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笠井未久
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Novels by 笠井未久

強引な副社長との政略結婚は甘すぎます

強引な副社長との政略結婚は甘すぎます

笠原 優里香 (kasahara Yurika) 平凡な23歳。 大手電子部品メーカーの総務課に努める入社2年目 小泉 翔太郎 (koizumi Syoutarou) 優里香の勤める会社の副社長 31歳日本を代表する清水グループの御曹司 どうしてもと言われ受けた会社の2年目の優里香は、突然衝撃的な事実を知る。 何百年かに一度約束されている、笠井家と清水家の結婚。その約束が取り交わされないと、双方不幸になる。 そんなバカな話信じられない!戸惑う優里香に周りからの圧力はすごくて……。 「こんな結婚は形だけだろ?諦めろよ」 超絶イケメンだけど、冷静沈着な副社長の裏の顔はドS 意地悪で強引だけど、大人の甘い罠に優里香は?
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Chapter: title47
そのまま私たちはマンションに戻り、翔太郎さんはまるで「もう離さない」と言うように私を強く抱きしめた。そして、初めの頃のような意地悪な表情はすっかり消え、代わりに甘く優しいキスを私に落とす。「なあ、初めからやり直そう。あの、一緒に住み始めた日から」その言葉に、私は小さく頷いた。「本当に俺の奥さんになって。そして……毎日、あれを言ってよ」少しふざけたように笑いながら、翔太郎さんは私のおでこに、自分のおでこをそっと重ねた。「“あれ”って……?」意味が分からず聞き返した私に、翔太郎さんは笑いを含んだ声で答える。「ご飯にする?お風呂にする?それとも……私?」「も、もう!バカ!」いきなり言われたその言葉に、私は顔を真っ赤にして翔太郎さんの胸を軽く叩いた。「ごめん。でも、優里香と毎日笑って、楽しく暮らしていきたいんだ」……もう、本当に。すぐそうやってふざけるんだから。そう思いつつも、私はもう翔太郎さんと離れたくなかった。ちゃんと確かなものが欲しかった。「じゃあ、“私”は……今度、帰ってきたときまで、おあずけってことですか?」恥ずかしさで翔太郎さんの顔を見ることができず、私はシャツの裾をぎゅっと掴んで顔を埋めながら、小さく呟いた。「優里香……」そっと私の頬に触れた翔太郎さんが、やさしく問いかける。「……いいの?」私は、ただ頷くことで精いっぱいだった。ドキドキと胸の音がうるさくて、どうしていいかわからない。そんなとき、ふわりと身体が浮かび、私は驚いて翔太郎さんの顔を見上げた。そのとき初めて、“男の人の顔”を見た気がした。真っ直ぐに、熱を孕んだ瞳で見つめられて――私はもう、目を離せなかった。抱き上げられたまま、翔太郎さんの寝室へと運ばれていく。ベッドにそっと横たえられ、私は静かにその姿を見つめていた。シャツを脱ぎ、上半身裸になった翔太郎さん――その姿が夢のようで、どこか現実とは思えず、ぼんやりとした気持ちのまま、ただじっと彼を見ていた。「優里香?」驚いたように言われたその言葉に、私は「え?」と声を出した。そっと私の頬に触れた翔太郎さんの手に、自分の手を重ねる。「嫌?」意外な言葉に、私は首をかしげた。「なんで?」「泣いてる……」その言葉に、私は初めて自分が泣いていたことに気づいた。「違うの!嫌じゃなくて。信じられ
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: title46
「ねえ、どうして? 私はずっと、あなたのそばにいたじゃない! 誰も愛せないって言ったじゃない!!」沈痛な叫びにも似たその声に、心臓がキュッとつぶされるような気がした。「そう――誰も愛せないと思ってた。でも……」そこまで言って、翔太郎さんは私の方を見た。「出会ったんだ。本気で愛せる人に。……こんな俺をずっと慕ってくれたことは、本当にありがとう。でも――お前のことは、妹のようにしか思えない」きっぱりと、はっきりと言い切るその言葉に、さやかさんの瞳からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。「どうして? あんなに目標にしていた社長の座まで……どうかしてるわ!」その言葉に、私も同じ気持ちだった。私を“信じさせるため”だけに、そこまで捨てるなんて――そんな必要、ないはずなのに。「そうかもしれないな。でも……そんなものより、大切なものを見つけたんだ」静かに言った翔太郎さんのその瞳を、さやかさんはじっと見つめ返した。「……バカよ。あなたは」そうひと言だけ残して、さやかさんはくるりと背を向け、その場をあとにした。きっと、ずっと翔太郎さんのことを想い続けていたのだろう。そして、こんな形で結婚した私のことが、許せなかったのかもしれない。だから、あんな電話を――。「さやかさん、私……」出て行こうとしていた私の口から、つい彼女を呼び止める声が漏れた。「なに? お人よしなの? 嫌がらせをして、ごめんなさい」さやかさんはそれだけ言うと、今度こそ静かに部屋を後にした。静まり返った空間の中で、私は彼女の後ろ姿を見送っていたが、ハッと我に返る。後ろを振り返ると、役員やお父様たちが無言で私たちを見つめていた。「翔太郎、本気で辞退するということでいいんだな?」もう一度、おじいさまがそう問いかけたとき、翔太郎さんはどこか晴れやかな表情で「はい」と答え――「――あの!」私はその言葉に重ねるように声を上げた。「元々のお話では、私たちの気持ちが通じ合えば、社長の座は翔太郎さんのものになる、ということでしたよね?」「えっ!?」驚いたように翔太郎さんが声を上げるが、私は小さく手で制した。「……そうだな。今の話を聞けば、翔太郎が辞退する理由は、もうない」「そんな! 自分で辞退すると言ったじゃないですか!」瀬能さんが声を張り上げる。けれど私は、唇をキュッと噛みしめ
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: title45
そっと後ろの扉から入ると、テレビで見たことがあるような楕円形の会議机に、スーツ姿の人々が何十人も座っていた。その机の一番奥――上座には、おじいさんとお父さん、そして翔太郎さんの姿があり、私はなんとも言えない気持ちになった。あの場所こそが、翔太郎さんがずっと求めてきた場所。ずっと、そのために努力を重ねてきたのだろう。――ああ、私も……役に立てたんだ。「晃さん、もう……」そう言いかけた瞬間、おもむろに翔太郎さんが立ち上がり、私を見た。……翔太郎さん?その視線の意味がわからず、私は戸惑いながら目を逸らしかけた。「私は、社長の座を辞退します」その言葉が落ちた瞬間、室内がざわめきに包まれた。「翔太郎!?」おじいさんの驚いた声が響く。けれど、翔太郎さんは動じず、再び静かに、しかしはっきりと告げた。「私は、清水グループのトップの座は必要ありません。……以上です」迷いのないその言葉に、私はただ「どうして……?」と、心の中で呟くことしかできなかった。会議室のざわつきのなか、翔太郎さんは深くお辞儀をすると、私のもとへと歩いてきて、その瞳でまっすぐに私を見つめた。そして、何も言わずに私の手をとると、ためらいなくその場をあとにしようとした。「待って!……なんで?」思わず問いかけた私の声にも、翔太郎さんは振り返らず、手を引いたまま清水グループの本社ビルをあとにした。無言のまま少し歩き、大きな公園にたどり着いたところで、ようやく彼は足を止めた。「……どうして?」涙を堪えながら聞く私に、翔太郎さんはやっと私の目を見て、優しく言った。「俺には、もう必要ないんだ」「必要……ない?」あまりにも予想外の言葉に、私は言葉を失った。「優里香、社長になれない俺は……魅力がないか?」「何それ……? 私にとって翔太郎さんは、翔太郎さんであって、副社長でも社長でも、平社員でも関係ありません!」私は困惑しながらも、真剣にそう答えた。「そんなことより、私は……私は翔太郎さんのために――」そう言いかけた時、翔太郎さんがふっと笑った。そして、胸元の内ポケットから小さな箱を取り出す。開けられたその箱の中には、キラキラと光る指輪が入っていた。「優里香。俺には、優里香しかいらない。優里香がいてくれれば、それでいい」「……え?」「優里香が好きだ。俺と――結婚
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: title44
あの日以来、翔太郎さんは今まで以上に仕事に打ち込んでいるように見える。土曜の今日でさえ、朝目を覚ましたときにはすでに彼の姿はなかった。きっと、トップに立つためには今以上の努力が必要なのだろう。今の私にできることは、そんな翔太郎さんをそっと支えることだけだ。今度こそ、これは期間限定だ。正式に後継者として決まれば、私の役割は終わる。そう考えるたびに切なくなる。騙されたことを思い出して憎みたくても、やっぱりできない自分が情けなくて、バカみたいだと思う。それでも――好きになった人の幸せを願えるようになっただけ、きっと私は少し成長したのかもしれない。そんなふうに思う自分が、少しおかしくもあった。お昼を過ぎ、洗濯物を干し終えて、青く澄んだ空をぼんやりと見上げながら「お昼は何にしようかな」なんてことを考えていたとき、突然鳴ったインターホンに私はびくっと肩を震わせてドアの方を見た。翔太郎さんなら、わざわざエントランスのインターホンを押すはずもない。そう思いながらモニターをのぞき込むと、映ったのは晃さんの顔だった。ホッとしてすぐに応答ボタンを押す。「お姫ちゃん!すぐ出られる?」「え?えっ、どこにですか?」「いいから!」あまりにも焦った様子に、私は思わず自分の服装を見下ろす。デニムにカットソー……これで出ていいのかどうか、迷っていると、「もう、なんでもいいから、すぐ降りてきて!」焦れたようにそう告げられ、私はバッグだけつかんで慌てて下へ向かった。「晃さん!どうしたんですか?翔太郎さんに、なにか……?」不安がこみ上げてくる私の問いには答えず、晃さんは無言で私を車へと押し込む。運転席には見慣れた運転手さんの姿があった。なんとか車に乗せたあと、晃さんはふうっと小さく息を吐き、私をじっと見つめる。「……なんですか?」その視線の意味がわからず、私は戸惑いながら聞いた。「なんでもないよ」ふわりとした優しい笑みを返され、それがかえって意味深に思えて、私はますます混乱する。それ以降、車内での会話はなく、私はどこへ向かっているのかもわからないまま、高級車のシートに身を沈めていた。そして、着いた先を見た瞬間、思わず声が出る。「む、無理!無理です!」目の前にそびえ立っていたのは、都内の高層ビル群のなかでも一際目立つ、清水グループの本社ビルだった。
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: title43
緑に囲まれた長いアプローチを進むと、目の前に――まるで物語の中から出てきたような洋館が、姿を現した。私は驚きに目を見張りながら、その建物を見上げていた。「これが……」無意識にこぼれた私の言葉に、翔太郎さんはどこか自嘲気味な笑みを浮かべた。「気にするな」慣れた様子で言うその声には、いつもの家にいたときの柔らかさはなく、私も思わず唇をきゅっと噛みしめた。私は翔太郎さんの少し後ろをついて歩く。重厚なドアがゆっくりと開かれると、何十人もが入れそうな広い部屋が現れた。長いテーブルにはすでに十人ほどの人が座っており、その誰もが無言で、冷たい空気のなかで静かに待ち構えていた。「お待たせしました」翔太郎さんの抑揚のない声に、最上座にいた年配の男性――清水グループの現会長であり、翔太郎さんの祖父――が私に目を向けて口を開いた。「優里香さん、わざわざすまなかったね」その言葉に、私は頭を下げる。瀬能さんの姿もすぐに目に入った。この場で、翔太郎さんが小泉グループのトップの座につけるかが決まる――それが今のこの状況だ。まるでドラマの中に迷い込んだような気分で、私は周囲の面々を見渡した。「優里香さん、今回こういった形になったのも、トップに立つ者には人の心を知り、守るべきものが必要だと思ったからだ。結婚という形があれば、周囲からの信頼も得やすい。だから無意味にこの計画を立てたわけではない、ということだけは理解してもらえたら嬉しい」そう話す会長の言葉に、私はまるで今の心の中を見透かされたような気がして、小さくうなずいた。だまされたと感じたことは事実だが、今この場でそれを責めるつもりはなかった。「それで?どうなんですか」苛立ちを隠そうともしない声でそう言ったのは、翔太郎さんの父だった。視線が一斉に私へと向けられる。「俺にチャンスあり、だよね?」瀬能さんの軽い言葉に、私は静かに彼をにらみつけた。この人もまた、好意のふりをして近づいてきただけだった。実の父からこうも冷たく扱われ、腹違いとはいえ兄に対して敵意を隠さない弟――私には、誰一人信じられるような存在には思えなかった。「今回の件は……」翔太郎さんが何かを言いかけたその瞬間、私は彼の腕をぎゅっと握りしめた。その私の行動に驚いたように、翔太郎さんが目を見開く。「今回の件は、おじいさまの思ったとおりになりました
Last Updated: 2026-03-11
Chapter: title42
表面上は、これまで通りの生活を装っていた。私はこの状況で、実家に帰ることも、翔太郎さんを放置することもできず――なるべく顔を合わせないようにしながら、同じ家で暮らしていた。そして、この政略結婚に設けられた“期限”が、いよいよ迫っているのも事実だった。翔太郎さんが私を“振り向かせる”ために与えられた期間は、半年。その期間が終わっても私の気持ちが動かなければ、今度は――瀬能さんに“チャンス”が回ってくる、という壮大なゲームだった。瀬能さんも仕事はできると聞くし、どちらが社長になっても清水グループとしては問題ないのかもしれない。だけど、当事者である私は、まるでただのコマみたいで、少しだけむなしくなった。私は小さくため息をついて、味噌汁をかき回していた手を止めた。翔太郎さんは――少なくとも“自分を好きにさせる”というミッションは、果たしてしまっている。私はまんまとその罠に落ちて、翔太郎さんを――好きになってしまった。……でも。「翔太郎さんは、誰も愛さない」そう言った、あの女性の言葉がどうしても頭から離れなかった。それでも、彼の隣にいられるだけで幸せなのかもしれない――そんなことすら思うようになっていた。一緒にいられることが答えなら、それで充分なのかもしれない。でも、本当にそれで私は幸せになれる?耐えられる?それとも、いつか心が壊れてしまう?いろんな思いが頭の中をぐるぐるとめぐった。でも、私はようやく一つの決意を固めた。 その“決戦の日”は、あいにくの雨だった。私は朝から胃がキリキリと痛み、いつものように胃薬を水で流し込んでいた。 「優里香、どこか悪いのか?」本当に心配しているような声音で問いかけてきた翔太郎さんに、私は曖昧な微笑みで応じた。 決意を固めたつもりでも、日々を一緒に過ごすなかで、気持ちは何度も揺れた。でも今日、この半年間の“答え”を伝えなければならない。 「翔太郎、行けるか?」リビングに入ってきた晃さんが、少し複雑な表情で私と翔太郎さんを見比べた。「ああ、大丈夫だ」翔太郎さんは、あの日以来、何も言ってこなかった。もうダメだと悟ったのか、社長の座を諦めたのか。私に何かを求めることも、懇願することも、一切なかった。――だからこそ、私も、決心できたのかもしれない。 「優里香……行け
Last Updated: 2026-03-11
Will you marry me ?エリート建築士は策士な旦那様でした

Will you marry me ?エリート建築士は策士な旦那様でした

日本屈指の旅館の娘、斎藤菜々子。控えめな性格で、いつも可愛がられている異母妹の陰で生きてきた。 そんな時、父が企てた屈指の御曹司で世界的有名な建築家である、向井謙太郎と政略結婚をすることに。 「どうして、妹ではなく私なんですか?」 虐げられつつけて愛を信じられない菜々子に、愛されることを教えると決めた謙太郎。 ふたりの恋の行方は……。 斎藤菜々子 26歳 虐げられ令嬢  ×  向井謙太郎 31歳 世界的な建築家 一級建築士× 虐げられ令嬢
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Chapter: 番外編 お留守番2
ミルクを飲み終えた晴翔は、ようやく落ち着きを取り戻した。小さな口の端に白いミルクを残して、満足そうに「ふぅ」と小さく息をつく。「お疲れさま、俺……晴翔も待っててくれてありがとな」自分のシャツの襟元を見下ろすと、案の定、涙とミルクでしっとりしていた。まぁ、勲章みたいなもんだ。晴翔の顔をのぞき込むと、今度は機嫌よさそうににこにこ笑っている。「元気になったか。じゃあ……ちょっと外に出てみるか?」思いついて、そっとベビーカーを玄関に出す。肌にあたる風はやわらかくて、空は晴翔が生まれた日みたいに、抜けるような青だった。「いくぞ、晴翔」カチャ、とベビーカーに晴翔を乗せて、玄関を出た。公園にはのんびりと過ごす家族連れや、犬を連れた老夫婦の姿も見えた。ベビーカーを押しながら歩く俺の横で、晴翔は目をきょろきょろとさせて、木々や、すれ違う子供たちをじっと見つめている。晴翔は、「あー」とか「うー」とか、赤ちゃん語で何かを一生懸命伝えている。「そっか、あの犬が気になったのか。……名前は、たぶん柴犬だな」歩くたびに、すれ違う人たちが晴翔に笑いかけ、手を振ってくれる。そのたびに、晴翔が声を上げて笑うのが嬉しくて、俺の足取りも自然と軽くなる。「ママ、ゆっくりできてるといいな」ふと漏れたその独り言に──。「ありがとう。気持ちだけでもうれしいし……ふたりでも楽しそうで、少し妬けちゃった」聞きなれた声が、背中越しに届いて驚いて振り返ると、そこには菜々子が立っていた。風になびく薄手のコートと、ふんわりとした笑顔が、どこか照れたように見える。「菜々……帰ってきてたのか?」「うん。欲しいものも買えたし、ちょっと一人でカフェにも寄ってきた。こんな時間、久しぶりだった」「そっか。よかった」少し照れくさくなって視線を外すと、晴翔が「あっ」と短く声を上げた。ベビーカーの上から、菜々子に向かって両手を伸ばしている。「ほらな。やっぱりママがいいんだよ、お前は」俺が苦笑しながら言うと、菜々子がそっと晴翔の手を握る。「でも……やっぱり三人がいいな」その言葉に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなる。「俺もそうだよ」そう答えて、ベビーカーを押していない手で菜々と手をつなぐ。この時間、この空気、この風景──たぶん、きっと、何よりも大切なものだ。恋愛とか、家族とか、
Last Updated: 2025-10-08
Chapter: 番外編1 お留守番
え?」菜々子の驚いた声が玄関に響いた。片手に晴翔を抱き、もう一方の手で玄関の靴を履こうとしていた彼女が、くるりとこちらを振り返る。「ふたりで買い物に行ってくるね、って言ったつもりだったんだけど……?」俺はドアの枠にもたれながら、少しだけ真面目な声で言った。「俺が見てるから、たまには買い物でもなんでも、一人の時間を過ごしてほしい」それを聞いた菜々子は、一瞬黙り込む。晴翔の頬に顔を寄せて、何かを確認するように見つめたあと、ゆっくりと俺に視線を戻した。「……ほんとに?」「任せろ。昼寝の時間も、ミルクのタイミングも、全部メモしてある」俺が胸を張ると、菜々子は小さく吹き出した。「仕事だって忙しいでしょう? ……それに健太郎さん、おむつ替え、最後にしたのいつ?」「……先月?」「……」ほんの数秒の沈黙に、微妙な空気が流れる。それでも俺は、動じたふりをせず続けた。晴翔が生まれてから、一緒に子育てをしていたが、この一か月、大きな案件が入ってしまい、菜々に子育てを任せきりだった。ようやくひと段落したのだ。かわいい息子の世話と、愛する妻のために、そう思ったが、予想以上に心配そうな菜々の顔に苦笑する。「ちゃんとやるから」「本当?」菜々子は肩をすくめると、バッグを手に取ってもう一度玄関に立った。「ああ」俺が真面目な表情で答えると、菜々はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。「ありがとう。じゃあ、お願いするね。でも……なにかあったら、すぐ電話して」最後の念押しを忘れない母親の顔の菜々から、晴翔を受け取りつつ頬に口づける。「もう」そこに手を触れつつ、菜々は小さく手を振って外へと出て行った。「な、男同士うまくやろうな」晴翔を抱き上げると、キャキャと楽しそうに笑う。まったく、問題ない。その時は、本気でそう思っていた。と晴翔、ふたりだけの時間が、はじまる。 ……と思ったのも束の間だった。 「ふぇっ……ふぎゃぁああああ!!」 いつも聞いているつもりだったが、ひとりだとその声にビクッとしてしまった。「晴翔、どうした?」 小さな体が真っ赤になり、両手をばたばたと振り回している。俺の胸元で大暴れだ。 「……もしかして、ママがいないのが寂しいのか? それとも……ミルク?」 慌てて菜々子が用意してくれた哺乳瓶を手に取り、ミルクを温める準備をする
Last Updated: 2025-10-03
Chapter: Story21
それから、私は元気な男の子を出産した。名前は、よく晴れた日に生まれたことから「晴翔(はると)」と名づけた。「本当にかわいいな」「またそれ?」壊れそうなものに触れるような手つきで晴翔を抱く彼に、私はクスクスと笑い声をあげた。「もっと力入れても大丈夫だよ」そう言いながら、晴翔の手をキュッと握ると、少し表情をゆがめた。「いや、ほら、もっと優しいほうがいいって顔してる」そんなわけはない……そう思うけれど、仕事をこなしながら、こうして育児にも協力してくれる。健太郎さんは、まさによきパパだ。「違うよ、パパ。おむつ」「え?」「マジか」晴翔をそっとベビーベッドにおろすと、おむつを確認して健太郎さんは顔をしかめた。「やっぱりママにはかなわないな、晴翔」そう言いながら、手早くおむつを替えてくれる彼を、私はじっと見つめていた。「なに?」何か不手際があったと思ったのか、健太郎さんはもう一度おしり拭きに手を伸ばそうとする。「大好きだなって思っただけ」「え?」完全に油断していたのか、自分が私を甘やかすことは全然平気なのに、私からの言葉にはいちいち反応してくれる。今も、耳が赤くなっているのがわかった。今晩、覚悟してろよ」いきなり低くなった声に、私は「え?!」っと声を上げる。「もう、ドクターからも“いい”って言われたの、知ってるんだからな」そう、出産後、私たちはまだ体を重ねていない。育児に専念してきて、ようやく最近、少し余裕ができてきたところだ。私としても、ほんの少しだけ寂しさを感じていた。だから、彼の言葉がうれしくないわけじゃない。嘘ではないし、支障もないのだけれど……一気に形勢逆転した立場に、今度は私の顔が赤くなっていると思う。「あの、でも……久しぶりだしね」健太郎さんが「覚悟しろ」と言うときは、本当に手加減してくれないのだ。「晴翔、今日の夜はぐっすり眠ってくれていいからな」おむつを替え終え、晴翔を抱き上げると、健太郎さんが私のほうへと歩いてくる。「これは先払い」そう言って、私にリップ音を立ててキスをする。「もう、子どもの前だから!」少し怒ったように言った私だったが──もう一度、今度は私からキスをした。「さあ、今日はどこに行こうか。動物園もいいし、水族館もいいな」晴翔が生まれた日のような、真っ青な空を見上げなが
Last Updated: 2025-09-30
Chapter: Story20
この場を収めるだけかもしれないが、確かに今、「愛する」という言葉を言ってくれた。それだけで、私は十分だ。「瑠菜、彼は私の夫なの。諦めて」「お姉ちゃんのくせに、生意気よ!!」怒り狂う瑠菜を気にする様子もなく、謙太郎さんは不敵な笑みを浮かべた。「妻の実家ですので、仕事はきちんとさせていただきます。それでよろしいですね?」自らこの結婚を企て、向井家との縁を望んだ父だ。 謙太郎さんのその柔らかいが、圧倒的な威圧感に、父は「よろしくお願いします」とだけ答えた。瑠菜と継母は、その場に立ち尽くしている。「菜々、帰ろう」私の手を取り、謙太郎さんは振り返ることなく、その場を後にした。ふたりで車に乗り込み、何かを話さなければと思うが、それが見つからない。言葉を探しながら、運転する彼をそっと盗み見る。車は、どうやら家に帰る方向とは違うようで、私は不思議に思いながら窓の外を眺めていた。数十分ほど走って、都内の小さな教会の前に車が停まった。「降りて」促されるままに車を降り、目の前の木のぬくもりを感じるその建物を見つめる。その場所には見覚えがあり、懐かしさが込み上げてくる。「菜々、ここに来たことあるだろ?」「はい。大学のとき、よく……え?」大学からほど近いこの教会は、木々に囲まれていて目立たないが、静かで落ち着く空間だった。 私がとても好きで、ひとりでよく訪れていた場所だった。「これ、俺が一番最初にデザインした建物なんだ」――え?静かに歩いて近くまで行くと、謙太郎さんもその教会を見上げた。「あの頃、全然芽が出なくてさ。父の仕事を手伝うことに決めて……この仕事を諦めようと思って、この場所に来たんだ」その言葉を聞いた瞬間、ぼんやりとしていた記憶が急に鮮明によみがえる。「……あっ。あの時の?」一度だけ、泣きそうな表情でこの教会を見上げていた男性がいた。 その姿がとても切なくて、それでいてどこか美しく、私は思わず見惚れてしまった――そんな記憶。そんな私に、当時その男性が振り返ってかけた言葉。「この教会、好きですか?」大人びて自信にあふれる今の姿とは少し違っていたけれど、あのときの彼は――間違いなく、謙太郎さんだった。あの瞬間に出会っていたのだと、私はようやく気づいた。その時、私はこの教会について、かなり熱く語っていたことを思い出
Last Updated: 2025-09-17
Chapter: Story19
会議室を出ると、前から見慣れたスタッフが走ってくる。「菜々子さん、館内のチェックお願いできますか?」「え? きちんとできているんじゃないの?」「なんとか私たちでやってきましたが、やはり菜々子さんのようにはできなくて、少しお叱りを頂いたりしたんです」その内容に、彼女が悪いわけではない。勝手に出て行った私に非があるのだ。「少し待っていて」まだ敷地などを見て回ると言っていた彼を追いかける。そして、旅館の仕事を見てくると伝えると、彼は不安そうな顔をしつつも、渋々了承してくれた。私の後任として仕事をしてくれている彼女に指導しながら館内を歩き、花を生け直したり、慌ただしく過ごしていた。「あと、庭の剪定なんですが、庭師がここをどうしたらいいかと」広い見事な日本庭園をチェックし終わり、チェックイン時間が迫り戻っていた彼女と別れ、ひとりで見て回っていた。指示を出すところをスマホで写真を撮り、散策コースなども見て回り一息ついた時だった。ガサッと音がした気がして、その方へと歩いていく。そこはこの旅館の敷地の端で、散策の休憩場所として建てられている。隠れ家的な場所で、何か考えたい時などひとりでこっそりと来ていた。そんなあまり人が来ない場所にお客様かな、そう思いつつ、こっそりと見た時だった。「ッ」その光景に私は声が漏れてしまった。そこには、薄手のピンクのワンピースが半分脱げて、下着が見えそうになっている瑠菜が、男性と抱き合っていたからだ。その相手は私に背を向けているが、見間違うはずがない。「謙太郎さん……」小さな私のつぶやきを拾ったのは瑠菜で、彼の肩越しに私と目が合う。そして、怖いぐらい美しく微笑んだ。「私の方がいいでしょ?」その言葉に、私は駆け出していた。その時、かなり大きな音を立ててしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。「菜々!」私に気づいたのだろう。謙太郎さんの声が背後から聞こえたが、それを無視して来た道を戻る。今のシーンは、ずっと想像していたし、昔からよく見てきた光景だ。そのたびに、特に何も思わなかったし、何も感じず、「またか」と思っただけだった。――でも、今回は違った。張り裂けそうなほど胸が痛くて、これほどまでに彼を好きになってしまっていたことを知る。「菜々!! 待て! 走るな!」あのシーンを見たあと、
Last Updated: 2025-09-17
Chapter: Story18
「菜々、本当に無理をするなよ?」朝、起きてきていつも通り食事を作る私を、そっと抱きしめながら、謙太郎さんはそう呟く。「大丈夫です。つわりも今日はないんです」そう。あれから二か月が経ち、謙太郎さんの美術館の仕事が落ち着いたころ――体調があまりよくなかった私は、無理やり向井家と懇意にしている病院へ連れて行かれた。『おめでとうございます。もうすぐ三ヶ月ですね』先生のその言葉に、私は「どうしよう」と真っ青になったが、隣の謙太郎さんは私を抱きしめて、「嬉しい」と言ってくれた。――その言葉だけで。たとえ、愛されていなくても、私は彼と家族になれる。そう思って、私の中に新しく宿った命を、大切にしようと心に決めた。「それでもだ。あれから初めて実家に行くんだ。緊張やストレスは、やっぱりよくないんじゃないか?」やたら過保護で、私を甘やかしてくる彼に苦笑する。「謙太郎さんが言ってくれたんですよ。私も話に加わった方がいいって」「それはそうなんだが……。菜々のセンスは抜群だし、沙月亭を一番理解しているのも菜々だから……」自分自身に言い聞かせるように、謙太郎さんはそう言う。「わかった。絶対に、調子が悪くなったらすぐに言うこと」それを条件に、私は彼との同行を許可してもらった。もちろん――瑠菜と謙太郎さんが会うことに、不安がないと言ったら嘘になる。でも、もう私も逃げてばかりはいられない。「先生、ありがとうございます。菜々もよくやったな」“よくやった”――本当に私を何だと思っているのだろう。それに、こんなセリフは謙太郎さんに対しても失礼だ。相変わらずの父に、私は憮然としてしまうが、黙って無表情を貫いた。「それでは、まずコンセプトを確認させてください」会談などにも使われる広い会議室に、凛とした謙太郎さんの声が響く。家にいるときとは違う、仕事モードの彼は、どこか冷徹ささえ感じさせる。そんな空気をまといながら、父や他の役員の意見を手際よくまとめていく。広い敷地を開拓した一角――東京ドームが数個は入るその場所に、今よりも最上級のヴィラを建築するという計画。高い天井、ラウンジには三十人は座れる広さのテーブルとソファ。全面ガラス張りの高い窓は開閉式で、その前にはプールが広がる。今まで和が中心だった沙月亭だが、今回は完全にリゾートを意識した洋建築にした
Last Updated: 2025-09-17
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