FAZER LOGIN少しだけ、考えた。「じゃあ、行こう。私がきっかけになったことだもの。終わらせなきゃ」再び転送され、降り立ったのは、高瀬家の屋敷の浴室だった。浴室を出て、屋敷の広さに思わず口元が引きつる。さすが、選ばれた存在というだけある。たった5年で、財界の大物になったのだ。背後の階段から、せわしない足音が聞こえた。誰かに背中を押された。「新しい家政婦さん?早く下に行って!高瀬社長が来たよ!」よろめいた先で、こちらへ歩いてくる直人と目が合った。彼が足を止めた。よろめきながら2歩近づき、それでも私に触れようとはせず、声を震わせた。「紗季、本当に君なの?」5年ぶりに見る直人は、落ち着きが増し、大人びていた。その分、ずいぶん疲れても見えた。「よかった。やっと帰ってきてくれた!この5年、君が戻ってきたとき、もっといい暮らしをさせてあげたくて、必死に事業を広げてきたんだ!」私の手を握り締めた。目は赤く充血していた。「帰ってきてくれてよかった。もう、どこにも行かないで」私はその手を強く振り払った。「もうやめて、直人」静かに彼を見つめた。「あなたがこの世界をかき乱すから、来るしかなかったの。戻りたくて戻ったわけじゃない。もう5年でしょう。そろそろ、やめて」直人が信じられないという顔をした。「やめろって?どうすればいいんだよ。君がいなくなってから、毎日考えてた。どうして美緒を信じたのか、どうして君を傷つけたのか、ずっと後悔してる。紗季、もう行かないでくれないか。償う機会をくれよ。悠真もちゃんと育てたんだ。素直で、聞き分けのいい子になった。君もきっと、かわいく思ってくれる」上から足音がした。8歳になった悠真が、階段の上に立っていた。私の顔を見て、手にしていた本をばさりと落とした。「ママ……」目を潤ませて歩み寄ってくる。それでも、そばまでは来られない。ため息をついた。結局、返事をしてしまった。「うん」悠真はぱっと駆け寄り、私の腕に抱きついた。「ママ、帰ってきたんだよね?もう、どこにも行かないよね?」直人も私を見つめ、すがるように言った。「紗季、お願いだ」悠真の腕をほどき、2人から身を離した。「私はもともと、この世界の人間じゃない。紗季はもう死んだの。過去にしがみつかな
耳をふさいでも、その声は悠真に届いた。悠真はぼうぜんと立ち尽くした。3年間ママと呼んできた人だとは、信じられないようだった。泣きながら走り出し、直人が追いかけた。私は2人の後ろを漂い、悠真が泣きながら父親に尋ねるのを聞いた。「パパ。僕の本当のママは、あの悪い女なの?」直人の目に涙が浮かんだ。「悪い人じゃないよ。悠真を、とても愛してたんだ。本当のママだからね。10か月、おなかの中で大事に育てて、産んでくれたんだ。この世界で、誰よりも悠真を愛してた人なんだよ」悠真はまだよく分からないまま、直人を見上げた。「じゃあ、もう会えないの?」直人は涙をこぼし、声を詰まらせてうなずいた。それから悠真を連れ、私の祭壇の前へ戻った。初めて、悠真が私をママと呼んだ。「ママ、ごめんなさい」私の頬を、涙が伝った。遅すぎる謝罪だった。涙をぬぐうと、システムの声がした。(ユーザー様、滞在できる時間がもうすぐ終わります。離脱の準備をしてください)少しして、システムがまた尋ねた。(悠真様に会っていきますか?)私は少し考えた。(いい。もう全部終わったの。あの子を産んだことなんて、なかったと思うことにする)金色の光が走り、私は現実の世界へ戻った。システムと結びつく前、私はフードデリバリーの仕事をしていた。早くに両親を亡くし、妹を学校へ通わせるため、自分は学校を辞めて家計を支えてきた。狭い賃貸の部屋に帰り着いて、ようやく息がつけた。(ミッションの完全達成を確認しました。報酬として、1億円を支給します!)やっと、笑うことができた。すぐに小さな住まいを買い、妹を街に呼び寄せ、こちらの学校へ通わせた。「お姉ちゃん、この1か月、何してたの?電話しても、全然出てくれなかったじゃん」あの世界で過ごした5年は、現実ではたった1か月だった。笑って妹の髪をなでた。「ちょっと用事があって、話せなかったの。でも、ちゃんと帰ってきたでしょう?」報酬を元手に、花屋を開いた。このまま穏やかな毎日が続く。そう思っていた。ある夜、システムの切羽詰まった声に、眠りを破られるまでは。(ユーザー様、大変です!直人様に、あなたがあの世界から離脱したことを知られました!あちらが大変なことになっています!)久しぶりに聞
私の遺体は、そのとき霊安室に横たわっていた。自分たちの手で私を死なせたのだと、ようやく思い知ったのだろう。直人が通報し、美緒を警察に引き渡した。美緒は怒って叫んだ。「どうして私にこんなことするの!3年も、みんなの面倒を見てきたのよ。紗季なんか嫌だって、そっちが言ったんじゃない!」悠真が泣きながら美緒にしがみつき、連れていこうとする警察官を止めようとした。美緒も、悠真を頼みの綱にした。「直人、悠真には私が必要なの!悪かったと思ってる。あなたにも、紗季のお父さんとお母さんにも。でも、紗季はもういないのよ。悠真をまたママのいない子にするつもり?」美緒は悠真の腕を強くつかんだ。「悠真、ママのために何か言ってよ」悠真はつねられて泣き叫び、何も言えなかった。直人が悠真を抱き上げ、美緒をにらんだ。「まだ子供をそそのかすのか!美緒、きちんと法の裁きを受けてもらうからな!」美緒は連れていかれた。直人はゆっくり振り返り、私の両親を見た。その目には絶望と悲しみがにじんでいた。しばらくして、何も言わず、階下の霊安室へ向かった。霊安室は、骨まで冷えるほど寒かった。私を見つめていた直人が、顔を覆ってしゃがみ込んだ。肩が激しく震えている。「ごめん、紗季。全部、僕が悪かった。君に、何てことを……!」宙に浮いたまま、それを見ていた。心は少しも動かなかった。直人が私を火葬し、葬儀を営むのを見届けた。参列者は、ほとんど誰も直人にいい顔をしなかった。SNSの謝罪文を見て、彼のせいで私が死んだのだと、みんな知っていたからだ。直人は会社を解雇され、ネット上で身元や住所までさらされた。激しい誹謗中傷が押し寄せ、父と母もその標的になった。直人は何も言わず、ただ悠真を押さえつけるように、私の位牌の前に正座させた。「悠真、本当のママは紗季なんだ。美緒じゃない」悠真は分からないという顔をした。「じゃあ、どうして美緒ママが僕を育てたの?」直人は何も言えなかった。父親が不倫をして、母親から子供を奪ったのだと。そして紗季は自分のせいで死んだのだと、息子にどう伝えればいいのか分からないようだった。悠真はまだ納得せず、理解できないままだった。だから直人が警察署で美緒と向き合ったときも、ママ、と呼んで彼女に駆け寄った。
美緒の泣き声が、ぴたりとやんだ。すぐに目を潤ませ、悠真を押しやる。「何を言ってるの!ママがそんなこと、言うわけないでしょう?」けれど悠真は、甘やかされて育っていた。美緒が冗談を言っていると思ったらしく、手首のキッズウォッチを操作して録音を再生した。「だって録ってあるもん!ママ、聞いて!」小さな雑音に続いて、美緒の声がはっきりと流れた。「悠真、よく聞いてね。あの人はパパとおじいちゃん、おばあちゃんを奪いに来た悪い人なの。だからママと一緒に、いなくなるようにしてくれる?」「……僕は何をするの?」録音の中の美緒は、少し間を置いた。「今夜、あの人の部屋に火をつけるの。見つかったら、ふざけただけだって言えばいいわ。おじいちゃんもおばあちゃんも、悠真が大好きだから怒らない。あとはママがちゃんとやっておくから」悠真はスマートウォッチを掲げ、得意げに笑った。「ほら、ママ!忘れないように、ちゃんと録っておいたんだよ!」また、誰もが息を潜めたように静まり返った。美緒の顔は真っ青だった。「違う、私じゃない!そんな、私を陥れようとしてるのね!」悠真には、陥れるという言葉の意味さえ分からない。ただ、美緒の顔を見ておびえた。直人は血の気を失い、信じられないという目で美緒を見た。彼女を突き放すと、力が抜けたように数歩よろめいて下がった。「君だったのか。全部、君が仕組んだのか?」母が叫びながら駆け寄り、美緒の頬をたたいた。「娘を返して!紗季を返してよ!」車椅子から転げ落ちた美緒は、頬を押さえ、青ざめたまま言い返した。「私じゃない!悠真がでたらめを言ってるの。子供の言うことを信じるの?」そのとき、直人の携帯がけたたましく鳴った。震える手で触れた拍子に、スピーカーが入った。「汐丘警察署です。病院の看護師を名乗る詐欺師を逮捕したところ、奥様の美緒さんの偽造診療記録が見つかりました。一度お越しいただけますか?」直人は耳を疑うように聞き返した。「偽造した診療記録?何の記録ですか?」電話の向こうで紙をめくる音がして、警察官が低い声で答えた。「急性白血病です。この詐欺グループがよく使う手口ですが、何か被害に遭われていませんか?」携帯が床に落ちた。直人は激しく息をし、美緒を見据えた。「僕たちをだ
ぴたりと、音が消えた。直人が目を見開き、悠真の頬を強くたたいた。「何を言ってるんだ!そんなことを言っていいと思ってるのか!」悠真の顔が腫れた。大声で泣きながらも、意地になって直人をにらみ返した。「だって、本当だもん!」小さな足をばたつかせ、直人を指さしたあと、父と母にも指を向けた。「みんな、あの人は嫌だって言ってたじゃん!あの人がいると困るって!なんで僕だけたたくんだよ!」母が口を覆った。頬を涙が伝い落ちる。「違うのよ、悠真。紗季はおばあちゃんの娘で、パパの奥さんなの。嫌いなわけないでしょう?」悠真は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。「じゃあ、なんで怒ってたの?僕が火をつけたときも、見てたじゃん。おじいちゃんが『少し思い知ればいい』って言ってたの、聞いたよ!」その場が一瞬、静まり返った。宙に浮かぶ私も、反射的に手を握り締めた。けれど、痛みはやってこない。そうだった。私はもう、死んでいるのだ。父と母は息を詰まらせ、苦しげにあえぐばかりで、言葉を出せなかった。「違う、そうじゃない。私たちは、ただ……」直人が赤く充血した目で両親をにらんだ。「見ていながら、どうして止めなかったんですか!」正義の味方のように怒る直人が、ただおかしかった。私をこんな目に遭わせた張本人は、あなたじゃないの?そこへ、看護師の押す車椅子に乗った美緒が、エレベーターから出てきた。顔色がよくない。「直人、みんなここで何をしてるの?」悠真が泣きながら駆け寄り、美緒の胸に飛び込んだ。「ママ!パパがたたいた!あの悪い女のせいで!」美緒はすぐに悠真をなだめ、不思議そうに直人を見た。「いったい、どうしたの?」両親のほうへ目を向け、そばに横たわる、白い布をかけられた体に気づいた。美緒が落ち着かない様子を見せる。直人が声を絞り出した。「紗季が……大量出血で、助からなかった」美緒は自分の体を強くつねった。笑い出すのをこらえているようだった。「そうなの?それは、本当に残念ね」直人に抱きつき、ひどく悲しげに泣いてみせた。悠真はそんな美緒を見つめ、ふと口を開いた。「ママ、なんで泣くの?あの人が死んだら、パパの家にも、おじいちゃんたちの家にも住めるって言ってたじゃん。あの人の代わりになれるって!」
直人がよろめき、みるみる顔から血の気が引いた。「何ですって?」看護師の袖をつかんだ。「紗季に何があったんですか?救命処置って、どうして!いったい何をしてるんです!」看護師も疲れ切り、額にはびっしょりと汗を浮かべていた。「落ち着いてください!どうして、事前に体の状態を教えてくださらなかったんですか。肺に重い感染症があったんです。まだ何もしていないのに、大量出血を起こされて……」直人が目を見開いた。「肺の感染症?」はっと顔を上げる。「火事のせいですか?」そのまま、ぼうぜんとして動かなくなった。「お願いします。どうか、助けてください」再び手術室のドアが開いた。執刀医がマスクを外し、息をついた。「申し訳ありません。力を尽くしたのですが……」後ろで母が息をのみ、胸を押さえて壁に寄りかかった。「うそ。そんなはずない……!」ほどなくして、全身に白い布をかけられた私が運ばれてきた。直人はその布を見つめたまま固まり、長い間、身じろぎひとつしなかった。母が泣きながら駆け寄った。「紗季!どうして、お母さんとお父さんを置いていくの!」母は看護師を見上げ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしていた。医師が検査結果を直人に差し出した。「高瀬さん、肺の感染症が相当重かったことをご存じなかったんですか。なぜ事前にお知らせいただけなかったんです?」直人は立ち尽くし、途方に暮れたように首を振った。「知らなかったんです。大したことないって、聞いてたんですけど……」医師を見た。「その前に近所の診療所で診てもらったんです。問題ないって言われて、本人もつらそうにはしてなかったし!」医師は眼鏡を押し上げ、厳しい顔をした。「問題がないはずはありません。そのときの検査結果を見せてください。どう診断したのか、こちらから確認します」……直人は、あのときのことを思い出した。診療所で紗季が検査を受けた際、自分は電話に出ていた。戻ってくると、悠真が駆け寄ってきて、先生が大丈夫だと言っていたと伝えた。検査を担当した看護師も、紗季の体に異常はないと認めていた。けれど直人は、検査結果を一度も開いていなかった。……そのとき、トイレに行っていた悠真がどこからか戻ってきて、私の遺体のそばへ駆け寄った。「おばあち







