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第二十六話

last update Last Updated: 2025-02-04 22:15:09
会議が終わると、社員たちは次々に席を立ち、会議室を出ていった。

「東雲さん、片づけはお任せして大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です」

同僚の問いに私は淡々と答え、会議で使った資料やパソコンのケーブルを片づける。

早く終わらせて、ここから出よう。そう思った瞬間、視界がふっと揺らいだ。

――あれ?

さっきも体調が悪いと思っていたが、やっぱり駄目だったのかもしれない。いまさらそう思っても遅く、指先から力が抜け、持っていたファイルがテーブルの上に落ちる。

「……っ」

体がふらつく。立っていられない。

「東雲!」

その言葉と一緒に神代さんが私に手を伸ばすのが見えたと思ったが、最後まで届く前にふいに別の影が視界に入った。

そして、落ち着く香りに包まれた。

日向?

目を開くことができなくて身体は動かないが、そのぬくもりに安堵して力が抜ける。

「副社長」

神代さんが何か言いかけたけれど、日向の手は迷いなく私の体を支え、次の瞬間、私の体は宙に浮いていた。

抱き上げられたことに気づき、思わず弱々しく抵抗しようとする。

さすがにこれはまずい。遠くなる意識の中でそう思ったが、もちろん男の人の力にかなうわけもない。

「だ、大丈夫……です、自分で……」

なんとか目を開けてそう口にするが、すぐにそれを制される。

「黙ってろ」

短く、けれど強い声音に、私はそれ以上何も言えなくなる。

腕の中の温もりがやけに心地よくて、もう考える余裕もなく、遠ざかっていく会議室のざわめきだけが、耳の奥に残った。

次に目を開けると、白い天井があった。消毒液の匂いが鼻をかすめる。

ぼんやりとした意識の中で、ここが病室だということを理解するのに時間はかからなかった。

でも――そんな場合じゃない。

「瑠香!」

反射的に叫ぶと同時に、私は勢いよく体を起こそうとした。

しかし、その瞬間、誰かの手が肩を押さえ、静かに制される。

「まだ起き上がるな」

落ち着いた低い声が、すぐそばから聞こえた。

「日向……」

つい、その単語だけが零れ落ちた。ずっとわざと避けていたのに。

それなのに、結局、気にして悩んで眠れなくなって、倒れて、こうして迷惑をかけている。

自分が情けなくて、涙がこぼれそうになる。

「迷惑をかけてすみません。でも、私、お迎えに行かないと」

こんなところで眠っているわけにいかないと、もう一度体を起こしてベッドを降りようとした
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洋子
日向も 神代さんも 優しい。ただ 高木だっけ この人は これから どんな意地悪を 仕掛けて来るんだろう。 それより 日向の お父さんが怖い。
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