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第2話

Auteur: 九ノ瀬
楓は電話を切ると、そのまま病院へ向かった。

後頭部の傷は3針縫い、医師からは水に濡らさないようにと言われた。

ぼんやりとした頭で頷きながら診察室を出ると、病院の入り口近くに弘樹のマイバッハが停まっていた。

少し空いている窓の隙間から、結衣が弘樹に縋りついて泣いているのが見える。

「弘樹、あの時はごめんなさい……」結衣は声を詰まらせた。「許してなんて言わない。でも、離れなきゃいけない事情があったの。親に無理やり海外へ連れ出されて、スマホまで取り上げられて……ずっと連絡したくても、できなかったの」

弘樹は黙って座ったまま。その横顔は氷のように冷たい。

少し離れた場所からその様子を見ていた楓は、足が地面に縫い付けられたかのように動けなくなった。

「で、今さら何のために戻ってきたんだ?」弘樹が低い声で言った。

顔を上げた結衣の頬を、涙が伝う。「あなたが忘れられなかったから……でも、今の弘樹には石田さんがいることは分かってる。だから、ただ遠くから見ているだけでいいの……」

影の中に立つ楓の前で、弘樹は長い沈黙のあと、そっと結衣の涙を拭った。

「責めないさ」と彼は言った。「楓のことは……妹としか思ってないから。お前が思うような関係じゃない」

すると、結衣は目を輝かせ、涙を拭い笑顔を見せた。「本当?」

弘樹が頷く。

嬉しさのあまり涙を流した結衣が、弘樹の胸に飛び込んだ。

楓は自嘲に満ちた笑いを浮かべ、くるりと背を向けるとA国大使館へ向かった。

……

窓口の係員は書類を渡しながら「また2週間後にビザを受け取りに来てください」と言った。

礼を言って外へ出ると、もう日が暮れていた。

楓は弘樹が暮らす屋敷へと戻った。

この3年間、弘樹の世話をするため、ここに住んでいた。

かつて、楓はここを自分の家だと思っていた。玄関には彼女が選んだスリッパを並べ、リビングには彼女の多肉植物を飾り、キッチンには「胃腸に優しい食事リスト」を貼っていた。

しかし今、その痕跡をすべて自分の手で消していく。

荷物をまとめていた時、引き出しの奥底から写真が一枚出てきた。

それは、弘樹のリハビリが成功した日に撮ったものだった。珍しく笑っている弘樹の横で、楓も三日月目の笑顔を浮かべている。

何度も何度も指で触れたせいで写真はくたびれ、色も褪せていた。

じっと見つめたあと、楓はそれを静かにゴミ箱へ投げ捨てた。

もう夢から覚めなければいけない。

翌朝、弘樹から電話がかかってきた。

「胃薬を忘れたから、会社まで持ってきてくれ」寝起きのような声で、まるで昨日の出来事が何もなかったかのようにとても自然だった。

楓は数秒黙って、「わかった」と答える。

会社に着くと、高級そうな紙袋を持った結衣と偶然鉢合わせた。

「偶然ね」と、結衣が笑顔で言った。「弘樹にお昼持ってきたんだけど、一緒に行く?」

楓は答えることなく、結衣の後ろをついて社長室へと向かった。

書類を見ていた弘樹は、一緒に入ってきた二人を見て眉をひそめる。「なんで一緒なんだ?」

「偶然会ったの」そう言いながら、結衣は高級そうな紙袋から中身を取り出す。その瞬間、肉の脂っぽい匂いが社長室中に広がった。「有名な鉄板焼きのお店で、わざわざA5ランクの霜降りステーキをテイクアウトしてきたの」

楓はさっと顔色を変えた。「弘樹は胃が悪いので、脂っぽいものは食べられないんです」

しかし、弘樹は一度楓をちらりと見てから、ナイフとフォークを手にした。「たまには大丈夫だ」

テカテカと光る肉から、脂が滴り落ちる。

バッグの中の薬を握りしめる楓の手は、白くなるほど力が込められた。

すぐに弘樹の額から汗が吹き出し、ペンを持つ指先が少し震え始めた。

「弘樹?大丈夫?」結衣が心配そうに聞く。

「ああ」と弘樹は無理やり笑みを浮かべながら言った。「まだ少し仕事が残っているから、先に帰っててくれるか?」

楓は一度だけ弘樹を見つめると、テーブルに薬を置き、何も言わずに部屋を出た。

エレベーターで下に降りた時、楓は言わずにはいられなかった。「弘樹の胃はかなり悪いんです。だから、今後の食事は気をつけてあげてください」

しかし、結衣が突然笑った。「石田さん、自分の立場がまだ分かってないの?

弘樹にとって、あなたは身の回りの世話を焼かせるための便利な道具でしかないの。だから、そういう細かい気遣いが求められるわけ。でも私は違う。弘樹に愛されてるから、何も気にすることなんてないの」

結衣は楓に一歩近づき、唇を歪めた。「私が毒を与えても、弘樹はそれを喜んで食べる。そんなのも分からないかな?」

胸が引き裂かれるような痛みを感じ、楓の指先は震えた。

それが現実だってことは、痛いほど分かっている。

自分は3年間かかって、ようやく弘樹に少しだけ見てもらえるようになった。

だがそれに対し、結衣は何もせずとも、弘樹に毒さえも飲ませることができるのだ。

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