その一言に、周囲はざわつきを増した。「え?田沼社長って卒業してなかったの?」「そんなはずないでしょ?ネットでは、高学歴でほぼ満点で卒業したって見たよ」「いや、聞いた話だけど、田沼社長は冬城社長の援助とコネでA大に入ったらしいよ。たしかに四年間は通ったけど、結果的には中退だったって……」中退が何を意味するか――この場にいる者たちにとって、そんなことは言われるまでもない。卒業論文が基準を満たさなかったか、あるいはインターンをまともに終えられなかったか。Mグループの社員は、たとえA大学出身でなくとも皆、選ばれし名門大学の卒業生たちだ。中退者など、普通ならこの会社の門をくぐることすらできない。いったい誰がコネで中に入り込んだのか。それはもう、火を見るよりも明らかだった。浅井の顔色は、見るに堪えないほど険しくなっていく。そのとき、黒澤の命を受けて彼女の荷物をまとめに行っていた秘書たちが戻ってきた。紙箱に詰められた私物が、次々とロビーに運び込まれていく。そして、中身は誰の目にも明らかだった。数十万円は下らないノートパソコンに、高級なコーヒーマシン、精緻な茶器、さらには値の張るワインまで――ひと目見ればわかる。パソコンを除いて、どれひとつとして仕事に関係のあるものはなかった。黒澤は冷静な声で言った。「荷物は正面玄関まで運んでくれ。前任の田沼社長には、ここをお引き取りいただこう」「はい、黒澤社長」大塚が一歩前に出て、浅井の目の前に立つ。「田沼さん、本日をもって解雇となります。どうか、お引き取りください」社内の人間が見守る中での公然たる解雇。それはもはや、浅井にとって侮辱そのものだった。浅井は悔しさに唇を噛み、拳を握りしめた。「解雇手続きはまだ終わってないわ!冬城グループだってMグループの株主よ!司さんが同意しない限り、あなたたちに私を追い出す権利なんて――」だが、その言葉を遮るように、大塚がすっと口を開いた。「田沼さん、念のため申し上げますが、黒澤社長はMグループの株式を25%お持ちです。これは、冬城グループが保有している20%を上回っています。たかが社長ひとりを解任することに、いちいち冬城グループの承諾は必要ありません」「……あんたたち……っ!」浅井は周囲を指さしながら、震える声で言葉を絞り出そうとした。だが
「浅井……いえ、田沼社長。私、ここに立ってから一言も発していないんですけど。どうして話の流れで、いきなり私が攻撃されるんでしょうか?」真奈はまるで訳がわからないといった顔で問いかけた。浅井はその顔を見るなり、睨みつけながら言い返した。「じゃあ聞くけど、黒澤社長があなたを庇うためじゃなくて、ここで私みたいな女を執拗に追い詰めてるって、本気で言えます?黒澤社長は原則を重んじて、女性には優しいって聞いてたのに……実際は、権力を振りかざして女性を押さえつけるような人じゃないですか!」その言いぶりといい、態度といい――まるでひどく理不尽な仕打ちを受けているかのようだった。浅井は昔から、被害者を演じさせれば右に出る者はいなかったが、今やその演技は円熟の域に達している。今のこの、悔しさを堪えて涙をこらえているような表情――誰が見ても、気丈で真っ直ぐな女性が理不尽にいじめられている、そう思わずにはいられないだろう。思わず庇いたくなるし、信じたくもなる。けれど、真奈は静かに言った。「黒澤社長があなたを辞めさせたのは、その立場にあなたがふさわしくなかったからです。私のせいではありません」浅井は真奈を睨みつけると、語気を強めて言った。「私は就任して、まだ一週間も経ってないでしょう!どうしてふさわしくないなんて言われなきゃいけないのですか?」「へぇ?そう、自覚はあるんですね?」真奈はゆっくりと眉を上げ、淡々と続けた。「田沼社長、自分で就任してまだ日が浅いとおっしゃいましたよね?私の知る限り、あなたが社長になってから、一つもまともに仕事を成し遂げていないはずですけど」浅井は冷ややかに笑い、言い返した。「仕事を進めるには時間が必要ですよ。その複雑さ、あなたにはわからないでしょうね!そもそも、A大学に入るのに裏口を使ったような人が、こんな大きなグループをどうやって管理できるっていうのですか?」その言葉に、周囲の人々が思わず顔を見合わせ、小声でひそひそと囁き合い始めた。真奈がA大学に裏口入学したという噂は、当時、上流階級の間で大きな話題となった。浅井がその過去を引っ張り出したことで、場の空気がざわつき、忘れかけていた人々の好奇心に再び火がついた。そんな中で過去を蒸し返されても、真奈はまったく動じることなく、穏やかに口を開いた。「ええ、田沼社長もA大学のご
真奈が呆然とする視線の中、黒澤は彼女の横に歩み寄った。真奈は声を潜めて尋ねた。「あなた、一体何を企んでいるの?」黒澤は笑みを浮かべたまま答えず、直接彼女の手を握った。その様子は、周囲から見ればただの恋人同士の甘い仕草にしか映らなかった。向かいにいた浅井はその光景を見て口を開いた。「黒澤社長、あなたと瀬川さんが婚約されるのは存じていますが、Mグループの件はあなたが口を挟むことではないのでは?」黒澤は目も向けずに言った。「大塚、彼女に見せなさい」「はい、黒澤社長」大塚が黒澤の任命書を浅井の目の前に差し出した。その書類を見た瞬間、浅井の顔色は一気に蒼白になった。大塚が説明した。「黒澤社長は1年前にMグループに1600億円を出資し、グループ株の25%を保有しています。会社に対する絶対的な決定権を持っています」「えっ、黒澤社長は1年前に1600億円も出資していた?これって本当なの?」「任命書はここにございます。嘘のはずがありません」「1600億って……それもう創業メンバーと同格の大株主じゃない……」……その言葉に、浅井の顔色はさらに引きつった。「そんなはず……ない!Mグループはもう一年も動いてるのよ?黒澤社長が出資したなんて、一度だって聞いたことない!この任命書、到底認められないわ!」真奈は、どうしても現実を受け入れられないといった浅井の顔をじっと見つめながら、心の中で静かに笑っていた。もともと黒澤から1600億を借りたとき、真奈ははっきりと、瀬川家の不動産と株式を担保に差し出すと告げていた。その後、瀬川家が破産してMグループに統合されると、黒澤は何の障害もなく、自分の取り分である株式を手に入れた。さらに、以前Mグループが設立された際にも、利息代わりとして真奈は黒澤にいくばくかの株式を譲っていた。ただ、そのときはまさか、こんな場面で役に立つとは夢にも思っていなかった。大塚が静かに言った。「田沼社長、この任命書には法的な効力があります。ご不満であれば裁判所に訴えることも可能ですが……恐らく、訴えても結果は変わらないかと」議論が平行線をたどるのを見た浅井が、苛立ちを抑えながら口を開いた。「たとえ黒澤社長が25%の株をお持ちだとしても、私は冬城グループから派遣された社長です。黒澤社長に、私を辞任させる権
伊藤は真奈と幸江の二人を迎え入れ、グループ社内へと案内した。そして怒気をはらんだ声で言った。「人事部は一体どうなっているんだ?また誰かが陰口を叩いているのを耳にしたら、全員クビにするぞ!」伊藤がグループのロビーで人前もはばからず怒鳴り声を上げると、社員たちは蜘蛛の子を散らすようにその場を離れていった。ちょうどその時、入口のほうから聞こえてきた声が真奈の注意を引いた。「田沼社長、おはようございます」受付係がにこやかに浅井を社内に迎え入れた。浅井は一歩足を踏み入れるなり、ロビーにいる真奈の姿に目を奪われた。今日の真奈は、いつもの彼女とは明らかに様子が違っていた。普段の彼女は生活でも仕事でもラフな格好をしていたが、今朝の装いは明らかに入念に整えられており、冷たくも気高い華やかさが全身からにじみ出ていた。昨夜受けた屈辱が思い出され、浅井は心中穏やかではなかった。さらに、周囲の人々がざわざわとその場を離れていく様子を見て、顔をしかめると不機嫌そうに口を開いた。「何をそんなに慌ててるの?朝っぱらから社内で騒ぎを起こしたのは誰?」「あら、田沼社長はずいぶん威張ってるのね」幸江は浅井を見やり、口元に冷たい笑みを浮かべた。――まったく、三日会わざれば刮目して見よ、ってね。けれど、今の浅井には、もはや幸江を恐れる様子など微塵もなかった。彼女も負けじと嘲るように笑い、口を開いた。「幸江社長、うちのMグループで騒ぎを起こしてたのって、あなたでしょ?」その場にいた社員たちは、息をのんで沈黙した。普段から浅井は、いかにもお嬢様然とした服装で振る舞っていたが、今日ばかりは真奈や幸江と並んでしまったことで、その装いも表情も一気に色褪せて見えた。比べてしまえば一目瞭然――まるで借り物のような、張りぼての品格にすぎなかった。だからこそ、彼女の言葉には何の説得力もなく、ただ空しく響いた。「田沼社長、それは俺だ」背後から静かな声がして、振り返ればそこに立っていたのは伊藤だった。その姿を見た瞬間、浅井の口元に冷笑が浮かぶ。「……あら、誰かと思えば伊藤社長じゃない。自分の会社を放っておいて、こんな朝早くからうちに何のご用かしら?」その一言に、社員たちは顔を見合わせ、思わず息を呑む音が静かに響いた。伊藤はMグループの出資者であり、その事実は社内はもちろん、
「遼介……まさかあなたを職場に連れてくるつもりじゃないでしょうね?」幸江は、自分の弟の思考回路が本気で理解できなかった。今、彼女の頭の中では万馬が駆け巡っていたかのように混乱している。朝から真奈の支度を手伝って、てっきりプロポーズの現場を見られるものとばかり思っていたのに、黒澤は伊藤に真奈をMグループの正面玄関まで送り届けさせたのだ。こいつ、今後出かけるときに弟だなんて絶対に名乗らないでほしい。恥ずかしすぎる!「見て見て、あれフェラーリじゃない?」「今日はどこの社長がうちに商談に来るの?そんな話、聞いてないけど……」……Mグループの正門付近では、数人の社員がこっそりと車の方を伺っていた。というのも、彼女たちの位置からは、車内の伊藤の顔がはっきりと見えていたからだ。伊藤はもともと整った顔立ちで、とくに印象的なタレ目が特徴的だった。さらに社外では女たらしとしても有名で、彼に恋心を抱く女性社員は少なくない。その伊藤が、車の窓を下ろし、黒いサングラスを外してあたりを見回すその仕草――思わず、見ていた数名の女性社員は次々に顔を赤らめていた。「えっ、あれ伊藤様じゃない?どうして突然会社に?」「伊藤様、今こっち見たよね?」「バカ言わないで!どう見ても私を見てた!」数人の女性社員が押し合いながら盛り上がる中、伊藤は皆の視線を浴びながら、ゆっくりと車のドアを開けた。「きゃああ!伊藤様が降りてきた!本当にかっこいい!」「伊藤様、会社に来るのなんて久しぶりじゃない?もしかして、新しく就任した社長に会いに来たのかも」「ありえる!田沼社長って田沼家のお嬢様でしょ?しかも冬城総裁と婚約したばっかり。最近冬城家がうちの株主になったし、伊藤様が来たのって田沼社長が目的なんじゃない?」……伊藤が車から降りると、周囲からそんな噂話が一気に耳に飛び込んできた。浅井に会いに来たって?浅井なんかに、そんな価値あるか?伊藤は心の中でぼやいた。インターネットというものは、本当に記憶力のない存在だ。あの女が人を殺したって話、まだ完全に終わったわけでもないのに。ただ数か月姿を消していただけで、今また「冬城の婚約者」という肩書きで世間に舞い戻ってきた。それだけで、過去の悪評がまるでなかったかのように扱われている。本当に
幸江は興奮しながら真奈を洗面所に押しやり、真奈は問いかけた。「あなたたち、一体何してるの?」「私の予想だけど……遼介、あなたにプロポーズするつもりじゃない?」真奈は思わず笑ってしまい、訊いた。「どこでそんな話聞いたの?」幸江は怪訝そうに尋ね返した。「違うの?私たち全員そう思ってるよ?でなきゃ、遼介があんなに大金かけて智彦に頼んで、あなたにおめかしさせたりしないでしょ?」「遼介はもう、おじいさんに任せるって承諾してるの。プロポーズも婚約も、全部おじいさんが仕切るって。あの人の性格なら、遼介が口出しする余地なんてないわ」「えぇ〜?」幸江は一気にテンションが下がり、しょんぼりとつぶやいた。「プロポーズかと思って期待してたのに……がっかりだわ」「まだ終わってないの?早く早く、もう時間がないよ!」伊藤は焦った様子で急かしてきた。真奈は急かされるままにリビングへ向かうと、メイクアップアーティストとスタイリストが手際よく準備を始め、全力で彼女のスタイリングに取りかかった。そして、大手ブランドによる特注ドレスが出てくると、隣でそれを見ていた幸江が言った。「これ、あなたのサイズでオーダーされてるのよ。さすが遼介、見る目があるわね。そこは本当に、この姉である私に似たのかもね!」伊藤が言った。「ふざけるなよ、その服はいつも俺が買ってやってるんだ!遼介のセンスが良いのも、俺っていう親友の影響だろ!」「笑わせないで。私、あんたに服を買ってって頼んだことなんか一度もないわよ?毎回あんたが勝手に……」「おいおい!もう、黙っててくれ!」伊藤は慌てて幸江の口を塞いだ。その様子を見て、真奈はふとゴシップの匂いを感じ取った。そういえば、なんで今まで気づかなかったんだろう。幸江と伊藤って、思った以上にお似合いじゃない?しかし。真奈は目の前に広げられた、派手なワインレッドのドレスを見て、妙に自分の好みにぴったりだと感じた。初めて黒澤に会ったときも、彼女はワインレッドのロングドレスを着ていた。着替えとメイクが終わったあと、幸江は真奈の姿を見て、思わず羨ましそうな目を向けた。真奈はワインレッドのロングドレスを身にまとい、シルバーとブラックの縁取りが入ったベルトを装着していた。ベルトにはダイヤモンドが散りばめられ、完璧なボディラインを