徐に眼鏡を外すと、机の上に置く。
向かい合って立つ晴翔に、理玖は両手を広げた。
「さぁ、晴翔君。力いっぱい僕を抱きしめてくれたまえ!」
恥ずかしすぎて声が上擦った。
眼鏡を外したせいで晴翔の顔が全然見えない。故に今、どんな顔をしているのか、わからない。
ぼんやりと晴翔の手が近付いたのが分かった。
大きな手で顔を包み込むと、触れるだけのキスをする。
「晴翔君、今、キスは……んっ」
晴翔の腕が背中に回って、理玖の小さな体を抱きしめた。
「だって、無理。家でしか見ない眼鏡なしの可愛い理玖さんが白衣着て、俺に抱きしめてっておねだりしてるのとか、可愛すぎて、色々無理です」
重なる晴翔の頬が熱い。
甘い香りが濃く漂って、頭がぼんやりしてくる。
晴翔からaffectionフェロモンが放出されているのだとわかる。
抱きしめてくれる手も、掛かる吐息も、服が擦れるのすら気持ちがいい。
「理玖さん、フェロモンいっぱい出てる。俺、我慢できないかも……」
「それはダメだよ。僕もフワフワするけど。國好さんも栗花落さんも見てるから」
理玖は、ちらりと栗花落を窺った。
晴翔の顔が上がって、同じ方を向いた。
理玖と晴翔を冷静に観察していた國好が、栗花落に顔を向けた。
「どうだ? 何か感じるか?」
栗花落が首を傾げた。
「特に何も感じないっすねぇ。普通に向井先生と空咲さんがイチャついてるの、見せ付けられてるだけっていうか」
栗花落が困った声で笑う。
大変に恥ずかしい気持ちになって、理玖と晴
「Sky総研としても損害は避けたいですから。あ、國好さんたちに開示してもらった情報は話していませんよ。ただ、慶愛大で起きた事件を淡々と説明しただけです」 淡々と、堂々と、晴翔が念を押す。 事実かどうかは別として、理研が裏で後ろ暗い実験をしている噂は、研究者界隈では有名だ。事件について話しただけで、多少関わりがある者なら勘が働く。(そんな黒い研究所を買収しようだなんて、確かに大胆だとは思うけど。しかも相手は法人だっていうのに) 国立開発研究法人である理化学研究所は、研究の実施要求や理事長の人事など、政府が介入する権限を強く有する。 実際に買収が可能かと言えば、正直なところ現実的ではない。 買収を仕掛けて監査に持ち込むのが一番の目的だ。買収や監査ができなくても、どんな形でも内情を探る足掛かりさえつかめればいい。「祖父は省庁にそれぞれ友人がいるので、世間話は良くするそうですよ。ちなみに、Sky総研専務の俺の父は元文部科学省の官僚ですから、知り合いも多いんですよ。国が理研に降ろしている研究内容くらいなら、仕事の関係上、何となく聞けそうです」 ニコニコと晴翔が國好に笑いかける。(社長の方を親父、専務の方を父さん、て晴翔君は呼んでたな。どんな人か、早く会ってみたい) 専務の父さんがonlyだと言っていた。晴翔を産んだ人に、話を聞いてみたかった。 ちなみに専務の父さんの名前は『晴之介』というらしい。 父親の名前を一文字ずつ貰ってる晴翔の名前から、両親の愛情深さを感じる。 そんなことをぼんやり考える理玖とは裏腹に、國好が目を見開いて固まっていた。「Sky総研として理研を買収する準備はあるが、最終手段としては発破をかけて省庁側から監査を入れる準備もある、と。抜かりないですね。空咲さんのイメージが少し変わりました」 
「やっぱrulerは普通のWOとは違うんすね。狙われるわけだ。あ、悪い意味じゃないっすよ。悪用しようとする奴らが悪いに決まってるんで。ただ、向井先生は狙われる要素が詰まり過ぎてるとは、思いますけどね」 困ったように栗花落が笑う。 自分でもそう思うから、否定も出来ない。「積木君が、spouseになったotherは特別、という結論を得た場所ですが。心当たりは、かくれんぼサークル、Doll、RISE、宿木サークル以外だと、理研です」 國好が怪訝な顔をした。「DollとRISEの支持母体がRoseHouseなら、実験を降ろしているのは理研以外にない。降ろされた実験を行ったDollで得た結果、それを知っていたんじゃないかと思うんです」「Dollで得た結果?」 怪訝に繰り返す國好に、理玖は確信を持って頷いた。「Dollは元々、理研の内部では行えない非合法な実験や未認可の薬を臨床実験するための組織だったのではないでしょうか。WOの薬を実験する場合、性交は必須です。乱交や売春はその過程での副産物で、後に重要な収入源になったのだろうと思います」 國好の顔が引き攣った。「先生が話していた実験場とは、そういう意味ですか。確かにバックに理研がいるのなら、可能性は高い。折笠の私物として押収した、かくれんぼサークルで使用された薬剤などのデータが不十分である可能性も出てきますね」 理玖は組んだ指を組み直しながら頭の中を整理した。「不十分というより偽造であると、僕は考えています」 國好がガバリと顔を上げた。「折笠先生がRISEに殺されたのだとしても、自殺だったとしても、偽造したデータを警察に押収させなければ、死ぬ意味がないんです」
徐に眼鏡を外すと、机の上に置く。 向かい合って立つ晴翔に、理玖は両手を広げた。「さぁ、晴翔君。力いっぱい僕を抱きしめてくれたまえ!」 恥ずかしすぎて声が上擦った。 眼鏡を外したせいで晴翔の顔が全然見えない。故に今、どんな顔をしているのか、わからない。 ぼんやりと晴翔の手が近付いたのが分かった。 大きな手で顔を包み込むと、触れるだけのキスをする。「晴翔君、今、キスは……んっ」 晴翔の腕が背中に回って、理玖の小さな体を抱きしめた。「だって、無理。家でしか見ない眼鏡なしの可愛い理玖さんが白衣着て、俺に抱きしめてっておねだりしてるのとか、可愛すぎて、色々無理です」 重なる晴翔の頬が熱い。 甘い香りが濃く漂って、頭がぼんやりしてくる。 晴翔からaffectionフェロモンが放出されているのだとわかる。 抱きしめてくれる手も、掛かる吐息も、服が擦れるのすら気持ちがいい。「理玖さん、フェロモンいっぱい出てる。俺、我慢できないかも……」「それはダメだよ。僕もフワフワするけど。國好さんも栗花落さんも見てるから」 理玖は、ちらりと栗花落を窺った。 晴翔の顔が上がって、同じ方を向いた。 理玖と晴翔を冷静に観察していた國好が、栗花落に顔を向けた。「どうだ? 何か感じるか?」 栗花落が首を傾げた。「特に何も感じないっすねぇ。普通に向井先生と空咲さんがイチャついてるの、見せ付けられてるだけっていうか」 栗花落が困った声で笑う。 大変に恥ずかしい気持ちになって、理玖と晴
〇●〇●〇『向井君はなかなか俺に靡《なび》いてくれないね。結構、優しくしているつもりなんだけど』 新人の頃から一年くらいは、折笠も理玖にしつこかった。 理研の健診でonlyの性がバレてからは、殊更しつこくなって辟易していた。『恋人も愛人も、なるつもりはありませんから』 もう何度も繰り返している同じ言葉を、また繰り返す。『俺以外にも作る気はないの? キミを見ていると、勿体ないと思うな。もっと気安く遊んだらいいのに』 首筋を折笠の手が撫で上げた。 ねっとりした仕草に寒気がして、思わず手を振り払った。『すみません、つい……』 払われた手を撫でて、折笠が笑った。『潔癖というより、怯えているようだ。リハビリが必要なんじゃない?』 脳裏にレイプされた光景が蘇って、体が強張った。(セックスならロンドンでも何度もしてる。リハビリなんか必要ない。恋人だって、作ろうと思えば作れるんだ。作らないだけだ) そんな風に自分に言い聞かせた。『俺はnormalだから無駄に君を傷付けないよ。したくても、出来ない』 声音が変わった気がして、理玖は俯いていた顔を上げた。『離れられない程に傷付けて、どうしようもなく俺に縛られてほしくても、結局はotherに持っていかれちゃうからね。だから愛人は何人作っても全員大事にするのが信条なんだ』 さっきまでとは、言葉のニュアンスが変わって聞こえた。 まるで、縛り付けてでも欲しい相手が存在するよ
「それで、向井先生。折笠の事件、他殺で立証できそうですか?」 國好が眉間に皺を寄せて問う。 一見すると怒っているような顔だが、不安や心配がある時も眉間に皺が寄り易い人なのだと最近わかってきた。「PCに残っていた指紋は、折笠先生本人と佐藤さん、鈴木君だったんですよね」「検出した指紋はあと二人分ありましたが、メンテナンスで触れたシステム職員の指紋でした」 確認はしたものの、指紋については、理玖としても参考にはならないと思う。 同じように遺書も無意味だ。 折笠の遺書はWordで書かれた文章が開いたままになっていたらしい。「PCの遺書は偽造で間違いないと思います。最悪、どこかの文章をコピペしても作れる。一文字ずつコピペを繰り返せば自分で文章を作れる。キータッチする必要すらない。タッチペンでキータッチして文書作成してもいいですしね」 キーボードに指紋や痕を残したくないなら、マウスだけ使用すればいい。 痕跡をなるべく残さないなら、ワイヤレスではなく有線のマウスを使用して持ち返れば、Bluetoothなどの足跡も残らない。 タッチペンを使えばペンの物紋は残るだろうが、そのペンから犯人を辿るのは不可能だ。「どっちにも、できちゃうんですよね」 理玖の呟きに、國好が困った顔で首を傾げた。「自殺でも、他殺でも、どっちでも立証できちゃう、曖昧な感じなんですよ。曖昧というか、両方だったのかなって、思い始めました」「両方、ですか?」 國好が戸惑った声を出している。「臥龍岡先生が自分を殺そうとしていると気が付いた折笠先生は、あえて抵抗せず作戦に乗じた。カフェインを含む飲料を多めに摂取し、促されるまま興奮剤を煽り、定時のサプリを内服した。むしろ利用さ
「でも、臥龍岡先生が折笠先生の愛人なら、鈴木君は……。二人はお互いが折笠先生の愛人だって、知っていたんでしょうか?」 さっきから晴翔の顔が引き攣っている。 きっと晴翔にとっては理解できない次元の内容なんだろう。「折笠先生に複数の愛人がいるのは理研の頃から有名だけどね。お互いが知っていたかは、わからないけど。少なくとも臥龍岡先生は知っていたんじゃないの? じゃないと、鈴木君を利用できない」 さらりと言ってのけた理玖を眺めて、晴翔が信じられない顔をした。「それって鈴木君を恨んでたから利用したんですか? それとも、いっぱい愛人作る折笠先生が憎くなって殺しちゃった?」 晴翔の発想がどろどろの愛憎劇に傾きかけている。「むしろ、臥龍岡は本気で折笠を愛してはいなかったんじゃないでしょうか? RISEのリーダーとしてDollのリーダー折笠の懐に入り殺害するための愛人偽造では?」 國好の解釈も國好らしいというか、大変作為的だ。「栗花落さんは、どう思います?」 どうせなら全員の意見を聞いてみようと思った。 突然、話を振られて栗花落がビクリと背筋を伸ばした。「俺っすか? んー、どうだろうなぁ……」 栗花落が困った顔で笑う。 その顔が引き攣っているように見えた。 ひくりと変な呼吸をしたように見えたが、呼吸を飲み込んで、栗花落が口を開いた。「……純文学の作家さん、っすよね……。愛しているから殺した、みたいな話っすかね。臥龍岡がRISEなら上からの命令も、あったでしょうけど。殺したら自分だけの存在になる、みたいな感じ、とか?」 晴翔と國好が二人揃って同じように不可