んで話してもらおうとしても、ベッドでどんなに激しく愛しても、一言も口をきいてくれなかったのに。彼は熱のこもった視線で囁いた。「もう少し話しかけてくれ、苑!」水谷苑は、彼がどうかしていると思った。彼女は口を閉ざし、唇をきゅっと結んだ。だが、そんな彼女さえも、彼は可愛く思えた。感極まって、思わず彼女の手を握った。「時也」水谷苑の声は冷たく、怒りを帯びていた。「私たちは離婚するの。一体何を考えてるの?」彼は無表情で言った。「今はまだ、お前は俺の妻だ!」水谷苑は彼の手を振り払った。その後、離婚届を出す間、彼女は終始冷たい顔をしていた。職員は二人を見て――男が未練たらたらで、女は全くその気がないのが見て取れた。彼女は仕事が早く、去年は優秀職員にも選ばれた。書類の記入や入力のスピードは目を見張るものがある......というか、離婚しに来た人たちは一秒でも早く別れたいんだから当然だ。九条時也は眉をひそめた。「急いでないんです」水谷苑は口を開いた。「私は急いでいます!」職員は二人の方を見た。男はB市で有名な人物。もうすぐ倒産するという九条グループの社長だ。妻は今や佐藤家の令嬢......そりゃ離婚を急ぐわけだ。自分だったら、同じように急ぐだろう。彼女は色んなことを見てきた。普段から不倫する最低男を一番軽蔑している彼女は、判を押しながら鼻で笑った。「九条社長ったら、本当にマイペースですね。まっ、すべてが思い通りにならないことだってありますよ」九条時也は彼女が自分を
九条時也は軽く微笑んだだけだった。歴史は常に勝者によって語られるのだ。佐藤潤は手ごわい。飴と鞭を使い分けて、一ヶ月間叩きつけた後、今頃飴を差し出してきたんだな。案の定、佐藤潤は彼に水谷苑との離婚を要求してきた。その見返りは、北方の新エネルギー関連の大型プロジェクトだ。瀕死の九条グループを息を吹き返すには十分すぎる。九条時也は注意深く耳を傾けた。そして、静かに口を開いた。「離婚には同意します。ですが、潤さんがおっしゃる恩恵は受けたくありません。俺は、刑務所から出てきて裸一貫から九条グループを築き上げました。今回だって同じように立て直せる自信はあります」佐藤潤は鋭い視線を向けた。彼は冷笑した。「自分をまだ30歳すぎだと思っているのか!」九条時也は彼の皮肉には耳を貸さなかった。ゆっくりと立ち上がり、この時彼は、ここに来る前は色々なことを考えていたことを思い出した。佐藤潤と駆け引きすることも考えた。だが、やっぱり、自分と水谷苑の結婚が取引の道具になるのは嫌だった。彼女はいつも、二人の始まりは嘘で固められていたと言っていた。だから、せめて終わり方くらいは、綺麗に終わりたかった。そして彼は更にぼんやりと、水谷苑はよくここに来て佐藤潤の相手をしていたのだろうか、自分が座っているこのソファには彼女もよく座っていたのだろうか、と考えた。思わず指でソファの背もたれを撫でた。すると、佐藤潤はそれを見据えたように「玲司がよくここに座っているな」と言った。九条時也は指を引っ込め、何も言わずに書斎の出口へ向かったが、そこで足を止めた。振り返って佐藤潤を見た。「あのガラスのランプ、いただけませんか?」佐藤潤はそのランプを外し、彼に渡した。九条時也はピンク色のガラスをそっと撫でた。その柔らかなピンク色は、若い少女の恥ずかしそうな可愛らしさを思わせる。まるで水谷苑の手のひらに触れているような気がした。彼は低い声で礼を言った。長身の体が夜闇に消えていき、その背中は寂しさに満ちていた。佐藤潤もそれを見ていて、少し胸が苦しくなった。そばにいた遠藤秘書がお茶を差し出しながら言った。「潤様、あまりお気を落とさないでください!」佐藤潤はため息をついた。「人脈とあらゆる手段を使って、若い男をここまで追い詰めるのは、フェアじゃな