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愛するより愛さない方が幸せ

愛するより愛さない方が幸せ

By:  匿名Completed
Language: Japanese
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「システム、クエストを終了したいの」 即座に、システムの無機質な声が返ってきた。 「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動します。半月後には脱退可能です」 しかし次の瞬間、機械的だった声が一瞬止まる。数秒の沈黙ののち、どこか困惑したようなトーンで尋ねてきた。 「静流様、ここにはあなたを深く愛してくれる夫と、どんな時でもそばにいてくれる息子さんがいます。ここがあなたの家ではないのですか?彼らはあなたの家族でしょう」 「家族」という言葉を聞くと、藤堂静流はゆっくりとテレビへ視線を向けた……

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Chapter 1

第1話

「システム、クエストを終了したいの」

即座に、システムの無機質な声が返ってきた。

「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動します。半月後には脱退可能です」

しかし次の瞬間、機械的だった声が一瞬止まる。数秒の沈黙ののち、どこか困惑したようなトーンで尋ねてきた。

「静流様、ここにはあなたを深く愛してくれる夫と、どんな時でもそばにいてくれる息子さんがいます。ここがあなたの家ではないのですか?彼らはあなたの家族でしょう」

「家族」という言葉を聞くと、藤堂静流(とうどう しずる)はゆっくりとテレビへ視線を向けた。

画面に映っていたのは、ちょうど藤堂グループの社長・藤堂和也(とうどう かずや)と、その息子・藤堂慶哉(とうどう けいや)が飛行機から降りてくる場面だった。

和也は息子を抱きかかえ、大股で滑走路を進む。

記者が小走りで近づき、マイクを向けた。

「藤堂さん、昨夜フラニア国での会議を終え、夜通しで帰国されたと伺いましたが……そんなに急がれて、一体何かご用でも?」

ビジネスの世界では常に無口で通っていた和也。けれど、この時だけはカメラに向かって、とても穏やかな笑みを浮かべて言った。

「今日は妻の誕生日ですから。息子と二人で、一緒に過ごさないといけませんので。

私にとって、妻のことがいちばん大事なんです」

その隣で、まだ小さな慶哉がバッグを両手で掲げた。

「ママ、パパと一緒にプレゼント選んだよ!もうすぐ帰るからね!」

記者がさらに質問を投げかけようとした瞬間、和也は「急いでいますので」とだけ告げ、背を向けた。カメラに映ったのは、立ち去るその背中だけ。

記者は感嘆をもらすように言った。

「藤堂さんの奥様への想いは十年前からまったく変わらないんですね。まさに理想の夫です」

「息子さんも、パパにそっくり。あんな素敵なご主人と息子さんがいれば、奥様もさぞお幸せでしょうね」

静流はリモコンを取り、静かにテレビを消した。そして、自嘲するように笑った。

幸せ……か?

一ヶ月前までは、間違いなくそう答えていた。

でも今は、「幸せ」なんて言葉さえ口にできない。

誰も知らない。彼女が、「この世界の人間」ではないことを。

十年前、静流は「クエスト」を背負い、この世界に降り立った。

――両親の死をその目で見て、心を閉ざした少年・和也を救うために。

初めて出会ったときの彼は、陰気で誰とも口をきかず、まるで殻に閉じこもっていた。

彼女は三年かけて、彼の心に少しずつ光を灯していった。そして和也は、今や巨大財閥・藤堂グループの若き社長となった。

彼が会社を完全に掌握した瞬間、静流のクエストはすでに終わっていた。

その時、システムは「脱退」を促してきたが、静流の足は止まった。

和也が、彼女を強く抱きしめ、「行かないで」と懇願した、あの夜のことを何度も思い出した。

彼がかつて両親を亡くしたように、今また大切な人まで失わせてしまったら……静流には、それがどうなるのか想像すらできなかった。

この世界に留まる決意をし、そして和也と結婚した。

結婚式の日、彼女はこう告げた。

――もし私を裏切ったら、この世界からいなくなる、と。

和也は彼女の手を握りしめ、誓った。

「そんな日なんて、絶対に来ない。俺の愛は、永遠だ」

結婚後、その言葉どおり、彼の愛は燃えるように情熱的だった。

記念日にはどんな仕事も断り、社交の場で女性に言い寄られても一切取り合わなかった。

出産は難産だった。静流が手術室で一昼夜を戦っていた間、和也はその外でずっと膝をついて祈っていた。

出てきた彼女の元へ、足元がふらつきながらも必死にたどり着き、ベッドサイドで泣きながら手を握りしめた。

「静流……全部、俺が悪い。子どもなんて、欲しいって言うんじゃなかった。もう二度と……危険な思いはさせない」

その日、彼は「決意の証」として、パイプカット手術を受けた。

そして息子に名づけた名前は――「慶哉」。静流がこの子を産んでくれたことへの感謝と喜びを表していた。

息子もまた、父に倣って母を大切にした。

小さな頃から果物を切って母の口に運び、静流が怪我をすれば、すぐに傷口に息を吹きかけ、絆創膏を探して手当てをしていた。

周りの人々はよく冗談を言った。

「藤堂家で一番お世話されてるのは、慶哉くんじゃなくて奥さんだね」

慶哉は胸を張って言った。

「だって、ママは僕がいちばん好きな人だもん。守らなきゃダメでしょ!」

和也も微笑みながら息子の頭を撫でた。

「妻は何もしなくていい。俺と息子で全部やるから」

静流は、そんな日々が永遠に続くと信じていた。

しかし、その誓いは、いつしか風に消え、時間の流れとともに崩れ去った。

かつて彼女を愛していたはずの父子は、いまや女性秘書・夏目友香(なつめ ともか)と一緒に、もう一つの「家庭」を築いていた。

彼らは何度も静流を騙し、あの家庭へ友香に会うために向かった。

結婚して五年になる夫は、友香の腰に手をまわし、優しく「友香ちゃん」と呼んだ。

十ヶ月の末に産まれた息子も、友香の腕に抱かれながら、「友香姉ちゃん」と甘えるように呼んだ。

昨日も、フラニア国の会議なんてなかった。二人は揃って、友香とスイロス国にスキー旅行へ行っていた。

あの日、結婚式で交わした言葉が、いまや現実になった。

真実を知った瞬間、静流は決めた。この世界、そしてこの嘘まみれの父子とは、決別すると。

目の前で、誕生日ケーキが静かに溶けていく。静流はぽつりとつぶやいた。

「もう、家族じゃない……

彼らと別れたい」

その瞬間、ふたつの声が同時に、彼女の耳を打った。

「――何が別れたいって?」
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第1話
「システム、クエストを終了したいの」即座に、システムの無機質な声が返ってきた。「かしこまりました、静流様。脱退プログラムを起動します。半月後には脱退可能です」しかし次の瞬間、機械的だった声が一瞬止まる。数秒の沈黙ののち、どこか困惑したようなトーンで尋ねてきた。「静流様、ここにはあなたを深く愛してくれる夫と、どんな時でもそばにいてくれる息子さんがいます。ここがあなたの家ではないのですか?彼らはあなたの家族でしょう」「家族」という言葉を聞くと、藤堂静流(とうどう しずる)はゆっくりとテレビへ視線を向けた。画面に映っていたのは、ちょうど藤堂グループの社長・藤堂和也(とうどう かずや)と、その息子・藤堂慶哉(とうどう けいや)が飛行機から降りてくる場面だった。和也は息子を抱きかかえ、大股で滑走路を進む。記者が小走りで近づき、マイクを向けた。「藤堂さん、昨夜フラニア国での会議を終え、夜通しで帰国されたと伺いましたが……そんなに急がれて、一体何かご用でも?」ビジネスの世界では常に無口で通っていた和也。けれど、この時だけはカメラに向かって、とても穏やかな笑みを浮かべて言った。「今日は妻の誕生日ですから。息子と二人で、一緒に過ごさないといけませんので。私にとって、妻のことがいちばん大事なんです」その隣で、まだ小さな慶哉がバッグを両手で掲げた。「ママ、パパと一緒にプレゼント選んだよ!もうすぐ帰るからね!」記者がさらに質問を投げかけようとした瞬間、和也は「急いでいますので」とだけ告げ、背を向けた。カメラに映ったのは、立ち去るその背中だけ。記者は感嘆をもらすように言った。「藤堂さんの奥様への想いは十年前からまったく変わらないんですね。まさに理想の夫です」「息子さんも、パパにそっくり。あんな素敵なご主人と息子さんがいれば、奥様もさぞお幸せでしょうね」静流はリモコンを取り、静かにテレビを消した。そして、自嘲するように笑った。幸せ……か?一ヶ月前までは、間違いなくそう答えていた。でも今は、「幸せ」なんて言葉さえ口にできない。誰も知らない。彼女が、「この世界の人間」ではないことを。十年前、静流は「クエスト」を背負い、この世界に降り立った。――両親の死をその目で見て、心を閉ざした少年・和也を救うため
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第2話
静流が顔を上げると、玄関には和也と慶哉が立っていた。慶哉は父の腕からスルリと抜け出し、彼女の胸元へ勢いよく飛び込んだ。「ママ、誰が別れたいって言ってたの?」静流は優しく言った。「ママの友だちの話よ。結婚生活がうまくいかなくてね、旦那さんとも息子さんとも別れようとしてるの」慶哉は彼女の頬に強くキスをした。「そっか。ママの友だち、かわいそうだね。でもママは安心して。パパも僕も、ずっとママのこと大好きだから」和也はコートを脱ぎながら、いつもどおりの穏やかな口調で二人を抱き寄せた。「慶哉の言うとおりだよ、静流。俺たち家族は、これからもずっと一緒だ」静流は何も言わなかった。長いまつ毛の奥にある瞳が、苦い色を湛えて揺れていた。「ずっと一緒」なんて、もうこの家族にはないのに。慶哉がテーブルのケーキに目をとめて、はっと思い出したように手提げ袋を取り出した。「ママ、これ!パパと僕で選んだプレゼントだよ!」和也が袋から箱を取り出し、ふたを開ける。中にはエメラルドのネックレスが収められていた。「静流……実はフラニア国では仕事が立て込んでてさ。ちょっと帰るの遅くなったんだけど、怒らないでくれる?」どこか申し訳なさそうに笑いながら、彼はネックレスを取り出し、彼女の首にかけようとした。その瞬間、静流の鼻をある香りがかすめた。――クチナシの甘い香り。彼女自身は香水など一切つけない。その匂いが彼女の胃を急激に刺激した。次の瞬間、込み上げる吐き気に耐えきれず、父子を押しのけてトイレへ駆け込んだ。和也は、もともと彼女の健康に敏感すぎるくらい気を使う男だった。静流が少し咳をしただけでも、「大丈夫か」と騒ぎ立てるほど。その彼が、妻の嘔吐を目の当たりにして黙っていられるはずもなかった。すぐに医者を呼びに行こうとする。だが、静流はその手を掴み、赤くなった目でじっと彼を見つめた。「平気よ。ただ、友だちの旦那と息子のことを考えてたら、あまりにも腹が立ってきちゃって。もし……もしあなたが、もう私のこと愛してないって言うなら、私は――」「しないよ!」彼女の言葉を遮るように、和也は強く彼女を抱きしめた。まるで、二度と離さないとでも言うように。「俺の気持ちがわからないのか?俺はこの先の人生、ずっとお前だけを愛してい
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第3話
この五年間で、和也は静流に数えきれないほどの宝石を贈ってきた。彼女は昨夜のネックレスと、今、友香の手首に光るブレスレットが、明らかに同じセットであることに気づいた。その瞬間、静流の唇が皮肉に歪んだ。「夏目さん、ご家族からずいぶん愛されてるんですね」和也と息子は、宝石のセットを二つに分けたのだ。片方は妻の彼女に、もう片方は友香に。まるで彼らの心のように、きっちりと半分に。友香は微笑みながら、少し眉を下げた。「ええ、いつも『いちばん大切な存在』って言ってくれますし……まるで子どもみたいに甘やかしてくれるんです」恐らく、友香との関係がバレるのを恐れているのだろう。和也も慶哉も、道中ずっと静流の顔色をうかがうように彼女を見ていた。彼女が咳払いを一つすると、和也はすぐ自分のコートを脱いで肩にかけ、魔法瓶からお湯を注ぎ、カップを丁寧に彼女の口元に差し出す。慶哉も首からマフラーを外して彼女に巻き、大人びた口調で言った。「冷えないように、ちゃんと温まってね」けれど静流は、香水の香りが染みついた物に包まれるのが、どうしても耐えられなかった。「ちょっと休んでくるわ。ホテルで横になる」それだけを言い残し、彼らの元を離れた。和也と慶哉は顔を見合わせた後、彼女と一緒にホテルへ戻ることにした。夕方。静かな部屋の中で、和也のスマホが震えた。彼は慌ててミュートに切り替え、ベッドに横たわる静流の方をそっと振り返る。彼女がまだ目を閉じているのを確認して、安堵のため息をついた。スマホの画面には、「友香」の名が何度も表示されていた。そのとき、慶哉が彼の袖をそっと引っ張り、声を潜めて言った。「パパ、友香姉ちゃんに会いたい……」和也は慌てて指を立てて「静かに」と示すと、父子は顔を見合わせ、こっそり部屋を抜け出していった。ドアが閉まる音を聞くと、静流はそっと目を開け、すぐに服を着て二人の後を追った。和也と慶哉は足早に、友香の部屋の前に辿り着いた。ドアが開くと同時に、友香が和也の腕に飛び込んできた。「和也さん……やっと来てくれたのね!今日、一人でホテルにいるの、すごく不安で……奥さんとみたいに四六時中一緒にいたいとは言わない。でも……毎日二時間だけでも、あなたと一緒にいられたら、それでいいのに……」潤んだ目で和
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第4話
翌朝。静流が目を覚ますと、ちょうど和也と慶哉が朝食のトレイを手に、部屋へ入ってきた。彼女が上半身を起こしたのを見て、和也はにこやかに近づき、朝食をそっと差し出す。「静流、もうちょっと寝かせてあげたくてね。俺と慶哉が、朝ごはんを取るために早く起きたんだ」慶哉はベッドにちょこんと上がり、静流の肩にもたれかかった。「ママ、ちょっと会えなかっただけなのに、すごく寂しかったんだよ」隣から伝わるいつもの冷たい気配に、静流は目元に薄く自嘲の色を滲ませた。一晩中この部屋に戻らず、友香のベッドからやっと出てきたばかりだったが、この父子は彼がただ朝食を取りに行っただけだと言い張った。彼らの演技が、こんなに自然だったなんて、知らなかった。朝食を終えると、そのままスキー場へと向かった。友香はすでに準備万端で、入り口の前で待ち構えていた。けれど、静流はどうしてもスキーを楽しむ気分にはなれなかった。和也が不安げに尋ねる。「静流、最近……どうしたんだ?俺たち、何かお前に不快な思いをさせたかな?」静流は小さく首を振った。「……いいえ。ただ、友人のことで気が重くて」それを聞いた和也はホッとしたように息をつき、彼女の額に軽くキスを落とす。「心配いらないよ。うちの家族は、そんなことには絶対ならないから。もしスキーしたくないなら……」言い終える前に、友香のためらいがちで何か言いたげな声が聞こえた。「藤堂さん……」友香の欲望に満ちた目を見て、和也の喉仏が動き、口から出そうとしていた言葉を飲み込んだ。「……じゃあ、ここでゆっくりしてて。俺と慶哉、それに夏目さんの三人でちょっと滑ってくるよ」慶哉は何も言わなかったが、静流はふと彼の指先が、さりげなく友香のジャケットの裾をつまんでいることに気づいた。……三人だけの時間を楽しむのに、もはや隠す必要はなかったのだろう。静流は微かに頷いた。和也はホテルスタッフに気を配らせ、静流の手袋を丁寧に装着させた。「寒いから体調崩さないか心配だよ。何かあったらすぐ電話するんだ」慶哉も真面目な顔つきで、彼女のジッパーを引き上げながら言った。「僕も……ママが風邪ひくの、絶対やだ」そんな様子を見ていた友香は、思わず小さくため息をついた。「奥さん、藤堂さんも慶哉くんも……
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第5話
静流が意識を取り戻したのは、それから一週間後のことだった。目を開けた瞬間、側にいた看護師が慌てて医師を呼びに行きながら、なおも嬉しそうに言葉を続ける。「藤堂さん!目が覚めたんですね!ご主人と息子さん、街中の名医をほとんど呼び集めたんですよ。藤堂さんの無事を祈って、ご主人は慈善団体に二億円も寄付されましたよ。本当に奇跡ですよね、こうして目を覚ましてくださって…藤堂さんが目を覚ましたと知ったら、きっと喜ぶでしょうね」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、病室のドアが開いた。和也と慶哉が駆け込んできた。彼女が目を覚ましたのを見た瞬間、二人とも感情を抑えきれずに彼女を強く抱きしめた。「静流……本当によかった……どれだけ心配したか……!」慶哉も目を真っ赤にしながら必死に言葉を探す。「ママ……僕、もう会えないんじゃないかって、怖くてたまらなかったんだ……!」男は滅多に涙を見せないというが、彼の頬を伝う涙は確かに温かかった。だが、この二人の涙に、静流の心は揺れなかった。ただ、皮肉にしか感じられなかった。雪崩の瞬間、彼らは反射的に友香を守った。彼女の目には、その光景が焼きついて離れなかった。かつて心から愛した夫、幼い頃から自分の手で育てた息子。けれど、友香はほんの数ヶ月でその立場を奪い去った。慌てたように、和也と慶哉が口々に弁解を始めた。「静流、あのときは本当に緊急で……お前の顔すら一瞬、分からなくなってて……誰を守るべきか、間違えてしまったんだ」「ごめんなさい……パパも僕も、もう絶対にママを傷つけたりしない。本当に……全部、僕たちの責任だ」けれど静流は、体力も戻らぬ中、彼らのつく嘘を正す気にもなれなかった。あと一週間、ここを離れて、この嘘ばかりつく父子と別れるんだ。その後の数日間、父子は罪悪感か何かに駆られて、静流のそばを離れずに過ごした。だが、和也のスマホは鳴り止まなかった。常に通知音が響き続けていたが、彼は一度も出なかった。そんなある日。いつものようにスマホが震え、彼の瞳孔が一瞬だけ揺れた。数秒後、彼は気まずそうに口を開いた。「静流……会社で急用が入ったんだ。ちょっとだけ、対応してくるね」慶哉もスクリーンを覗きこみ、画面に映るメッセージを見て慌てたように口を開いた
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第6話
会えない時間が長く続き、ついに友香は危機感を覚えて仮面を剥ぎ取り、本性を現した。翌朝、静流が目覚めると、彼女のスマホには昨夜届いた挑発的なメッセージの連打が残されていた。【静流さん、見たでしょう?どうだった?目の前で旦那が別の女と堂々とキスしてるのを見せつけられる気分って、どんな感じ?しかも、その息子にまで庇われてるのよ】【和也はね、私が泣く顔が一番好きなの。ベッドの中で泣かせたら、特に満足するって言ってたわ】【私が泣くたび、彼は……もっと激しくなるの。声が出なくなるまでね。『24時間そばにいたい』って言ってくれたこと、あなたにはなかったでしょ?】【それに、あなたの息子さんも、私といるとすごく安心するのよ。寝たふりをしていた私に、こっそり『ママ』って呼ばれたこともあるのよ】【藤堂の奥さんって、ほんとに失敗わね】静流は、それらの言葉に眉一つ動かさず、淡々とスクリーンショットを撮った。離れるまであと三日。これが和也と慶哉に贈る「最後のプレゼント」になる。午前中、静流は退院したいと申し出た。その連絡が和也の元へ届くと、すぐに彼から電話がかかってきた。「静流……最近、会社の都合でなかなか迎えに行けないんだ。誰か送るから、家でゆっくり休んでくれ。息子のことは俺がちゃんと見るから」静流は、彼がいま友香のそばにいることを、もうすでに知っていた。答えることもなく、ただ静かに頷いた。この世界を離れるまで、あと三日。彼女は家に戻ると、使用人たちに命じた。「私の持ち物、すべて処分して」使用人たちは恐る恐る尋ねた。「……奥様、新しい物に買い替えますか?」静流は、穏やかな微笑を浮かべてうなずいた。「ええ」彼らは知らない。「新しい物」に替えられるのは、持ち物だけじゃない。この家の「女主人」そのものもだ。この世界を離れるまで、あと二日。静流は、和也と慶哉と自分だけが知る「秘密の部屋」へと足を踏み入れた。部屋の壁一面には、この十年間に撮られた写真と、慶哉の誕生以来毎年撮影された家族写真が、ぎっしりと貼られていた。十年の間に、写真に写る人々は若者から大人へと成長し、最初は二人から今では三人に増えている。だが今、「一人」の顔だけが消えるのだ。静流はこの部屋に閉じこもり、ハサミを手に取ると、朝から晩まで一
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第7話
和也と慶哉は声をそろえて言った。「ぜんっぜん疲れてないよ!」慶哉は彼女の手をぎゅっと握り、輝く瞳で見つめてくる。「ママのことなら、何やっても疲れるわけないんだよ」和也は笑いながら、愛おしそうに彼女の頬を指でつまんだ。「どれだけ忙しくても、お前の顔を見るだけで全部吹き飛ぶんだ。今日は結婚記念日だろ?どんなに仕事が詰まってても、必ず戻ってくるよ。毎年、君と一緒に祝ってるだろ?」静流はただ微笑み、何も言わなかった。和也はケーキをテーブルに置くと、キッチンへ向かい、てきぱきと動き始めた。この日のために、使用人たちには全員休暇を出していた。彼女の好物ばかりを、自分の手で用意するつもりだった。慶哉も張り切って、小さな椅子を持ち出し、果物を切ったり、ジュースを絞ったりと忙しそうに手伝っている。やがて昼になり、料理が一通り並べられた。テーブルの中央には、大きなケーキと「7」の数字が刻まれたキャンドルが灯された。和也は静流の手を取り、あふれんばかりの愛情を込めて言った。「静流……あのとき、お前がそばにいてくれなかったら、きっと俺は……」慶哉は横で手を叩きながら、嬉しそうに声を上げた。「わぁ、パパとママってほんとロマンチック!」だがその温かい空気を破るように、突然スマホの着信音が鳴り響いた。静流は手を引き、画面に「友香」と表示されていたスマホを手に取り、和也へ差し出した。和也は一瞬だけ視線を逸らし、微笑んで言った。「今日はね、誰の電話にも出ないって決めたんだ」それでも静流は、かすかに首を横に振った。和也は画面に目をやり、一瞬だけ表情を固めた。やがて、スマホを受け取った。「これは……会社の秘書からだよ。ちょっと急ぎの件かもしれないから、出るよ」そう言うと、彼はリビングの反対側へと歩いていき、通話ボタンを押した。数分後、戻ってきた彼の顔には、いつもの「申し訳なさそうな笑み」が浮かんでいた。「静流、ごめん。会社でトラブルが起きたみたいで、俺の手が必要なんだ」慶哉は電話の向こうで何が話されていたのか分からなかったが、友香からの電話だと分かると、すぐに立ち上がり、和也のもとへ駆け寄った。「ママ、僕も一緒に行っていい?パパの仕事、早く終わるように手伝うから!そしたらすぐ帰ってこれるよ!」二人
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第8話
十年前。静流と和也は、郊外の小さな私立療養所で初めて出会った。あれから長い時が経ち、その建物は今や廃墟となり、壁はツタに覆われていた。記憶を辿るように小道を歩くたび、和也との思い出が、静かに、そして容赦なく心を打ってきた。初めて出会ったとき、彼は何も話さなかった。だが次第に、彼女の存在に心を許し始め、やがて激しい雨の中で彼女を強く抱きしめ、絶対に離さないと誓った。静流は裏庭のガジュマルの木の前で立ち止まった。十年前と変わらず、緑の葉を茂らせ、たくましく生きている。彼女の手が、幹に刻まれた二つの名前をそっと撫でる。彼女の目には、再び少年時代の和也が映っているようだった。執念じみた表情を浮かべながらも、その瞳には愛しさと緊張が滲んでいた。彼はかつて、こう言った。「静流、一生、君だけを愛する」「君を絶対に離さない。永遠に一緒にいるんだ」そして、二人の名前を一文字ずつ、丁寧に刻みつけた。けれど、和也の心は、やがて二つに割れた。一つは自分に、もう一つは別の女に。その「永遠」は十年で終わった。十九歳だった彼は、十年後に自分が「永遠」に静流を失うとは夢にも思わなかっただろう。静流は木の根元に石で土を掘り始めた。あらかじめ用意していたヤスリ袋を埋め、丁寧に土をかぶせる。そして、彼女は和也に最後の電話をかけた。電話はすぐにつながった。相変わらず、彼の声は優しかった。「静流?どうしたの?何かあった?」静流はガジュマルを見上げながら、静かに言った。「……療養所のガジュマル、まだ覚えてる?」一拍おいて、彼の笑い声が聞こえた。「ああ、もちろん。あの木の下でお前に告白したよな。懐かしいな……気づけば、もう十年近く経ったんだな」静流もまた、微笑みながら答えた。「そう……それで、あなたと慶哉へのプレゼントを、ガジュマルの根元に埋めておいたの。忘れずに取りにきてね」「えっ、本当か?慶哉はこの話を聞いたら喜んでいるよ。ありがとう、静流。仕事が終わったらすぐ行くよ。今夜は三人で一緒に見ような」彼女は、それには何も答えず、通話を切った。三人の家族は、もう存在しない。彼女には分かっていた。今夜、彼らは家には戻れない。自分も、二度とあの家には帰らない。これで、藤堂家に「静流」という名は、永遠
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第9話
翌朝。和也はひどい悪夢にうなされ、汗びっしょりで目を覚ました。心臓が激しく脈打つ中、隣に寝ていた女の身体を、無意識のうちに強く抱きしめる。「……夢を見たんだ。お前が目の前からいなくなって、どんなに呼んでも振り返ってくれなくて……でも……目を開けたら、ちゃんと隣にいてくれた。よかった、本当によかったよ、静流……」彼の腕に寄りかかっていた友香は、内心で甘い気持ちを噛みしめていた。だが、和也の口から出た静流の名前を耳にした瞬間、その表情が一瞬凍りつく。そして何事もなかったように彼の首に腕を回し、少し拗ねたような声で言った。「……和也さん、昨夜ずっと一緒にいたのは、私だよ?」和也はふと動きを止め、ゆっくりと身を起こすと、こめかみに手を当てて力強く押さえた。「なんでここにいるんだ?昨夜、慶哉を連れて家に帰るって……」友香は彼の背中にしなだれかかり、裸の身体を密着させた。「忘れたの?昨夜、夕飯のあと、私を部屋まで運んで……それから、ね?」語尾はどんどん小さくなり、顔も真っ赤に染まっていく。和也は軽く首を振ると、意識がだんだんと鮮明になり、昨夜の出来事が次第に脳裏に浮かび上がってきた。昨夜、友香がコートの下に赤いタイトなサスペンダースカートを履いているのを見て、和也は衝動的に行動してしまったようだった。そのことに少し苛立ちを覚えながら、彼は思った。「昨日は結婚五周年なのに、どうしてあんな馬鹿なことをするんだ」と。家では、静流が帰りを待っていたかもしれない。彼は友香の手を振り払うと、傍らにあった服を手に取り、変な汚れがないか確かめてから、それを身に着け始めた。友香は下唇をぎゅっと噛み締め、かすかな嫉妬の色を目に浮かべた。手を伸ばして和也の腕を掴み、いつもの弱々しい表情で哀れみを込めたように見つめた。「まだ朝のこんな時間だよ?彼女だってまだ起きてないでしょ?もう少し……ここにいようよ」しかし、昨夜見た悪夢は、和也の心の中で次第に鮮明さを増していった。静流の毅然とした背中、そして彼女を追いかけたときの彼の慌てふためきや心の痛みさえも、はっきりと思い出せた。なぜか和也は、ほんの少し不安を覚えた。彼は友香の手を振りほどき、その目には警告の色が浮かんでいた。「……妻に会いに行くのに、お前の許可なんて必要な
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第10話
ベッドは、空っぽだった。掛け布団は皺ひとつもなく、きれいに整えられている。和也は掛け布団を持ち上げた。冷たい。昨夜、誰もこのベッドで眠っていない。寝室に静流の姿が見当たらず、慶哉は不安そうに和也の袖を引っぱった。「パパ……ママ、どこに行っちゃったの?」和也の胸に、不安がぐわっと広がっていった。彼は階下へと駆け下り、使用人たちに詰め寄った。「今朝、奥様が出かけるのを見た人はいるか?」使用人たちは顔を見合わせ、次々に首を横に振る。「いえ、旦那様。今日お屋敷に来てから、奥様のお姿は一度も……」「いつも通り、お部屋で休まれているものかと。寝室にお声がけもしておりません」誰も、静流を見ていない。けれど、家の中にいるはずだ。怒って、わざとどこかに隠れているんだ。和也はそう自分に言い聞かせ、スマホを取り出してメッセージを送った。【静流、どこにいるんだ?慶哉と一緒に帰ってきたよ】【昨夜は仕事で帰れなかった。ごめん、もう二度とこんなことしないって約束する】【ハワトラ国に行こう。そうすれば誰にも邪魔されずに、家族三人で記念日をちゃんとお祝いしよう】【静流、お願いだから、怖がらせないでくれ】しかし、何通送っても、チャット画面は沈黙を保ったまま。既読にもならず、返事もない。とうとう彼は我慢できず、静流に電話をかけた。だが、耳に届いたのは無機質な自動音声だった。「おかけになった電話番号は現在ご利用になれません――」電話がつながらないことに気づいた慶哉は、ますます不安になり、泣き出しそうな声を上げた。「パパ……ママはどこへ行ったの?怒らせちゃったの?昨日の夢、本当だったの……?」今まで考えたこともなかった可能性が、和也の脳裏をよぎった。静流が、出て行った?まさか。そうなはずが、ない!「違う、ママはきっと怒ってるだけだ。ちゃんと謝って、迎えに行こうな」動揺を必死に抑えながら、彼は息子をなだめ、家じゅうの部屋をひとつひとつ開けて回った。だが再び寝室に戻ったとき、何かがおかしいと気づいた。クローゼットの中は、以前は溢れ返っていた服が消え、彼のスーツだけが残っていた。化粧台も、まるで使われたことすらないかのように、真新しかった。その瞬間、和也の胸を何かが締め付けた。――静流は
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