LOGIN「十億円はどうなると思っているの?」
久恵の言葉に、美紗は眉を寄せた。
「どうなるって……私たちのものになるんでしょ?」
「今のままでは無理よ」
「じゃあ、どうするの?」
久恵は答えなかった。
香子のそばには、来栖勇樹がいる。
昨日までなら、何を言っても香子は逆らわなかった。だが、これからも同じようにいくとは限らない。
「とにかく、余計なことはしないで」
「何よ、それ」
「いいから。今度は私の言うとおりにしなさい」
久恵は苛立ったように言い残し、美紗の前から立ち去った。
一方、香子は勇樹の車に揺られていた。
膝の上には、取り戻した母の遺品がある。
もうあの家には戻らない。
そう決めたことに後悔はなかった。
ただ――。
「……あの」
「どうしたの?」
「私、これから
翌朝。公開された記事には、マンションの前で撮影された二枚の写真が大きく掲載されていた。一枚は、玄関から顔を覗かせた香子。もう一枚は、同じマンションへ足早に入っていく勇樹。《独占追跡! 来栖勇樹、“謎の令嬢”鷹宮香子さんと同棲か》《本誌は、香子さんが来栖の住む高級マンションに滞在していることを確認した》《さらに取材班が香子さんに声をかけた直後、仕事中だったはずの来栖が急遽帰宅。二人が極めて親密な関係にあることは間違いなさそうだ》記事は、遊園地での写真と並べて二人の関係を大きく取り上げていた。当然、SNSも騒ぎになった。『やっぱり一緒に住んでたんだ』『高級ホテル→タワマン同棲→遊園地貸し切りってすごすぎ』『これもう熱愛認めたほうが早いだろ』『家族のところには帰らないのに男の家には帰るんだ』『妹がずっと待ってるって言ってるのにね』『来栖、仕事抜けて帰ったの? どんだけ入れ込んでるんだよ』そして今回も、美紗の記事が掘り返される。――姉は昔から、周囲の影響を受けやすい。――今の状況が本当に姉自身の望んだものなのか心配している。その言葉と今回の写真を結びつける者も少なくなかった。「……すみません」リビングで記事を見た香子は、青ざめていた。勇樹が見せたわけではない。朝からテレビでも取り上げられていたため、嫌でも知ってしまったのだ。「昨日、私が扉を開けたから……」「宅配便が来たら普通は開けるよ」「でも、勇樹お兄ちゃんまで撮られてしまって」勇樹は記事を閉じた。「俺は撮られるのには慣れてる」「そんな……」「それより、昨日の男に何かされなくてよかった」本当に気にしているのは
震える指で、香子は勇樹の名前を押した。呼び出し音が鳴る。一度。二度。「もしもし、香子?」声を聞いた瞬間、張り詰めていたものが切れた。「勇樹お兄ちゃん……」「どうした?」香子の声だけで気づいたのだろう。勇樹の声が変わる。「何かあった?」「知らない方が……」うまく息ができない。香子は玄関から離れながら、必死に言葉を続けた。「宅配便を受け取ったら、廊下に知らない方がいて……私の名前を呼ばれて……」『鷹宮香子さんですよね?』さっきの声が耳に残っている。「来栖さんといつから住んでいるのかって……妹が心配しているって……」「今、その人は?」「分かりません。すぐに扉を閉めました」「鍵は?」「かけました」「分かった」短く答えたあと、向こうで人の声がした。勇樹が誰かと話している。すぐに声が戻った。「今から帰る」「でも、お仕事が……」「大丈夫」「勇樹お兄ちゃん――」「すぐ帰るから」その言葉に、香子はようやく小さく頷いた。「……はい」それからしばらくして、玄関の鍵が開いた。香子はソファから立ち上がる。「勇樹お兄ちゃん……!」「香子」勇樹はまっすぐ香子のところへ来た。「大丈夫だった?」「はい……」「怖かったね」その一言で、香子の目に涙が浮かんだ。「ごめんなさい……」「どうして謝るの」「だって、お仕事中だったのに……」「香子」勇樹はしゃがみ、俯いた香子と目線を合わせた。「仕事より、今は香子のほうが大事だよ」香子は何も言えなかった。勇樹は立ち上がると、すぐにマネージャーへ連絡した。マンションまで記者らしき人物が来たこと。香子が一人のときに声をかけられたこと。必要なことだけを伝える。「はい。お願いします」通話を終えると、勇樹は玄関のほうを見た。「しばらく、ここへの出入りも気をつけないとな」「……私のせいで」また口から出てしまった言葉に、勇樹が振り返る。香子は膝の上で手を握った。「遊園地まで貸し切っていただいたのに、それでも写真を撮られて……今度はここまで知られて……」楽しかったはずなのに。勇樹と出かけるだけで、こんなことになる。「私がいなければ、こんな――」「それは違う」勇樹は香子の隣へ座った。「昨日、俺が香子と遊園地に行きたかった」「……はい」「今日、ここに帰
美紗は返信欄に指を置いたまま、しばらく動かなかった。画面には、観覧車の中で向かい合う勇樹と香子の写真が表示されている。楽しそうな香子。その香子を見つめる勇樹。見るほどに腹が立つ。けれど――。美紗は一度、大きく息を吐いた。《記事は拝見しました》そこまで打って、少し考える。《姉が楽しそうにしていることについては、よかったと思っています》送信した。すぐに記者から返信が届く。《ご家族として、複雑なお気持ちはありませんか?》美紗の口元がわずかに上がった。《ただ、妹として心配ではあります》《どのような点でしょうか?》美紗は画面を見つめる。勇樹の事務所で言われた言葉が蘇った。――これ以上、香子を傷つけるのはやめてくれ。直接言えば、勇樹は聞こうともしなかった。だったら。《姉は昔から、周りの人の影響を受けやすいところがあったので》美紗は送信ボタンを押した。《今の状況が、本当に姉自身の望んだものなのか。それだけが心配です》これなら、香子を責めてはいない。勇樹のことも悪く言っていない。美紗は満足そうにスマートフォンを置いた。その日の午後。記事はすぐに更新された。《鷹宮香子さんの妹、来栖勇樹との“貸し切りデート”に胸中「姉が楽しそうなのは嬉しい。でも……」》記事には、美紗の言葉が大きく取り上げられていた。《姉が楽しそうにしていることについては、よかったと思っています》《ただ、姉は昔から周囲の影響を受けやすいところがありました。今の状況が本当に姉自身の望んだものなのか、妹として心配です》美紗は一言も、勇樹が香子を操っているとは言っていない。それでも、読む側は勝手にその先を想像した。
翌朝。勇樹がコーヒーを飲んでいると、テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、マネージャーの名前だった。「はい」『おはようございます。今、お時間よろしいですか?』「大丈夫です」『昨日、遊園地へ行かれましたね?』勇樹の手が止まる。「……はい」『写真を撮られています』勇樹は眉を寄せた。向かいでは、香子が朝食の皿を並べている。『本日発売の週刊誌です。ウェブ版も先ほど公開されました』「分かりました」『こちらで対応します。勇樹さんからは何も発信しないでください』「はい。お願いします」通話を終える。「勇樹お兄ちゃん?」香子が不思議そうにこちらを見ていた。「何かありましたか?」勇樹は一瞬迷ったが、隠していてもいずれ分かる。「昨日、写真を撮られてたみたいだ」香子の表情が固まった。「……昨日?」「うん」「でも、遊園地には誰も……」「外から撮ったんだろうね」香子の手から、フォークが滑り落ちた。小さな音が響く。「私……」「香子」「ごめんなさい。私、全然気づかなくて……」「俺も気づかなかったよ」勇樹はスマートフォンを伏せた。「香子が謝ることじゃない」そう言われても、昨日の楽しかった記憶が急に不安へ塗り替えられていく。メリーゴーラウンド。二人だけの園内。観覧車。繋いだ手。どこまで見られていたのだろう。「どんな写真なんですか……?」「見なくていい
勇樹の休みの日。香子は、昨日もらったワンピースに袖を通した。鏡の前で何度も裾を整える。勇樹と出かける。ただそれだけなのに、胸が落ち着かなかった。「香子、準備できた?」「はい!」部屋を出ると、待っていた勇樹が笑った。「やっぱり似合ってる」「ありがとうございます」昨日も同じことを言ってもらったのに、頬が熱くなる。「今日はどちらへ行くんですか?」「着いてからのお楽しみ」勇樹はそれ以上教えてくれなかった。車でしばらく走ったあと、香子は窓の外に見えたものに目を見開いた。小さな観覧車。色鮮やかなメリーゴーラウンド。少し古びた、どこか懐かしい入口。「ここ……」車を降りた香子は、じっと遊園地を見つめた。「覚えてる?」「はい……」幼い頃、一度だけ来たことがある。祖父と祖母と――まだ若かった勇樹と。「勇樹お兄ちゃんも、一緒でしたよね?」「よかった。そこは覚えてたんだ」勇樹が笑う。香子も嬉しくなって笑いかけたところで、ふと気づいた。園内が妙に静かだ。入口にも、ほかの客の姿がない。「今日は、お休みなのですか?」「いや」「でも、誰も……」「今日は貸し切り」香子は勇樹を見た。「…………え?」「貸し切ったんだ」あまりにも平然と言うので、一瞬意味が分からなかった。「この遊園地を、ですか?」「うん」「全部……?」「全部」香子は絶句した。勇樹は
数日後。美紗は自分の記事についたコメントを眺めていた。『こんな妹がいるのに帰らないって何なんだろ』『美紗さん、本当に優しい』『お姉さんも意地張ってないで一度くらい家族と話せばいいのに』画面を滑らせるたび、同じような言葉が並んでいる。美紗は満足そうに笑った。やはり、自分は間違っていない。勇樹だけがおかしいのだ。そのとき、通知が届いた。先日取材を受けた週刊誌の記者からだった。《追加で少しお伺いしたいのですが、現在、お姉さまがどちらにいらっしゃるかご存じですか?》美紗の指が止まる。香子がどこにいるのか。正確な住所は知らない。けれど――。《来栖さんと一緒にいると思います》そう返そうとして、美紗は一度消した。そして、《詳しいことは分かりません。ただ、姉が家に戻っていないのは事実です》とだけ送った。すぐに返信が届く。《ありがとうございます。ご家族としては、今も帰ってきてほしいというお気持ちでしょうか?》美紗は笑った。《もちろんです。姉の部屋も、そのままにしてあります》送信する。その足元には、香子の部屋から持ち出した破れた本が転がっていた。翌日。新しい記事が公開された。《「姉の部屋は今もそのまま」鷹宮香子さんの妹が明かした家族の思い》記事には、美紗の言葉が並んでいた。――母は今も姉を心配している。――いつ帰ってきてもいいように、部屋も残してある。――家族として話がしたい。そして記事の最後には、こう書かれていた。《一方、香子さんは現在も鷹宮家には戻っていないという。来栖の自宅で生活しているとの情報もあり、二人の関係に改めて注目が集まりそうだ》「同棲ってこと?」「もう完全に彼女じゃん」「家族が部屋残して待ってるのに男の家に住んでるの?」「世界的スターのタワマンなら実家よりそっち選ぶわなw」「妹かわいそ。部屋までそのままにして待ってるんだ」記事は瞬く間に広がっていった。その頃、香子は勇樹の家で洗濯物を畳んでいた。勇樹のシャツを手に取り、丁寧に皺を伸ばす。以前なら、他人の家でこんなことをしている自分に落ち着かなかっただろう。けれど今は違う。ここで何かできることがあるのが、嬉しかった。玄関が開く音がする。「ただいま」香子の顔がぱっと明るくなった。「お帰りなさいませ」リビングへ入ってきた勇







