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身代わりは御免、前夫は追憶の果てに沈め

身代わりは御免、前夫は追憶の果てに沈め

Von:  しょうこAbgeschlossen
Sprache: Japanese
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24Kapitel
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Zusammenfassung

切ない恋

ひいき/自己中

愛人

クズ男

後悔

妻を取り戻す修羅場

不倫

宮城裕康(みやぎ ひろやす)と結婚したとき、皆川和佳奈(みながわ わかな)は22歳、彼は32歳だった。 それから2年間、裕康から注がれる優しさは尽きることがなかった。 望むものは何一つ惜しまず与えられ、まるで壊れやすい宝物のように溺愛される日々。 ただ一つ、毎晩繰り返される際限のない情事を除いては。 和佳奈がいくら涙をこぼして許しを乞うても、彼は低く甘く笑うだけで、決して解放してはくれなかった。 裕康には有り余る富と、溢れんばかりの愛があった。そのすべてが自分だけのものだと、和佳奈は信じて疑わなかった。 ――実の父親が息を引き取った、あの日までは。 和佳奈は裕康に何回も電話をかけ続けたが、すべて一方的に切られた。 その直後、親友の寺山綾香(てらやま あやか)からメッセージと共に1枚の写真が届いた。 【和佳奈、これ旦那さんじゃない?パレーシアの街角で見かけたんだけど、女の人と抱き合ってる】 震える指で画面を開いた瞬間、和佳奈は全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。 そこに写る男は、紛れもなく裕康だった。 そして、その腕に抱かれていたのは――母親の妹である叔母、浅見清良(あさみ きよら)だった。

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Kapitel 1

第1話

父・皆川信太郎(みながわ しんたろう)が息を引き取ってから3日目、裕康はようやく帰宅した。

玄関のドアを開けた瞬間、ソファで小さく縮こまり、目を腫らしてやつれ果てた和佳奈の姿が目に飛び込んできた。

激しい罪悪感に駆られた裕康は大股で駆け寄り、和佳奈の華奢な体を抱きしめた。

「和佳奈……すまない。急な会議でパレーシアへ飛ばなきゃならなくて、時差のせいで電話に気づけなかった。葬儀にも立ち会えず、本当に申し訳ない。

俺が悪かった。埋め合わせは必ずする。欲しいものは何でも買ってやるから、な?」

和佳奈は夫の言い訳を静かに聞いていた。

だが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。

何も言わずにバッグから厚みのある2部の契約書類を取り出すと、肝心の表題を付箋で巧みに隠し、最後の署名欄だけを広げて裕康へ差し出した。

「ヒロさん。私、この2つが欲しい。サインして」

裕康は安堵のため息を漏らし、慌ててペンを走らせて署名した。

一切の躊躇もないその手つきに、和佳奈の目頭が熱くなった。

「中身も見ないでサインするなんて……とんでもなく高価なものをおねだりしてたらどうするの?」

裕康は困ったように微笑み、和佳奈を優しく抱き寄せた。

「俺たちは夫婦だろう?俺の財産はお前のものだし、子どもが生まれたらお前とこの子のものだ。欲しいものは何だって手に入れていい」

そう言って身をかがめると、和佳奈のお腹に耳を寄せて赤ちゃんの気配を確かめた。

「今日は妊婦健診の日じゃなかったか?赤ちゃんはいい子にしてる?俺も一緒に病院へ行こう」

和佳奈は口を開かなかった。

肯定も否定もしなかった。

裕康はそれを同意と受け止め、体を労わるように支えて車へ乗せた。

車内には息の詰まるような沈黙が漂い、互いに言葉を発しなかった。

裕康が場を和ませようと話題を探し始めたその時、スマートフォンが無機質に鳴り響いた。

「裕康、帰国したの。会いたいな」

助手席との距離が近く、受話口から漏れた清良の甘えた声は、和佳奈の耳にもはっきりと届いた。

和佳奈は無意識に指先を強く握りしめた。

直後、裕康は通話を切り、取り繕うような笑みを向けた。

「急な仕事が入っちゃった。健診、1人で行ってこられるか?」

和佳奈はその稚拙な嘘を暴くこともせず、静かにドアを開けて車を降りた。

身を切るような木枯らしの中、通りかかったタクシーを拾った。

窓の外を流れる街並みを眺めていると、過去の記憶が堰を切ったように胸へ押し寄せてきた。

数年前、和佳奈はひき逃げ事故に遭った。

犯人は車を急発進させて逃走し、厄介事を恐れた通行人も誰も助けようとしなかった。

血の海に倒れて息も絶え絶えだった自分を、救い上げるように抱きとめてくれたのが、通りすがりの裕康だった。

あの日、10歳年上の男に、和佳奈はひと目で恋に落ちた。

幸運なことに、成熟した包容力を持つ裕康もまた、和佳奈を愛してくれた。

1年の交際を経て、2人は周囲の祝福を受けて結婚した。

年上ゆえの余裕なのか、彼には尽きることのない忍耐と優しさがあった。

結婚生活の2年間、一度も喧嘩をしたことはなく、記念日や贈り物を欠かされたこともない。

裕康はどんなときも和佳奈の気持ちを最優先にしてくれた。

――ただ一つ、ベッドの上を除いて。

30を過ぎた男が、どうしてこれほど底知れない体力を持っているのか不思議でならなかった。

幾夜も啜り泣いて許しを乞うたが、裕康は妖しく微笑み、何度も何度も口づけを重ねるばかりだった。

「和佳奈を愛しているからこそこうなるんだ。

たっぷり求めて抱き潰さないと、俺の愛しい和佳奈が赤ちゃんを産んでくれないだろう?」

そうして結婚3年目、和佳奈はようやく新しい命を身籠もった。

*

3日前、父の信太郎が突発性の脳梗塞で倒れた。

病院へ駆けつけた和佳奈の耳に届いたのは、苦しい息の下で裕康の名を呼び続ける父の掠れた声だった。

婿の顔を一目見たいと繰り返し懇願する父。

命が消えゆく間際に愛娘を裕康へ託したいのだと察し、誰もが代わる代わる連絡を試みてくれた。

だが、和佳奈が充電の切れるまで99回も発信し続けたにもかかわらず、裕康に繋がることは最後までなかった。

信太郎は無念を残したまま、息を引き取った。

和佳奈は、夫が本当に仕事で手一杯なのだと信じようとした。

父の葬儀を終えた直後、親友の綾香からあの写真が送られてくるまでは。

自分の夫が、なぜ実母の妹である叔母とパレーシアの街角で抱き合っているのか。

混乱する頭を抱え、和佳奈は立ち入りを固く禁じられていた裕康の書斎へ足を踏み入れた。

その瞬間、全身が凍りついた。

そこにあったのは、すべて清良にまつわる品々だった。

壁一面を埋め尽くす写真、大切に保管されたラブレター、渡されなかった無数のプレゼント、そして今なお更新され続ける分厚い日記。

その日記を開き、和佳奈は残酷な真実を知った。

裕康が生涯で愛した女は、2人しかいない。

1人は、自分。

そしてもう1人は、叔母の清良。

2人は学生時代からの恋人同士で、その交際は10年に及んでいた。

愛し合っていた頃、裕康は彼女のために海を渡り、原生林を抜け、夕陽に染まる雪山で熱い口づけを交わした。

憎しみ合っていた頃は、数億円もの宝石を床に叩きつけて砕き、別れた後もプライドを捨てて海外まで縋りついた。

清良に新しい恋人ができたと知ったときには、胃出血を起こすまで浴びるように酒を呷った。

裕康の今までの人生における喜怒哀楽のすべては、清良のためにあった。

そして和佳奈と結ばれた理由すらも。

破局の後、清良の面影を宿した「身代わり」を欲しただけに過ぎない。

だからこそ、姪である和佳奈に目をつけた。

和佳奈の顔立ちは、清良にあまりにも似ていたからだ。

ひき逃げ事故の現場に居合わせた際も、わざと命がけを装って救い出し、一目惚れするように仕向けた。

夜ごと体を貪り、妊娠へ執着したのも同じ理由。

和佳奈に似た子どもが欲しかったのではない。清良の血と面影を宿した子どもが、どうしても欲しかった。

真実を悟った瞬間、和佳奈の心は粉々に砕け散った。

慈しみも愛も、注がれていた真心さえも、すべて周到に仕組まれた偽り。

最初から最後まで、完璧に欺かれていた。

いくら若くても、過去を清算してからでなければ新しい相手を迎え入れてはならないことくらい分かる。

何より、自分は誰かの身代わりではない。

誰の代替品でもない、和佳奈という1人の人間だ。

出会った最初の1秒から騙し続けてきた男だ。

ならば、お返しにこちらも1度だけ騙してやる。

先ほど、裕康には何も告げなかった。

中身も確かめずに署名した2部の書類。

1部は、離婚届。

そしてもう1部は、人工妊娠中絶の同意書だ。

身代わりとして生きるつもりはない。

心に自分などいない男は、もう要らない。

和佳奈は産婦人科の診察室へ入り、主治医の前へ手術同意書を真っ直ぐ差し出した。

「お願いします。この子を、堕ろしてください」

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第1話
父・皆川信太郎(みながわ しんたろう)が息を引き取ってから3日目、裕康はようやく帰宅した。玄関のドアを開けた瞬間、ソファで小さく縮こまり、目を腫らしてやつれ果てた和佳奈の姿が目に飛び込んできた。激しい罪悪感に駆られた裕康は大股で駆け寄り、和佳奈の華奢な体を抱きしめた。「和佳奈……すまない。急な会議でパレーシアへ飛ばなきゃならなくて、時差のせいで電話に気づけなかった。葬儀にも立ち会えず、本当に申し訳ない。俺が悪かった。埋め合わせは必ずする。欲しいものは何でも買ってやるから、な?」和佳奈は夫の言い訳を静かに聞いていた。だが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。何も言わずにバッグから厚みのある2部の契約書類を取り出すと、肝心の表題を付箋で巧みに隠し、最後の署名欄だけを広げて裕康へ差し出した。「ヒロさん。私、この2つが欲しい。サインして」裕康は安堵のため息を漏らし、慌ててペンを走らせて署名した。一切の躊躇もないその手つきに、和佳奈の目頭が熱くなった。「中身も見ないでサインするなんて……とんでもなく高価なものをおねだりしてたらどうするの?」裕康は困ったように微笑み、和佳奈を優しく抱き寄せた。「俺たちは夫婦だろう?俺の財産はお前のものだし、子どもが生まれたらお前とこの子のものだ。欲しいものは何だって手に入れていい」そう言って身をかがめると、和佳奈のお腹に耳を寄せて赤ちゃんの気配を確かめた。「今日は妊婦健診の日じゃなかったか?赤ちゃんはいい子にしてる?俺も一緒に病院へ行こう」和佳奈は口を開かなかった。肯定も否定もしなかった。裕康はそれを同意と受け止め、体を労わるように支えて車へ乗せた。車内には息の詰まるような沈黙が漂い、互いに言葉を発しなかった。裕康が場を和ませようと話題を探し始めたその時、スマートフォンが無機質に鳴り響いた。「裕康、帰国したの。会いたいな」助手席との距離が近く、受話口から漏れた清良の甘えた声は、和佳奈の耳にもはっきりと届いた。和佳奈は無意識に指先を強く握りしめた。直後、裕康は通話を切り、取り繕うような笑みを向けた。「急な仕事が入っちゃった。健診、1人で行ってこられるか?」和佳奈はその稚拙な嘘を暴くこともせず、静かにドアを開けて車を降りた。身を切るような木枯
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第2話
それから3時間後、和佳奈は下腹部を押さえながら帰宅した。丸1日休んだ後、鏡に映る青白い顔を見つめ、震える手で口紅を引いた。手早く薄化粧を施して顔色を取り繕ったものの、体の奥底から疼く痛みに、背中には冷や汗が滲み続けていた。ブランケットにくるまってソファに横たわると、屋敷の執事に声をかけた。「飾り棚のジュエリーやバッグを、すべてオークションに出品してください。売上金はすべて児童養護施設へ寄付します」ちょうどその時、帰宅した裕康がその言葉を耳にして足を止めた。「どうして急にそんなものを処分するんだ?」和佳奈は伏し目がちに視線を逸らした。「気に入らなくなったから寄付するだけ。お腹の子への徳積みだと思って」裕康はそれ以上追及せず、歩み寄って和佳奈を抱き寄せた。「それもいいな。2、3日したらオークションに連れて行ってやるから、好きなものを選べばいい。空っぽになった棚は、2人でまた少しずつ埋めていこう」子どもをあやすような声を聞きながら、和佳奈は肯定も否定もせず話題を逸らした。「仕事、終わったの?」「ああ、片付いたよ。最近ずっと辛い思いをさせて悪かったな。この1週間はずっと家にいて、お前と赤ちゃんのそばにいるから」そう言って裕康が愛おしそうにお腹へ手を伸ばそうとしたが、和佳奈はその手を咄嗟に遮った。裕康は手元に視線を落とし、和佳奈のお腹が以前より平らになっているように見えたのか、わずかに眉を寄せた。訝しんで口を開こうとしたその瞬間、和佳奈のスマートフォンが鳴り響いた。画面に表示された叔父・浅見賢二(あさみ けんじ)の名を確かめ、和佳奈は通話ボタンを押した。「和佳奈か?昨日、清良が帰国してな。みんなで本家に集まって食事でもしようという話になったんだが、顔を出せるか?」「私、少し体調が優れなくて……」断りの言葉を最後まで口にする前に、裕康が横からスマートフォンを奪い取った。「和佳奈を連れて、時間通りに伺います」食事会を待ちきれないとばかりに即答する夫の姿に、和佳奈の胸が鋭く軋んだ。父が息を引き取ったあの日、どれほど縋るように掛け続けても繋がらなかった99回もの電話が脳裏をよぎった。――そうか。本当に愛している相手のためなら、この男はどんな機会も逃さない。妻の都合など顧みず、父親を亡く
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第3話
食事が終わる頃には、裕康はすっかり泥酔していた。親戚たちもこの状態のまま帰すわけにはいかないと心配し、本家に泊まっていくよう強く勧めてきた。和佳奈は使用人を呼び、2人掛かりで夫をゲストルームへ運んだ。身支度を整えさせ、寝室のメイン照明を落として枕元のスタンドライトだけを薄暗く灯した。まもなくして、裕康がおぼつかない手つきで薄く目を開け、和佳奈の体を力任せに抱き寄せた。「清良……戻ってきたのは、俺のためなんだろう?」和佳奈は全身を強張らせた。人違いだと告げる気力すら湧かなかった。深く息を吸い、静かに問い返した。「……なら、あなたはどうなの?今夜あんなに酔い潰れたのは、誰のため?」「お前だよ、清良。お前以外にいるわけないだろう。分からないのか?」分かりきっていた答えだった。それでも、いざ耳にすると胸を抉られるような激痛が走った。かつて愛のために胃出血を起こすまで浴びるように酒を呷っていた男が、なぜ自分の前では一滴も口にしない下戸のように振る舞っていたのか。その理由がようやく腑に落ちた。酔った勢いで本心を零し、勘づかれるのを恐れていただけだった。和佳奈はぎゅっと拳を握りしめた。息が詰まり、裕康の腕を振りほどいた。洗面所に2時間籠もり、便座に腰を下ろしたまま、乱れた感情をようやく落ち着かせた。部屋に戻ると、ベッドの上にいたはずの裕康の姿が消えていた。寝室の扉を静かに開けると、ベランダのライトがちょうど消えたところだった。足音を忍ばせて近づき、ガラス窓越しに外を窺った。そこには、並んで立つ裕康と清良の姿があった。夜の帳が表情を覆い隠していたが、押し殺した低い声ははっきりと耳に届いた。「昨日はもうエリュシオン州には戻らないって言っていたじゃないか。どうして急に前言を撤回したんだ?」「あなたこそ、どうして和佳奈と結婚したことを私に黙っていたの?」清良の平然とした声に、裕康の胸中でくすぶる炎が一気に燃え上がった。残されていた僅かな理性が瞬く間に崩壊し、清良の手首を乱暴に掴み上げた。「俺がどうして和佳奈と結婚したのか、お前が一番よく知っているはずだ。あの子はこんなにもお前に似ていて、お前の血を引いている。和佳奈と一緒にいれば、堂々とお前に会えるからだ。数日前のパレーシア
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第4話
和佳奈は裕康をじっと見つめた。「真夜中に出て行ったんじゃなかった?私、お墓参りに来るなんて一言も言ってないのに、どうしてここが分かったの?」裕康は自然な仕草で和佳奈の手を握った。「昨夜、急に胃の調子が悪くなってな。お前が洗面所にいたから、起こすのも悪いと思って1人で病院へ行ったんだ。今朝戻ったら、清良さんが一緒にお参りに行きたいと言っていると聞いてついてきたんだよ」――完璧な嘘だ。和佳奈は短く息を吐いて頷くだけで、それ以上は追及しなかった。霊園に着き、墓石に並んで刻まれた両親の名を目にした瞬間、和佳奈の胸にツンとした痛みが込み上げた。この世界で、無条件に自分を愛してくれた2人はもういない。潤んだ瞳に気づいた清良が歩み寄り、そっと和佳奈の肩に手を添えた。「ご両親は亡くなってしまったけれど、和佳奈には裕康さんがいるわ。一生大切にしてくれる。もうすぐ赤ちゃんも生まれて、新しい家族ができるじゃない」裕康の気持ちを代弁するように、清良は確信に満ちた口調で告げた。裕康もすぐに言葉を重ねた。「ああ。お前とお腹の子は俺が一生守る。だから、悲しまないでくれ」その言葉を聞きながら、和佳奈の胸中は冷ややかな感情で満たされていた。裕康が生涯守ると誓うのは、自分への愛でも夫婦の責任でもない。もう1人の女のため、そして歪な欲望を満たすためだ。和佳奈は渦巻く感情を押し殺し、両親の墓石を見据えた。「ええ……私、きっと新しい家庭を築いてみせる」――そこに、裕康の居場所など二度とないけれど。*墓参りを終える頃には、小雨がぱらつき始めていた。後部座席に清良と和佳奈が並んで座り、裕康が車を走らせた。重苦しい沈黙に耐えかねたのか、清良が口を開いた。「南ノ町に新しく洋食レストランができたらしいの。お昼に寄ってみない?」裕康は即座にウインカーを出し、ハンドルを切った。「オーナーがイストリア人で、本格的な味を出すらしいよ」「そうなの?私がパレーシアで食べたピザなんてね……」2人はそこから堰を切ったように会話を弾ませた。洋食の話題から北エリュシオン州の街並み、最近の出来事まで、一方が口を開けばもう一方が間髪入れずに言葉を返した。阿吽の呼吸は、長年連れ添った恋人同士そのものだった。和佳奈は自嘲するよ
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第5話
裕康の心臓が激しく跳ね上がった。勢いよく振り返ると、血の気を失った顔のまま和佳奈が倒れ込んでいった。裕康は弾かれたように駆け寄り、ぐったりとした妻を抱き上げると、脇目も振らず病院へ車を走らせた。騒然とした空気の中、和佳奈は鋭い痛みに引き戻されるように薄くまぶたを開けた。視界の端で、裕康が必死の形相で医師に頭を下げていた。「妻は妊婦なんです。妊娠3ヶ月に入ったところなので、使う薬にはどうか細心の注意を払ってください」処置室へ運び込まれ、服をめくった看護師が、平らな下腹部を目にして小さく声を上げた。「3ヶ月……?何かの間違いでしょうか。とても妊娠しているようには見えませんが……」不審そうに首を傾げ、カルテを確認しようとする看護師を、和佳奈は激痛を堪えて必死に呼び止めた。「看護師さん……その、流産してしまって。夫には直接伝えたいので……どうか内緒にしていただけませんか」詳しい事情は分からずとも、流産の重さは想像がつくのだろう。看護師はそれ以上追及せず、和佳奈の願いを受け入れてくれた。麻酔を使えない状態での傷口の洗浄と処置は、気を失いかけるほどの激痛だった。焼けただれた皮膚から灼熱感が走り、息を吸うことすら苦行に変わった。全身から冷や汗が噴き出し、1分1秒が永遠のような拷問に思えた。ようやく処置が終わり、和佳奈は病室のベッドへ移された。付き添っていた裕康は痛ましそうに寄り添い、何度も詫びの言葉を繰り返した。「こんなにひどい火傷を負っていたなら、どうして声をかけてくれなかったんだ」奥歯を強く噛み締めすぎて、口の中に鉄の味が広がっていた。脚の上でずっと炎が燃え盛っているかのようだった。全身の熱が上がっていく中、和佳奈は乾いた唇から辛うじて声を絞り出した。「ヒロさんが……あまりにも早く、行ってしまったから」「俺が悪かった……本当にすまない」裕康の瞳に濃い罪悪感が滲んだ。和佳奈が固く握りしめていた拳の中へ、自分の手をそっと滑り込ませた。彼女の爪に皮膚を突き破られ、手の甲から一筋の血が伝い落ちた。赤く滲む血を見つめながら、和佳奈の意識は急速に暗闇へと沈み、深い眠りへ落ちていった。*再び目を覚ましたときには、すでに深夜の静寂が病室を包んでいた。ぼんやりと目を開けると、薄暗がりの中
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第6話
10日間の入院生活を経て、和佳奈の火傷は綺麗にかさぶたになっていた。その間、裕康は毎日病室に詰め切り、水を用意し、医師の指示を手帳へ几帳面に書き留めるなど、至れり尽くせりの看病を続けてくれた。だが、妻が快方へ向かう一方で、看病疲れの出た裕康が体調を崩し、何日も高熱を出して寝込んでしまった。一家に2人の病人が出たと聞きつけ、見かねた清良が手伝いに駆けつけた。2人を車で迎えに行って自宅へ送り届けると、お湯を沸かし、和佳奈の患部に薬を塗り直すなど、家中を忙しなく立ち働いた。「しっかり養生するのよ。あとでサプリメントを持ってくるから、ちゃんと飲んでね」和佳奈は素直に頷いた。運ばれてきた妊婦用サプリメントと1杯の白湯。和佳奈は白湯だけを喉に流し込み、シートから押し出した錠剤はすべてトイレへ放り込んで流した。数日休んでようやく足をついて歩けるようになり、和佳奈は空になったグラスを片付けがてら、陽の光を浴びようと部屋を出た。書斎の前を通りかかった瞬間、中から物が激しく砕け散る高い音が響いた。わずかに開いた扉の隙間から覗き込むと、そこに清良の姿があった。清良は壁一面の写真を呆然と見つめ、だらりと垂らした両手を震わせながら、複雑な表情を浮かべていた。我に返った清良は、壁の写真を引き剥がし、飾り棚の品々を次々と段ボール箱へ投げ入れ始めた。部屋から出てくる気配を察し、和佳奈は慌てて廊下の突き当たりにあるバルコニーの物陰へ身を隠した。まもなく、清良が庭のゴミ集積所へ現れた。プレゼントを丸ごとゴミ箱へ投げ込み、写真やラブレター、あの分厚い日記帳を容赦なく破り捨てた。すべてを終えると、スマートフォンを取り出して裕康を呼び出した。2人はゴミ箱の前で激しい口論を始めた。距離があったため、和佳奈の耳には最後の数言しか届かなかったが、その内容はあまりにも鮮明だった。「こんなもの、書斎に置いておくべきじゃないわ。もし何かの拍子に和佳奈が入ってきて、これを見たらどうするつもりなの」「あいつは書斎の鍵を持っていないし、俺の許可なく入るような真似もしない」「どうしてそう言い切れるのよ。もし入ってしまったらどうするの?あなたを一途に想っているあの子が、これを見たらどれだけ傷つくか考えたことはあるの」「傷ついたから何だって
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第7話
和佳奈は声もなく自嘲の笑みを浮かべ、これ以上聞き耳を立てる気も失せた。背を向けたその瞬間、化粧室から出てきた清良と鉢合わせてしまった。和佳奈は反射的に踵を返し、階段の方へ足早に向かおうとした。数歩も進まないうちに、背後から清良の戸惑う声が降ってきた。「和佳奈……?」和佳奈は取り合わず、ただ歩調を速めた。曲がり角に差し掛かったところで、清良が追いつき手首を掴んできた。こんな場所で顔を突き合わせたくない和佳奈は、そのまま立ち去ろうとした。だが清良は頑なに手を放さず、焦りを滲ませた声で縋りついてきた。「何か誤解しているんじゃない?お願い、私の話を聞いて」もみ合う中、和佳奈は力任せにその手を振り払った。しかし勢い余ってバランスを崩し、階段から足を踏み外しそうになった。清良の顔色がさっと変わり、咄嗟に和佳奈の体をぐっと引き寄せた。手すりにすがりつき、和佳奈はどうにか体勢を立て直した。だがその反動で清良はバランスを失い、階段を転がり落ちていった。全身を強打し、広がる血だまりの中にぐったりと倒れ伏した。頭の中で激しい轟音が鳴り響き、和佳奈は清良を助け起こそうと慌てて階段を駆け下りた。手を伸ばした瞬間、横から凄まじい衝撃で乱暴に突き飛ばされた。壁の角に額をしこたま打ちつけ、溢れ出した血が瞬く間に顔半分を赤く染めていった。激痛に息を呑み、必死で目を開けると、そこには人を殺しかねないほど険悪な裕康の眼差しがあった。裕康はギリリと奥歯を噛み締め、憎悪の籠もった言葉を吐き捨てると、清良を抱きかかえて狂ったように駆け出していった。「万が一清良に何かあったら、絶対に10倍にして償わせてやる!」慌ただしい足音が次第に遠ざかっていった。音すら届かなくなり、和佳奈の視界は滲んで輪郭を失っていく。頭の奥の神経が引き千切られるように脈打っていた。滴る血が床に広がり、意識が急速に遠のいていく。果てしない闇に呑み込まれ、和佳奈は静かに意識を手放した。どれほどの時間が経っただろうか。和佳奈がおぼろげに目を開けると、医師が心底安堵したように大きく息を吐き出す姿が目に入った。「ご自身の生命力に救われましたね。一歩間違えれば植物状態になって、二度と目を覚まさないところでしたよ」医師に短く礼を告げ、和佳
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第8話
病院で過ごした1週間余りの間、裕康は前回の入院時とは打って変わり、2、3日に1度ふらりと顔を出す程度だった。清良の看病と掛け持ちして奔走していると分かっていた和佳奈は、一切の不満を表に出さなかった。退院の日、裕康は車で迎えに来てくれたものの、自宅の玄関前まで送り届けると慌ただしく去っていった。遠ざかるテールランプを見送った直後、和佳奈のスマートフォンに移住手続き完了の通知が届いた。役所で必要書類を受け取り、そのまま窓口で海外転出届を提出して、住民票と在籍記録を完全に抹消した。すべての手続きを終えて屋敷へ戻ると、和佳奈は淡々と身の回りの荷造りを始めた。片付けの途中で、かつて揃えたペアグッズや思い出の写真、生まれてくるはずだった子どものベビー服や玩具が出てきたが、何の躊躇もなくすべてゴミ袋へ放り込んだ。ゴミ集積所に捨て終えたとき、裕康がトランクいっぱいに高級ブランドのバッグを詰め込んで帰宅した。足早に駆け寄り、得意げに見せようとした裕康だったが、ゴミ箱の中に散らばる見覚えのある品々を目にした瞬間、表情を強張らせた。「まだ怒っているのか?だからこんなものを全部捨てたのか?ほら、バッグをたくさん買ってきたんだ。これまでのことは全部水に流して、仲直りしよう」そんなに簡単に忘れられるなら、ここまで1人で苦しむこともなかった。山のように積み上げられた華やかなギフトボックスを見つめ、和佳奈は疲れ切った声で呟いた。「怒ってなんていないわ。プレゼントも、もう要らない」張り詰めた冷ややかな態度に、裕康は焦ったように和佳奈の手首を握りしめた。「最近のお前、どうかしているよ。俺に悪いところがあるなら言ってくれ。話し合って解決しよう」和佳奈は返す言葉もなく、ただ冷たい沈黙を貫いた。裕康がさらに眉を険しく寄せ、問い詰めようと口を開きかけたその時、和佳奈のスマートフォンが甲高い着信音を響かせた。「和佳奈、今すぐ病院へ来てくれ!清良が急に倒れて……検査を受けたら、急性腎不全だって」スピーカーから漏れた報せを聞いた瞬間、隣にいた裕康の理性が音を立てて弾け飛んだ。顔から血の気が引き、長身が激しく震え出した。正気を失ってふらふらと車のキーに手を伸ばす夫を見かね、和佳奈はキーを奪い取り、自らハンドルを握って病院へ急行した。*
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第9話
3日後、ドナー適合検査の結果が出た。悪い知らせは、浅見家の親族からは誰一人として適合者が出なかったこと。そして良い知らせは――適合する腎臓の提供者が見つかり、相手側も提供に合意したことだった。検査結果の通知を受けた和佳奈は、裕康のスマートフォンへ電話をかけた。しかし、コール音が虚しく響くだけで応答はなかった。ここ数日、裕康が適合ドナーを探すために世界中を手配し、不眠不休で奔走していたことを知っていた和佳奈は、自らグループ本社の社長室へと足を運んだ。オフィスの扉の前に辿り着いた瞬間、中から切迫した男たちの声が漏れ聞こえてきた。「裕康、本気で清良に自分の腎臓を提供するつもりなのか!?今のお前は清良の姪と結婚して、和佳奈はお前の子どもを身籠もっているんだぞ。もう過去は断ち切って、目の前の家庭を大切にしろ!」「そうだぞ、清良のためにそこまで身を削る価値が本当にあるのか?腎臓を1つ摘出した後、どんな後遺症やリスクが残るか分かっているのか?和佳奈のことは考えないのか?もうすぐ生まれてくる我が子はどうするんだ!」――清良に腎臓を提供するドナーとは、裕康のことだったのか。和佳奈は頭が真っ白になり、思考が完全に停止した。「これ以上説得するな。腎臓は絶対に提供する。腎臓どころか、俺の心臓だろうと、清良を救うためなら喜んで差し出すさ。和佳奈にはこの件を一切知らせるつもりはない。お前たちも口裏を合わせてくれ。エリュシオン州の大型プロジェクトにかかりきりだとでも言っておけばいい」扉をノックしようと持ち上げていた和佳奈の指先が、残酷な言葉に打ちのめされて力なく下りた。――裕康、あなたって……本当にどこまでも一途で情熱的な男なのね。安心していいわ。私は綺麗さっぱり身を引いて、2人の永遠の愛を祝福してあげるから。和佳奈は深く息を吸い込み、音も立てずに背を向けて立ち去った。屋敷へ戻った和佳奈は、ラスカリア行きの航空券を予約した。*翌朝、早くに目を覚ました。移住手続きはすでに完了しており、今日は離婚届を提出しに行く予定の日だった。タクシーで役所へ向かい、手早く手続きを済ませると、窓口で離婚届受理証明書を受け取った。それから上品なギフトボックスを買い求め、その中に離婚届受理証明書と、あの中絶手術同意書を丁重に
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第10話
手術室からストレッチャーで運び出された裕康は、麻酔の深い痺れからようやく意識を取り戻した。覚醒した瞬間、枕元にいた医師の白衣をがっしりと掴み、切迫した声を絞り出した。「先生……清良……浅見さんはどうなりましたか」医師は慌てて腰をかがめ、落ち着かせるように返した。「手術は無事に成功しましたよ。ただ、まだ麻酔から完全に覚めてはいません。過度なご心配はなさらないでください」だが裕康の耳には、「まだ目を覚ましていない」という言葉しか届かなかった。身をよじってベッドから這い出ようとすると、執刀直後の傷口から皮膚と筋肉が引き裂かれるような激痛が走った。それでも布団を乱暴に跳ね除けて立ち上がろうとする裕康を、医師は血相を変えて制止した。「何をなさるんです。手術直後なんですよ、まだ起き上がって歩ける状態じゃありません」「駄目だ……清良の顔をこの目で見ないことには、どうしても安心できない」必死の制止も耳に入らず暴れる裕康に、医師も説得を諦めて手近な車椅子を手配した。車椅子に乗せられた裕康は、医師に押されて清良の病室へ急いだ。扉をくぐると、ベッドに横たわる清良の姿が視界に入った。静かに眠っていた。やつれた面影はあるものの、呼吸は穏やかで、危険な峠を越えたのは明らかだった。その姿を確かめた瞬間、裕康の胸から緊張が抜け落ち、安堵の息が漏れた。全身を満たす充足感の中、熱い眼差しで清良を見つめた。――今生で結ばれることは叶わなかったけれど、俺は今、心から満たされている。これからは、俺の体の一部がお前の命の中で永遠に生き続ける。これなら……俺たちが結ばれたと、そう思ってもいいだろう?*夕暮れが病室を茜色に染め上げるまで、裕康はその場を離れようとしなかった。夕食の時間が近づき、ようやく名残惜しそうに身を起こすと、控えていた秘書へ転院の手続きを命じた。自分が腎臓を提供したと、清良に知られるわけにはいかない。真実を知れば、清良は間違いなく自分を責めて苦しむからだ。裕康が別の病院へ移って2日も経たず、清良は目を覚ました。報せを聞いた裕康の喜びようは本人以上だった。毎日欠かさず電話をかけ、食事メニューや点滴の様子から、室温に至るまで甲斐甲斐しく気遣いの言葉を注ぎ続けた。だが、冷たい雨が降りしきるある
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