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第263話

Author: いくの夏花
車はすぐにハレ・アンティークに着いた。

古風で品のある庭が外の喧噪を遮り、空気にはほのかな白檀の香りが漂い、心が静まる。

のぞみが二人を中へ案内し、小声で言った。「遥香さん、ご指示どおり、品はきちんと保管してあります」

遥香はうなずいた。「のぞみさん、ありがとうございます」

遥香がいつもいる上品な書斎に入ると、のぞみは気を利かせて下がり、ついでに扉を閉めた。

書斎の長机には柔らかなベルベットが敷かれ、失われて取り戻したフラグマン・デュ・ドラゴンが、その中央に静かに横たわっていた。

素材の質はなめらかで、色合いは古めかしい。刃で断たれたような中央の裂けが、灯りの下でひときわ鮮やかに浮かび上がって見えた。

遥香は歩み寄り、手を伸ばして、冷たい彫刻の表面を指先でそっとなでた。

これが養父の遺した物であり、謎を解く鍵となる手がかりだ。

彼女はフラグマン・デュ・ドラゴンを取り上げ、まじまじと見つめた。

形は普通の円形や方形ではなく、歪な不規則形だ。断ち割れた箇所はさらにぎざぎざに欠けている。

養父は最期に何も語らなかった。この彫刻のもう半分……どこにあるのだろう。

遥香は意識を集中させ、彫刻に走る文様と割れ口をたどり、そこから手がかりを探ろうとした。

だが見入るうちに、思考はいつの間にか遠くへ漂っていった。

思いはふと、阿久津家で修矢が自分の前に立って庇い、場をさばいてくれた姿へと戻っていった。機内でそっと毛布を掛けてくれた手つき、さっき空港で手首をつかんだときの、拒む余地のない力と目の奥に渦巻いていた感情までが、ありありとよみがえる。

「はあ……」いつの間にか隣に来ていた江里子が、明らかに上の空の遥香の様子を見て、あきれたようにため息をついた。

「まだ彼のことを考えているの?」江里子の声には歯がゆさが混じっていた。

遥香ははっと我に返り、慌てて視線をそらし、手のフラグマン・デュ・ドラゴンに再び集中しながら強がって言った。「違うわ、この彫刻を見ていただけ」

「彫刻を見て我を忘れそうになってた?」江里子は容赦なく切り込んだ。「遥香、正直に言って、まだ彼を忘れられないんじゃないの?」

遥香は彫刻を握る指先に力を込め、血の気が引くほど白くなりながら、江里子の探るような視線を避けて黙り込んだ。

忘れる?

そんなこと、簡単にできるはずがなかった
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