それを聞いた八雲はしばらくぼんやりしていた。何秒間後、ついに口を開いた。「半分こ?」少し驚いたようだった。浩賢も隠すつもりはなかった。「これは水辺さんがくれたお礼だよ。紀戸先生はやきもちを焼かないでね」一言で、私の代わりに説明してくれただけでなく、八雲の顔も立ててあげた。さすが浩賢、EQは半端ないね。「なんで俺はやきもちを焼かなきゃいけないんだ?」八雲は「チッ」と言って、嫌気の差した顔をした。「ただの昼ご飯だし、それに......」一瞬口を止めて、八雲は目をお弁当に留めた。そして見下しているように、優越感の満ちた口調で言った。「毎回そればっかりだし、とっくに飽きたんだよ」飽きた。その言葉を聞いて、心はまるで雪が降り出したように寒くて仕方がなかった。思い返すと、ここ3年間、私は毎日早寝早起きして、八百屋から一番新鮮な食材を買ってきて、八雲の好みと栄養バランスを合わせながら弁当を作ってあげてきた。そしてできれば早く病院に届けに行った。結局得られた感想は、「飽きた」だなんて。そうだよね。どんなに新鮮な食材だとしても、どんなにちゃんとした組み合わせだとしても、3年間も食べ続けてきたら、そろそろ飽きちゃうんだよね。妻である私みたいに。「そうだ。水辺さんはまだ知らないよな?」雰囲気の変化に気づいたからか、浩賢は自ら話題を変えた。「紀戸先生がこの病院に応募した時、筆記試験でも面接でも1位だったよ。水辺さんは紀戸先生からアドバイスをもらってもいいと思うよ」そう言って、八雲に目配せして合図した。八雲は私の顔に目を走らせて、冷笑した。「水辺さんは賢いし、術もいくらでもあるし、俺が教えることはないと思うが」賢いし、術もいくらでもあるし。八雲の口から吐いた一字一句も、私の心を責め苛んでいる。八雲が骨の髄まで私を見下しているのは知っている。今は演技まで諦めたようだ。そう想って、手を握りしめた。そして彼に相槌を打った。「紀戸先生もお仕事が大変だし、きっと私を構う余裕なんかないでしょう。迷惑をかけてはいけませんわ」それに、私は自分の力で、この面接を勝ち抜くのだ。と、心の底で自分に言い聞かせた。あっという間に、翌日の朝が来た。自信満々に東市協和病院のビルの下まで来たが、馴染のある姿に止められ
八雲が加藤さんに電話をかけたのは半時間前だった。私の代わりにとある高級オーダーメイドのデザイナーに面接用のスーツを頼んだが、病院で用事があるから、私の母、つまり私たちの婚姻関係を知っている人、自分の義母に連絡したらしい。八雲はまた妻のことを大事にしているいい男のふりをした。筋も通る。しかし私だけはっきり分かっている。私と八雲は全然お互いにプレゼントするほどの仲ではないのだ。「八雲くんに甘えすぎるわ」加藤さんの態度は相変わらず、続けて言った。「帰ったら自分で謝りなさい。紀戸家に聞かれたら、ただちょっと職場体験がしたかっただけで、ちゃんと妊娠の準備をして、元気な子を生んであげるって言って。分かった?」決意表明か?その方法は一般的な男を落とすことができるかもしれないが、八雲に聞かれたら、ただ逆効果になるだけ。流れていく時間を考えて、私は手短に言った。「人生を捧げるいい妻のキャラ作りをするなら、徹底的にしたほうがいいんじゃない?」面接のチャンスを逃すより、合格してから涙を呑んで自ら職場を去ったほうが説得力があるでしょう?何より、医学部の学生がみんな、なんとかしても入ろうとしてるあの東市協和病院だし。私が入ったら、つまり紀戸家は見る目があって、能力のある嫁を選んだということでもある。この言葉を聞いて、加藤さんは少し動揺している顔をした。それを見た私は、更に補足をした。「私が能力を示せば、母さんも顔が立つでしょう?それとも、ずっとそのまま家族でドン底の立場でいいの?」それを聞いて、加藤さんは暗い瞳が一瞬で光って、道を譲ってくれた。でも、ガンダッシュして面接会場に着いたのに、結局遅刻してしまった。先に面接を受けたのは松島葵だった。その顔を見て、かなり上手くいったみたいだ。しかし、まさか4人の面接官の中に、八雲もいるとは思わなかった。そうだよね。東市協和病院が一番誇るのは脳神経外科だ。このような規模の大きい面接で、首席執刀医として、八雲が出席するのも当たり前のことだ。私は我に返って、自己紹介を始めた。「水辺さんは大学在学中に、脳神経外科に関する課程を修了した以外、麻酔科の知識も学びましたね」面接官の一人、森本(もりもと)院長は私の履歴書に目を通して、ゆっくりと質問をした。「この2学科は何
結局、私は無表情で面接室から出た。直感的に、この面接はやっちゃった気がする。私は重い足取りで、前へ歩いていた。廊下の角まで行ったら、聞き覚えのある可愛らしい声が耳に入った。「全体的に上手くいったよ」松島葵は電話を持って、大事な人に報告しているように話していた。「八雲先輩からもらった面接ノートのおかげだよ」目と目があった瞬間、女の子はすぐに電話を切って、うさぎみたいにぴょんぴょんと歩いてきた。「水辺先輩」葵は宝物を抱えているようにファイルを抱えていた。そしてにこにこしながら、「面接はどうでした?」と聞いた。私は元気のない声で、「ちょっとミスった」と答えた。「大丈夫ですよ、先輩」葵は甘い口調で、慰めているように言った。「面接官はみんな大物だし、完璧にするのは難しいですよ」言いながら、慰めようとしたか、女の子は細い腕を伸ばしてきた途端、「パッ」と音がして、その腕に抱えられたファイルは急に床に落ちた。ちょうど私に足元に。私は下を向いて、そのファイルのカバーに書いてある硬くて個性的な文字を見たら、心臓の鼓動は一瞬だけ止まった気がした。八雲の筆跡だ。私は葵と同時に拾おうとして腰を折って、同時にそのファイルに触れた。指先がページに触った瞬間、私はすぐに腕を戻した。そして、その子が大事にそれを腕に抱えたのを見ていた。宝物を扱っているみたいに。「すみませんね」葵は恥ずかしそうな目で私を見て、言った。「これは八雲先輩からもらった面接ノートです。全部手書きで、とても大切にしてるんです」言い終わって、女の子はペロッと舌を出して、青春の気配だった。ファイルは薄くない。見た感じで、少なくとも十数ページはある。もし全部手書きだとしたら、かなりの作業の量だ。脳神経外科の仕事は昼夜を分かたず忙しいし、あの八雲なら尚更だ。大事に思っていなかったら、八雲はどうやって時間を割いて、十数ページもの面接ノートを書いてあげられたの?診療科の仕事が忙しくて離れないから、ビルから出て弁当や着替え物を取る時間もないなんて、今思い返せば、全部口実だったのね。私を誤魔化すための口実だった。私は魂が抜けたようにエレベーターに入った。「今年はあまりにも競争が激しいから、内科は二人しか受からないらしい。脳神経外科はもう狭
私の質問を聞いて、八雲の顔色はすぐに険しくなった。深い闇のような瞳が私の顔に凝らされていた。私はその視線を直視して、譲る気は全くなかった。膠着状態がしばらく続いていたら、男は急にまた眉を顰めた。そして揶揄しているような口調で聞いた。「水辺さんは、なんで俺があんなことをしたと思う?」私の言いたいことが分かったみたいだ。推測の言葉が喉に詰まって、まだ返事していないのに、八雲はまた聞き方を変えた。「水辺さんはまさか、立派な医者はただ研究室でその冷たい実験器具を扱えばいいと思ってるのか?」「何が言いたいの?」八雲は車の鍵を取り出しながら口を開いた。「医者は自分周りの人間関係のトラブルも上手く対応できないのなら、どうやって患者さんの健康に対して責任が負えるのだ?」加藤さんとの衝突を上手く対応できなかったから、今朝の面接でミスをしてしまったことに皮肉を言っていたのだ。人聞きの悪い言葉だが、反論ができなかった。しかし同時に、私の推測の答え合わせとなった。面接用のスーツに関しても、どうやら八雲の言う通りに、ただ「紀戸奥さん」という肩書きに対する基本的な礼儀として、ついでに用意してくれたみたいだ。両家の親に聞かれても、うまく誤魔化せるのだ。だけど、八雲が本当に心がけてきちんと用意したのは、松島葵のための、手書きの面接ノートだ。車のドアが開けられた音で、私は我に返った。車に乗ろうとしている八雲を見て、何故か、今日の私は意外と度胸があって、言葉を発した。「紀戸先生は松島さんのことでは、結構頑張ってるね」男は一瞬ぼんやりした。そして戸惑った目で私を見ていた。私も隠すつもりはないから、正直に言った。「手書きの面接ノートは、見たわよ」「で?」短い詰問だったが、それを聞いた私は、いきなり何も返せなかった。そうだね。元から契約上の結婚だし、八雲にこのようなことを言う資格と立場が、私にはないのだ。それに、この間違いだらけの芝居は、もうすぐ終わるはずだ。喉は紐で縛られたように、声が出せなかった。この一瞬で、私は完全に弱気になった。「ドン」と音がして、八雲の体はすでに運転席に入った。窓ガラスを越して、私たちの視線は数秒間くらいだけこの淀んだ空気で交わった。陰に覆われた顔は、半分私の目に映って、半分暗闇に呑
もう決めたんだ。まるで頭に冷水をかけられたように、私は寒さのあまり、全身ぶるぶると震えていた。足も石になったように、動けなかった。同時に、私の脳内では勝手に松島葵の顔が浮かんでしまった。「ほう?誰だ?」ドアの中からまた声がした。八雲の父が問いかける声だった。「脳神経外科専門の新卒だ」八雲は迷いせず答えた。「葵ちゃんは結構頭がいいんだ」書斎はしばらくの沈黙に包まれた。私の心も少しずつ海の底へ沈んでいるみたいに、息苦しくなってきた。葵ちゃん。なんて親しい呼び方だ。八雲のような慎重な人は、そのまま父の前で堂々と葵のことを口にするなんて、彼女への贔屓はもう溢れ出ていた。彼にとって、彼女はやはり特別だ。「分かった。お前の判断を信じるよ」八雲の父は疑いもしなかった。その口調から、自分の息子への信頼と支持が聞こえた。まるでつい1分前に、私への褒め言葉が絶えなかったことも忘れてしまったように。ただそのような褒め言葉は、八雲の選択と比べて、比べ物にもなれなかった。私はそっと階段を降りて、リビングの洗面所へ逃げ込んだ。冷水で顔を洗ってから、ようやく落ち着いた。そして何もなかったかのような顔でリビングに戻ったら、八雲とその父はすでにリビングにいた。召使いが食器を並んでいるのを見て、私はいつも通りに手伝いに行った。ふと八雲のほうに目を走らせたら、八雲は席でスマホをいじっていた。ピンクがメインの二次元の女の子のアイコンが目に映った。「葵ちゃん」という愛に満ちた言葉はまた不意に耳元で鳴り響いて、私の手もいきなり力が抜けてしまった。栄養スープの入っていたボーンチャイナのスープボウルは手のひらから落ちて、「パリン!」と音がした。「あら大変です。それは奥様の一番好きなポーンチャイナのスープボウルですよ!」召使いの悲鳴で、私はようやく我に返った。下を向いたら、足元に横たわっている破片が目に入った。私はすぐに腰を折って拾おうとしたが、ボーンチャイナの破片があまりにも鋭すぎて、指が刺されてしまった。一瞬で、血が滲み出して、痛みが指先から全身に伝わった。「私のロイヤル・ウースターが!貴重な記念限定品なのに」義母はものすごく心が痛んでいるように見えた。私を責める声も耳に入ってきた。「水辺優月、なんで
八雲は私の目の前で電話に出た。幼い少女の声がスピーカーから漏れて、女の子は嬉しそうに話した。「八雲先輩、クラスメートから聞いたよ。駐車場で八雲先輩が見たんだって。本当?」男は指でポンとハンドルに当てて、穏やかな口調で、「ああ、俺だ」と答えた。「本当?いきなりすぎてびっくりしたよ!」それを聞いて、八雲はまるで向こうからの一字一句も聞き逃したくないように、更に耳をスピーカーに近づけた。気づかれがたい笑みがその顔に浮かんだ。「あっ、また何か変なことを言っちゃったかな」松島葵は自問自答しているように、少し怯えているような口調で口を開いた。「もしかしたら、八雲先輩は用事があって大学に来たかもしれないし」女の子は到底若かった。何を考えているのかすら隠せないし、探り方もバレバレだ。しかし八雲は嫌ではなさそうだった。そして突然話題を変えて、「もう食べた?」と聞いた。そう言いながら、その細くて綺麗な目を私の顔に走らせた。そしてようやく体をドアのほうに傾けた。さっきは絶対にもう私の存在を忘れただろう。二人で少しお喋りをしてから、八雲はやっと電話を切った。その男の顔に浮かぶ喜びを見て、私はついに気がついた。八雲はわざわざ私を医学部まで送ってきたわけではなく、会いたい人に会いに来るから、ついでに私も連れてきただけだ。そう。またついでに。私たちは3年間も一緒に暮らしてきて、八雲が珍しく私を目的地まで送ってくれたのは、まさか好きな女の子に会いに来るためだったなんて。心はまるで針に刺さられたように、チクチクと痛み出した。私はもやもやする気持ちを抑えて、シートベルトを外した。「今夜は当直だから」男は低い声で、説明しているように言った。「帰れないんだ」当直。私は心の中で嗤った。その口実、八雲はまだ使い飽きないんだね?私はサクッと車から降りたが、顔を上げると、向こうのそのきゅるんきゅるんな目と視線が合った。葵が既に来ていた。女の子は冬のJK制服を着ていて、黒いハイソックスとスニーカーとコーデして、まさに清楚系の美少女で、なんという可愛らしい姿だった。目と目が合った時、その顔に浮かんでいた笑顔は明らかに固まった。私へ向けた視線も探っているように私の身に走らせた。そうだろう。結婚証明書では、
そう。私は採用されたのだ。しかし東市協和病院の脳神経外科ではなく、麻酔科だ。あまりに急すぎるサプライズで、喜んでいいのか、悔しがっていいのかすら分からなかった。脳神経外科専門で毎年試験で1位を取っている私は、最終的にまさか副専門の麻酔科学で東市協和病院に入ったとは、誰も予想しなかっただろう。だけど松島葵の名前は、脳神経外科のリストに入っていて、すごく目立っていた。同じく採用されたのは、他の大学院の医学部の修士1名だった。二つの枠に、私はいなかった。「決まったわ」電話の向こうで、加藤さんはペラペラと話し続けていた。「必ずいい芝居にして、満員御礼にするから、私が用意してあげるわ」加藤さんは冗談で言い出すわけがないと分かっているから、私はすぐに止めた。「そんなに急がなくても。まずは......考えさせて」私の口調から躊躇いを感じたか、加藤さんは不満そうに言った。「優月、まさか前に言ったことは私を誤魔化すために作った理由じゃないよね?」私は眉間をギュッとつまんで、ため息混じりに言った。「正式に顔を出しに行くのは来週の月曜日からだから、この2日間は準備するだけでいいんじゃない?私にも時間がほしいし」正直に聞こえる口調で言ったから、加藤さんもこれ以上疑いをせず、未練がありながらもやっと電話を切った。私はもう一度東市協和病院の公式サイトに視線を向けた。「麻酔科」という3文字に目が離れなかった。知っているのだ。これは今唯一東市協和病院で務められる方法だと。それに、唯一仕事上で八雲と繋がりができる形だと。八雲が気にしなさそうな形で。しかし、麻酔科医は、脳神経外科医とは全く違う分野だ。私はちゃんとできるのかな?このチャンスは掴むか、諦めるか、私は迷った。それで、私は佐々木教授に電話して、研究施設棟での待ち合わせを約束した。すでに60歳を過ぎた年寄りは、老眼鏡をかけていて、頭を垂れている私を見たら、からかうように言った。「たった1年のインターン期間だし、何が怖いんだ?」私は素直に答えた。「麻酔科医になろうとは思ってなかったです」その年寄りは目の前の盆栽をいじりながら話していた。「君は特別入試の面接の時だって、脳神経外科医になろうと思ってなかったじゃん。だが結局、紀戸くんのためにこの専門にしただ
本当に八雲の主催だった。この瞬間、私は心の中で泣き笑いした。妻として、自分の夫の性格に関してはよく知っている自信がある。八雲は静かな場所が好きだから、一般的には、絶対にパーティーなどに行くわけがない。私が紀戸家に嫁入りしたこの3年間、そのような珍しい状況は1回か2回しかなかった。なのにたったこの半ヶ月で、その例外はもう2回もあった。目の前のこの純真無垢な女の子のために。お祝い?奢り?じゃあ私は?お茶を淹れてあげるためにいるのか?心が不意に真っ二つに分けられた。半分は失望の気持ちで、半分は羨ましい気持ちだった。「いや、私はいい」私は軽い口調で言った。「約束があるから」それを聞いて、葵は小さくため息をついて、「じゃあまた今度ね、水辺先輩」と優しく言った。元気な女の子がぴょんぴょんと視界から消えていくのを見送ってから、私は即座にスマホを開いて、ロック画面に映っているスケジュールを確認した。記憶が正しければ、今夜は八雲の当直のはずだ。ということは、この男は葵の就職を祝うために、同僚と当直の日を入れ替えたの?驚きと恐れが混ざって、心から溢れ出した。私は深呼吸をして、浩賢に電話をした。「そうだよ。今日の紀戸先生は丸くなったな」スピーカーから、藤原浩賢の気楽な声が聞こえた。「知ってるだろ。あいつのような仕事熱心な人、1ヶ月間でも1回休みを取るとは限らなかったのに、水辺さんのお祝いをするために、僕と当直を替えたとは。きっと水辺さんのことを大事にしてるだろ」私はスマホを握りしめた。色々な感情が心の中で渦巻いていたが、苦しみだけが溢れ出した。浩賢は知らなかった。その私のことを大事に思っている八雲は、自分のすべての優しさを、他の人に捧げた。私ではなかった。「水辺さん?」私の声が聞こえなかったからか、浩賢は少し声量を下げた。「このことは内緒にしてね。紀戸先生はきっとサプライズにするつもりだったから......」「サプライズ」という言葉が耳に入って、私の心臓はギュッとなって、ずっと抑えていた感情は最終的に爆発してしまった。浩賢に異常を気付けられないように、私は平気そうな口調で言った。「ありがとう、藤原先生。じゃあまた」電話を切ったら、私は医学部の道を沿って、前へ歩き出して。一周回ってからま
実は私はお酒にそんなに強くはないのだ。それに飲んだのはロイヤルサルートウィスキーのような度数の高いお酒だし、二杯飲み干した後、少し気持ち悪くなった。でも食事会のボードゲームは楽しいことが目的だから、呼ばれたのに飲まないなら、つまり楽しめないということだ。そんなふうに見られないように、私も付き合わなければいけない。しかしこのお酒は、何グラスも何グラスも飲まされて、切りがなかった。あっという間に、私はもう四杯、五杯ぐらいも飲まされた。また薔薇子にグラスを挙げるよう言われた時、ずっと雰囲気を和らげている葵は突然口を開いた。「水辺先輩はもう何グラスも飲んじゃったよ。今回はやめてあげよう?」八雲がいる限り、葵の発言には誰も逆らえないのだ。予想通りに、葵がそう言った瞬間、私に飲ませようとしたそのインターン生はすぐに前言を撤回した。「分かった。松島先生がそう言うのなら、今回はやめておこう」私は心でほっとした。ゲームの終盤に、やっと葵に回った。女の子は並んでいる札に目を走らせて、数秒間迷っていたら、その中から1枚引いた。ダイヤ9だった。ルールでは、罰ゲームに三杯飲まなければならない。葵は仕方がないようにペロッと舌を出して、微笑みながら、「なんか今日ついてないね」と言った。そして、グラスを上げようとしたが、薔薇子に止められた。「葵ちゃんは元々アルコールアレルギーだから、やめたほうがいいよ」葵はその綺麗な目をパチパチさせて、気にしていないような口調で返した。「そういうわけにはいかないよ。ルールはルールだし、破るような真似はしたくないの......」女の子は甘い声で言ったが、強い決意も感じた。その声を聞いて、私まで心が痛くなってきた。私はなんとか重い瞼を開けて、そのほうに目を向けたら、八雲はいつの間にかもう立ち上がって、葵からグラスを奪った。一杯、二杯、三杯。葵の代わりに罰を受けた。迷いもせずに。みんなの前で自分の彼女を庇っている彼氏のように。八雲が葵をそんなに大事に庇っているのはもう初めてではないのに、どうして私の心は、こんなにもチクチクと痛いのだろう?さっき自分が何杯も飲まされたことを思い返して、ただ鼻がツンとしてきた感じがして、涙も止まらずに零れ落ちていた。たぶん酔ってしまったのだ。心が裂か
ネイビーのピークドラペル着痩せスーツに、黒いウールインナー。今の八雲は高貴で威厳な空気を纏っているが、どこか若者の青春感も感じた。いつも事務的なスーツを纏って、革靴を履いている八雲とは全然違っている。しかしその隣の葵と並んだら、意外と違和感がなかった。たぶん、葵に合わせているだろう。さっきまで賑やかだった個室も八雲が来たことで静寂に包まれた。更に、何人かのインターン生はもじもじしてきて、緊張で息を吸うこともできなかった。これが紀戸八雲だ。どこまで行っても、迫力が半端ない。だけどこのような緊張感に満ちた雰囲気に、葵は気楽に八雲のそばに立っていて、恋愛中の少女のような顔をしていた。「八雲先輩、ここにいるみんなは東市協和病院で新しくできた友達なの」八雲は小幅に頷いて、低い声で「座りな」と言った。余計な言葉もなく、短い一言だった。そこ男の顔にほんの少しの表情の変化すら見えなかった。その時、女の子は私のことも忘れずに、きゅるんとした目で、「水辺先輩はここに座って」と言った。八雲の右側に、葵と薔薇子の二人を隔てた席だった。テーブルの周りの位置からして、一応半特等席ではある。どうやらしばらくは抜け出せないみたいだ。しかしこの場の雰囲気は、まるで大学院で学部長が開いた会議みたいで、あまりにも真面目すぎて、誰も雑談を始める勇気がなかった。こうなると、今日のディスカッションコーナーもそのままなしになりそうだ。先程までは大らかだった薔薇子も今襟を正して、ただこそこそと葵に目配せした。葵は少し照れているような笑みで聞いた。「みんな揃ったし、盛り上がるために、まずはゲームをやらない?八雲先輩はどう思う?」「葵次第だ」短い言葉だったが、「葵の言うことなら何でもい聞く」みたいな溺愛が感じられた。それを聞いた薔薇子は1組のトランプを取り出して、口を開いた。「紀戸先生もそう言いましたし、『花魁13人』......というゲームはどう?」薔薇子は天才的なムードメーカーだった。その言葉で、固かった雰囲気はやっと柔らかくなった。ゲームのルールも簡単だ。ジョーカー抜きで札を並んでから、1人ずつ札を1枚引く。違う数字にはそれぞれのルールがあって、札が全部引かれたら、ゲーム終了だ。店員がお酒や果物を持ってきたら、薔薇子
葵が突然現れたことに、看護師長も私もびっくりした。それに、最初の一言から彼氏というプライベートのことについて問いかけてきたなんて。私たちはあくまでもただの同僚で、そこまで仲が良いわけでもないと思うけど。それにその質問に、本当にどう答えばいいか分からなかった。彼氏はいないけど、夫はいる。しかもこの契約上の夫は、ちょうど松島葵の八雲お兄ちゃんだ、とか言うわけにはいかないだろう。葵はたぶん最初から看護師長と私の会話を聞いていたと思うが、一旦そのようなことを言ってしまえば、きっと大変なことになる。否定しようとしたら、看護師長が先に話題を変えてくれた。「この子が脳神経外科に入職したばっかりの天才ちゃんなのよね。うちの優月ちゃんとも知り合いなの?」葵は大人しく「はい」と言ったが、目をじっと私の身に凝らしていた。まるで何か証拠を見つけようとしているかのように。「水辺先輩は私たちの医学部での人気者なんですよ」「この方が葵のよく言ってた水辺先輩ですね」その隣の看護師は私の体に目を走らせて、言った。にこにこしながら、「やっぱ只者じゃないですね」その人は脳神経外科の新入りの看護師で、名前は尾崎薔薇子(おざき ばらこ)らしい。もし考えが当たったら、昨日葵とお手洗いで噂話をしたのもこの人だ。私たち4人でお互いに自己紹介をして、ワイワイ喋っていたら、「彼氏」という話題も二度と出てくることはなかった。お手洗いから出てから、私たちはそのままそれぞれの診療科に向かった。しかし間もなく、葵と薔薇子がいきなり追いついてきた。女の子は目を細めながら言った。「そうだ水辺先輩、今夜はインターン生での打ち上げがあるんだけど、先輩も遊びに来ませんか?」実は私はそういう賑やかな場面が苦手だが、そこで、薔薇子も補足した。「各診療科のインターン生も来ますよ。これを機に、みんなでお互いと知り合って、これからの仕事にも役立つと思いますわ」それを聞いて、私も一理あると思った。麻酔科は元々協力が主な診療科で、毎日各診療科とコミュニケーションを取らないといけない。非公式な打ち上げだが、これからはここでの居心地も良くなるし、人脈を広げることもできるし、行ってもいいかもしれない。「じゃあ場所を水辺先輩のスマホに送りますね」葵は明るくて親切な口調で言った。「夜
証拠?私は少し呆然として、また視線を八雲の手にある薬に落とした。それで、ついにその言葉の意味が分かった。私に警告しているのだ。少し嫌な気持ちになった私は、皮肉な言葉を並べた。「それは残念ね。地下駐車場で会った時、紀戸先生はスマホを取り出して、写真を残すべきだったね」驚いたことに、自分もこのからかうような言い方ができるとは。八雲の瞳から一瞬の動揺が見えた。明らかに八雲も私がこのような皮肉な言葉で返すとは思っていないようで、表情まで固くなった感じがした。八雲がぼんやりしているうちに、私はもう一度手を伸ばして、薬を取り戻して、八雲の前で開けた。火傷したのは事実だし、八雲の機嫌がちょっと斜めだからって、自分のことを大切にしないわけにもいかないだろう?ここ3年間、私はあんなに色々我慢してきたのに、この男は振り向きもしなかった。だから今は、自分のことを優先したいのだ。そう思って、私は薬を指に乗せて、じっくりと火傷のところに塗り始めた。しかし後ろ首は自分ではよく見えないから、私は鏡を見ながら2回塗っても、上手く火傷したところに広げられなかった。少しまごまごしている時、腰からいきなり誰からに抱かれた感じがして、足も床から離れた。私は八雲に洗面台に持ち上げられた。驚いた目で眉を上げたら、次の瞬間、首から冷たい感覚が伝わった。薄いタコのできている指先が私の肌に走り回って、馴染のあるような、ないような感触に私はゾクッとした。まさか八雲が私に薬を塗ってくれているとは。私は思わず指が震えた。そっと目を逸らしたが、情けないことに、ほっぺたはまだ燃やされているように熱かった。この男は一体何がしたいか分からないが、この狭い洗面台に完全に固定されて、私は薄めな不快感がした。私たちの距離は近すぎた。その吐息に薄々感じられるほど、ちょっとだけ見上げたら男の襟ぐりから男らしい胸筋が薄々見えるほど近かった。脳内にとっさに浮かんだのは、激しく絡まり合う画面だった。この瞬間、私は呼吸も荒くなった。「あ......ありがとう、紀戸先生」八雲の指先を避けた途端、私は平気そうなふりをした。しかし喉から声が出た瞬間、このガラガラで優しい声で、私の動揺がバレてしまった。もやもやした気分で、私は目を閉じて、まつ毛もびくびくと震えていた。そこ
4人が一箇所に固まった時、なんか最近みんなとバッタリ会いすぎないって思った。特に向こうのその紀戸先生、結婚証明書に載っている夫と。前回会ったのは、まだ1時間前のことだったのに。このような頻度では、さすがに、すぐには慣れないのだ。もちろん、同じくらいこの場にいづらいのは、隣に立っている藤原浩賢だ。その顔に気まずそうな目が見えた。しかし女の子の思考は単純で、それに気付かずに、ただ私の手にある薬を見つめながら、言った。「水辺先輩は怪我しましたの?藤原先生がわざわざお薬を用意してあげましたのね?」話題に出さなかったらまだいいが、これでは、全員の視線が私の右手にある火傷用の薬に集まってしまった。浩賢はすぐに答えた。「1本多く用意したから、ちょうど水辺先生が火傷したみたいで、あげたんだ」噛み噛みに説明した後、またちらっと八雲のほうに視線を向けた。しかし八雲は何も反応がなかった。逆にそのそばにいる葵は何度も私に目を走らせて、困惑した目で問いかけた。「水辺先輩はどこを怪我しちゃったの?」私は軽く襟を引っ張って、平気そうな口調で言った。「大丈夫。大した怪我じゃないよ」でもその子は思ったよりも賢かった。私の細かい仕草から火傷したところを察したみたいだ。それで、「藤原先生は先輩に優しいね」と感心した。それを聞いた浩賢は一瞬ぼんやりして、緊張感に満ちた目でちらっと私を見てから、八雲のほうを見つめて言った。「紀戸先生、何か言ってよ」かなり焦っているような声だった。明らかに八雲に誤解されることを怖がっていたのだ。だけど八雲は相変わらずその波の立たないような様子で、しばらく経ったら、ようやくゆるりと口を開いた。「藤原先生と水辺先生とのことだろう、俺が口を出すことじゃないだろ?」浩賢と私のこと?私は驚いて、思わず眉を上げた。自分の聞き間違いではないかと疑うところだった。それなのにそのようなことを言い出した男は、今はただ紳士のような振る舞いでいた。はっ、それが私の夫だ。戸籍法で、私たちは一蓮托生で、互恵関係であるべきだった。しかし今、その人はそばにいる女の子に忠誠を誓うために、戸籍に載っている自分の妻を他の男に投げるなんてことまでするとは。すごい忠誠だね。私は拳を握りしめたが、仕方がないと思った。何か返そ
気持ちを整理できたら、私はまた相談室に戻った。八雲はもう去っていって、豊鬼先生と何人かのスタッフしか残っていなかった。「今日は紀戸先生がいらっしゃったおかげで助かったんだ」豊鬼先生はまるで災難から幸い生き残ったように、ニヤニヤしながら私の顔に目を走らせた。「次にあの方に会ったら、ちゃんとお礼を言うんだぞ」お礼。私はこの言葉を噛み締めて、それから松島葵たちがお手洗いでの会話を思い返して、この瞬間、思わず鼻で笑った。八雲は葵のために助けに来たし、この場にいた他の人は、どう見ても濡れ衣を着せようとしたし、感謝することなど、できないわ。「水辺さんも今日麻酔科の役に立ったな」豊鬼先生は黙っている私を見て、態度はさっきよりは明らかに柔らかくなった。「俺は水辺さんの痛い気持ちが分かるよ。でもな、麻酔科医はみんなそれを乗り越えてきたんだ。いい意味では、経験を積んだし」その意味深い口調を聞くと、なんか本当に私のことを思っているように聞こえた。もしかして、私の考えすぎだった?「その子はたぶんちょっとショックを受けたから」他のスタッフも相槌を打った。「もうすぐ退勤時間だし、早めに帰らせて休ませよう?」豊鬼先生はちらっと私のほうに目を向けて、頷きながらその意見に賛成した。「分かった。じゃあ時間通りに退勤していいよ」この件はこれで完全に解決した。ただその茶湯にかけられた感覚の余韻は確かに凄まじいものだった。エレベーターがいつの間にか、地下1階に着いたことにすら気付かなかった。偶然のことに、隣のエレベーターから、藤原浩賢もちょうど出てきた。目と目が合った瞬間、ほっぺたが少し膨らんでいる男は少し驚いて、そして早足で私に向かって歩いてきた。茶色のコーデュロイジャケットに、ベージュ系の丸首ウールシャツ。白衣を脱いだ浩賢は今、カジュアルで、シティボーイ系のように見えた。「奇遇だね、水辺先生」浩賢は優しく話しかけてくれた。その穏やかな目を私の体に軽く走らせたら、聞いた。「もしかして退勤した?」私は曇った顔で頷いた。医者にとって残業はいつものことだから、時間通りに退勤できるのは、濡れ衣を着せられた補償みたいなものだった。結構情けないから言いづらかった。「そういえば、麻酔科にちょっとしたトラブルが
「訴える権利があります」という一言で、この場にいる全員も震え上がって、息を殺した。調停委員たちも驚きのあまり目を丸くした。そう。八雲は変わらずあの何に対しても無関心な八雲だったが、今日の医療トラブルに対処している時は、理性的で強気で、一歩も譲らなかった。たった二言三言で、さっきのようなとんでもない大騒ぎを鎮めた。中年女性も「訴える」という言葉を聞いた瞬間、信じられないような顔をした。口が何度か動いたけど、結局何も言わなかった。この時、豊鬼先生は前に出て、この騒ぎに終止符を打った。「あの、田中さん、紀戸先生の話もお聞きになったのでしょう?この方は当院の若い医師で一番優秀な外科専門家でございます。なので、どうかご安心ください。ね?」そう言って、豊鬼先生は調停委員に目で合図した。それで、調停委員たちは中年女性を支えながら床から起こした。「紀戸先生がそう言ったのなら、もう少し状況を見ておくわ」中年女性は自分で自分の面子を立てながら、外に行こうとした。それを見たみんなは安心したが、八雲だけが不満そうに眉を顰めて、いきなり「待ってください」と足を止めさせた。ここにいるみんなは困惑した目を八雲に向けた。そしてその鋭い目つきは私に向けられた。男の黒い瞳には少し不快な感情が混ざった。「人を傷つけたのに、謝りもしないですか?」謝る?八雲が、患者の家族に私に謝らせるなんて?さっきあの中年女性はどれほどの大騒ぎを起こしたか見なかったの?このような時に、他のみんなは一刻も早くこの厄介者に帰ってもらおうとしているのに、八雲はまさか彼女を私に謝らせるとは?かなりの変化球を打ったね。しかしなぜか、少しキュンとした。患者の家族はもちろん私に謝る気なんてないのだ。ほら、今はただドアの前で足を止めて、じっと私を見つめているだけだ。八雲もその人の考えが分かっている。「もし医者が患者の治療をして命を救ってあげたのに、敬意を持たれないのなら、これからは誰が患者たちに責任を取るのですか?」理屈のある言葉に、中年女性は数秒間迷っていたら、私に目を走らせて、軽く「ごめん」と言った。なんとか一件落着か。茶湯に汚された汚れもまだ残っているし、1コップに入っていたお茶にそのままかけられて、服ももうびしょびしょだ。中年女性がドアから出た
「それって大事か?」私の不満を聞いて、豊鬼先生ははっきりと答えてくれなかった。ただこう言った。「手術は、元々2科で協力して取り組んでこそ成功したものだ。東市協和病院の一員として、今はお前に患者の家族と話し合いに行かせるんだから、光栄に思え」光栄?今、濡れ衣を着せられても光栄に思わなきゃいけないの?直感だが、そう簡単なことではない気がする。私が何も返事しないのを見て、豊鬼先生は言い続けた。「それに、患者の家族の言った後遺症は、全部麻酔の後の正常反応なんだ。回復するにも時間が必要だ。お前は、その回復期間のことを患者の家族にちゃんと説明すればいいんだ」それを聞いた私は、困惑した顔で豊鬼先生の顔を見ていた。「患者の家族に説明するだけ?」「ああ。つまり患者の家族に豆知識を教えるってことだ」豊鬼先生は即答した。「このようなトラブルは我々診療科では珍しいことじゃないんだ。インターン生のお前は、そういう経験をするのもいずれのことだ。お前らの面接で『対応力』も聞かれただろ?今こそそれを鍛える時だ」そう言ったら、また私を急かした。豊鬼先生の言葉にも一理あるし、私もすぐに追いついていった。15分後、私は豊鬼先生と一緒に相談室に着いた。見上げたら、地味な格好をしていて憂鬱な目をしている中年女性がすぐそこに座っていた。その顔から薄々怒りを感じた。見れば患者の家族だと分かった。豊鬼先生はすぐにそのほうに向かって、誠意を持ってその女性に頭を下げた。「田中さん、大変お待たせいたしました。インターン生を連れてお詫びに参りました」言い終わった途端、私に目配せした。私もすぐに豊鬼先生の合図が分かって、早足でその女性の前まで来て、挨拶をした。中年女性はただ険しい目つきで私を睨んで、何も言わなかった。患者の家族の気持ちは分かるので、私もできるだけ怒らせないように穏やかな口調で口を開いた。「田中さんでございますよね。田中さんのお怒りはごもっともです。旦那さんのことがご心配の気持ちは承知しておりますが、その、気管カニューレを用いた麻酔の後はですね、確かに嗄声などの症状が起こると存じます。ですがそこはご安心くだ......」「またそれ?」中年女性はいきなり私の話を中断させた。そして声のトーンも上げて、周りに視線を走らせ
病院の食堂は、元から人混みで、八雲自身もどこまで行っても注目されるような人気者なのに、このような時にいきなり「目立たがり屋」とか言って、私のプライドを踏み潰した。この瞬間、私は気まずくてたまらなくなった。ただ指導先生に出された宿題を終わらせただけなのに、どこが目立たがり屋なの?もしかして葵の言った動画と関係しているの?困惑しているうちに、葵はまた私の顔を立てようとした。「八雲先輩は知らないかもしれないけど、水辺先生は医学部の時から上位に入れるくらい手際がいいのよ。同僚たちに褒められるのも、当然だと思いますわ」言い終わったら、私のほうに視線を向けた。そのきゅるんとした目から、少し気まずさが感じられた。この子は到底甘かった。八雲は知らないかもしれないって?知れ渡ったあの首席執刀医、紀戸先生がスタンフォード大学に行く前に、私たちは医学部で会うことも少なくなかった。医学部で開催された医学生技術大会だけでも、何回かライバルとして勝負してきた。私の実力、八雲ははっきり分かっているはずだ。なのに、わざと私を人の前で恥をかかせた。そう思って、どこかからの怒りが胸元に湧き上がってきて、正気を失ってしまうほどイライラしてきた。「手際がいいから何だ?」男の際立つ声がまた食堂で響いた。八雲は厳しい顔で私を睨んで、批判し続けた。「医者のやるべきことは人の命を救うことだ。手際を自慢することじゃない。水辺先生はどうやら昨日自分が手術室あわあわしている姿を忘れたようだね」軽蔑な口調に、その人を見下している態度。八雲の言っている一字一句にも、心が刺さられたように、ヒリヒリと疼いた。私たち、敵なの?そうでもないよね?「夫婦は二世」という言葉があるが、八雲が葵のことを大切にしているみたいに、私のことも大切にしてほしいとは望んでいないけど、そこまで私に嫌がらせをしなくてもいいだろう。そんなに私のことが嫌いなの?こんなに大勢の前で私に恥をかかさないと気持ちよくならないの?そうだよね。紀戸八雲だから、みんなの前でこのようなちっぽけなインターン生を叱る時、私の味方になってくれる人などいないのだ。まるで胸元が石で詰まっているように、胸苦しかった。私は顔を上げて、恐れずに八雲と視線を合わせて、口を開いた。「紀戸先生はどこから私が