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第3話

Author: 冷凍梨
3年前に、八雲が巻き込まれた医療トラブルがあって、病院で診断結果を待っている父は思いかけずに就任したばかりの八雲の代わりに2回も刺された。

紀戸家は八雲が助けられた恩に、ぜひ父にお礼をしたいと言っていたが、まさか父は紀戸家との婚約を要求したとは思わなかった。

紀戸家は東市ではトップクラスの名家である。それと比べて、父はただのちっぽけな製薬会社の経営者に過ぎない。だから、婚約の件では、紀戸家全員から見れば、明らかに恩を売って、恩恵を浴しようとしていた。

当時、私はその場にいなかった。八雲が会いに来た時に、その手には婚前契約書を持って、冷たい眼差しで私を見下していた。

「婚姻期限は3年だ。期限が切れたら自動的に解約する。問題はないなら、明日の朝、市役所に来い」

何年間も恋をしてきた男と結婚できるとは。何も考えずに、即座に契約書にサインした。

しかし、契約書の一行目に、はっきりと「俺たちが夫婦だなんて妄想は捨てよう」という一文が書いてあることに気付かなかった。

涙が零れ落ちて、紙を濡らした。私は契約書に書いてある「夫婦」という言葉を見つめて、苦笑いを浮かべた。

それで、八雲、私たちが過ごしたこの3年間は何だったの?

一夜眠れず、騒がしい着信音が鳴り響いて、私がやっと我に返った。

画面に写っているのは固定電話の番号だった。

「水辺さんですか?こちらは東市協和病院人事部です。明日の朝10時の筆記試験にご参加ください。試験場のアドレスはもう水辺さんのスマホにお送りしました」

東市協和病院の人事部から。

そういえば、先日指導教官の佐々木(ささき)教授は私たちに面接を受けさせるための推薦状を東市協和病院に送った。医学部では、六人しか推薦されていないと聞いたが、まさか自分がそのうちの一人だと思わなかった。

東市協和病院は八雲が大活躍しているところであり、医学部の学生たちみんな、誰もが憧れる就職先でもある。私が八雲と同僚になれるかもしれないと夢見る場所でもあった。

今考えてみると、ただ私の片思いに過ぎなかった。

笑えるね。

「水辺さん、あの、明日時間通りに来れられますか?」

向こうの声が耳に入った。もう一度婚前契約書のほうをちらっと見て、隣の置いてある避妊薬のほうに目が行った。2秒くらい迷ってたら、ようやく返事をした。

「はい。必ず時間通りに行きます」

恋が叶わないのなら、せめて自分の進路を大事にしよう。

1日中、ずっと試験勉強をしていた。すると、晩ご飯の時間が近い時に、義母の紀戸玉恵(きど たまえ)はいきなり家の前に現れた。

ドアに入ってくる時に、手に持っているのはベビ待ち向けの栄養補助食品のセットだった。義母はこの家に視線を走らせて、「八雲はまだ帰ってないの?」と聞いた。

「今日は八雲の当直だから」

カレンダーに書かれているスケジュールを、私はもう丸暗記しておいた。だから、すぐに答えられた。

「明日の朝に帰るはず」

最後の一言は自分に言い聞かせる嘘だった。

義母の視線は私の腹に2秒ぐらい止めていた。そして注意を与えているように言った。「ここ数日は排卵日でしょう?妻としてもっと積極的になってよ。このままじゃ、いつになったら孫の顔が見れるの?」

八雲と結婚して2年目から、その話はすでに聞き慣れた。あの時はまだ馬鹿みたいにあの男のことが好きだったから、何とも思わなかったが、今日改めて聞くと、何故かこんなにも耳障りだった。

いつも子作りに抵抗していたのは、私じゃないのに。

「そうだ」

ソファに姿勢良く座っている義母は机に置いてある医学関連の本を見て、急に話題を変えた。

「東市協和病院の明日の筆記試験の受験者リストにあんたもいると聞いたんだけど」

義母はいつも情報に明るいのは知っているが、まさか筆記試験に参加することも知ったとは。

私は頷いた。説明しようとしたら、義母は私の口を挟んだ。

「後ろ倒しにしなさい。紀戸家の財産で、あんたを養うのは十分だわ。今最優先にすべきことは、この家のために子供を作ること。他のことは全部後ろ倒しにしなさい」

当たり前のように言っていた。まるでこの筆記試験のチャンスを失うのも大したことではないかのように。

誰もが知っているはずだ。東市協和病院で就職するチャンスはそう簡単に得られるものではないと。ただのインターン生だとしても、百人くらいの応募者のうち、3、4人しか受からないらしい。筆記試験のチャンスを掴める人は滅多にいない。

まだ試験に参加していないのに、義母の一言で、そのままこのチャンスを逃すの?

いや、できないわ。

そろそろあの何でも八雲を最優先に考える恋愛脳から卒業するべきだ。この自分で作った幸せな結婚生活の夢から、覚める時だ。

「お義母さん」口調は優しいけど、決意の固さも込められていた。「明日の筆記試験は、参加してみるの」

相談じゃなく、ただ揺らがずに自分の決意を伝えた。

私が反抗的な態度を取るとは思わなかったからか、義母は驚いた。何秒間呆然としていた後、信じられないような顔で私を見つめていた。そしていきなり私の後ろに目を向けて、「ふふ」と鼻で笑った。

「八雲、全部聞いたのね?」

私はゆっくりと後ろを向いたら、玄関に立っている八雲が見えた。

その細くて柔らかい毛先から雫が落ちてきて、少し冬の夜の冷たさと湿気を帯びた体だった。

でも、当直しているはずではないの?どうして急に帰ってきたの?
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