私が鷹野家の顧問弁護士事務所を訪れるのは、これが最後だった。冷たい大理石の床が足裏を擦るたび、全身に裂けるような痛みが走る。白血病の末期症状で、もはや普通に歩くことさえできない。呼吸一つが、拷問だった。「……すみません、鷹野家の跡取り、鷹野怜司(たかの れいじ)との離婚手続きをお願いしたいんです」スーツ姿の弁護士が、哀れみを隠せない目で私を見つめてきた。「奥様、ご家族の同伴は……?こういった手続きでご家族抜きというのは……珍しくて…」私があまりにも青白く痩せているせいか、弁護士の声はやけに小さい。何年も結婚しているのに、怜司は一度も私に公認の妻としての式を挙げてくれなかった。家の催しに連れて行かれることも、ほとんどない。だから、誰も「跡取りの妻」が私だなんて、ろくに知らない。「いいんです」私は淡々と言った。「死にかけの女に家族なんて必要ないですから」その瞬間、事務所の扉が乱暴に開いた。怜司の怒鳴り声が響く。「澪(みお)!お前、何やってるんだ!」振り返ると、怜司の目に激しい怒りの炎が燃えていた。その背後には桐島咲(きりしま さき)がぴたりとついてきて、いつもの嘘くさい笑顔を浮かべている。「よりによって、今日まで騒ぐのか?」怜司は私の目の前まで詰め寄る。「咲が家の財務担当に昇進した日なんだぞ。家族みんなでお祝いしてるのに、こんな茶番をぶつけてきやがって!」言うが早いか、平手打ちが飛んだ。衝撃でよろけて、頬がジリジリと痺れる。しばらくしてから気づく。今日は確かに咲の昇進祝いだってことに。怜司はわざわざ海外での仕事を延期してまで、咲のために予定を空けていた。白血病の末期で、いつ死んでもおかしくない私は、たった一度、緊急連絡用のコードで助けを求めただけ。その結果が、怜司からの「乱用」呼ばわりだった。涙が滲む。でも絶対に泣かないと決めている。何か言いかけた瞬間、激しい咳が襲った。血がぽたりと床に落ちて、淡い大理石に濃い赤の花が咲いた。やっと体を支えて、かすれ声で訴える。こんな時でさえ、私はまだ、どこかで期待していた。「怜司、私は本当に……」怜司が私の口元の血に気づいたのか、眉をひそめる。咲がすかさず声を上げる。「でも、怜司さんはお姉ちゃんのためにパーティーから駆けつけたんだよ……
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