瑠菜というのは、私の異母妹で、このあたりでも評判の美人。父の自慢の娘だ。
反面、私といえば──26歳になった今まで男性経験もなく、魅力もない。身長159cm、体型も一般的で、どこにでもいるような人間だ。
私もこの家で働いていることもあり、常に和服を着ていることが多く、今日も薄い紫の訪問着を着ている。 妹と私は母親が違うせいか、まったく似ていない。瑠菜ならば、きっと先生の機嫌を取れると思ったのだろうが、今朝から瑠菜の姿が見えないから、私がここにいたのだ。
しかたなく部屋に入り、角にある茶を点てる場所へと向かう。
「菜々子!! どうしてお前が。瑠菜はどうした?」
姿を見せた私に、父の怒声が飛ぶ。私にそんなことを言われても、どうしようもできない。
そう思うが、反論しても仕方がない。しかし、父は本気で、瑠菜が茶を点てられると思っていたのだろうか。
小さいころから、茶道や華道の先生から逃げてばかりいたのに。 盲目的に可愛がり、なんでも完璧だと思っていたなんて──娘の何を見ていたのかと思ってしまうが、そんなこと、今さら言っても仕方がない。その声を聞こえないふりをして、いつもどおり背筋を正し、目を閉じる。
いったん、父も茶は必要だと思ったのか、何も言わなくなった。私は精神統一を終えると、目を開けた。
目の前の茶碗に抹茶を入れ、柄杓で湯を汲み、静かに注ぐ。
静かな部屋に、茶筅の音だけが響く。 明らかに先生の視線を感じるが、心を落ち着かせて点て終わったお茶を、菓子と一緒に彼の前に置いた。これで私の仕事は終わった。心の中で安堵してちらりと彼を見ると、意外そうな顔で私に視線を向けていた。
瑠菜と違い、冴えない私のお茶は気を悪くしただろうか。
一瞬そう思ったが、静かに礼をしてくれた彼に少し驚きつつ、私も頭を下げた。一連の流れを見ていた父だったが、キッと私を睨みつけ、「瑠菜はどうした!」と小声で問う。が、完全に彼にも聞こえているだろう。
「いませんでしたので」
それだけを答えると、舌打ちが聞こえそうなほどの苦虫を潰した表情を浮かべた父は、すぐにいつもの作り笑いで彼に向き直る。
「先生、申し訳ありませんでしたな」
機嫌を取るような物言いに呆れつつ、私は父から視線を外した。そんな時だった。
「謝罪される必要はありません」
慣れた所作で菓子とお茶を口にしていた先生だったが、飲み終えるとゆっくり茶碗を置き、背筋を正して父に言い放った。
「え?」
その答えが意外だったのか、父が抜けたような返事をする。
真っ当な答えをしてくれた彼に感謝しつつ、私は静かにその場を下がろうとした。だが、父が少し焦ったように続ける。
「先生、妹の瑠菜は、この子と違い器量がとてもいいので、先生にぜひ会っていただきたかったんですよ」
その言い方に、私は少し含みを感じた。もしかして、父は先生を瑠菜の縁談相手にとでも考えているのだろうか?
「そうですか」
きっと先生も、父の言わんとすることを理解しているはずだが、それだけを口にした。
「先生にとっても、私どもとの縁は邪魔になるようなものではないと思うのですが」
確かに、旧家で全国的にも知名度が高い今、彼にとってもメリットはあるかもしれない。
「それで?」
きっぱりと言い放った彼に、私は驚いて視線を上げた。
そんな答えが返ってくるなど想像していなかったのか、父は呆然とした表情を浮かべた後、立ち上がる。
「どうしてですか! 菜々子! やっぱりお前なんかが先生の前に現れたからだ!」
……また始まった。そう思ったが、もう遅い。
何かあるとすぐに他人に罪を擦りつけるところがある父。そして、嫌っている前妻の子である私は、その恰好の的だ。
瑠菜がここにいれば、彼がOKしたというのだろうか?
「先生、そんなことを言わず、うちの娘をぜひ向井家の嫁に……」
つい本音が出てしまったようで、しまったと思ったのか、父が口元を押さえた。
仕事はもちろん、財政界にかなりの権力を持つ向井家とパイプが欲しいのだと、私は悟る。
しかし、瑠菜がそれを了承しなかったのだろう。この見合いが嫌で逃げたのだと理解する。そんな時だった。
「ここは、レストランか何かですか?」あれほどの人ならば、私なんかと会うには、こういったプライバシーが守られた場所が必要だ。ましてや、内容が内容なのだから。返事を聞く前に車が停まり、運転手がドアを開けてくれた。私は慌てて降り、建物を見上げる。見る限り三階建てのようで、大きなガラス窓、モダンなブラインド、そして目の前にはブラウンの大きな玄関扉が見えた。桜庭さんはカードをかざし、セキュリティを解除して扉を開け、私を促した。「どうぞ」「失礼いたします」足を踏み入れると、三階まで吹き抜けている広い玄関。そして、目の前にはらせん状の階段があった。「あちらがリビングですが……まあ、仕事場でしょうね」まだここがどこなのか、理解が追いついていない私だが、階段を上がっていく桜庭さんに慌ててついていく。二階に上がると、そこは日差しが差し込み、明るく開放的な空間だった。随所に絵が飾られ、とても素敵な雰囲気だ。そこから廊下を進み、ひとつのドアを桜庭さんが開けた。「謙太郎!」三十畳はあるかもしれない。高い天井に大きなガラス窓。その向こうには広々としたテラスがあり、簡易的なキッチンも備わった部屋。キッチン近くにはダイニングテーブル、その隣にはソファセットとローテーブル。そこだけでも、普通の一軒家のリビングより広い。この部屋のただ一つ違うところは、部屋の中心に大きなテーブルがあり、そこに何台ものパソコンと、デザイン用なのか模造紙が広がっていたことだ。そして、その机に突っ伏して眠る先生の姿があった。ブラックのシャツに、カーキのパンツというラフな格好だが、スタイルがいいので何でも似合う。今日は先日とは違い、髪も固められていないようで、前髪が目元にかかっていた。「謙太郎!! おい」「あの、起こさないであげてください」忙しく疲れていると聞いた今、眠っている彼の邪魔はしたくなかった。「申し訳ない。今日は君が来ると念を押していたんだけど……。近代美術館の期日も迫っているのも事実で、きっと徹夜だったと思う」そんな中、父の呼び出しに応じてくれたのだ。かなり無理をさせたに違いない。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「あの、ここで私は待たせていただいても?」「え? それはもちろん大丈夫ですが……。僕もこれから仕事がありまして」少し思案するような表情を浮かべ
その週末、すぐに彼の秘書の男性が迎えに来ることになった。一度、先生と会い、これからのことを決めてほしいとのことだった。時間になり、出かけようとした私の元へ、父と妹がやってくる。決して見送りなどではないことは、ふたりの顔を見てすぐにわかった。「菜々子、下手なことをしたら承知しないからな。絶対に先生に気に入られろ。どんな手段を使ってもだ」「お父様、お姉ちゃんに何があるっていうの?」そんな会話を聞いていると、旅館のエントランス前に停まった黒塗りの高級車の後部座席のドアが、運転手によって開けられた。「菜々子、仕事はしばらく必要ない。すべて先生のために時間を使うんだ。もうこのまま帰ってくるな」「え!」まだ結婚するとも決まっていないのに、「帰ってくるな」と言われたことに驚いて目を見開く。そんな父の後ろで、見送りに来ていた仲居たちの顔色が変わったのがわかった。「旦那様、それは困ります」「なんだと!?」「菜々子さんがいないと、館内のお花はどうするんですか? それに通訳も……」今、私がやっている仕事を「重要だ」と言ってくれる彼女たちの気持ちに、嬉しさが募る。こんな私でも、役に立つことがあったのだと──少しだけ救われた気持ちになった。「そんなもの、誰でもできるだろ!」……そう思った矢先に聞こえた父の声。やはり父は、私のことを評価していないのだと知る。それでも、私は自分の仕事に誇りを持ってきたし、誰かに認められるためにやってきたわけではない。父のその言葉に、何も言えなくなってしまった仲居のみんなには申し訳なく思うが、私は行かなければいけない。薄紫の訪問着に、背中まである髪はひとつに結い上げている今日の私。荷物も、いつもの外出と同じく、財布とスマホ、ハンカチぐらいしか持っていない。もちろん、帰ってくるつもりだからだ。「行ってきます」父たちではなく、私は仲居の皆にそう言って微笑んだ。「菜々子様、ご案内いたします」そんなやり取りを、秘書の男性がどんな気持ちで見ていたのかはわからない。先生とは違い、穏やかな笑みをずっと浮かべたその人は、父たちにも礼をすると、先に乗り込んでいた私の横にスッと腰を下ろした。そして、少しの余韻を残したあと、ドアは静かに閉められた。「あれはないな」走り出して数分後、隣から不意に聞こえた声に、私は驚いて視線を
その後、母は泣きわめき、瑠菜は父に「もう一度話をするように」と泣き落としていた。甘やかされたとはいえ、ここまで自由で、思い通りになると思っている妹を、もはや尊敬すらしてしまう。「あの、菜々子さん」遠慮がちに聞こえたその声に、黙ってその場に座っていた私は振り返った。割烹着姿のスタッフがそこにいて、とても困った顔をしている。昼過ぎに先生は来たはずだったが──ハッとして時計を確認すると、いつの間にかチェックインのピーク時間は過ぎ、夕食も始まっている時間だった。「どうしたの?」この様子に、声をかけるのをためらっていたのだと悟る。「椿の間のお客様のご挨拶をお願いしたくて」「お父様、ご挨拶の時間です」椿の間は完全なプライベート邸で、今日は確か現警視総監ご一家がお泊まりのはず。私の声に、さすがの父も時計に視線を向けた。「瑠菜、お前にはもっといい縁談を用意する。きっとあの男は冷たくて、嫁など大事にするタイプじゃない」そんな男性に差し出す気だったのかと唖然としてしまうが、仕事のためなら娘などただの駒だと思っている父。「絶対よ!」初めは自分が相手だったということを忘れているのか、瑠菜はそう答えた。「菜々子、早いところ結婚を取り付けて、うちの仕事をしてくれるように頼むんだ」私の意志など関係なく、もうあの人との結婚は決定事項なのか。今までもいろいろなものを諦めてきたが、結婚までこんなふうに決まるなんて。自嘲気味な笑みがこぼれそうになったところに、追い打ちをかけるように瑠菜が私の前に立ちはだかる。「御曹司の気まぐれよ。お姉ちゃんのほうが都合がよさそうだから選ばれただけなんだから。いい気にならないことね」「わかってる」言われなくてもわかっている。彼もきっと父と同じで、結婚も政略的にするつもりだったのだろう。うちとの縁が欲しかっただけに決まっている。そして、自己主張の強い妹より、おとなしい姉のほうが扱いやすいと思ったに違いない。そんなこと──ずっと昔からわかっている。その後、母は泣きわめき、瑠菜は父に「もう一度話をするように」と泣き落としていた。甘やかされたとはいえ、ここまで自由で、思い通りになると思っている妹を、もはや尊敬すらしてしまう。「あの、菜々子さん」遠慮がちに聞こえたその声に、黙ってその場に座っていた私は振り返った。割烹着姿
「お母様、嫌よ! ちょっと離して!」そういえば、朝から母の姿も見えなかった──そんなことを思いつつ、廊下に目を向けると、母に連れられた瑠菜の姿が見えた。「どうして、私が見ず知らずの男と結婚しなきゃいけないのよ!」……やっぱり。彼の姿をまだ確認していなかったのかもしれないが、ばっちりと聞こえてしまったその声に、父が慌てた様子を見せる。「私は秘書に、仕事の話だと聞いて来ましたが……そうでないのなら、失礼します」決して声を荒げているわけではないが、地を這うような低い声に、彼の怒りはもっともだと思う。だまし討ちのような形で見合いの席を用意して、その娘が暴言を吐いているのだ。不愉快極まりないはずだ。「いや、君はすべての縁談を断っていると仲間内で聞いた。だからこの手段を……。きっと君もうちの瑠菜を見たら了承するはずだ」開き直ったような父に、呆れるやら恥ずかしいやら──。私は慌てて先生に頭を下げた。「先生、我が家が大変無礼な数々を……お許しくださいませ」そう言った私に彼が何か言う前に、いきなり甲高い声が聞こえた。「え? この方なの?」部屋の中の先生を確認したのか、瑠菜がいきなり入ってきて、彼の横に座る。「大変失礼しました。娘の瑠菜です」にっこりと、昔からすべての男性を虜にしてきた笑顔を浮かべる。私の初恋の人も、学校の同級生も、瑠菜のことしか見ていなかった。「お父様、申し訳ありません。遅れてしまいました」先生の容姿を見て、瑠菜は「この人なら」と思ったのだろう。いきなり声音すら変わった妹に、ため息が零れそうになる。しかし、予定通りなのだから、私はもう不要だ。そう思い、その場から去ろうとした時、彼の声が聞こえた。「確かに私にも妻が必要な年齢ですし、斎藤家との縁はありがたいですね」先ほど断った時と同じトーンで、彼は淡々と話す。やはり私ではなく、美しい瑠菜に心を奪われたのだ。この人も、ただの男の人か。建築に惹かれていただけに、少し残念な気持ちになりつつ無言で立ち上がると、そっと手を握られた。いきなり温もりを感じた私は、反射的に彼を見下ろすと、漆黒の瞳がそこにあった。「こちらのお嬢さんを頂けるなら、仕事を受けましょう」「え!!」父はもちろん、その場にいた誰もがそう声を上げていた。「どうしてお姉ちゃんなのよ!!」あの後、「これからのこ
瑠菜というのは、私の異母妹で、このあたりでも評判の美人。父の自慢の娘だ。反面、私といえば──26歳になった今まで男性経験もなく、魅力もない。身長159cm、体型も一般的で、どこにでもいるような人間だ。私もこの家で働いていることもあり、常に和服を着ていることが多く、今日も薄い紫の訪問着を着ている。妹と私は母親が違うせいか、まったく似ていない。瑠菜ならば、きっと先生の機嫌を取れると思ったのだろうが、今朝から瑠菜の姿が見えないから、私がここにいたのだ。しかたなく部屋に入り、角にある茶を点てる場所へと向かう。「菜々子!! どうしてお前が。瑠菜はどうした?」姿を見せた私に、父の怒声が飛ぶ。私にそんなことを言われても、どうしようもできない。そう思うが、反論しても仕方がない。しかし、父は本気で、瑠菜が茶を点てられると思っていたのだろうか。小さいころから、茶道や華道の先生から逃げてばかりいたのに。盲目的に可愛がり、なんでも完璧だと思っていたなんて──娘の何を見ていたのかと思ってしまうが、そんなこと、今さら言っても仕方がない。その声を聞こえないふりをして、いつもどおり背筋を正し、目を閉じる。いったん、父も茶は必要だと思ったのか、何も言わなくなった。私は精神統一を終えると、目を開けた。目の前の茶碗に抹茶を入れ、柄杓で湯を汲み、静かに注ぐ。静かな部屋に、茶筅の音だけが響く。明らかに先生の視線を感じるが、心を落ち着かせて点て終わったお茶を、菓子と一緒に彼の前に置いた。これで私の仕事は終わった。心の中で安堵してちらりと彼を見ると、意外そうな顔で私に視線を向けていた。瑠菜と違い、冴えない私のお茶は気を悪くしただろうか。一瞬そう思ったが、静かに礼をしてくれた彼に少し驚きつつ、私も頭を下げた。一連の流れを見ていた父だったが、キッと私を睨みつけ、「瑠菜はどうした!」と小声で問う。が、完全に彼にも聞こえているだろう。「いませんでしたので」それだけを答えると、舌打ちが聞こえそうなほどの苦虫を潰した表情を浮かべた父は、すぐにいつもの作り笑いで彼に向き直る。「先生、申し訳ありませんでしたな」機嫌を取るような物言いに呆れつつ、私は父から視線を外した。そんな時だった。「謝罪される必要はありません」慣れた所作で菓子とお茶を口にしていた先生だったが、飲み終えると
美しい池を中心に築山を築き、自然石や草木が配された見事な日本庭園。そして反対側には能舞台が目に入る。ここは、日本有数の有名旅館、沙月亭。趣のある和の中にも、現代の技術が集結した、究極の贅沢を提供する場所だ。広大な敷地の中はいくつかに分かれている。本館は高級だが、比較的泊まりやすい客室、そして二十棟ほどある離れは、一軒一軒にコンセプトがあり、全室スイートルーム。露天風呂、寝室、広間、縁側など、贅を極めた造りだ。そして、さらに二邸しかない最上級の部屋は、露天風呂はもちろん、サウナや岩盤浴まであり、プライベートが完全に守られていて、芸能人や政界の人たちも利用するほどだ。そんな沙月亭の当主、斎藤唯太郎。私、斎藤菜々子の父であり、この旅館の八代目になる。かなりの商才の持ち主で、父の代でここまで大きくした。その反面、仕事にしか興味のない人で、家族を顧みるような人ではない。「先生、お願いできますか?」そんなことを思ってしまった自分を戒めていると、父の声に我に返る。VIPをもてなすために建てられた、客室とは別の邸宅。きっと、一枚板の見事なテーブルを挟んで、父は相手と向かい合っているはずだ。「どうして私を?」廊下で待機している私には姿は見えない。彼が今どんな反応をし、何を考えているかはもちろん知る由もないが、その声は冷たく聞こえた。父の対話の相手は、建築家の向井謙太郎氏。私はその名前くらいしか知らなかったが、今の時代、彼ほどの人ならば、その気になればほとんどの情報は手に入ってしまう。確か年齢は三十一歳だったと記憶している。ビシッとした、ひと目で高級だとわかるスリーピース。しかし、一般の会社員とはどこか違うセンスを感じる着こなし。髪型も今どきの、緩やかなカーブを描いたダークブラウンだ。キリッとした二重の瞳は、何を考えているか読み取れない。それが昨日、私が初めて彼の写真を見た印象だ。父は官僚、母は元華族の出身、兄は父の秘書官で、妹は日舞の師範。出生だけでもすごいのに、本人も日本で有名大学を卒業した後、一級建築士資格を取得。そして海外に渡り、たくさんのデザインを手がけ、数々の賞を受賞しているそうだ。和建築にも定評があり、このたび東京に新しくできる近代美術館の建築の指揮を取っていると、ニュースでも取り上げられていたことは記憶にあった。しかし、