Se connecter「……ふぅ」
切りの良いところまで作業を進め漸く手が止まった頃には、すっかり昼食の時間を過ぎてしまっていた。
「飯……」
半分空になったペットボトルのお茶は大分温くなり、汗を掻いたことで机の上にそれなりのサイズの水たまりを作ってしまっている。それを持ち上げ手で残った水滴を軽く拭うと、キャップを捻って中身を一気に煽った。
「何、食べよう」
飲み終わり用途が無くなったプラスチックの容器。それと財布、携帯端末を手に取ると、腹を満たすためにオフィスを出る。外に食べに行くか適当に何かを買うか考えながら移動する廊下。気のせいか、すれ違う人の何人かは、自分の好みに合わせて選んだマスクを着用している事に気が付く。
「本当に風邪が流行ってんだ」
マスクというアイテムを認識した瞬間、疎らに空いた空席の持ち主が病欠であるという言葉に信憑性が生まれるから不思議だ。体調管理も仕事のうち。倒れてしまうと稼ぐことも出来ないため、気をつけようと自らに言い聞かせエレベーターを呼び出す。下向きの方向を示す矢印が光れば、頭上に設置された文字盤の上矢印に灯りが点いた。
「ふわぁぁぁ……」
点灯している数字は【2】。現在居るフロアは【13】階で、エレベーターが到着するまでには暫しかかる。待っている間忍び寄るのは睡魔で、無意識に出る大きな欠伸のせいで滲む視界。連日の夜更かしの影響からか、働くことを拒否する身体が非常に重たく感じてしまう。
「…………」
静かに下りる瞼。世界が黒に塗りつぶされていくと、徐々に薄れそうになるのが意識だ。繰り返される呼吸音が少しずつ緩やかになり、立っているバランスが危うげに傾く。このまま意識を手放すことが出来れば幸せだろうか。そんなことを考えた瞬間、耳が捉えた音により意識が現実へと引き戻された。
「っっ!!」
反射的に瞼を開けば、閉ざされていた金属の扉がゆっくりと両側に開き始める。
「やっば。意識飛んでたわ」
空間の隔たりが無くなれば、小さな空間に足を踏み入れることも可能になる。階下へ下りるために箱の中へと乗り込むと、他に他に誰も乗らないことを確認してからボタンを操作し扉を閉める。
「はぁ」
稼働音を響かせ降下し始める金属の箱。切り取られた世界に一人隔絶されることで、余計に眠気が増してしまう。壁に背を預けると、触れた場所から伝わる振動が心地よい。
「帰りにコーヒーでも買うか」
何となくそう呟くと、突然降下を止める鉄の箱。開いた扉の向こう側に立つのは同じビルにあるテナントの従業員で、両手に荷物を抱え疲れた顔をしている女性だった。
「お疲れ様です」
無意識にそう言えば、彼女は一瞬こちらを睨んだあと、何かに気が付いたように慌てて表情を切り替え頭を下げた。
「お疲れ様です」
押しっぱなしにしたままの開閉ボタン。彼女が落ち着いて移動出来るようにと配慮したものではあるが、それが逆に気を遣わせる結果に繋がってしまったのだろうか。いそいそとこちら側へ移動する彼女の左肩には幅の広いトートバッグ。その他に大きいサイズの紙袋を両手で抱えており、それらは詰め込んだ中身によって大分太ってしまっている。もう一つ肩に見えるベルトは、背後に回したショルダーバッグで、そのカバンも他の二つと同様、結構な厚みがあった。一体どんなものを詰め込んだらこうなるのだろう。そんなことが気になってしまう。
「何階ですか?」
しかし、わざわざそれを聞くのはどうなのかとも思い直す。好奇心を押し殺し、乗り込んできた女性に訪ねるのは何階で降りるのかということ。一階ですと返されたことで目的地が同じだと気付きこれ以上の操作をやめる。
「荷物、大変そうですね」
まだ目的地に着くまでは時間がある。つまり、この小さな密室には二人きりでいる時間はもう少し続くということだ。何となく気まずく感じたせいか、普段ならしない行動を珍しく取ってしまう事に自分自身が驚いてしまった。
「今日中に届けないといけないものなので」
相変わらず女性はこちらに警戒を抱いているようだが、それでもこちらの質問には答えてくれるらしい。
「そうなんですか」
そして途切れる会話。これ以上なんて声を掛けて良いのか分からず、再び気まずい沈黙がこの場を支配する。
「…………」
フロアが異なるせいで、この女性がどういう仕事をしているのか分からない。偶々同じエレベーターに乗ってしまっただけなのだから、会話のきっかけを探す方が難しいと感じてしまう。
とにかく早く一階に着いてくれ。
残りの時間は、ひたすらその事だけを祈りそっと視界を閉ざした。
視界が奪われた世界で感じるのは微かな音だ。
それは、紙が擦れるもののようで、変則的に動いたり止まったりを繰り返している。
(さっきの女性が、何か読んでるんだろうな)
うっすらと瞼を開くと、思った通り前に立つ彼女の手が左右へと動いている。顔の角度を調整し確認してみれば、彼女の腕に乗せられているのは一冊のファイルで、リングの限界ギリギリまで詰め込まれた紙の束が見て取れた。
(データで持ち運びすれば楽なのに)
余計なお世話だとは思っても、どうしても効率が悪い方法に乾いた笑いが零れてしまう。
(まぁ、好みは人それぞれだし、わざわざ言うことでもないか)
そうこうしているうちに、気が付けばエレベーターは目的地に到着していたようだ。
軽やかな到着音の後に機械の稼働音が耳に入る。空気の流れが変わったことで箱の中と向こう側が繋がったことを理解すると、小さく欠伸をしながらエレベーターから出る。エントランスを歩きガラス張りのドアを抜けると気温差に吹き出る汗。数メートル先のタクシー乗り場には、先ほどの女性の順番待ちをしている姿が目に入った。
「手伝ってあげれば良かったかな」
彼女はこれからどこに向かうのだろうか。ぼんやりとそう思うが、この問いに対する答えを知ることは多分無い事も分かっている。
「まぁ、どうでも良いか」
何度も荷物を抱え直しながらタクシーを待つ彼女に背を向けると、本来の目的を果たすために歩き出す。頭上に昇る太陽は少しだけ西側へと傾き始めてはいるが、まだまだ容赦なく光を降り注いでいる状態。アスファルトやビルのガラスに反射する白が眩しく、細くなった瞼の隙間から入り込み目を眩ませる。外食をしようかと思ったがプラン変更。近場のコンビニへと向かい、良いものがないかと物色を始める。
「うーん」
食欲はある。だからといって重たいものを食べる気にはならない。散々悩んで手にしたのはざる蕎麦で、最も人気のあるおにぎりと紙パックのお茶も付けてレジに並ぶ。
「……円になりまーす」
機械的に処理を進める店員の対応に、一人ずつ人が減りレジまでの距離が縮まっていく。漸く巡ってきた自分の番で購入金額を知らされると、セルフレジへと持っていた現金を入れ品物を受け取った。後は戻って腹を満たすだけ。食べる楽しみを感じながら店を出ようとした時だ。
「そういえば、コーヒー!」
買い忘れていたカフェインをふんだんに含む飲み物は、残念ながら手元に無い。自動ドアから半分身体を出した状態で一瞬、戻るかどうかを考える。
「……もう、いいや」
しかし、悩んだ末に選んだ選択肢は購入を諦めると言うことで。色々と改良を重ねた結果、思った以上に美味だと感じられるようになったコンビニの独自ブランドから目を背けると、再び熱気に包まれた外へと出て来た道を戻る。
「腹……減った……」
会社までの距離が遠い。そう感じるのは、活動するエネルギーが枯渇し始めているからだろう。
「ちょっと待てよ! 楽しむってどういうことなんだよ!!」 確かに。誰かが言ったその言葉に同意し、無意識に頷いてしまう。 そもそも、この世界に来てまだ間もない上に、この場所以外にどんな場所があるのかの説明も全く無い状態で、何をどう楽しめば良いのか皆目見当もつかない。それに、これから何をさせようとしているのか、相手の目的が何なのかという部分も分からないのだから、素直に「はい、分かりました」と答える方が難しいだろう。『それについてはこれから説明するんで、少々お待ちを』 そう言うと、ライは指を鳴らして背後のモニターに写る映像を切り換える。『まずは。みんな、自分の利き手の手首をよーく見てくれないかな?』 何を言っているんだと思いながらも、取りあえずは素直に右腕を持ち上げ手首を見てみることにする。「なん……だ……? これ……」 さっきまでこんなものあっただろうか? 覚えの無い奇妙な二つの数字。それが自分の手首にあることに気が付き嫌そうに表情を歪めると、それを察したかのようにライが口を開いた。『みんなの手首には二つの数字があると思う。それが確認できた人は挙手して欲しい』 何だか気味が悪い。そう思っているのは自分だけではないだろう。それでも、一人、また一人と上がり始めるいくつもの手。誰かが上げれば、他の誰かも手を上げる。そうやって少しずつ手で作られた花畑が広がっていき、最後の一人の手が上がったところでライは満足そうに手を叩く。『無事に全員の手首に数字が出ていることが確認出来たので、次の説明に移ろうかな』 そう言いながら再びモニターを指さすと、そこに表示されている手首のイラストを丸で囲みながらミラへと託す説明のバトン。『この数字についてざっくり説明するんだけど、上に表示されている数字は、皆さんに割り振られたユーザーナンバーになってまーす。この数字は完全にランダムで、規則性は全くありません。なので、数字はあくまでも名前の代わりとしての機能しか無く、数字自体に意味なんて無いからね〜』 ユーザーナンバー。そう言われて数字を改めて見てみる。「889560」 自分の手首に現れている数字は8・8・9・5・6・0という六桁の数字。一見すると本当にどういう基準で割り振られているのか理解が出来ない。足してみたら分かるのだろうか。それとも引いてみるべきか? はたまた掛け
喋りっぱなしになっているミラに比べて、ライというキャラクターは随分と口数が少ないようだ。どうやらこの二つのキャラクターは、ミラが話をリードする側で、ライがそのサポートを行う側と役割が分担されているらしい。『何故かって言うとぉ、皆さんが望んでいた別次元の世界へご招待されましたってことだからだよ〜!』「え?」 突然降って湧いた異世界転生というフラグ。 いや。実際には異なるに世界転生したというよりは次元間を移動しているという方が正しいのかも知れない。ただ、この現象がとても非常識なものであるこということだけは考えなくとも直ぐに分かった。「別次元の世界って何なんだよ!」 どうやら同じように思っている人間は自分だけでは無いらしく、明らかに広がる動揺が波状効果として場を満たすと、そこかしこから上がり始めるのは悲鳴だった。「一体どういうことなんだ!!」「訳が分からないわ!」「いやああああ!! 出してぇえええっっ!!」 そこかしこから上がる言葉は様々だが、共通して言えることは今の状況を素直に受け入れるのが難しいということだろう。「お母さああああんんっっ!!」「やだぁ……帰りたいよぉぉ……」「ふざけんな!! 馬鹿なことを言うんじゃ無い!!」 次第にエスカレートしていく泣き言や暴言の激しさ。まだ説明も不十分な状態で引き起こされているパニックが、感染症のように人から人へと伝わっていく。そうやって爆発的に重なり合う反響が、大きなうねりとなりホール全体を飲み込んでいく。『ストォーーーーーーッッップ!!』 だが、その波が溢れて止まらなくなる直前で、スクリーンから大きな声が響き暴走を止める。『混乱しちゃうのは分かるけど、まーだ説明の途中だよー。あ・せ・っ・ちゃ・だーめでーすよー!』 一瞬にして場を支配する静寂。そこに居る全員が瞬間的に口を閉ざし、巨大なスクリーンへと視線を向ける。暫くはそうして誰も言葉を発する事の無い時間だけが流れていくのだが、その間にもスクリーンの中では、男女二人のキャラクターがそこに居る人達の様子を確認するように時折指を差しながら何かを相談しているようだ。『多分、先にそれ説明しちゃわないと駄目じゃないかな?』『そっかぁ。じゃあ、そうしようかな』 理解出来ない二人だけの会話の詳細は不明。それでも、一端区切りが付いたらしく、パチンという
「……げっ」 確率の変動は無し。確定したレアリティの排出は見た目通りのもので、無意識に零れたのは落胆を表す一言。 始めの十回では残念ながら、最高レアリティのキャラクターを獲得する事は出来なかった。 気を取り直してもう一度。チュートリアルを進めて手に入れたアイテムと、メールアイコンに来ていたアイテムの残りを足して同じように十連を回すが、二回目も一つ下のレアリティまでが確定され最高キャラが来る気配はない。「くそっ!」 キャラ獲得が可能な期間はまだ二週間と余裕があるが、その二週間の間中、ゲームを普通にプレイして手に入れることが出来るアイテムで、確実にキャラが手に入るという保障がないのは悩み所。「うぅ……」 そこで頭を過ぎる嫌な文字。やってしまえという悪魔の囁きと、それは駄目だという理性の引き留めが膠着状態で時間だけが過ぎていく。「……ふぅ」 リセットマラソンをする事も考えたが、メールアカウントがユーザー情報と紐付けされているため、それも現実的には感じられない。無駄な労力を費やすくらいなら、社会人の都合を使って確実性を得た方が堅実的だ。「よし!」 色々悩んだ末に下した決断はというと、残っているアイテムでキャラを獲得できるのかを試すということだった。これでも駄目だったら諦めて、素直にアイテムを購入しよう。そう覚悟を決め三回分だけボタンを押していく。 一回目は最低レアリティの色演出。 二回目も同じ色で顔に浮かんだ渋い表情。 もう後が無い三回目。「……え?」 ここに来て初めて見る色が現れ、昂ぶる気持ち。祈るように両手を握ると、神頼みの言葉を繰り返しながら結果が出るのを待つ。完全に高レアリティ排出の色だと確定すれば、後はキャラのビジュアルを確認するだけ。もう少しでお目当てのキャラとのご対面が訪れるかもしれない。そのことに喜びを感じる心の準備をし始めた瞬間だった。「いっ……」 突然襲われる激しい頭痛。 目も開けられないような鋭い痛みに、頭を庇うようにして蹲り呻き声を上げる。それでも結果が気になり無理に瞼をこじ開け見た画面。涙に滲む視界の先には、虹色に輝くシルエットが楽しそうに手を振ってはしゃいでいる。「なんっ……で、こんなっ……」 そこで鳴ったのは携帯端末に設定していたアラーム音だった。 午前、零時。 また、この時間がやってきた。 昨
ゲームに没頭している間は良い。現実で起こる嫌なことを簡単に忘れてしまえるからだ。 出来る事なら目の前の、仮想現実が現実になれば良いのに。 最近流行りの異世界転生なんて都合の良い話、起こるはずが無いと分かっていても無意識に願ってしまうのは、そんな突拍子も無いことである。 実際は、そんな世界に放り込まれたらきっと、直ぐにゲームオーバーになりブラックアウトをしてしまうだろう。何度失敗してもやり直せる状況というものは、その世界が意図的に作り出された幻のだからこそ成立する条件でもある。たった一度しかない現実という場において、そのような都合が良いことは起こるはずも無い。仮に仮想現実が現実になった場合、それがリアルに変わった瞬間に、設定されていたご都合主義が一気に消えて無くなる可能性は高い。ただ、それを分かっていたとしても、一度はそこへ逃げ込んでみたい。そう考えてしまうほど、追い詰められているのが今の状態で。それに気が付きどうしようも無くなった瞬間、思わず笑いが込み上げてしまった。「っっ!」 目の前に迫る脅威。反射的に取った行動により大きく振った右手が、勢いよく机の角へとぶつかり思わず声が出てしまう。「くっそ!」 当てた場所が悪かったのだろうか。 手の甲についた小さな擦り傷。皮膚が破れた場所から逃げ出すようにして、ゆっくりと赤い染みが広がっていく。視覚的にそれが【傷】だと認識すれば、患部に広がる鈍い痛み。傷自体は決して大きくも、深くも無い。それなのに、確かにそれは【痛い】んだと言う事を思い知らされる。「あっ!」 聞きたくない音。別のことに気を取られている間に表示された文字は、操作キャラクターが行動不能になった事を知らせるものだ。「マジかよ……」 怪我のせいで移った意識。直前まで行っていた作業は完全に止まり、視線が画面に戻るまで時間がかかる。その間に続いているのは戦闘状態を知らせる音楽で、攻撃が当たる度に操作キャラクターが呻き声を上げダメージが蓄積していく。「あっ!」 最終的に耳に届いたのは、一番聞きたくないと思っていた効果音。別のことに気を取られている間に表示されている文字は、操作キャラクターが行動不能となった事を知らせるものである。「マジかよ!?」 ここまでのプレイ時間は決して短いものではない。リリースされたばかりで改善点が多いアプリのため、
そうやってどれくらい意識を失っていたのだろうか。「次は、…………」「っっ!!」 耳が捉えた音に驚き目を見開いて飛び起きる。「…………です。…………です。お出口は右側です」 駅の名前を聞きそびれてしまったたため、一瞬どこに停車するか分からず酷く焦ってしまう。だが、幸いにも停車駅などを表示するために設置されている車内ディスプレイを見れば、現在の運行状況を確認することは可能なことを思いだし、慌てて視線をディスプレイへと向ける。目的地が次の停車駅であることを理解すると、膝の上から滑り落ちそうになっている鞄を抱えて急いで立ち上がった。「……はぁ、はぁ……」 別に駆け足になる必要は無かったはずだ。それなのに逃げるように飛び出したホームで大きく揺らす肩。後から降りてきた同駅の利用者は、こちらの行動を訝しげに眺めながら警戒するように脇を通り過ぎていく。「…………」 変な人だと思われたのだろう。何となく、それが分かって気持ちが落ち込んでしまう。「早く……帰ろう」 何だか。今日一日で物凄く疲れてしまった。 帰宅途中で近所のコンビニへと寄り道をし、珍しく手に取ったアルコール飲料。業務の忙しさからか、滅多に飲む機会のないそれに付け合わせる食べ物を幾つか物色し、レジへと並ぶ。「ん?」 いつもならば。この時間は顔馴染みのバイトが、カウンターの向こう側に立っているはずだった。「あれ?」 しかし、何故か今日に限って初めて見る中年の男性が作業を進めている。「ポイントカードなどはありますか?」 言われて携帯端末からアプリを表示し、バーコードを提示して読み取って貰う。向かい側の男性の胸元にあるネープムレートには店長という言葉。「料金は…………になります」 先程表示していたアプリから支払い用の決済アプリに切り替え、もう一度提示した携帯端末。「あの」「はい?」 幸いにも、現在のレジ作業は自分が最後の客のようで。後続がいないことを確認してから口にしたのは、先程感じた疑問についてだった。「今日は、いつものバイトの人じゃないんですね」 その言葉は、特に意味があって聞いたものではない。「はぁ」 何故それを気にするのかと男性は眉間に皺を寄せるが、取り繕うように「何回か話したことがあるもんで」と言葉を濁すと、特に警戒することも無く疑問に答えてくれた。「体調を崩
「お前のせいだぞ。分かってるよな?」 目の前で食欲をそそる匂いを漂わせているのは、大盛の牛丼である。「俺、別に悪く無いですよね?」 隣に座る後輩の前にも同じように大盛の牛丼が鎮座している状態で。彼素早く箸を取ると、備え付けの紅生姜に手を伸ばしながら言われた言葉に反論を返してきた。「お前が気になること言うから、作業が全然進まなかったんだよ」 自分が理不尽なことを言っているのは分かっていた。それでも愚痴を零してしまうのは単純に、蓄積した疲労と解決しない悩みが残り続けているからだろう。「そんなこと言ったって、勝手に気にして作業出来なくなったのは先輩じゃないですかぁ」 頂きますの言葉を合図に始まる遅めの夕食。どうせお互い帰宅しても家に一人きりなのだ。食事を作る気力も無いのだからと向かったのが駅前にあるチェーン店で。普段は無い大盛無料を謳ったのぼりがあるなと思ったら、どうやらこの場所に店舗を開設して今月で一周年になるらしく、店頭で宣伝しているとおり『今だけお肉増量中』といった抗いがたい誘惑に負けたことで、気が付けば二人とも食券が手に握られていたというわけだ。「俺だって被害者ですよ」 口を尖らせながら刻まれた真っ赤な薬味を掴んで行ったり来たり。薬味トングで掴む量は決して少ないものではないのに、どんぶりに放り込まれていく量は自分の手元の物よりも明らかに多く乾いた笑いが零れてしまう。 それから暫くは、特に会話も無く黙々と食事を続けていく。確かに美味いと感じているはずなのに何となく感じる例えようのないえぐみ。噛み砕いた食べ物が喉を通る度、身体がそれを受け入れる事を嫌がり拒絶を示す。「母さんの作ったもん、久し振りに食べてぇなぁ……」「ホームシックですか?」 「まぁ、多分?」 自ら腕を振るわなければ味わえない故郷の味を思い出し、無意識に出たのはそんな一言で。どれだけ色んな料理を食しても、結局落ち着くものは慣れ親しんだ味なのだと言うことを思い知らされ気持ちが落ちていく。 「お店とかじゃ駄目なんですよね?」 先に完食してしまった後輩は暢気にお茶を啜り一息吐いたところで、こちらの食事が終わるのを待っている状態だ。 「店に行っても結局、味付けはこっちに合わせてるだろうからやっぱり違うんだよな」 今年は有給を使って、一度地元に戻るかなんて。「な、なぁ……」「何で