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第167話

作者: 冷凍梨
男は静かに私を見ただけで、何も言わなかった。

――分かってる。それが答えだった。

これが、私が八年も愛してきた男の姿。今日のように命運のかかった場面で、彼は迷うことなく私を盾にした。

なんて皮肉なんだろう。

一歩、後ずさった。目の前には、義父、義母、そして八雲。

その三人を見渡したとき、ようやく気づいた――自分がどれほど愚かだったのかを。

この三年間、私は必死にこの家族に馴染もうとしてきた。

けれど、最初から、彼らは私を「家族」として見たことなどなかったのだ。

そう思うと、私は口元を引きつらせて苦笑した。「おかしいでしょう、紀戸先生。離婚しようとしている女に罪をかぶせるなんて、さすがに無理があるんじゃない?」

「離婚」という言葉が出た瞬間、場の空気が凍りついた。

八雲は座っていられなくなり、声を荒げた。「水辺優月、バカなことを言うな」

「バカなことは言っていないわ」私は冷ややかに彼を見据え、義父母にも視線を向けた。「ただ、はっきりさせておきたいだけ。紀戸先生がトラブルを起こしたことは、妻として心配している。

でも、もうすぐ離婚する身だから、そこまで偉大な愛は持ち合わせていない。責任を取るつもりもないので、他の方法をお考えください。失礼します」

言い終えると、私はきっぱりと背を向けた。

玄関を出るとき、背後で玉恵の怒鳴り声が響いた。「たいしたもんねぇ、紀戸家の恩恵を散々受けておいて、今さら一人前になったつもり!?」

屋敷を出ると、空はもう暗く沈み、小雨が冬の冷気を含んで降り始めていた。襟元から忍び込む冷たさが、骨の髄まで刺さる。

タクシーも捕まらない。

そのとき、バッグの中で携帯が鳴った。画面を見ると――豊鬼先生からだった。

嫌な予感が胸を走った。深呼吸をひとつして、通話ボタンを押した。

「水辺優月、どういうつもりだ!?勤務中に無断で抜け出すなんて!麻酔科をスーパーとでも思ってるのか、好き勝手に来たり帰ったりして!」

その怒号を耳にして、私は慌てて弁明した。「豊岡先生、私は休暇届を――」

「誰がサインした?承認されたのか?」叱責の声はさらに二段階ほど大きくなり、豊鬼先生は怒気をあらわにして言い放った。「二十分以内に戻れ!さもなきゃ明日、青葉主任に自分で説明しろ!」

電話は一方的に切られた。

雨で濡れた画面を見つめるうちに、
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