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笠井未久
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Novels by 笠井未久

強引な副社長との政略結婚は甘すぎます

強引な副社長との政略結婚は甘すぎます

笠原 優里香 (kasahara Yurika) 平凡な23歳。 大手電子部品メーカーの総務課に努める入社2年目 小泉 翔太郎 (koizumi Syoutarou) 優里香の勤める会社の副社長 31歳日本を代表する清水グループの御曹司 どうしてもと言われ受けた会社の2年目の優里香は、突然衝撃的な事実を知る。 何百年かに一度約束されている、笠井家と清水家の結婚。その約束が取り交わされないと、双方不幸になる。 そんなバカな話信じられない!戸惑う優里香に周りからの圧力はすごくて……。 「こんな結婚は形だけだろ?諦めろよ」 超絶イケメンだけど、冷静沈着な副社長の裏の顔はドS 意地悪で強引だけど、大人の甘い罠に優里香は?
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Chapter: title33
それから私は会社で瀬能さんを避けて生活をしていた。キッチンで夕飯の準備をしながら、私はいつも通り、翔太郎さんの帰りを待っていた。けれど、その静かな空気を切り裂くように、家の固定電話が突然鳴り出した。自宅の電話――そんなものがあったことすら、忘れていた。反射的に手を止めて振り向くと、鳴りやまない着信音に、私の心がざわついた。出てもいいのか、迷いながらも、何か急ぎの用かもしれないと受話器を手に取る。「はい、清水です」まだ聞き慣れない姓を名乗ることに、どこか照れを感じつつも、相手の声を待った。「……もしもし?」名乗っても返答のない無言に、間違い電話かと受話器を置こうとしたそのとき、不意に落ち着いた女性の声が響いた。『あなただれ?』その一言に、心臓がドクンと大きく脈打つ。しばらくの沈黙のあと、また声が続いた。『翔太郎の新しい女?』あまりに不躾な言葉に、怒りよりも先に、驚きが込み上げてきた。「……はい」自分でも驚くほど低くて冷たい声が出た。その瞬間、電話口からくすっと笑うような息遣いが伝わってくる。『へえ。まあ、いいわ。翔太郎は、誰にも本気にならない人だから。愛とか、好きとか、そういう感情が一番嫌いなの。知ってた?』まるで勝ち誇ったように言い放ったあと、女の声はさらに畳みかけてきた。『あなたに飽きたら、どうせまた私のところに戻ってくるわよ。……じゃあね』そう言い残して、一方的に電話は切られた。受話器の向こうに残ったのは、無機質な通話終了音だけ。私はその音を耳にしながら、呆然と受話器を見つめた。 ――なに?今の……。誰にも本気にならない?愛が嫌い?じゃあ、私はなんなの?問いの答えが見つからないまま、涙がポロポロとこぼれ落ちた。自分でも気づかなかった。翔太郎さんのことが、こんなにも大切になっていたことに。政略結婚――。それでも一緒にいたいと思っていたのは、私の気持ちだった。だけど、自分だけが好きで、相手には何もないなら――こんなにも苦しいことだったんだ。彼が「うまくやろう」と努力してくれていたのは、ただ形式を守るため。そこに“気持ち”なんて、最初からなかったのかもしれない。胸の奥がじわじわと沈んでいくようで、私は作りかけの夕飯を放り出したまま、自分の部屋へ逃げ込んだ。どれくらい時間が経ったのだろう。
Last Updated: 2026-02-16
Chapter: title32
目的地は、少し郊外にある落ち着いた雰囲気のレストランだった。暖色のライト、木製のテーブル、どこか懐かしい洋食の匂いが漂っている。「なんでも美味しいから」そう言って彼がメニューを広げるが、私の心は冷えたままだった。どれも美味しそうな料理が並んでいるはずなのに、視線はページを追いながらも、頭の中は警戒心でいっぱいで、味の想像すらできなかった。「子どもみたいな顔、してたのに」目の前からの軽口に、私は何も応えず、そっとメニューを閉じた。「……オムライスで」言葉も表情も、冷えきったまま。 「どうして俺じゃダメなの?」料理を待つ間、瀬能さんがそう問いかけてきた。私は無言でナプキンの端を指でつまみながら、ただ、彼の視線を避ける。「誰か、好きな人でもいる?」その言葉に、自然と翔太郎さんの顔が浮かんだ。気がつけば、私の心にはもうあの人しかいなかった。「……います」小さな声で、それだけははっきり答えた。「へえ。でも、そんな気持ち、今だけかもよ?」微笑んだままそう返された私は、ただ黙ってその言葉をやり過ごすことしかできなかった。そこへ、店員さんが静かにオムライスを置いていく。黄色い卵に真っ赤なケチャップ。でも、私の心は少しも動かなかった。スプーンに手を伸ばすことすら、躊躇われた。いつもなら、少しでも早く家に着きたくて、エレベーターの遅さに苛立つのに。今日は、できることならこの時間がもう少し続いてくれたらいいと、そんなふうに思っていた。そう考えているうちに、目の前にはもう、自宅の扉があった。深く息を吸い込んで、覚悟を決めるようにドアノブを握る。「優里香、おかえり。悪かったな。誰かと一緒だったから電話切ったんだろ?」いつもと逆――ラフなスウェットにタオルを肩にかけ、リラックスした表情の翔太郎さんが、笑顔で出迎えてくれた。その笑顔が、いつも以上にまぶしく見えて、私は思わず目を逸らし、パンプスのストラップに手をかけた。――そうだった。私が電話を切ったんじゃない。切られたんだった。瀬能さんに。「あっ、ただいまです……。今日は急にごめんなさい」どうにか、普通に声を出せた。ホッとしながら、私は続けた。「翔太郎さん、ご飯は? まだですよね? 何か、すぐに作りますね」できるだけ自然に、明るく微笑んでそう言うと、私はキッチンに向かって
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: title31
仕事が終わり、ビルのエントランスを出た瞬間、スマホの着信音が鳴った。私はカバンから慌てて取り出す。――あっ……。画面に表示された「翔太郎さん」の名前に、自然と嬉しさが込み上げ、通話ボタンを押そうとしたそのとき。肩をポンと叩かれて振り返ると――「瀬能さん……」思わず、覚えたばかりの名前が口をついて出た。瀬能さんはちらりと、私のスマホの画面をのぞき込むように見たかと思うと、そのままスマホを強引に取り上げ、通話終了ボタンを押してしまった。「ちょっ!! 何するんですか!」私は怒りに声を荒げ、瀬能さんを睨みつけた。だが、そんな私の態度にまったくひるむ様子もなく、彼はニコリと微笑んだ。「だって、俺が話しかけようとしてるのに、電話されちゃ困るでしょ?」肩を揺らしながら笑う瀬能さんに、私はゾクリと背筋が冷たくなった。――この人は、危険だ。瞬時にそう感じたこの感覚は、きっと間違っていない。私はスマホを取り返そうと手を伸ばしたが、スルリとそれは瀬能さんの上着の内ポケットに滑り込んでいった。「なにを……」「取れるなら、どうぞ?」その挑発的な言葉に、私は涙がこぼれそうになるのを必死にこらえて、睨み返した。「……ここはまずいな」小さくつぶやいた瀬能さんは、私の腕を強くつかむと、「行くよ」とだけ言って走り出した。「いやっ!」私の叫びは、誰の耳にも届かず――私はそのまま、タクシーに押し込まれていた。「降りる、降ります!」咄嗟に声を上げた私に、運転手さんがミラー越しに一瞬目をやると、瀬能さんはわずかに表情を曇らせながら、内ポケットからスマホを取り出し、何事もなかったように私の手にそっと戻してきた。「……え?」思いがけない反応に私は面食らい、ポカンとしたまま彼の顔を見上げた。あれほど強引だったのに、こんなふうにあっさり返されるなんて――。「ごめん」静かに差し出された謝罪の言葉。戸惑いと警戒の入り混じる気持ちを抱えたまま、私はスマホを握りしめ、視線を落とした。どう返せばいいのか分からずにいた私の口から、ふと問いが零れる。「……なんで、私に構うんですか?」それは、ずっと胸の奥でくすぶっていた素直な疑問だった。「一目惚れしたから」返ってきたのは、予想もしない言葉だった。私の思考が一瞬で止まり、反射的に彼の表情をうかがう。「――
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: title30
「そんな警戒しなくてもいいじゃん。俺はただ、優里香ちゃんと仲良くなりたいだけだよ。まだ入ったばかりで、知り合いも少ないし……」どこか、捨て犬みたいな瞳で見つめられた私は、それ以上強くは言えなくなり、小さくため息をついた。「……わかりました」そう答えると、瀬能さんは急にぱっと表情を変えて、私が持っているミルクティーごと手をつかむと、ブンブンと振り回した。「わーい、ありがとう! じゃあ、また会おうね!」――また会おうって……ここ、会社なんだけど。私は苦笑いしながら、すでに行ってしまった瀬能さんの後ろ姿を見送った。 ――あっ。こんなところでのんびりしてる場合じゃなかった!早く戻らなきゃ!……あっ。お礼、言い忘れちゃった……。私は手の中のミルクティーと小銭を、ぎゅっと握りしめた。そして――すっかり忘れていたはずの瀬能さんを、再び意識することになったのは、初めて会った日から1週間ほど経ったころだった。 「優里香ちゃん、この申請書お願いできる?」ふいに上から降ってきた声に、私は顔を上げた。「あ……」一瞬、名前が出てこなくて、私は言葉を詰まらせる。「ひょっとして、俺のこと……忘れた?」人懐っこい笑顔をわざと崩し、泣きそうな顔をつくったその人に、私は思わずクスッと笑い声を漏らしてしまった。「……いいね。優里香ちゃんの笑顔」その言葉に、私はあわてて表情を引き締め、真面目な顔に戻す。――どうもこの人、軽い……。誰にでもあんなふうに話しかけてるんじゃ……?そして、この笑顔……。こないだは気づかなかったけど、近くで感じるこの人の“空気感”に、なんとなく違和感を覚えた。私は距離をとりつつ、申請書を受け取って、チラリと氏名欄を確認した。“瀬能凛太朗”――やっぱりこの人だ。「かしこまりました。お預かりしますね」営業スマイルを少し作ってパソコンへ視線を戻すと、耳元に気配を感じてハッと振り向いた。そこには、すぐ目の前に瀬能さんの整った顔があって、私は思わず目を見開いた。「優里香ちゃん、今日の夜は暇?」小声で耳元に囁かれ、私は慌てて首を振った。「暇じゃありません!」つい声が大きくなってしまい、慌てて周囲を見渡す。クスクスと笑う瀬能さんを軽く睨みつけると、「そんなに慌てなくても。優里香ちゃん、かわいい」そんな軽口を叩きながら、瀬能
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: title29
昨日の幸せな気分のまま、私は会社へ向かい、エレベーターを待っていた。すると、ふと緊張感のようなものが周囲に漂い、エレベーター前にいた人たちが一歩、自然と後ろに下がったのがわかった。――あっ……。そこに現れたのは、翔太郎さんのお父様である社長と、翔太郎さん。その後ろには、晃さんと秘書の人も続いていた。今までのざわついた空気は一瞬で静まり返り、みんなが一斉に頭を下げるその光景を、私はなぜかぼんやりと見つめていた。これが、本当の翔太郎さんのいる世界――。わかっていたようで、実はちゃんとわかっていなかった。現実の大きさに、私はふと「どうしてその世界に、私がいるのだろう?」と頭がぐるぐるしてしまった。翔太郎さんの周囲を包むものは、あの“呪い”なんて言葉よりも、ずっと重くて大きな何か。エレベーターに消えていく彼らの背中を、私は静かに見送った。最近では、少しずつ社内の騒ぎも落ち着いてきた。でも、久しぶりに、よりによってトイレで声をかけられてしまい、私はため息を飲み込んで、いつも通り申し訳なさそうに返事をした。「えー、そうなんだ。せっかく副社長とお近づきになれると思ったのに~」誰だか名前も知らない、派手な化粧の先輩。私は洗っていた手を止めた。「え? 副社長?」「え?って……半分以上の人は副社長狙いだと思うわよ。神崎さんも優良物件だけど、やっぱり副社長でしょ」そう言って、隣にいたもう一人の女性に同意を求める。「そうよね。でも、副社長って……噂があるじゃない?」その人は少し声をひそめて、眉をひそめた。「噂?」聞き返してくれた先輩に、私は心の中で「ナイス!」とガッツポーズ。そして、続きを待つ。「なんか……この会社では今のポジションにいるけど、清水グループ全体のトップには立てないって……」「えっ、そうなの?」「うん。まあ、この会社の副社長でも十分すぎるくらいの優良物件だけど……清水グループのトップは、やっぱり桁違いよ」そこまで話したところで、背後から咳払いが聞こえた。振り返ると、勤続何十年のお局様が、手洗い場を占領していた私たちを冷たい目で見ていた。「す、すみません!」私たちは声を揃えて謝ると、先輩たちはそそくさとその場を後にした。私は、彼女たちの背中に「待ってー!」と言いたくなる気持ちをなんとか飲み込んだ。 ――え? その先
Last Updated: 2026-02-13
Chapter: title28
実際、私は晃さんの連絡先を本当に知らない。常に翔太郎さんを通じてしか連絡を取ったことがないから、あながち完全な嘘というわけでもないかもしれない。なんとか一日を、適当に受け流しながら終えると、残業もそこそこに切り上げて会社を出た。今日はスーパーで買い物をして帰ることにする。――今日は、翔太郎さんの好きな肉じゃがと、焼き魚にしようかな。マンション下の高級スーパーはどうしても落ち着かなくて、私はいつも通り、庶民的なスーパーの棚を見て回る。お金持ちなのに、庶民的な食事を美味しそうに食べてくれる翔太郎さん。美味しそうなイサキを見つけて、「塩焼きにしよう」と思いながら、かごに入れる。そのとき、メッセージが届いた通知音が鳴り、私はスマホをタップした。【早く帰れそうだから、あと1時間ぐらい】少しだけ気持ちが落ち着いた。珍しく早く帰ってくる翔太郎さんの知らせに、私は嬉しくなって足早にスーパーを後にした。時計をチラリと見ると、あの連絡からもうすぐ1時間が経とうとしていた。お鍋の中の肉じゃがも、もうすぐ煮える頃。――間に合ってよかった。ほっと一息ついたそのとき、玄関から音がして、私はパタパタと駆け出した。「おかえりなさい!」少しネクタイを緩めながら家に入ってきた翔太郎さんの姿に、自然と顔が緩んでしまう。そんな自分の気持ちをごまかすように、私は小さく咳払いして、表情を真顔に戻した。「なんでだよ? そのまま笑ってろよ」そう言ってイジワルそうに微笑むと、翔太郎さんは私の後頭部をぐいっと引き寄せてキスをした。「んっ……ん!?」軽く触れるだけのおかえりなさいのキスだと思っていたのに、舌がするりと入り込んできて、私は驚いて目を見開いた。キスはどんどん深くなって、立っているのも難しくなり、私はぎゅっと翔太郎さんにしがみついた。そんな私に満足したのか、彼はゆっくりと唇を離し、私の目を覗き込んだ。「……ただいま」満足げに微笑みながらそう言った翔太郎さんに、私はきっと、顔を真っ赤にしてとろけきった情けない顔をしているに違いない。それを自覚しつつも、私は感情のままにギュッと抱きついた。「お帰りなさい……」「ご飯にする? お風呂? それとも……俺?」ふざけた口調で言う翔太郎さんに、私は「言いません!」とピシャリ言い捨て、くるりと背を向けてキッチンへ向
Last Updated: 2026-02-13
Will you marry me ?エリート建築士は策士な旦那様でした

Will you marry me ?エリート建築士は策士な旦那様でした

日本屈指の旅館の娘、斎藤菜々子。控えめな性格で、いつも可愛がられている異母妹の陰で生きてきた。 そんな時、父が企てた屈指の御曹司で世界的有名な建築家である、向井謙太郎と政略結婚をすることに。 「どうして、妹ではなく私なんですか?」 虐げられつつけて愛を信じられない菜々子に、愛されることを教えると決めた謙太郎。 ふたりの恋の行方は……。 斎藤菜々子 26歳 虐げられ令嬢  ×  向井謙太郎 31歳 世界的な建築家 一級建築士× 虐げられ令嬢
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Chapter: 番外編 お留守番2
ミルクを飲み終えた晴翔は、ようやく落ち着きを取り戻した。小さな口の端に白いミルクを残して、満足そうに「ふぅ」と小さく息をつく。「お疲れさま、俺……晴翔も待っててくれてありがとな」自分のシャツの襟元を見下ろすと、案の定、涙とミルクでしっとりしていた。まぁ、勲章みたいなもんだ。晴翔の顔をのぞき込むと、今度は機嫌よさそうににこにこ笑っている。「元気になったか。じゃあ……ちょっと外に出てみるか?」思いついて、そっとベビーカーを玄関に出す。肌にあたる風はやわらかくて、空は晴翔が生まれた日みたいに、抜けるような青だった。「いくぞ、晴翔」カチャ、とベビーカーに晴翔を乗せて、玄関を出た。公園にはのんびりと過ごす家族連れや、犬を連れた老夫婦の姿も見えた。ベビーカーを押しながら歩く俺の横で、晴翔は目をきょろきょろとさせて、木々や、すれ違う子供たちをじっと見つめている。晴翔は、「あー」とか「うー」とか、赤ちゃん語で何かを一生懸命伝えている。「そっか、あの犬が気になったのか。……名前は、たぶん柴犬だな」歩くたびに、すれ違う人たちが晴翔に笑いかけ、手を振ってくれる。そのたびに、晴翔が声を上げて笑うのが嬉しくて、俺の足取りも自然と軽くなる。「ママ、ゆっくりできてるといいな」ふと漏れたその独り言に──。「ありがとう。気持ちだけでもうれしいし……ふたりでも楽しそうで、少し妬けちゃった」聞きなれた声が、背中越しに届いて驚いて振り返ると、そこには菜々子が立っていた。風になびく薄手のコートと、ふんわりとした笑顔が、どこか照れたように見える。「菜々……帰ってきてたのか?」「うん。欲しいものも買えたし、ちょっと一人でカフェにも寄ってきた。こんな時間、久しぶりだった」「そっか。よかった」少し照れくさくなって視線を外すと、晴翔が「あっ」と短く声を上げた。ベビーカーの上から、菜々子に向かって両手を伸ばしている。「ほらな。やっぱりママがいいんだよ、お前は」俺が苦笑しながら言うと、菜々子がそっと晴翔の手を握る。「でも……やっぱり三人がいいな」その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。「俺もそうだよ」そう答えて、ベビーカーを押していない手で菜々と手をつなぐ。この時間、この空気、この風景──たぶん、きっと、何よりも大切なものだ。恋愛とか、家族とか、
Last Updated: 2025-10-08
Chapter: 番外編1 お留守番
え?」菜々子の驚いた声が玄関に響いた。片手に晴翔を抱き、もう一方の手で玄関の靴を履こうとしていた彼女が、くるりとこちらを振り返る。「ふたりで買い物に行ってくるね、って言ったつもりだったんだけど……?」俺はドアの枠にもたれながら、少しだけ真面目な声で言った。「俺が見てるから、たまには買い物でもなんでも、一人の時間を過ごしてほしい」それを聞いた菜々子は、一瞬黙り込む。晴翔の頬に顔を寄せて、何かを確認するように見つめたあと、ゆっくりと俺に視線を戻した。「……ほんとに?」「任せろ。昼寝の時間も、ミルクのタイミングも、全部メモしてある」俺が胸を張ると、菜々子は小さく吹き出した。「仕事だって忙しいでしょう? ……それに健太郎さん、おむつ替え、最後にしたのいつ?」「……先月?」「……」ほんの数秒の沈黙に、微妙な空気が流れる。それでも俺は、動じたふりをせず続けた。晴翔が生まれてから、一緒に子育てをしていたが、この一か月、大きな案件が入ってしまい、菜々に子育てを任せきりだった。ようやくひと段落したのだ。かわいい息子の世話と、愛する妻のために、そう思ったが、予想以上に心配そうな菜々の顔に苦笑する。「ちゃんとやるから」「本当?」菜々子は肩をすくめると、バッグを手に取ってもう一度玄関に立った。「ああ」俺が真面目な表情で答えると、菜々はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。「ありがとう。じゃあ、お願いするね。でも……なにかあったら、すぐ電話して」最後の念押しを忘れない母親の顔の菜々から、晴翔を受け取りつつ頬に口づける。「もう」そこに手を触れつつ、菜々は小さく手を振って外へと出て行った。「な、男同士うまくやろうな」晴翔を抱き上げると、キャキャと楽しそうに笑う。まったく、問題ない。その時は、本気でそう思っていた。と晴翔、ふたりだけの時間が、はじまる。 ……と思ったのも束の間だった。 「ふぇっ……ふぎゃぁああああ!!」 いつも聞いているつもりだったが、ひとりだとその声にビクッとしてしまった。「晴翔、どうした?」 小さな体が真っ赤になり、両手をばたばたと振り回している。俺の胸元で大暴れだ。 「……もしかして、ママがいないのが寂しいのか? それとも……ミルク?」 慌てて菜々子が用意してくれた哺乳瓶を手に取り、ミルクを温める準備をする
Last Updated: 2025-10-03
Chapter: Story21
それから、私は元気な男の子を出産した。名前は、よく晴れた日に生まれたことから「晴翔(はると)」と名づけた。「本当にかわいいな」「またそれ?」壊れそうなものに触れるような手つきで晴翔を抱く彼に、私はクスクスと笑い声をあげた。「もっと力入れても大丈夫だよ」そう言いながら、晴翔の手をキュッと握ると、少し表情をゆがめた。「いや、ほら、もっと優しいほうがいいって顔してる」そんなわけはない……そう思うけれど、仕事をこなしながら、こうして育児にも協力してくれる。健太郎さんは、まさによきパパだ。「違うよ、パパ。おむつ」「え?」「マジか」晴翔をそっとベビーベッドにおろすと、おむつを確認して健太郎さんは顔をしかめた。「やっぱりママにはかなわないな、晴翔」そう言いながら、手早くおむつを替えてくれる彼を、私はじっと見つめていた。「なに?」何か不手際があったと思ったのか、健太郎さんはもう一度おしり拭きに手を伸ばそうとする。「大好きだなって思っただけ」「え?」完全に油断していたのか、自分が私を甘やかすことは全然平気なのに、私からの言葉にはいちいち反応してくれる。今も、耳が赤くなっているのがわかった。今晩、覚悟してろよ」いきなり低くなった声に、私は「え?!」っと声を上げる。「もう、ドクターからも“いい”って言われたの、知ってるんだからな」そう、出産後、私たちはまだ体を重ねていない。育児に専念してきて、ようやく最近、少し余裕ができてきたところだ。私としても、ほんの少しだけ寂しさを感じていた。だから、彼の言葉がうれしくないわけじゃない。嘘ではないし、支障もないのだけれど……一気に形勢逆転した立場に、今度は私の顔が赤くなっていると思う。「あの、でも……久しぶりだしね」健太郎さんが「覚悟しろ」と言うときは、本当に手加減してくれないのだ。「晴翔、今日の夜はぐっすり眠ってくれていいからな」おむつを替え終え、晴翔を抱き上げると、健太郎さんが私のほうへと歩いてくる。「これは先払い」そう言って、私にリップ音を立ててキスをする。「もう、子どもの前だから!」少し怒ったように言った私だったが──もう一度、今度は私からキスをした。「さあ、今日はどこに行こうか。動物園もいいし、水族館もいいな」晴翔が生まれた日のような、真っ青な空を見上げなが
Last Updated: 2025-09-30
Chapter: Story20
この場を収めるだけかもしれないが、確かに今、「愛する」という言葉を言ってくれた。それだけで、私は十分だ。「瑠菜、彼は私の夫なの。諦めて」「お姉ちゃんのくせに、生意気よ!!」怒り狂う瑠菜を気にする様子もなく、謙太郎さんは不敵な笑みを浮かべた。「妻の実家ですので、仕事はきちんとさせていただきます。それでよろしいですね?」自らこの結婚を企て、向井家との縁を望んだ父だ。 謙太郎さんのその柔らかいが、圧倒的な威圧感に、父は「よろしくお願いします」とだけ答えた。瑠菜と継母は、その場に立ち尽くしている。「菜々、帰ろう」私の手を取り、謙太郎さんは振り返ることなく、その場を後にした。ふたりで車に乗り込み、何かを話さなければと思うが、それが見つからない。言葉を探しながら、運転する彼をそっと盗み見る。車は、どうやら家に帰る方向とは違うようで、私は不思議に思いながら窓の外を眺めていた。数十分ほど走って、都内の小さな教会の前に車が停まった。「降りて」促されるままに車を降り、目の前の木のぬくもりを感じるその建物を見つめる。その場所には見覚えがあり、懐かしさが込み上げてくる。「菜々、ここに来たことあるだろ?」「はい。大学のとき、よく……え?」大学からほど近いこの教会は、木々に囲まれていて目立たないが、静かで落ち着く空間だった。 私がとても好きで、ひとりでよく訪れていた場所だった。「これ、俺が一番最初にデザインした建物なんだ」――え?静かに歩いて近くまで行くと、謙太郎さんもその教会を見上げた。「あの頃、全然芽が出なくてさ。父の仕事を手伝うことに決めて……この仕事を諦めようと思って、この場所に来たんだ」その言葉を聞いた瞬間、ぼんやりとしていた記憶が急に鮮明によみがえる。「……あっ。あの時の?」一度だけ、泣きそうな表情でこの教会を見上げていた男性がいた。 その姿がとても切なくて、それでいてどこか美しく、私は思わず見惚れてしまった――そんな記憶。そんな私に、当時その男性が振り返ってかけた言葉。「この教会、好きですか?」大人びて自信にあふれる今の姿とは少し違っていたけれど、あのときの彼は――間違いなく、謙太郎さんだった。あの瞬間に出会っていたのだと、私はようやく気づいた。その時、私はこの教会について、かなり熱く語っていたことを思い出
Last Updated: 2025-09-17
Chapter: Story19
会議室を出ると、前から見慣れたスタッフが走ってくる。「菜々子さん、館内のチェックお願いできますか?」「え? きちんとできているんじゃないの?」「なんとか私たちでやってきましたが、やはり菜々子さんのようにはできなくて、少しお叱りを頂いたりしたんです」その内容に、彼女が悪いわけではない。勝手に出て行った私に非があるのだ。「少し待っていて」まだ敷地などを見て回ると言っていた彼を追いかける。そして、旅館の仕事を見てくると伝えると、彼は不安そうな顔をしつつも、渋々了承してくれた。私の後任として仕事をしてくれている彼女に指導しながら館内を歩き、花を生け直したり、慌ただしく過ごしていた。「あと、庭の剪定なんですが、庭師がここをどうしたらいいかと」広い見事な日本庭園をチェックし終わり、チェックイン時間が迫り戻っていた彼女と別れ、ひとりで見て回っていた。指示を出すところをスマホで写真を撮り、散策コースなども見て回り一息ついた時だった。ガサッと音がした気がして、その方へと歩いていく。そこはこの旅館の敷地の端で、散策の休憩場所として建てられている。隠れ家的な場所で、何か考えたい時などひとりでこっそりと来ていた。そんなあまり人が来ない場所にお客様かな、そう思いつつ、こっそりと見た時だった。「ッ」その光景に私は声が漏れてしまった。そこには、薄手のピンクのワンピースが半分脱げて、下着が見えそうになっている瑠菜が、男性と抱き合っていたからだ。その相手は私に背を向けているが、見間違うはずがない。「謙太郎さん……」小さな私のつぶやきを拾ったのは瑠菜で、彼の肩越しに私と目が合う。そして、怖いぐらい美しく微笑んだ。「私の方がいいでしょ?」その言葉に、私は駆け出していた。その時、かなり大きな音を立ててしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。「菜々!」私に気づいたのだろう。謙太郎さんの声が背後から聞こえたが、それを無視して来た道を戻る。今のシーンは、ずっと想像していたし、昔からよく見てきた光景だ。そのたびに、特に何も思わなかったし、何も感じず、「またか」と思っただけだった。――でも、今回は違った。張り裂けそうなほど胸が痛くて、これほどまでに彼を好きになってしまっていたことを知る。「菜々!! 待て! 走るな!」あのシーンを見たあと、
Last Updated: 2025-09-17
Chapter: Story18
「菜々、本当に無理をするなよ?」朝、起きてきていつも通り食事を作る私を、そっと抱きしめながら、謙太郎さんはそう呟く。「大丈夫です。つわりも今日はないんです」そう。あれから二か月が経ち、謙太郎さんの美術館の仕事が落ち着いたころ――体調があまりよくなかった私は、無理やり向井家と懇意にしている病院へ連れて行かれた。『おめでとうございます。もうすぐ三ヶ月ですね』先生のその言葉に、私は「どうしよう」と真っ青になったが、隣の謙太郎さんは私を抱きしめて、「嬉しい」と言ってくれた。――その言葉だけで。たとえ、愛されていなくても、私は彼と家族になれる。そう思って、私の中に新しく宿った命を、大切にしようと心に決めた。「それでもだ。あれから初めて実家に行くんだ。緊張やストレスは、やっぱりよくないんじゃないか?」やたら過保護で、私を甘やかしてくる彼に苦笑する。「謙太郎さんが言ってくれたんですよ。私も話に加わった方がいいって」「それはそうなんだが……。菜々のセンスは抜群だし、沙月亭を一番理解しているのも菜々だから……」自分自身に言い聞かせるように、謙太郎さんはそう言う。「わかった。絶対に、調子が悪くなったらすぐに言うこと」それを条件に、私は彼との同行を許可してもらった。もちろん――瑠菜と謙太郎さんが会うことに、不安がないと言ったら嘘になる。でも、もう私も逃げてばかりはいられない。「先生、ありがとうございます。菜々もよくやったな」“よくやった”――本当に私を何だと思っているのだろう。それに、こんなセリフは謙太郎さんに対しても失礼だ。相変わらずの父に、私は憮然としてしまうが、黙って無表情を貫いた。「それでは、まずコンセプトを確認させてください」会談などにも使われる広い会議室に、凛とした謙太郎さんの声が響く。家にいるときとは違う、仕事モードの彼は、どこか冷徹ささえ感じさせる。そんな空気をまといながら、父や他の役員の意見を手際よくまとめていく。広い敷地を開拓した一角――東京ドームが数個は入るその場所に、今よりも最上級のヴィラを建築するという計画。高い天井、ラウンジには三十人は座れる広さのテーブルとソファ。全面ガラス張りの高い窓は開閉式で、その前にはプールが広がる。今まで和が中心だった沙月亭だが、今回は完全にリゾートを意識した洋建築にした
Last Updated: 2025-09-17
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