LOGIN押し入れの奥や引き出しの裏、クローゼットのデッドスペースなど、直樹の目が決して届かない場所からの荷物の移動は、誰にも気づかれることなく着々と進んでいた。
しかし、リビングやキッチンといった日常の表舞台は、昨日までと何一つ変わらない風景を保っている。ソファーには整然とクッションが並び、ローテーブルの上には観葉植物の緑が涼しげに佇む。一見すると、どこにでもある穏やかで幸福な家庭の日常そのものだ。 でも、その実体は中身の完全に抜け落ちた「ハリボテ」。 表向きだけを綺麗に取り繕い、中身はスカスカで冷え切っているこの部屋の様子は、まるで私と直樹の数年間の結婚生活をそのまま鏡で映し出しているようだった。 (……私、一体何のために、この人と暮らしてきたんだろう) 不意に胸の奥を刺すような、鈍い悲しさと強い虚しさがこみ上げてくる。 直樹はずっと、私のことを「家でゴロゴロ過ごしているだけの専業主婦」と決めつけ、見下し続けてきた。私が家の中でどれだけ立ち働き、細やかに環境を整えていても、「遊びみたいなもんだろ」「主婦の気休め」と鼻で笑い、私の行いを労働として尊重することは一度たりともなかった。 彼にとって、湯気立つ温かい夕飯は決まった時間になれば自動でテーブルの上に湧き出てくるものであり、脱ぎ捨てた汚い服は洗剤を入れるだけで勝手に綺麗になり、気づけば綺麗に折りたたまれてタンスの引き出しに収まっているものなのだ。 そのシステムを動かすために注がれた私の手間や時間なんて、彼の世界には最初から存在しない。 思い返せば、数年前のコロナ禍の時期も本当にひどかった。 直樹がリモートワークで連日家に居座っていた期間、彼は「俺は家で仕事をしているんだ」という大義名分を盾にして自室から一歩も出ず、家事の手伝いどころか自分の食べた皿一枚下げることすら拒んだ。朝昼晩と三食の準備を押し付けられ、一日中彼の機嫌を伺いながら家事と消毒に追われる私を、彼はパソコンの画面越しに横目で冷たく見下ろすだけだったのだ。 あの時からずっと、この家は私にとって心を休める温かな我が家などではなく、たった一人で耐え忍び戦い続ける孤独な職場だった。 (……悲しむ必要なんて、最初から一ミリもないわね) 深く、ゆっくりと息を吐き出し、胸の奥にこみ上げかけた甘い情を冷たい意志で徹底的に押しつぶす。中身が空っぽのハリボテなら、外側から少し衝撃を加えるだけで崩れ去るのも一瞬だ。 引き出しの奥に残っていた最後の私物をポーチにまとめながら、私は直樹が帰宅する夜の時間を静かに待ち続けた。 ◇ その日の夜。リビングのソファーに深々と腰掛け、テレビのバラエティ番組を流し読みしていた直樹が、思い出したようにスマートフォンを操作しながら口を開いた。 「あ、そうだ真尋。お前、明日の昼間ヒマだろ? おふくろの家行って、掃除と洗濯やってきてよ」 ソファーの横で静かに立っていた私は、一瞬だけ耳を疑った。 「お義母さんの、おうち?」 「そうだよ。おふくろ、最近腰が痛いって言ってたろ。お前は毎日家でゴロゴロ過ごしてるだけの専業主婦なんだから、それくらい親孝行として当然だろ? 嫁としての務めを果たせっての」 「暇」「ゴロゴロしているだけ」と頭から決めつけ、当然のような顔をして自分の親の介護代わりを私に押し付けてくる。 直樹はこれでも「親思いの優しい息子」を演じているつもりなのだろうが、私から見ればただのド級のマザコンだ。昔はこんな言動すら「家族を大切にする人」と好意的に受け止めていた自分が心底恐ろしい。本当に、私の人生最大の黒歴史だ。 「……分かったわ。お義母さんにも連絡しておくわね」 「おう、気の利く嫁で助かるわ」 私が素直に頷くと、直樹の手元でスマートフォンがピコンと短い通知音を鳴らした。画面をチラリと確認した直樹の口元が、一瞬だけだらしなく緩むのを私は見逃さなかった。 「あー、明日も急な残業が入ったわ。帰りは遅くなるから、飯はいらない」 「そう。お仕事、大変ね」 「まあな。俺レベルになると付き合いも多いんだよ」 直樹はソファーから立ち上がると、スマートフォンを握りしめたまま逃げるように洗面所へと向かった。彼がすれ違いざまに残していった空間には、ほのかに甘いレディース香水の匂いと、隠しきれていない安酒の気配が嫌な熱を帯びて漂っていた。 残業、ね。 私は冷め切った眼差しでその背中を見送りながら、自室へと戻り、ノートパソコンの暗号化ファイル『脱出準備リスト』を開いた。そして、『不貞調査の進捗確認』の項目の横に、静かにチェックを入れた。かつて掃除や洗濯を完璧にこなしていた私に向かって、「主婦は気楽でいいよな」「世の中の厳しさが分かっていない」とモラハラ発言を繰り返していた元夫の直樹。現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。 私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。 そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。 「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」 私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。
現在直樹とその母親が住んでいる家は、私が祖母から相続したものだ。そこに直樹が居座っていた。このままにしていたら当然のようにずっと住み続けてしまう。私としても思い出ができてしまったので、取り返してももう住めない。建物も古くなっていたし、思い切って取り壊して売ってしまうことにした。そして、取り壊し当日の朝。 元の我が家の前に到着した私は、思わず呆れ果ててしまった。 今日が家の解体日だというのに、直樹と義母は家の中から荷物の運び出しすらしていなかったのだ。 私が脱出した際、私名義の家具や家電はすべて引き揚げて売却したため、家の中は完全にもぬけの殻だったはずだ。けれど、そのままでは生活ができないからと、彼らは義母の乏しい老後の貯蓄を取り崩し、一人暮らし用の小さな冷蔵庫や洗濯機、電子レンジなどの最低限の家電を買い揃えていたらしい。 だが、勝てるはずもない案件で弁護士費用を無駄に使ってしまったため、義母の貯金はすでに底をついていた。引っ越し業者を頼むお金も、次に住む物件の契約資金すら残っていなかったのだ。 やがて、重々しいエンジン音を響かせて、大型の重機が現場に運び込まれてきた。 現場に立つ私の姿を見つけるやいなや、直樹と義母は「チャンスだ」とばかりに目を血走らせ、私の前に立ちはだかった。 「真尋! 頼むから工事を止めてくれ!」 何を言っているのか。もう、業者さんも来ているのに止まるわけがない。「俺たちを笑いに来たのか! 家がなくなったら本当に住むところがなくなるんだぞ!」私はある意味、笑いに来たのかもしれない。別に来なくても解体作業は業者さんがやってくれる。目の前で泣き言を言う直樹の言葉を浴びながら、私は口元が緩んでいかもしれない。 開口一番、自分たちの身勝手な都合と一方的な希望だけをまくし立てる元夫。 隣に立つ義母も、これまでの嫁いびりやモラハラをなかったことにしようと、必死に醜い言い訳を並べ立てる。 「そうよ真尋さん! 私はね、あなたが可愛かったからこそ佐伯家のやり方を教
数日後、直樹はあろうことか自前の弁護士を引き連れて、再びこちらの弁護士事務所へと乗り込んできた。前回あんなに惨敗したというのに、隣に味方の弁護士を従えているせいか、その表情には隠しきれないドヤ顔が浮かんでいる。(弁護士を連れて相手の事務所に乗り込むなんて、着手金だけでも二〇万から三〇万……こんな勝てる見込みのない無謀な案件なら、下手したら五〇万近く請求されているはずだけど……どこからそんなお金を?)不審に思ってスマートフォンを確認すると、ブロックを解除していた義母から頭の痛くなるような長文メッセージが届いていた。『弁護士先生にたっぷりお金を払ったわ! あなたから「慰謝料」と「養育費」と「遺産分配」を根こそぎぶんどってもらうんだから! 覚悟しなさい!』メッセージを読みながら、私は思わず天を仰いだ。 私が何をしたから「慰謝料」が発生するというのか。子どももいないのに「養育費」とは一体誰を育てる費用なのか。直樹の「養育費」とでも言いたいのだろうか。「遺産分配」に至っては冗談としか思えない。誰が死んだというのだ。まさか私? 勝手に殺さないでほしいのだが、仮に今私が死んだとしても、すでに他人である直樹の手には一円だって渡らない。こんな常識も言葉の意味も知らない連中に「佐伯家の味を覚えていない」「掃除の仕方が間違っている」と威張り散らされていたのかと思うと、怒りを通り越して惨めさと哀れみが込み上げてくる。対面に座った相手の弁護士が、咳払いを一つして高圧的に書類を叩いた。「朝比奈真尋様。我が依頼人は、あなたが小説執筆で得た多額の収益につ
弁護士事務所の重厚な応接室。 対面に座る直樹は、怒りと焦りで顔を真っ赤にし、テーブルを叩く勢いで身を乗り出してきた。「俺には金がないんだよ! お前が通帳も金も全部持って行ったからだ! これは違法だろ! 生活費を返せ!」まじめな顔をして叫ぶ元夫を前に、私はピクリとも動かず、ただ冷ややかな視線を向ける。弁護士さんからの事前の指示通り、私は一言も発しない。私が直接言葉を交わす価値など、この男にはないのだ。私のかたわらに座る担当弁護士が、静かに眼鏡の奥の目を光らせ、書類に目を落としたまま淡々と口を開いた。「佐伯直樹様。生活費とおっしゃいますが、あなたの給料はずっと手取り十万円ほどですね。保険会社に入社された初年度だけ、月給三十五万円という時期が一年間ほどあったようですが……直樹様がご覧になった通帳は、すべて朝比奈真尋様の口座となります」「は……? じゃあ、俺の年収は百二十万円くらいしかないってことかよ!?」「そうなりますね」「おかしいだろ! 真尋はただの主婦だぞ! 家事だってやってたのに、そんなに収入があるはずがない!」直樹の支離滅裂な叫びに、弁護士はフッと小さく口角を上げた。「朝比奈様は書籍を何冊も出版されているプロの小説家です。佐伯様の『労働収入』とは違い、著作権に伴う『権利収入』ですので、労働時間と収益は比例しません。朝比奈様ご個人の年収は、年間で一千万円を超えております」「む、難しいこ
脱出から少し時が流れ、私は新居のアパートで穏やかで平和な日々を送っていた。自分のペースで仕事をこなし、誰の機嫌を伺うこともない静かな時間。そろそろ、あの家では本当の「地獄」の幕が上がっている頃だろう。直樹の勤める保険代理店は、入社一年目こそ高い固定給が保証されているが、二年目からは完全歩合制へと移行する給与体系をとっている。だから、彼の給料はすでに激減しているはずだ。そもそも、直樹は一度だって年収一千万円に到達したことなどない。それなのに、なぜ彼が「俺は年収一千万円だ」とドヤ顔で語っていたのかといえば——そこには呆れるほど愚かな勘違いがあった。かつて私が自分の会社の口座と収支を確認していた際、「これなら年収一千万円に行くペースね」と呟いたことがあったのだ。私の仕事や収入を「主婦の気休め」「遊び」とバカにしていた直樹は、その言葉をあろうことか『俺の稼ぎで我が家の年収が一千万円に行く』のだと脳内変換し、自分が一千万円プレイヤーになったと錯覚したのである。他人の稼ぎを自分の手柄と思い込み、胸を張っていたのだから、おめでたいにも程がある。実際のところ、完全歩合制になった今の彼の給料は、手取りで約十万円程度まで落ち込んでいるはずだった。そこに転がり込んできた義母の年金が月々約七万円。二人合わせた世帯収入は月十七万円程度だ。無駄遣いをやめて節約すれば二人で細々と暮らしていくことは可能かもしれないが、あの直樹に「生活レベルを落とす」なんて芸当ができるわけがなかった。今までの癖で電気は四六時中つけっぱなし、暑がりだからとエアコンは設定温度を極限まで下げて二十四時間フル稼働。ドアは開けっ放しで冷気を逃がし、お風呂にもダラダラと長居する。さらに、これまで家事をすべて引き受けていた私が抜けたのだ。義母の作る大雑把で偏った料理に直樹が満足できるはずもなく、洗濯くらいはできても、腰が痛いと言っている義母に広すぎる家全体の掃除が行き届くはずもない。荒れ果てたゴミ屋敷の中で、跳ね上がる電気代と水道代の請求書に頭を抱えている姿が目に浮かぶようだった。
『真尋、俺が悪かった。やり直そう』『君がいないと、この家は冷たいんだ。やっぱり俺には君が必要なんだよ』『一度ゆっくり話し合おう。二人でやり直せるなら、俺は何だってする』スマートフォンの画面に次々と表示されるメッセージに、私は思わず呆れ混じりの溜め息をついた。弁護士からの受任通知が届いたというのに、直樹は未だに事態の深刻さを理解していないらしい。それどころか、あんなに上から目線でモラハラを連発していた男が、今さら急にしおらしくなって「君が必要だ」「やり直そう」などと気持ちの悪い「ロミオメール」を連日送りつけてくるのだ。自分の世話をしてくれるタダの家政婦がいなくなって困り果てたのか、あるいは暗闇の家で寂しさに耐えかねたのか。どちらにせよ、そこに私への本当の愛情や反省など一ミリも存在しない。(……本当に、こんなマザコン男を運命の人だと思い込んで結婚したなんて、私の人生最大の黒歴史だわ)一読して背筋が凍りつくような不快感を覚えた私は、一切の躊躇なく通知を消去し、彼の連絡先を完全にブロックした。自分の愚かな過去を一つずつ清算していく感覚は、驚くほど晴れやかで爽快だった。風の噂……というか、弁護士経由の報告によると、直樹はどこかで知恵をつけてきたらしく、停止していた電気、水道、ガスのライフラインを自分名義で再契約したらしい。 暗闇と猛暑の部屋で義母と途方に暮れるのに耐かねて、慌てて手続きをしたのだろう。「ふふ、別にいいのよ。好きなだけ再契約すれば?」新居のベランダで風に当たりながら、私は冷ややかに呟いた。 どうぞ、どうぞ。電気も水も思う存分使えばいい。本当の「地獄」がやってくるのは、これからなのだから。◇そして、脱出から一ヶ月が過ぎた頃。直樹は自宅で、あるいは銀行のATM前で、狂ったように頭を抱えて叫んでいるはずだ。「なんだよこれ……!? 金がまったくないじゃないか! 全部持っていったのかよ!?」そう、彼は今頃