言葉が口を突いて出た瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。これまでも私は紀戸家での自分の立場を嫌というほど自覚してきたが、八雲が事件に遭った今、義父母が我が子の体面とキャリアを守るために、私を犠牲にすることを躊躇いもなく選ぶとは思わなかった。迷いは一切ない。私が八雲の名目上の妻であるというだけで、夫のために苦労を分かち合うべきだ――そう考えるのだ。義父母のその発想は、ある意味では理解できなくもない。というのも、私と八雲が交わした婚前契約の中身は彼らに知られておらず、彼らは私が「この結婚で得をした」と思っているのだろう。だが、八雲はどうだ?八雲は全ての寵愛と確信を葵に注いできた。――彼も同じように思っているのだろうか?私は機械的に視線を動かし、八雲の顔を見つめて問いかけた。「紀戸先生も、そのつもり?」「紀戸先生」と呼ぶ言葉に、玉恵は鼻先で笑いを漏らした。信じられないという表情で私を睨みつけ、憤然と言い放った。「何よその態度は?責任を負わせることがそんなに不当だって言うの?さっき電話で聞かなかったの?あの松島さんはこういう危機的状況で身を挺して八雲を守ると言ったのよ。あなたは彼の妻なんだから、少しくらい犠牲になって何が悪いの?」葵の名が出た瞬間、私は言葉を飲み込まれたようになり、胸がぎゅっと締め付けられた。呼吸が苦しくなり、視線は再び八雲へ向いて問い返した。「……そうだとして、誰かが進んで紀戸先生のために責任を取ると言うなら、なぜ紀戸先生は彼女を選ばず、私を選ぶの?」玉恵は横からすかさず補足した。「理由は簡単よ。松島先生は神経外科のインターンだから、もし彼女が責任を取ると言ったら、最終的には彼女の指導医である八雲のところまで責任が追及されることになる。でもあんたは違う。あんたは麻酔科だもの」つまり、神経外科全体で足並みを揃え、責任を私に押し付けようとしているのか。今朝の会議で豊鬼先生が繰り返し念を押していた様子を思い出し、私は冷ややかに反論した。「では、私の将来はどうなる?私のキャリアは重要ではないの?この責任を負えば、麻酔科で顔を上げていられると思う?厚労省まで介入している今、東市協和病院に居続けられないかもしれない。法的責任を負うことだってあり得る。このすべてを、あなたたちは私の代わりに考えてくれたの?」
不意に名を呼ばれた私は、一瞬、言葉を失った。玉恵が先ほど「医者の徳」について熱弁していたことが頭をよぎった。少し間を置いて、私は小さくうなずいた。「お義母さんの言うことはもっとも。ただ、この件はすでに厚労省が調査に入っているし、もう少し様子を見てもいいのではないかと……」「もう時間がないのよ!」玉恵の声は焦りを帯び、机の上の「土地譲渡契約書」を指さした。「唐沢家はもうお父さんに話をつけてあるの。明日までに何らかの説明を出さなければ、マスコミに全部ばらすって。東市の芸能関係者たちがどういう連中か、あんたたちも分かってるでしょう?金さえもらえば、どんなデタラメでも書き立てる。唐沢家とつながってる記者なんて、口が軽くて遠慮なんてないんだから、どんな噂を流されるか分かったもんじゃないのよ!」その言葉で、私はようやく核心を悟った。――唐沢家が本当に欲しいのは「ビジネスチャンス」だ。凛の事件はただの口実。医療ミスかどうかなんて問題じゃない。それは彼らにとって、紀戸家から「欲しいもの」を引き出すための取引材料に過ぎないのだ。厚労省の調査には時間がかかる。短くても三、五日、長ければ半月。だが唐沢家はそんな猶予を与えない。世論が膨れ上がる速さは、三年前、和夫が刺傷事件に巻き込まれた時に嫌というほど見てきた。まして今回は、唐沢家が意図的に火をつけている――状況は、確かに厄介だった。「俺がもう一度手を打つ。焦る必要はない」八雲は相変わらず冷静に言った。離婚寸前の関係とはいえ、夫婦は運命を共にする。私は少し考え、口を開いた。「ひとつ、試してみる価値のある方法がある」その瞬間、全員の視線が再び私に集まった。私は良辰が涙をにじませながら手術室を見つめていたあの場面を思い出し、言った。「――私が唐沢さんと直接話してみます」私は賭けに出た。妻を心から愛していた男なら、その愛は本物なら、「愛する人の死」を家族の政治的取引の道具になどさせない――そう信じて。だが、私の言葉が終わるや否や、玉恵は鼻で笑った。「唐沢家がどんな連中か、あんたも知ってるでしょ?ああいう家に生まれた子に『真心』なんてあるわけないのよ。あの男がここまで騒ぎを大きくしてるのも、どうせ家族の指示よ。話し合う余地なんてないわ」確かに、玉恵の話は理屈としては筋が通って
――「病院に全ての責任を私に回してもらえませんか」その一言で、電話のこちら側の私は言葉を失った。この医療トラブルがどれほど大きな影響を及ぼすか、誰もが知っている。下手をすれば「医療ミス」として断定され、関係者全員の経歴に傷がつく。その中で、葵のあの言葉は、自分の将来を犠牲にしてまで八雲を守ろうという覚悟の表れだった。彼女がどうやって玉恵と連絡を取ったのかは分からない。けれど、あの誠意ある一言は、きっと紀戸家の人たちの印象を一変させただろう。今まさに会議室で調査を受けている八雲が、このことを知ったなら――きっと深く胸を打たれるに違いない。ただ、私にはどうしても理解できないことがあった。玉恵がわざわざ密かに葵に会っていたのなら、どうして彼女の目の前で私の電話に出たのだろう?私は困惑しながらスマートフォンを見つめた――通話はまだ切れていない。ただ、向こうの会話はもう途絶えている。……おそらく、玉恵はマイクを切ったのだ。彼女が切らない以上、私も勝手に終わらせるわけにはいかず、そのまま静かに待つしかなかった。五分ほど経ったころ、ようやく玉恵の淡々とした声が受話器から響いた。「今すぐ本家に来なさい」それは相談ではなく、命令の口調だった。ちょうど退勤まで一時間ほど。豊鬼先生の厳しい態度を思い出し、私は慎重に言葉を選んで答えた。「少しだけ待ってもらえませんか。まず上司に休暇の申請を――」「水辺優月、今がどんな状況か分かってるの?まだその取るに足らないインターンの仕事なんて気にしてるの?」義母は突然声を荒げ、怒りをあらわにした。「さっきの松島さんの言葉、聞いてなかったの?あの子は他人なのに、八雲のために必死に私と連絡を取ってくれた。なのに、あなたはどう?夫が困っているというのに、まだそのくだらない仕事にしがみつくつもり?」「取るに足らないインターンの仕事」?「くだらない仕事」?玉恵の見下すような言葉を聞きながら、私は八雲が私と葵に見せるまるで正反対の態度を思い出し、胸の奥がますます苦くなった。それでもできるだけ声を落ち着けて言った。「できるだけ早く戻ります」それ以上話す隙もなく、玉恵は電話を切った。私は形式どおりに休暇届を出し、タクシーで本家へ向かった。けれども、思いもしなかった。屋敷の正面玄関をくぐ
その一言で、私も葵も言葉を失った。間もなく、神経外科のスタッフが順に事情聴取の会議室に呼ばれ、問いは長く続いた。半時間近くも。半時間後、浩賢たちが会議室から出てきて、代わって私たち麻酔科のメンバーが呼ばれた。狭い部屋の中、私は豊鬼先生や桜井さんらと並んで座り、目の前にはきちんとした服装の職員が三人立っていた。「麻酔科は、唐沢夫人の回診時に患者に何か異変を発見しましたか?」質問が投げられると、職員はさらに付け加えた。「麻酔の用量は患者の体質に応じて厳密に決められていましたか?」豊鬼先生は断言するように答えた。「診療記録に一つ一つ明記しています。我々は一つひとつ、患者の体質に従って厳格に策定しており、非常に慎重に行っています」麻酔科に関するいくつかの質問が続き、問いは一旦終わった。だが私たちが立ち上がろうとしたとき、職員の一人が私を名指しで呼び止めた。「同僚から、水辺先生が回診中に唐沢夫婦と衝突があったと聞いていますが、それは事実ですか?」この件が出るだろうとは予想していたが、まさか私だけを別に問いただすとは思わなかった。私は正直に答えた。「最初は確かに誤解がありましたが、その後私たちは唐沢夫婦と友好的に接するようになりました」「その衝突が患者の状態に悪影響を与えた可能性はありますか?」私は少し驚いたが、落ち着いて答えた。「もちろんありません。唐沢夫人は私たちを友人のように扱ってくださり、唐沢さんがピーナッツアレルギーであることも彼女自身から聞いています」職員は無表情で、少し間を置いてからまた口を開いた。「麻酔医の立場から見て、紀戸先生は今回の唐沢夫人の治療において不適切な点があったと思いますか?」同僚への評価を求められるような質問だ。私は少し考えた後、正直に答えた。「紀戸先生は東市協和病院で細心の注意を払うことで有名です。彼はとても真面目で、私個人の見解では、適格な神経外科医だと断言できます」これで尋問は終わった。だが、職員の次々と投げかけられる質問の端々から、私はひとつの危険の匂いを嗅ぎ取っていた。どこかに落とし穴がある――気を抜けばすぐに転ぶような、そんな予感が胸に張り付いていた。八雲は午前から事情聴取に連れて行かれてから、午後になっても彼からの便りはなかった。玉恵の言葉が頭をぐるぐる回り、何
私は葵の提案に思わず息を呑んだ。八雲がどんな立場の人間で、紀戸家が東市でどれほどの地位を持つか――少女が詳しく知らなくても、耳にしたことくらいはあるはずだ。そんな人を、そう簡単に「連絡してみて」なんて言えるものじゃない。それに「名ばかりの紀戸奥さん」である私に頼むなんて……もしこの東市協和病院で、八雲との距離を序列で並べるなら――どう考えても、私は末席にも入らない。それなのに、なぜ彼女はわざわざ私を?まさか、私と八雲の間に「何か」を感じ取って、探りを入れてきたのだろうか。さっき彼女が玉恵の車の去っていく後ろ姿を見つめていた様子を思い出し、私は逆に問い返した。「松島先生、冗談でしょう。松島先生が紀戸家と連絡を取れないのに、私のような麻酔科のインターンにできるわけがないよ」「正直に言うと、私だって、八雲先輩とそんな関係では……」葵は真剣な面持ちで、言葉を選びながら続けた。「ただ今回は事が急すぎて……他に頼れる人がいなくて」私は彼女を見つめ、静かに言った。「残念だけど、その件は力になれないよ」きっぱりと言い切ると、彼女は困ったように指先で上着の裾をいじり、おずおずと口を開いた。「水辺先輩、聞いた話なんだけど……藤原先生って、八雲先輩の中学の同級生なんだね。もしかしたら、藤原先生経由なら紀戸家の連絡先が――」その瞬間、私はようやく合点がいった。なるほど、彼女は遠回しに、私から浩賢へ話を持っていかせたかったのだ。けれど、今の状況で私は彼を巻き込みたくない。むしろ、少しでも関係を切り離したい立場だ。だからやんわりと断った。「松島先生、あなたも知ってるでしょう。厚労省は今、正式に調査を始めてる。こんな時は、余計な動きをしない方がいいと思うよ」私の意図を察したのか、葵は無理に笑みを作り、「ごめん、私の考えが浅はかった……水辺先輩、笑わないでね」と、気まずそうに言った。その時、携帯の着信音が私たちの間に割り込んだ。――看護師長からだ。「すぐに管理棟へ来て。例の事情聴取よ」低く緊迫した声だった。葵のスマホにも、同じ通知メッセージが届いたようだ。私たちは顔を見合わせ、そのまま管理棟へ向かった。エレベーターを降りた瞬間、遠くから浩賢がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。距離が縮まると、彼は私の額を見て眉を
車の前に着いた途端、運転手がすぐにドアを開けてくれた。次の瞬間、私は後部座席に座る玉恵の険しい顔と向き合った。私は丁寧に頭を下げ、車に乗り込んだ。腰を下ろす間もなく、玉恵の厳しい声が響いた。「八雲にあんな大事が起きたっていうのに、どうして家に一言も知らせなかったの?紀戸家の情報網がなければ、今でも私たち夫婦は何も知らないままだったわ」「ごめんなさい、会議中で……」「会議?あなたにとって会議は八雲より大事なの?仕事が夫より大事だっていうの?」玉恵の畳みかけるような言葉に、私は静かに答えた。「事態が急で……今、状況を把握しているところです」「それで、何が分かったの?」私はあの根も葉もないうわさを思い出し、無力感とともに首を振った。すると玉恵は皮肉げに笑った。「同じ病院で働いていながら、夫のことを何も知らないなんてね。八雲があんなにあなたのことを大事にしているのに、情けない話だわ」私は眉を寄せた。傷口から伝わる痛みが、まるで無言の嘲りのようだ。「でも……」玉恵は急に口調を変え、鋭い目で私を見つめた。「あなた、あの唐沢夫人と何度か接触があったよね?」玉恵の情報の速さに一瞬驚き、私は少し間を置いてから答えた。「はい。手術後の回診で何度か顔を合わせたことがあって……」玉恵は軽くうなずき、念を押すように言った。「唐沢家は東市でもそれなりの地位がある家よ。この件、簡単には収まらないでしょう。そのうち、厚労省もあなたたちを呼んで話を聞くはず。どう答えるか……もう分かってるわね?」その言葉には覚えがあった。ついこの前、豊鬼先生も同じことを会議で言っていた。何度も何人にも釘を刺される――つまり、「唐沢夫人事件」は想像以上に厄介だということだ。私はそのとき、ようやく事の重大さを理解した。「つまりね」玉恵は私が沈黙しているのを見て、横目で一瞥しながら言った。「いざという時、どうやって八雲を守るべきか、あなたなら分かるでしょう?」――守る?八雲を?玉恵の言葉を反芻する間もなく、彼女は続けた。「あなたが紀戸家に嫁いでもう三年になるわね。よく考えてみなさい、この三年間、紀戸家があなたや水辺家にどれだけ尽くしてきたか。お父さんの療養費のこともあるし、今もパリで留学している妹さん――その学費がどれほどかかっているか、あなたなら