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第2話

last update publish date: 2026-09-27 20:25:12

 契約書に署名してから迎えた、最初の土曜日の朝。

 ソユルは普段よりもずっと早く目を覚ました。ベッドボードに掛けられた時計は午前7時を指していた。この3年間、出勤のたびに身につけてきた端正なスラックスとブラウスの代わりに、クローゼットにかかっている服を1着ずつ取り出してはベッドの上に並べた。

 ――本物の恋人に見えること。

 契約書に明記された非公式の第2条が、頭の中をぐるぐると巡っていた。今日、ドヒョンと約束されているスケジュールは、清潭洞(チョンダムドン)のセレクトショップ訪問と、近隣のレストランでの昼食だった。一見すれば単なる週末のデートのように見えるが、実情は会長の目を欺くための「恋人の資格検証」の舞台だった。

 ソユルは無難なパステルトーンのカーディガンとプリーツスカートを選び、身にまとった。鏡の前に立ち、唇にピンク色のリップをのせると、普段のオフィスルックで武装していたときとは明らかに異なる、柔らかな雰囲気が漂った。

 ――できるわ、ハン・ソユル。ただの業務の延長線上にすぎないんだから。

 自分自身に何度も言い聞かせたが、胸の奥から湧き上がってくる不慣れな高鳴りまでは、完全に抑え込むことができなかった。

 午前11時、清潭洞のプライベートショールームの前。

 ソユルが待ち合わせ場所に到着すると、見慣れた黒のセダンが道路脇に滑らかに停車した。運転席から降りてきたドヒョンは、普段の隙のないスーツ姿ではなかった。濃いネイビーのカーディガンにスリムフィットのスラックスを合わせたその姿は、いつもよりずっと親しみやすく見えたが、彼特有の他者を寄せつけないオーラは相変わらずだった。

「早く来ましたね、ハン代理」

 車から降りたドヒョンが、ソユルに向かって歩み寄ってきた。彼の視線が、ソユルの装いを上から下へとゆっくりと見定めた。ソユルは気が気でない心地で、彼の反応を待った。

「清潔感があって悪くはないが……もう少し華やかさが必要ですね」

「え?」

「会長は私の好みを熟知しておられる。私が彼女を作ったとしたらどんなスタイルを贈るか、監視役が報告書に書き上げるはずだが、これでは少々平凡すぎる」

 ドヒョンはショールームのガラス扉を開け、ソユルに先に入るよう手で促した。

 ショールームの内部は、最上位VIPのためだけに用意された高級感あふれる空間だった。店舗のマネージャーがドヒョンに気づき、即座に丁重な一礼をした。

「チャチーム長、いらっしゃいませ。仰っていたラインナップはあらかじめご用意しております」

「ありがとう。こちらのハン代理に似合いそうな衣装を何着か見せてほしい。アクセサリーも含めて」

 マネージャーの案内に従い、ソユルはフィッティングルームへと入った。スタッフが次々と持ってくる服は、どれも洗練された高級デザイナーズブランドの新作ばかりだった。最初に身につけて出てきたのは、ラベンダー色のシルクドレスだった。

 ソユルがカーテンを開けて外に出ると、フィッティングルームの前のソファに腰掛け、書類に目を通していたドヒョンが顔を上げた。

「いかがでしょうか……?」

 ソユルがぎこちなく尋ねると、ドヒョンは頬杖をつき、じっとソユルを見つめた。彼の深い瞳に、ソユルの姿が鮮明に映り込む。

「色味はいいが、肩のラインが少し不自然ですね。別のものに変えましょう」

 続いた2着目、3着目の衣装。ドヒョンは恐ろしいほど繊細にフィット感と雰囲気をチェックした。それは恋人に向けた愛情のこもったアドバイスというよりは、事業プレゼンに提出するデザイン案を検閲する、完璧主義のチーム長そのものの眼差しだった。

 最後にソユルが着て出てきたのは、淡いクリーム色のラップスタイルのドレスだった。優美に落ちるネックラインと、ウエストのラインを自然に引き立てるデザインが、ソユルの白い肌と完璧に調和していた。

 フィッティングルームのカーテンが開いた瞬間、ドヒョンの動きが一刹那だけ止まった。書類を握っていた彼の指先が、かすかに強張る。

「チーム長?」

 ソユルが呼びかけると、ドヒョンはすぐにいつもの無関心な表情を取り戻し、席から立ち上がった。

「それにしましょう。一番よく似合っている」

 ドヒョンは自ら店内に置かれたジュエリーのトレイへと歩み寄り、小ぶりなダイヤのドロップピアスを一つ手に取った。そして迷うことなく、ソユルの前へと歩み寄ってきた。

「少しじっとしていて」

 ドヒョンが手を伸ばし、ソユルの右耳にピアスをあてがった。男性特有の涼やかでかすかな香水の香りが、ソユルの鼻先をかすめた。間近に迫ったその大きな体躯と、静かな呼気に、ソユルは息を呑んだ。

「チーム長、私が自分で……」

「じっとしていなさい。周囲の視線があります」

 ドヒョンの指先が、ソユルの耳たぶをかすめた。ほんの些細な摩擦にすぎなかったが、まるで火花が散ったかのようにソユルの肌が熱く焼けるようだった。ドヒョンは耳たぶをそっといじりながら、キャッチを固定した。その手つきは精緻でありながら、奇妙な艶っぽさを錯覚させた。

「完璧だ」

 ドヒョンが満足そうに低く呟いた。しかし、ソユルの心臓はすでに制御不能の暴走状態に陥っていた。

 衣装合わせを終えた二人は、ショールームの近くにある高級イタリアンレストランへと移動した。大きなガラス窓越しに屋外の庭園が一望できる、テラス席だった。

 料理が運ばれてくる前、ドヒョンはテーブルに置かれたブラインドの隙間越しに、レストランの隅の席を顎の先で指し示した。

「7時の方角、入口側の2人掛けテーブルに座っている、中折れ帽をかぶった男が見えますか?」

 ソユルは自然を装って視線を向けた。新聞を広げて持っている男が目に入った。

「会長専属の随行秘書が雇った人間です。私が誰と会い、どんな会話を交わしているのかを密着監視している。今日私たちがここで見せる一挙手一投足が、そのまま会長への報告書に記載されることになります」

 ソユルはごくりと唾を飲み込んだ。実感が湧いてきた。これは真剣勝負に等しい演技の場なのだ。

「さて、では今から呼び方を変えます」

 ドヒョンがグラスの水を一口含みながら言った。

「会社の外では『チーム長』『ハン代理』という単語は一切禁止です。練習してみましょう。私の名前を呼んでみてください」

 ソユルは唇をもごもごさせた。この3年間、胸の中だけで何千回と呼んできたその名前。いざその男の顔を正面から見据え、口に出して呼ぼうとすると、舌が強張って動かなくなりそうだった。

「……ド、ドヒョンさん」

 ソユルの声がかすかに震えた。ドヒョンはわずかに眉をひそめた。

「硬すぎますね。ビジネスミーティングの場で取引先の社長の名前を呼んでいるようだ。もう少し自然に、優しげに」

「ドヒョンさん……」

「もう一度」

「ドヒョンさん、お料理が来ました」

 今度は少しマシになったのか、ドヒョンがふっと笑みをこぼした。彼が笑う姿を、こんな間近で見たことがあっただろうか。ソユルは瞬く間に視線を奪われてしまった。

「そう、そうやって笑いながら呼ぶんです。では、私も呼んでみましょう」

 ドヒョンは姿勢を正し、ソユルの目をまっすぐ射抜くように見つめた。その瞳に、奇妙な熱が宿り始める。

「ソユルさん」

 その低く奥深い声がソユルの名前を呼んだ瞬間、ソユルは全身の血が逆流するような戦慄を覚えた。

 ――ソユルさん。

 夢の中でさえ呼ばれたことのない響きだった。ドヒョンの口から紡がれた自分の名前が、これほどまでに不慣れで、酷なほど甘いものだとは思わなかった。ソユルの頬が一瞬で赤く染まった。耳の際まで熱い感覚がせり上がってくる。

 ソユルが慌てて俯くと、ドヒョンはそれを単なる「演技の練習に対する緊張」と誤解したように頷いた。

「いいですね、その照れたような表情、実に素晴らしい。監視役の目には、完全に恋に落ちた女性に見えるはずだ。ハン代理……いや、ソユルさんは演技の才能がありますね」

 ソユルは心の中で自嘲の笑みを禁じ得なかった。

 ――演技なんかじゃないのに、チーム長……いいえ、ドヒョンさん。私は今、演技なんかしていません。

 3年間押し殺してきた本物の感情が湧き上がってくるのを隠すため、破裂しそうな胸を必死で押さえつけなければならなかった。この男は、ソユルのこの真実の震えさえも「素晴らしい演技」として片付けているのだ。巨大な誤解の壁が、ソユルの心を苦々しく引っ掻いて通り過ぎていった。

 食事を終えた後、二人はレストランに併設されたプライベートな遊歩道へと足を踏み入れた。

 青々と茂る木々が木陰を作る、こぢんまりとした小道だった。しばらく歩いたところで、ドヒョンが耳打ちするように低く警告を発した。

「監視役が5メートル後ろからカメラを構えてついてきています。今がハイライトです」

 ソユルの肩が強張った。

「どうすれば……?」

「もっとも決定的なカットを一つ作って見せなければ。会長がこれ以上疑えないように」

 その言葉が終わるや否や、ドヒョンは歩みを止め、ソユルの体を自分の方へとぐいと引き寄せた。

「あっ――」

 ソユルが驚きのあまり短い悲鳴を上げる間もなく、ドヒョンの大きな手がソユルの腰を、優しく、しかし力強く抱き寄せた。

 二人の距離が一瞬にして消滅した。ソユルの鼻先がドヒョンの胸元に触れそうなほど、危ういまでに密着した。ドヒョンの硬い体温と涼やかな香水の香りが、ソユルの感覚を丸ごと麻痺させた。

「チーム長……いいえ、ドヒョンさん?」

 ソユルが震える瞳で彼を見上げた。ドヒョンの視線はソユルの瞳を通り過ぎ、震えている彼女の赤い唇へと留まっていた。

 ドヒョンの右手がソユルの頬をそっと包み込んだ。そして、ハラリと落ちてきたソユルの髪を一筋、耳の後ろへと優しく流した。彼の親指が、ソユルの頬の肌をなぞるように触れる。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 ソユルの心臓の音が、遊歩道全体に響き渡るのではないかと思うほど激しく脈打った。ドヒョンの顔がゆっくりと近づいてくる。唇と唇が触れ合うまで、残りわずか1センチの距離。吐息が互いの唇の上で絡み合った。

 誰の目から見ても完璧な、恋人たちの熱烈なキスの直前の瞬間だった。

 カシャッ――!

 はるか遠くの木々の合間から、ごく微かなカメラのシャッター音が聞こえてきた。監視役が決定的瞬間を捉え、写真を撮ったのだ。

 その音を耳にしたドヒョンの瞳に、一瞬だけ役者らしい冷徹な光がよぎった。

 しかし、ドヒョンはすぐには身を引かなかった。ソユルの頬に添えた手に少しだけ力を込め、彼女の耳元に唇を寄せて低く囁いた。

「よくやりました、ソユルさん」

 彼の吐息が耳たぶをくすぐった。

「今のは……本物の恋人のようでした」

 ドヒョンはゆっくりと顔を離し、完璧な実業家の笑みを浮かべてみせた。彼の瞳には、任務を完遂したという満足感だけが満ちていた。

 しかし、その偽りのキスの直前、彼の腕の中で息さえまともに吸えずに硬直してしまったソユルの胸の奥には、残酷なほど苦い痛みと恐怖が芽生えていた。

 ――本物の恋人のようだった、だなんて……。

 ドヒョンにとってはスマートに成功させたビジネスのショーにすぎなかったが、ソユルにとっては、その1秒こそが3年間の片思いの中で最も残酷で、地獄のような瞬間だった。

 残された時間は、あと12日。

 果たしてソユルは、この巨大な嘘の劇の中で、自らの心を最後まで守り抜くことができるのだろうか。

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