Masuk振り返って悠さんを見ると、バツの悪そうな顔をしていた。「だからって、ちゃん付けもなんか…違う気がして」「美咲、でいいですよ」「呼び捨て?」「とってもお世話になりましたし。では」道路に向かって体の方向を変えようとした。手首を掴まれてまた振り返る。「…悠さん?」「その…家、どのへん?」「本町通りですけど…」「本町、車で通るから…乗ってかないか?」「いいんですか?…でもこれ以上ご迷惑お掛けするわけには」「朝メシ美味しかったからいいの。ほら、行くぞ」手首を掴まれたまま、駐車場へと向かった。どうぞ、と悠さんが黒いSUVのドアを開け、助手席を勧める。お言葉に甘えて助手席に座った。車で送ってもらうなら、服借りなくても良かったんじゃ…?でも、送ってもらう事前提で考えてなかったしな。「煙草の匂い、しませんね」「車の中では吸わない主義なんだ」「苦手な人もいるからね、煙草」運転をする悠さんの横顔はやっぱり美しくて。じろじろ見てはいけないと思いつつ、何度も盗み見てしまった。「今日、仕事は?」「今日はお休みなんです。明日の入学式で国歌の伴奏をすることになってます」「じゃあ、子ども達への美咲先生のお披露目は明日になるんだな」美香子叔母さんのマンションが視界に入る。ここでいいです、と告げると彼はゆっくりと速度を落とした。「ありがとうございました。お仕事、頑張ってください」「ああ。じゃ、またな」車が見えなくなるまでその場に立っていた。美香子叔母さんはもう職場へと出掛けたようだ。皺だらけになった服と悠さんから借りたTシャツと短パンを洗濯する。麻のワンピースに腕を通して、やっと息をついた。昨日の修羅場。途中から覚えてない悠さんとの飲み。悠さんと
「悠さん…?」 目を見開いたままの彼に首を傾げて再度問うと、彼はやっと我に返って目を逸らした。 「エプロン…」 「…え?」 「いや…似合うな、と思って…」 エプロン姿を褒めてもらえるとは思っておらず、今度は私が固まってしまう。スカートが皺だらけだったからエプロンで隠したという、それだけの理由で身に付けていたものだった。 「えっと…」 「ご飯、出来たんだろ?早く食べよう」 部屋に入って振り向きざまに爽やかな笑顔を向けられる。朝陽を浴びたイケメンが私に笑いかけているという事実に動揺する。 …私、昨日最悪な別れ方をしたばかりなんだけど。 「朝ごはん、作ってもらえるっていいな」 トーストを齧ってコーヒーを飲んでるだけなのに悠さんは絵になる。 「…簡単なもの、ですけど」 「作ってもらえるっていうのが大事なの。自分で作って一人で食べてるって味気ないじゃん?」 「そう、ですね…」 一人暮らしの経験も無く、美香子叔母さんの家に居候中の身の私には、自分で作って一人で食べるという経験が無い。 柿山小での勤務の話が来た際、「非常勤ではなく、常勤での勤務はどうか」という話があった。その話がまだ生きているなら、常勤を希望して一人暮らしをするのもいいかもしれない。 「なあ、その格好で帰るの?」 朝ごはんを食べ終えて悠さんは出勤準備をしていた。 食器を洗い終えて帰り支度を整える私を見て眉をしかめた。 昨日と同じ服…その服を着たまま悠さんのベッドで寝てしまったのでスカートだけでなくトップスも皺くちゃだ。 「これを着て帰るしか選択肢が…」 「ジャージぐら
「あんなに、やらかしたのにね…?」肘を曲げた右腕で頭を支え、不敵な笑みを浮かべたまま悠さんの視線に捕らえられる。私は微動だにすることすらできない。昨日の夜、何があった…?桜汰のマンションを飛び出した。駅で電車にすぐ乗った。鷺山駅で降りて…すぐには帰る気になれなかった。桜汰の部屋で過ごすつもりだった私は、美香子叔母さんに泊まってくる旨を伝えていた。このまま帰ると、何かを察知するであろう勘の良い美香子叔母さんと気まずい夜を過ごす事になる。それは嫌だった。駅前をふらふらしてると居酒屋が目に付いた。気分を変えたい。このまま帰るのは嫌だ。お一人様上等!勢い良く居酒屋の扉を開けた。カウンターでビールと焼き鳥を頼んで。美味しく食べているところに悠さんも同じく一人で居酒屋に入ってきた。そのまま一緒に飲んでいた。何故一緒に飲むことになったのかは覚えていないけど。私が覚えているのは、そこまでだ。「えっと…昨日一緒に、飲んだところまでは…覚えてます…」くつくつと堪えきれない笑いを零す彼。「そんなに…笑うこと、なんでしょうか…?」「何も、覚えてないんだな」顔を青くする私に我慢出来ずに破顔する彼。この状況は一体、本当に何なんだろうか?「昨日君と居酒屋でばったり会って、お互いお一人様だったから一緒に飲む事になった。君はもうすっかり出来上がってて、元彼の愚痴を延々と語っていたよ」…頭を抱えるしかない。「その居酒屋を出た後も、もう一軒行こうと俺の手を離さなかった。ところが」「ところが…?」「君はすっ転んだ。膝擦りむいて痛いって君が泣き喚くから、仕方無くそこから近かった俺の家に連れて来た。で、俺が消毒準備してる間に君は俺のベッドを占領して眠って
「んっ…佐川…くん……はあっ…んんっ!」佐川は桜汰の名字だ。家を間違えたのだと思いたかった。でも鍵は開いたし桜汰の靴はあったし桜汰の名字を呼ぶ艶かしい声。息が、苦しい…。上手く、息が、出来ない…。逃げたい!すごく、逃げたい…。でも…逃げちゃダメな気がする。このまま現場を押さえずに泣きながら帰るのは、惨めだ。それは悔しい。だったらせめて。引っ掻き回すのみ!ガラッ!出来るだけ大きな音を立ててドアを開けた。湿気と体臭が混ざった臭いがする。そこには醜い生き物が裸で絡み合っていた。そう、醜い。ただただ、醜い。この醜い生き物が、私の彼氏だと思ってた人、桜汰だ。私の、好きだった人だ。…多分。醜い男がこちらを向いた。醜い女もこちらを向いた。「美咲…なんで…?」桜汰の掠れた声が薄暗い寝室に響いた。ドアを開けて良かった。桜汰、こんなに醜い生き物だったんだ。嫌悪感が湧き上がる。逃げ帰らなくて良かった。一人で家で泣かなくて良かった。涙よりも、ショックよりも、嫌悪感が上回るだなんて。全くの予想外だ。「美咲…」全裸のまま、桜汰が私に近づく。気持ち悪い。私じゃない女と絡み合っていたであろう全裸の桜汰を見ていたら吐き気がした。「…近づかないで。吐き気がする。…桜汰。桜汰の、全てが…気持ち悪い」「美咲」肩を掴まれる。「…触らないで」「佐川くん…?」
視界が反転する。捕まるところが無い。全身に来るであろう衝撃に備えて目をぎゅっと瞑った。…あれ?いつまで経っても来ない衝撃に疑問を持った。代わりに、汗と煙草とシトラスの混ざった香りに包まれていることに気付いた。えっ?私、バランス崩れて倒れたんじゃ…?「…あっぶねぇな」耳に心地良い低音が私の鼓膜を揺らす。「大丈夫か?」見上げると悠さんの端正な顔が至近距離にあった。「は…はいっ!ありがとうございます」逞しい腕に包まれているという事実に気付き、慌てて反対側に体を離す。更にバランスを崩してまた倒れそうになるのを、また悠さんの腕が阻止した。桜汰にしばらく会っていないからだ。着任の挨拶と打ち合わせの帰りに寄ったゴッホの池。そこから車で少し走った先にあったログハウス風のカフェ『KURUMI』での出来事。あれからずっと、頭から離れない。初対面の男性に抱き止められたなんて!私の不注意なんだけど。囲炉裏を囲んで長時間正座していたのだから脚が痺れているのは簡単に予測出来たことだ。立ち上がった時には問題無かった。何とか歩けると思っていた。なのにどうしてふらついた、私。気がつけば至近距離に整った顔。汗と煙草とシトラスの混ざった匂いに包まれて。今でも思い出して赤面してしまう。慌てて体を離したのにまたしてもふらついて。悠さんに更に抱き止められて。腕の逞しさに更に驚いただなんて言えない。レジで私の会計を待っていた勝雄さんは目を丸くしていた。何とか段を降りてお会計を済ました。「脚、大丈夫…?」「大丈夫です。…お騒がせしました」「またおいでね」「はい、また来ます」それだけ言って店を出た。恥ずかしくて悠さんの顔は直視できなかった。抱き止められてる最中にも悠さんの端正な顔に見惚れていただなんて口が裂けても言えない。私には桜汰がいる。しっかりしろ、私!やっぱりしばらく会えてないからいけないんだ。気がつけばこないだ会ってから1ヶ月以上経っている。物理的な距離と交通の不便さのおかげでなかなか会いに行けてない。うん、よし!会いに行けばいいじゃない!次の勤務は入学式で。まだ2日間自由がある。明日、桜汰は勤務だろうけど。桜汰の家でご飯でも作って待っていればいい。『明日、桜汰の家行くね』メッセージを送ろうとした。昼間送ったゴッホの池の写真とメッ
見知らぬ男性と囲炉裏を囲んで2人きり。居心地の悪い私はコーヒーに口をつけ、その無口な男性を観察した。陽に焼けた端正な横顔。ツナギの作業着の袖を無造作にまくっていて、そこから覗く腕は筋肉質で一瞬見惚れてしまった。「……何?」彼がスマホから顔を上げて私を真っ直ぐ見つめる。「え…?」「視線、めっちゃ痛いんだけど」声を掛けられるとは思っておらず、面食らった私はそれ以上何も言えない。「君、観光客?」スーツのジャケットは車に置いてきていた。黒のパンツと白いブラウスに薄手の青いカーディガンを羽織っていた。ビジネスライクな服装だと思っていたけど、観光客に見えたのだろうか?「観光客、ではないです…」「ふーん…」それだけ言うと、彼はまた視線をスマホに向けた。居心地の悪い沈黙が続く。私の手に持っていたコーヒーカップをソーサーに置いた音が響いてしまった。そっと置いたつもりだったのに。「悠、お待たせ」髭の店主がランチを彼のすぐ横に置いた。「お、今日は天ぷらか」私に向けた無表情とは一転して口元が綻んでいる。なんだ、笑顔は可愛いじゃん。店主が私と彼の間に着席したと同時に「いただきます」と手を合わせた。学校の職員以外で手を合わせてご飯を食べる人を久しぶりに見た気がする。「…で、この子何者?」私に対する視線が変わらず冷たいのは気のせいだろうか?「何者って…」苦笑いしかない。初対面でこれだけの塩対応もなかなか無いと思うんだけど。「一見さんって大抵テーブル行くじゃん。何で囲炉裏《こっち》座ってんの?」「テーブルが満席でさ。問答無用でトメさん達の洗礼を受けてたんだよ」「あー…トメさん達か…」冷たい表情から一転して同情を含んだものになる。「この子、美咲ちゃん。柿山には仕事で来たみたいだよ」「仕事?こんな山ん中に?観光地の取材とか?」怪訝そうな顔で私を見つめる眼は切れ長で、塩対応さえ無ければその顔にも見惚れていたかもしれない。「柿山小で、働くことになったんです」「「えっ?先生?」」彼も店主も目を丸くした。「はい…今日はその打ち合わせの帰りなんです」「そっかあ、先生か…。山ん中でも小学校、あるもんなあ…」蕎麦をすすろうとして箸を止めたまま、彼は罰の悪そうな顔をした。「何か、ごめんな。俺、てっきりミーハーな観光客かマスコミかと…」「ゴ







