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第3話

作者: 詩理
一睡もできないまま朝を迎えた。

明るくなった頃、下のほうから車のエンジン音が聞こえてくる。

父と母、それに咲が帰ってきたのだ。

遠くからでもわかるほどの怒鳴り声が、玄関越しに響いてくる。

「澪、お前、よくも平気でここに帰ってこられたもんだ!」

部屋のドアが乱暴に開き、父の桐島義人(きりしま よしひと)が冷たい目で私を見つめた。

「咲の昇進パーティーをめちゃくちゃにして、咲はお前を許してほしいと泣き崩れるほどだったんだぞ!

少しは反省したらどうなんだ?

今すぐ咲に謝りなさい!」

私はそっと目を閉じて、深呼吸する。あと二日。あと二日だけ耐えればいい。

昔、父はこんなふうに優しく私を守ってくれたことがあった。

初めて銃に触れて怖がったとき、「大丈夫だ、澪。人それぞれだ」と、何度でも励ましてくれた。

鷹野家の仕事を覚えられずにつまずいたときも、根気よく、何度も何度も教えてくれた。

けれど咲がやってきてから、すべてが変わった。

咲は十五歳で家の財務を一人で任され、十六で一家の精鋭チームのリーダーにまでなった。

私は十八になっても銃も持てず、家の仕事も一族で最下位。

気がつけば、父の「自慢の娘」の座は咲に奪われていた。

しかも咲が家に来てから、私はどんどん身体が弱くなっていった。

めまいや吐き気、訓練でもすぐに息切れし、小さな傷さえなかなか治らない。

家の医者は「体質だから、もっと栄養を」と言ったけれど、どれだけ努力してもどんどん悪くなる一方だった。

やがて、父の目には落胆しかなくなっていった。

「澪、咲を見てみろ。お前と同じくうちの娘なのに、どうしてこうも違う?

鷹野家の跡取りの妻として、そんな能力じゃ何も守れないだろう。怜司さんを支えることもできない。

家同士の縁談がなかったら、お前にこの地位を与えたことさえ後悔してるくらいだ」

そのうち、父の目は落胆から恥へと変わった。

まるで、私が「家の恥」で、咲こそが誇りの娘だとでも言いたげに。

私はそっと顔を上げ、ドアのそばに立つ咲を見る。

無垢な瞳でこちらを見つめ、心配そうな顔をしている。

「お姉ちゃん、仲直りしよう?昔みたいに戻ろうよ?」やけに優しい声で、涙までにじませてみせる。

――それが、咲の得意技だ。

「私のために香水を調合してくれたの、覚えてる?」咲が続ける。「明日は家の記念日だから、もう一度香水を作ってほしいの。昇進祝いとして」

母の綾子の目が一瞬だけ嬉しそうに光り、すぐに私に言った。

「それくらいしか取り柄ないんでしょ、澪。咲は、あんたにチャンスをくれてるのよ。ありがたいと思いなさい」

私は動かなかった。香水の香りが七年前の記憶を呼び覚ます。

あのとき、咲が家に来たばかりで、私ははりきって彼女のために人生初のオーダーメイド香水を作った。

「ローズマリーの香りが好き」と言われて、珍しい香料を必死に集め、指先は何度も薬液でただれた。

本当は、私の体質では多くの香料が毒みたいにしみて、毎回触るたびにひりついた。

でも、我慢して完璧な香水を作った。

だけど、咲が使った途端に全身が真っ赤な発疹で倒れた。

医者は「香水の成分でアレルギー反応が出た」と言った。

目を覚ました咲は、すぐに泣きながら怜司の胸に飛び込んだ。

「怜司さん、香水はお姉ちゃんが一生懸命作ってくれたの。ちょっと試してみたいって言ったのは私だから、彼女を責めないで。全部私が悪いの」

私は医務室の前で、怜司の責めるような視線を受けて、ただ立ち尽くしていた。「咲がアレルギーなんて知らなくて……」と言いかけたけど、怜司は私の話を聞かず、そのまま私を地下室に閉じ込めた。

三日間、水も食べ物もなく、暗闇と湿気のなかで過ごした。

隅でうずくまり、外の賑やかな笑い声を聞きながら、咲の回復祝いが開かれるのを感じていた。

やっと外に出られたときには、立つこともできないほど衰弱していた。

「忘れたの?」私は咲の完璧な顔を見つめて言う。「あんた、香料アレルギーだったよね」

その瞬間、部屋の空気が張り詰める。

ちょうどそのとき、怜司が入ってきた。

彼は私たちの会話を聞いて、足を止めた。

あのとき、地下室で意識が朦朧とするなか、実は夜中に一度だけ怜司が様子を見に来てくれたのを覚えている。

でも、もうどうでもいい。

今の怜司は、完全に咲の味方なのだから。

「アレルギー?」咲が笑う。どこか焦ったような響きが混じっていた。「そんな昔の話、もうどうでもいいじゃない。今は体質も変わったし、もう平気だよ」

さらに近づいてきて、私の手を取ろうとする。

咲の指が私の肌に食い込むほど強くなり、思わず振り払ったそのとき――

彼女は、バランスを崩したふりをして床に倒れた。

その瞬間、咲のもう片方の手がそっと袖に触れたのを見逃さなかった。

「きゃっ!」咲が大袈裟に倒れ、痛そうにうめく。

ほとんど同時に、咲の真っ白な頬に赤い斑点が浮かび上がった。

「咲!」母の綾子が叫びながら駆け寄る。「なんてこと、全身に発疹が……!」

みるみるうちに発疹が広がっていき、まるで重度のアレルギー反応そのものだった。

父の義人が怒りに震えて私を睨む。「澪、お前、咲に何をした!?」

何もしていない。ただ手を振り払っただけなのに、私は何も言い返せなかった。

咲は母に寄り添い、痛そうに泣きじゃくる。

「お母さん、すごく痒い……お姉ちゃん、ごめんね、私、本当に悪気はなかったの」

苦しみながらも、私をかばうような演技を見せて、家族の怒りはさらに燃え上がる。

義人が咲の赤く腫れた腕を見て、さらに怒鳴る。

「澪!いい加減にしろ!」

「ちがう、私は……」言いかけた声はあまりにも弱かった。

「何が違うんだ!」怜司が大股で近づいてきて、私を睨みつける。「まただ。お前はまた咲を傷つけた!」

怜司はそっと咲を抱き上げ、やけに優しく扱う。

「もう、私はアレルギーなんかじゃないのに……」咲は弱々しい声で怜司にしがみつき、「きっと他に原因があるはず……」と呟く。

けれど、その目だけは私をじっと見据え、うっすらと勝ち誇ったような光を宿していた。

私にだけ分かる、それが本当の咲だ。

「他に何が原因だっていうんだ?お前以外に咲に触れたやつがいるのか?」怜司は私をにらむ。

「この家で、香水にそんなに執着して持ち歩いてるのなんて、お前くらいだろ!」

全部、咲の思い通りだった。私には、ただ絶望しか残されていなかった。

咲は最初から、すべてを仕込んでいた。袖の中のアレルゲンも。

「澪!」怜司が叫んで、私の首を両手で締め上げる。「お前の本性なんて、とっくに見抜いていた!」

どんどん呼吸が苦しくなって、視界がぼやける。

そのとき、怜司が私の青白い顔と紫色になった唇に気づいた。

その死にかけた様子に、なぜか怜司の手が一瞬だけ緩む。

得体の知れない恐怖と、微かな良心が怜司を止めたのだろう。

私は壁に叩きつけられ、背中が痛む。口の中は、さらに鉄の味が濃くなる。

「怜司さん!」咲が怜司の様子に気づいて声を上げる。「どうしたの?顔色がすごく悪いよ?」

怜司は首を振って不安を押し殺し、私をもう一度見た。

怒りが消えることはなく、その目は今にも焼き尽くすような熱を帯びている。

「最初から分かっていれば、家同士の縁談なんて受けなかった。

出ていけ!二度と俺の前に現れるな!」

私は床に座り込んだまま、もう何も言う気になれなかった。

――これで最後。

私はもう、彼らの「信じてくれない」に傷ついたりしない。

私の心は、もう完全に死んでしまったのだから。
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