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第408話

Author: ちょうもも
彼女の目に、ふいに涙が滲んだ。

孝之はすでに老境に差しかかり、重い病に苦しんでいるだけでも十分に惨めだというのに......

そのうえ裁判沙汰に巻き込まれ、この件がうまく収束しなければ、残されたわずかな時間を牢獄で過ごすことになる。

悠良の感情は、急に堪えきれなくなった。

彼女は立ち上がり、父に背を向けて言った。

「お父さん......もう余計なことは考えないで。とにかくゆっくり休んで。この件は私が必ず調べるから」

そう言うと、彼女は足早に病室を出ていった。

伶が後を追い、廊下に出ると、悠良が一人、角に身を寄せてこっそり涙を拭っているのが目に入った。

彼は歩み寄り、スーツのポケットから清潔なハンカチを取り出す。

「......いる?」

悠良は一瞥して、首を横に振った。

「大丈夫です」

「このままだと鼻水や涙が服につくのはまだいいとして、口に入ったら――」

「もう!やめてくださいよ、気持ち悪い!」

彼女は伶の言葉を最後まで聞かず、慌ててハンカチをひったくり、顔を拭った。

だが、拭き終えて改めて見れば、ハンカチに残ったものが余計に気持ち悪い。

仕方なく包むように握りしめ、伶に言った。

「このハンカチ......数日したら洗ってお返しします」

「ああ」

ふと悠良は気になって尋ねた。

「でも寒河江さん、年齢は上とはいえ、そこまでじゃないでしょう。どうしてハンカチなんか持ち歩いています?」

その瞬間、伶の瞳がほんの少し陰った。

「これは......母が遺してくれたものだ」

悠良は一瞬言葉を失った。

先ほどちらりと目にした、ハンカチに刺された蓮の花――

その刺繍の精緻さを思い出す。

「じゃあ、その蓮も......お母様が?」

「そうだ。これが、母が私に残してくれた唯一の形見だ」

母の姿を思い浮かべたのだろう、伶の眼差しが遠くなる。

彼女は本来なら孝之ほどの年齢まで生きられるはずだった。だが......

悠良は、普段は冷徹で圧の強い彼の気配が、その瞬間だけ弱まったのを感じ取った。

「ごめんなさい。ただの好奇心で聞いただけで、他意はなかったんです」

「気にするな」

視線を戻した伶の横顔を見ながら、悠良は手の中のハンカチが、急に熱を帯びているように感じた。

そんな大切なものを、自分は鼻水を拭くのに使ってしまった。

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