私は佐伯真尋、三十ウン歳。 時間は深夜一時。静まり返ったキッチンの暗闇の中、私は足音を殺して冷蔵庫の扉をそっと開けた。薄明るい庫内灯が、ガランとした冷たい空間を淡く照らし出す。 (よし……計画通り) ついつい無言で口元にニヤリと笑みが浮かんだ。 買い溜めていた冷凍食品はここ数週間で少しずつ消費し、冷凍室は完全に空っぽの状態。 霜取り掃除も済ませておいたので、実に都合がいい。野菜室に転がっているのも、使いかけのニンジンが一本と、日持ちする玉ねぎがひとつだけだ。 ちなみに、これは念のときのために残していたもの。 ドアポケットに並べた缶ビールが三本と、チューブの調味料、醤油、白だし、バター。生活感を極限まで削ぎ落としたこの変化に、夫の佐伯直樹はまったく気づいていない。 彼は自分が飲むビールと、目の前に出される料理以外、冷蔵庫の奥なんて一度も覗いたことがないのだから。 自室に戻り、扉を静かに閉めてからノートパソコンを開く。暗号付きのファイル『脱出準備リスト』を立ち上げ、画面を鋭い目で見つめながら項目をひとつずつ指で確認していった。 ・自分名義の貯金通帳、印鑑 ・身分証明書 ・手元の現金 ・仕事用パソコン、スマホ、充電器 ・絶対に捨てられない最小限の衣類と貴重品 「……よし、抜けはないわね」 忘れてはいけないものだから。 画面を見つめながら、小さく息を吐き出す。派手な喧嘩も怒鳴り合いも要らない。ただ淡々と、この家から「私」という存在を少しずつ削り取っていく。それが、私の選んだ逃亡計画だった。 急な思いつきじゃない。構想は何年もかけてだった。準備もちゃくちゃくと進めていた。 思い起こせば……出会いは、友人たちと参加した料理系の合コンだった。 エプロン姿で手際よく包丁を握る直樹は、参加者の中で誰よりも爽やかで、周囲への配慮が行き届く魅力的な男性に見えた。 「俺、家族に美味しいものを食べてもらうのが好きでさ。母親を一番に大切にできない男は、将来の奥さんのことも大切にできないと思うんだよね」 照れくさそうに語る彼の横顔に、当時の私は「なんて誠実で素敵な人だろう」と本気で感動していたのだ。 デートの時も完璧で、車
Last Updated : 2026-09-07 Read more