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カップの熱さに気づくとき

Auteur: 中岡 始
last update Dernière mise à jour: 2025-08-02 19:15:46

オフィスの給湯スペースに、静かな蒸気音が漂っていた。紙コップに落ちるコーヒーのしずくが、小さく跳ねて弾ける。午後六時を過ぎて、窓の外はすっかり暗くなっていた。照明の白さが、人工的な静けさを際立たせる。人影はまばらだが、まだ誰も完全には帰れない空気があった。

森は、白い紙カップを手に取りながら、何度も口を開きかけては閉じていた。コーヒーの香りが鼻をくすぐっているはずなのに、味は想像できなかった。心臓の鼓動が、耳の奥でくぐもって響いている。傍らに立つ小阪は、資料を抱え、どこか疲れた様子で斜めに立っていた。眉間の皺はないが、集中しすぎるような無表情。顔を向けられてもいないのに、森の目は自然とそこに吸い寄せられる。

「……あ、どうも」

小阪はコップに目もくれず、ただ挨拶のかたちだけを投げて、すぐにまた資料に目を落とした。声に温度がなかったわけではない。ただ、そのあとに続くべき会話の余地を、あえて残さなかっただけだ。

森は紙カップを持ち上げる。その手の甲がわずかに震えているのを、自分で自覚する。熱い、と指先が思っているのに、握る手には力が入るばかりだった。

「なあ、今夜……ちょっとだけ、時間ある?」

言ったあと、すぐに胸の奥がざわつく。言葉は、思ったよりも落ち着いた調子だった。だが語尾が、不自然に揺れていたのを、自分ではっきりと感じてしまう。ごまかすように、口元を小さく緩めたが、それもすぐに引っ込める。

小阪はゆっくり顔を上げた。目は伏せ気味で、表情はほとんど読めない。「……今日、ですか」

その口調に拒絶はなかった。むしろ、一瞬だけ驚いたような空気さえ混じっていた。だが、わずかに唇が歪みかけたところで、それは無言のまま真顔に戻った。

「うん、もしよかったら……飯とか、そんなたいそうなんじゃなくて、ちょっと、話せたらと思って」

森はそう続けながら、目を合わせるのが怖くなっていた。正面から向き合えば、きっと自分の表情の裏にある期待や焦りが見透かされる。小阪にだけは、それを知られたくなかった。けれど同時に、見抜いてほしいとも思っていた。

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