LOGIN「やっと見つけた」
男性の言葉に、香子は戸惑った。
「……私を、ですか?」
なぜ、この人は自分の名前を知っているのだろう。
なぜ、自分を探していたというのだろう。
けれど、男性は香子の問いには答えなかった。
香子の姿を上から下まで見て、その表情を険しくする。
「その格好……どうした?」
「……」
「靴は?」
香子は手に持っていたヒールを見た。
「折れてしまって……」
「足を怪我してる」
言われて初めて気づいた。
裸足でここまで歩いてきたせいだろう。
足の裏や甲には小さな傷がいくつもできていた。
植え込みへ落ちたときについたのか、膝にも擦り傷がある。
「大丈夫です。このくらいでしたら――」
言い終えるより先に、男性が香子の前へ屈んだ。
「え……?」
次の瞬間。
ふわりと身体が浮いた。
「きゃっ……!」
男性の腕が背中と膝の裏に回り、香子の身体を軽々と抱き上げていた。
「ま、待ってください……!」
香子は慌てた。
「降ろしてください。私、自分で歩けますから」
「その足で?」
「でも……」
香子は男性のスーツへ目を向けた。
「お洋服が汚れてしまいます」
自分のドレスはひどく汚れている。
まだ残っていたクリームも、ジュースも、土も。
でも、男性は即答した。
「構わない」
「とても高価なものでは……」
「服なんてどうでもいい」
香子は目を見開いた。
男性は本当に気にしていないらしい。
香子の汚れたドレスが自分のスーツに触れているというのに、眉一つ動かさなかった。
そのまま香子を抱きかかえて、車へ向かっていく。
「あの、やっぱり私を下ろして……」
香子は彼の腕から逃れようとした。
けれど、彼はさらに強く抱きしめた。
「今は何も考えなくていい」
低く、落ち着いた声だった。
香子はそれ以上、何も言えなくなった。
大丈夫。
その言葉を誰かから言われたのが、ひどく久しぶりな気がした。
男性は後部座席のドアを開けてもらうと、香子をそっとシートへ座らせた。
自分も隣へ乗り込む。
車が静かに走り出した。
香子は落ち着かない気持ちで、広い車内を見回した。
どう見ても普通の車ではない。
シートも内装も、香子でも分かるほど上質だった。
隣に座る男性もそうだ。
仕立てのいいスーツ。
整った顔立ち。
そして、どこかで何度も見たことがあるような気がする。
けれど、どうしても思い出せない。
今夜あまりにもいろいろなことが起きたせいで、頭がうまく働いていなかった。
「あの……」
「どうした?」
「どちらへ向かっているのでしょうか」
「まず、その格好をどうにかしよう」
男性はそう言った。
「怪我も診てもらう」
「でも、私……」
「心配しなくていい」
また、そう言われた。
香子は膝の上で手を握った。
どうして。
今日初めて会ったはずの人が、どうしてここまでしてくれるのだろう。
その疑問を口にする前に、車は目的地へ到着した。
そこは都心にある高級ホテルだった。
香子でも名前くらいは知っている。
一泊するだけでも驚くような金額になるホテルだ。
車寄せへ入ると、すぐにスタッフが近づいてきた。
男性は先ほどと同じように香子を抱き上げようとする。
「だ、大丈夫です。今度は歩けます」
「無理するな」
「でも……」
結局、香子の訴えは聞き入れられなかった。
再び抱き上げられ、そのままホテルの中へ運ばれていく。
恥ずかしさに、香子は小さく身を縮めた。
けれど男性は周囲の視線などまるで気にしていなかった。
やがて案内されたのは、ホテル内にある会員制のスパだった。
すでに連絡が入っていたらしく、数人の女性スタッフが待っていた。
「こちらの方を頼む」
「かしこまりました」
男性は香子を女性スタッフへ預けた。
「怪我もしている。必要なら医師を呼んでくれ」
「承知いたしました」
香子は驚いて男性を見る。
「あの……どちらへ向かっているのでしょうか」
走り出した車の中で香子が尋ねると、男性は安心させるように微笑んだ。
「ホテルだよ。まずはその怪我を手当てして、着替えよう」
それ以上は聞けないまま、車は都心の高級ホテルへ到着した。
車寄せにはホテルのスタッフが待っていた。男性が先に車を降りると、すぐに何人もの視線が集まる。
その様子に気づかないまま、香子も降りようとした。
「待って」
「え?」
男性が車内へ身を屈めたかと思うと、背中と膝の裏に腕を回した。
「きゃっ……!」
次の瞬間、香子の身体は軽々と抱き上げられていた。
突然のことに驚き、香子は咄嗟に男性の胸元へしがみつく。
「な、何をなさるんですか……!?」
「裸足で歩かせるわけにはいかないだろ」
「でも、皆さんが見ています……!」
ホテルのスタッフだけではない。車寄せに居合わせた客まで、こちらを振り返っていた。
香子は恥ずかしさに頬を熱くし、男性の胸元へ顔を伏せる。
ただでさえ自分は、泥とジュースで汚れた破れたドレス姿なのだ。
「お願いです、降ろしてください。こんな格好で……」
「嫌だ」
あっさり断られ、香子は顔を上げた。
「え……?」
「怪我人を歩かせるほうが嫌だ」
男性は周囲から注がれる視線など少しも気にせず、香子を抱いたままホテルの正面玄関へ向かって歩いていく。
香子はもう何も言えなかった。
こんなふうに誰かから大切に扱われたことなど、いつ以来だろう。
男性の腕の中は、不思議なほど安心できた。
やがてホテル内の会員制スパへ到着すると、男性は香子を待っていた女性スタッフへ預けた。
「彼女を頼む。怪我もしているから、手当ても」
「かしこまりました」
香子が何か言うより早く、男性は「ここで待ってるから」と告げた。
それからは、あっという間だった。
女性スタッフに傷の手当てをしてもらい、髪や身体についたクリームや泥を落としてもらう。汚れた母のドレスは丁寧に預けられ、代わりに用意されていたのは、美しい新品のドレスと靴だった。
髪を整え、薄く化粧を施してもらってドレスへ着替える。
鏡の中には、先ほどまでの惨めな自分とはまるで違う女性が立っていた。
「……これが、私……?」
「とてもお綺麗ですよ」
スタッフの言葉に、香子は戸惑いながらも頭を下げた。
けれど、胸に浮かんだ疑問は消えない。
――どうして、あの人はここまでしてくださるの?
支度を終えて部屋を出ると、男性はラウンジで待っていた。
香子を見るなり、その瞳が大きく見開かれる。
「……」
「あの……何か、おかしいでしょうか?」
「いや。綺麗だと思って」
真っ直ぐに言われ、香子の頬が熱くなった。
「ありがとうございます……。でも、どうして私にここまでしてくださるのですか?」
男性は答えず、ただ香子を見つめている。
その顔を見ているうちに、香子はふと気づいた。
どこかで見たことがあると思っていた。
先ほどホテルへ入ったときにも、大きなポスターにこの顔があったような――。
「まさか……」
改めて目の前の男性を見る。
整った顔立ち。印象的な瞳。
そして記憶の中にある、映画やテレビで何度も見た顔が重なった。
「来栖勇樹さん……?」
国内だけではない。
海外の映画にも出演し、世界中に名を知られているトップスター。
その本人が、今、自分の目の前にいる。
「どうして……そんな方が、私を……」
呆然とする香子を見て、勇樹は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっちの俺は覚えてるんだな」
「え……?」
勇樹は香子の目をまっすぐに見つめた。
「でも――『勇樹お兄ちゃん』のことは忘れたのか?」
「私だって、絵くらい描けるんだから!」美紗はスマートフォンをテーブルに置いた。久恵は呆れたように顔を上げた。「急に何を言い出すの?」「だって、香子の絵が一万円で売れたんでしょ? 私だって描けば売れるわよ!」「絵なんて、学校を卒業してから描いていないでしょう?」「そんなの関係ないじゃない!」美紗は不機嫌そうに唇を尖らせた。「どうせ勇樹さんのファンが買ったんでしょ。香子の絵だから欲しいわけじゃないんだから」久恵はスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、勇樹の投稿を引用した記事が表示されていた。『来栖勇樹、恋人の絵画を絶賛。初出品作が即日完売』「……まったく、大げさね」久恵は鼻を鳴らした。「たった一万円の絵が売れただけでしょう?」「そうよ! なのに、みんな香子のことばっかり褒めてるの!」美紗は画面を指さした。『優しい色使いが素敵』『ほかの作品も見たい』『次の作品展が楽しみ』「……何よ、これ!」美紗はスマートフォンを握りしめた。「香子ばっかり、ずるい!」久恵はため息をついた。「そんなに羨ましいなら、あなたも絵を習えばいいじゃない」「……え?」「香子にできることなら、あなたにだってできるでしょう?」美紗は目を輝かせた。「そうよね!」そして、すぐにスマートフォンで絵画教室を検索し始めた。「……あ、ここ! 香子が通ってる学校じゃない?」画面には、青葉美術アカデミーの公式サイトが表示されていた。「私もここに通おうかな」久恵は眉をひそめた。「わざわざ同じ学校に?」「だって、香子より上手な絵を描いてやりたいんだもん!
「……三人も、ですか?」香子は驚いて聞き返した。「はい。皆さん、来栖さんのSNSをご覧になったそうです」受付の女性は嬉しそうに答えた。「作品を購入したいというお問い合わせが、立て続けに入っているんですよ」「……そんな」香子は戸惑いながら勇樹を見た。「勇樹さん、どうしましょう……」「すごいね。香子の絵を欲しいって人がいるんだ」「でも、三人もいらっしゃるなんて……」香子は自分の絵を振り返った。祖父母の庭を思い出しながら描いた『春の庭』。まさか、知らない人が買いたいと言ってくれるとは思わなかった。「……あの、お値段は一万円にしてあるんですけれど」「はい。皆さん、その価格もご存じです」受付の女性が頷いた。「ただ、一点しかありませんので、販売方法について先生に確認してまいりますね」「……よろしくお願いいたします」香子は深く頭を下げた。しばらくして、講師がやってきた。「鷹宮さん、すごい反響ですね」「……私も、驚いてしまって」「今回は先着順で販売することになっていますので、最初にお申し込みくださった方にお譲りする形になります」「……そうなんですね」香子は少しほっとした。「それでしたら、ぜひ、その方に……」「わかりました。お手続きを進めますね」講師は微笑んだ。「初めての出品で、もう購入希望があるなんて素敵ですね」「……ありがとうございます」香子は頬を赤らめた。それからも、勇樹の投稿には次々とコメントが寄せられた。
「……取材?」勇樹はスマートフォンを耳に当てたまま、眉を上げた。『はい。以前から来栖さんを取材している芸能誌の記者さんです。明日のご予定を聞きつけたようで』「どうして知ってるんだろう?」『作品展の案内は一般公開されていますからね。来栖さんが訪問されるという情報も、どこかから伝わったのでしょう』勇樹は少し考えた。「香子の作品展なんだ。俺が目立って、迷惑をかけるのは嫌だな」『では、お断りしましょうか』「うん。そうしてくれる?」『承知しました』電話を切ると、香子が心配そうに尋ねた。「……勇樹さん、取材というのは?」「明日の作品展に、記者さんが来たいんだって」「……えっ!」香子は驚いた。「私の学校に、ですか?」「うん。でも、断っておいたよ」「……そうなんですね」「せっかくの作品展だからね。香子も、ほかの生徒さんたちも、落ち着いて楽しめたほうがいいでしょう?」「……はい」香子はほっとしたように微笑んだ。「ありがとうございます」翌日。青葉美術アカデミーのギャラリーには、たくさんの作品が並んでいた。風景画や人物画、色鮮やかな抽象画。香子は入口に立ち、緊張した面持ちで会場を見渡した。「……こんなに立派な展示会になるんですね」「うん。すごいね」隣に立つ勇樹が微笑んだ。今日は帽子を深くかぶり、目立たない服装をしている。それでも、すれ違う人が何度か振り返っていた。「香子の絵はどこ?」「……こちらです」香子は勇樹を奥の展示スペースへ案内した。壁には、『春の庭
「……私の絵に、お値段をつけるなんて」香子は作品展の案内を見つめた。「なんだか、申し訳ない気がします」勇樹は笑った。「どうして?」「だって、まだ習い始めたばかりですし……。お金をいただけるような絵ではありませんから」「でも、香子が一生懸命描いた絵でしょう?」「……はい」「だったら、欲しいと思う人がいても不思議じゃないよ」香子は少し考えた。確かに、自分も誰かの絵を見て、素敵だと思ったことはある。けれど、自分の絵を買いたいと思う人がいるなんて、想像もできなかった。「……明日、先生に相談してみます」「うん。それがいいね」勇樹は頷いた。翌日の授業。「作品の販売価格ですか?」講師は香子の質問に頷いた。「はい。希望される方には、ご自身で価格を決めていただいています」「……どのくらいが普通なのでしょうか?」「大きさや画材にもよりますが、今回の作品展なら数千円から数万円くらいでしょうか。もちろん、非売品にしても構いませんよ」「そうなんですね……」香子は制作途中のキャンバスを見つめた。黄色い花が、少しずつ形になってきている。「……私、売るつもりで描いていたわけではなくて」「ええ。それでいいんですよ」講師は微笑んだ。「作品展は、まず皆さんに絵を見ていただく機会ですから」「……はい」「価格は完成してから決めても大丈夫ですよ」香子はほっとして頭を下げた。「ありがとうございます」それから一週間。香子は授業のたびに、少しずつ絵を仕上げていった。
「鷹宮さん、作品展に出してみませんか?」翌週の授業で、講師からそう声をかけられた香子は、驚いて顔を上げた。「……私が、ですか?」「ええ。小野寺さんから、出品を考えていらっしゃると聞きました」「はい。でも、まだ通い始めたばかりですし……」講師は香子のスケッチブックを覗き込んだ。「この黄色いお花、素敵ですね」「……ありがとうございます」「思い入れのあるお花なんですか?」「はい。亡くなった祖父母の庭に咲いていたんです」香子は懐かしそうに微笑んだ。「子供の頃、よくこのお花を描いていました」「そうなんですね。でしたら、ぜひ作品にしてみましょう」講師は展示の案内を差し出した。「今回は生徒作品展ですから、経験の長さは関係ありませんよ」香子は案内を受け取った。そこには、作品展の日程と出品方法が書かれていた。「……あの、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」「何でしょう?」「私の絵を、見てくださる方はいるんでしょうか……」講師は微笑んだ。「もちろん。毎年、ご家族やお友達だけでなく、一般のお客様もいらっしゃいますよ」「……そうなんですね」香子は胸を弾ませた。自分の描いた絵を、知らない誰かが見てくれる。考えただけで、少し緊張してしまう。「……私、出してみたいです」「ええ。楽しみにしていますね」香子は嬉しそうに頭を下げた。その日から、香子は作品展に向けて絵を描き始めた。題材は、祖父母の庭に咲いていた黄色い花。古い写真を参考にしながら、キャンバスに少しずつ色を重ねていく。「…&he
「……入学のお申し込みですね。ありがとうございます」青葉美術アカデミーの受付で、女性が微笑んだ。「はい。よろしくお願いいたします」香子は少し緊張しながら頭を下げた。あれから数日。勇樹と一緒に見学した絵画コースに、正式に通うことを決めたのだ。週に二回、午後の授業を受けることになった。「それでは、来週からお待ちしておりますね」「はい!」手続きを終えて校舎を出ると、香子は思わず空を見上げた。まさか、自分が絵の学校に通える日が来るなんて。祖父母が生きていた頃には、いつか美術を学びたいと夢見ていた。けれど、久恵に反対されてからは、そんな夢を口にすることさえなくなっていた。「……お祖父様、お祖母様」香子は小さく呟いた。「私、もう一度、絵を描いてみますね」翌週。香子は少し早めに学校へ到着した。教室には、すでに何人かの生徒が集まっていた。「こんにちは」香子が挨拶すると、窓際に座っていた女性が顔を上げた。「こんにちは。もしかして、今日から?」「はい。鷹宮香子と申します」「私は小野寺です。よろしくね」小野寺と名乗った女性は、三十代半ばくらいに見えた。「ここ、初めてだとちょっと緊張するよね。でも先生も優しいし、すぐ慣れると思うよ」「ありがとうございます」香子はほっとして微笑んだ。「小野寺さんは、長く通われているんですか?」「もう二年くらいかな。仕事の合間に来てるの」「そうなんですね」「鷹宮さんは?」「私は……子供の頃から絵が好きだったんですけれど、ずっと描いていなくて」「じゃあ、久しぶりなんだ」「はい」香子は少し照れくさそうに笑った。







