鏡の中の自分の姿を、小阪はまっすぐに見つめていた。何の飾りもなくなった左耳が、朝の淡い光を受けて、わずかに赤く染まっていた。さっきまでそこにあったピアスの存在は、指先に残る感触として、確かにまだ彼の中にあった。けれど、耳元の重みはもうない。代わりに残っているのは、ほんのりとした熱と、過去から剥がれ落ちていく音のしない気配だった。
河内の手は、まだそっと宙に浮いたままだった。外したばかりのピアスを握ったまま、どうすればいいか迷っているのが、その微細な指の揺れから伝わってきた。彼は鏡越しに小阪を見つめ、何かを言おうとするように口を開きかけたが、すぐに閉じた。言葉では足りないことを、彼自身がもう知っていたのだろう。
小阪はまぶたを閉じた。河内の視線を受け止めるのが、少しだけ怖かったのかもしれなかった。けれど、それ以上に、この静けさを信じたかった。呼吸をひとつ、深く吸い込む。肺の奥まで澄んだ空気が満ち、過去に囚われたままの感情が少しずつほぐれていくのがわかる。
河内の手が動いた。迷いを断ち切るように、小阪の耳たぶにそっと近づき、唇を寄せた。そこにあったのは、音のない、けれど限りなく優しいキスだった。触れた瞬間、小阪の肩がわずかに震える。そこにはもう痛みはなかった。ただ、長い間誰にも触れられなかった場所に初めて触れてもらったという、安堵のようなものが広がっていた。
キスは一瞬だった。けれど、それは言葉よりも確かに、深く心に残るものだった。ありがとう。愛してる。全部言葉にしなくても、その一瞬の感触が伝えてくれていた。音ではなく、温度で交わされた感情が、鏡の中に静かに溶けていく。
まぶたを開いた小阪と、河内の視線がまた交差した。鏡の中で、それぞれの表情が重なる。小阪の瞳の奥には、まだ消えきらない不安も揺れていたけれど、そこには確かな光が宿り始めていた。河内の瞳は、そんな彼を一瞬も逸らすことなく見つめていた。
「……なあ」河内が低く、けれど優しく口を開いた。「これからは、そんなん全部…言わんでも伝わるように、したいと思ってる」
小阪は答えなかった。ただ、ほんの少し唇の端を緩めた。それだけで、河内は十分だった。言葉より先に、こうして気持ちが
鏡の中の自分の姿を、小阪はまっすぐに見つめていた。何の飾りもなくなった左耳が、朝の淡い光を受けて、わずかに赤く染まっていた。さっきまでそこにあったピアスの存在は、指先に残る感触として、確かにまだ彼の中にあった。けれど、耳元の重みはもうない。代わりに残っているのは、ほんのりとした熱と、過去から剥がれ落ちていく音のしない気配だった。河内の手は、まだそっと宙に浮いたままだった。外したばかりのピアスを握ったまま、どうすればいいか迷っているのが、その微細な指の揺れから伝わってきた。彼は鏡越しに小阪を見つめ、何かを言おうとするように口を開きかけたが、すぐに閉じた。言葉では足りないことを、彼自身がもう知っていたのだろう。小阪はまぶたを閉じた。河内の視線を受け止めるのが、少しだけ怖かったのかもしれなかった。けれど、それ以上に、この静けさを信じたかった。呼吸をひとつ、深く吸い込む。肺の奥まで澄んだ空気が満ち、過去に囚われたままの感情が少しずつほぐれていくのがわかる。河内の手が動いた。迷いを断ち切るように、小阪の耳たぶにそっと近づき、唇を寄せた。そこにあったのは、音のない、けれど限りなく優しいキスだった。触れた瞬間、小阪の肩がわずかに震える。そこにはもう痛みはなかった。ただ、長い間誰にも触れられなかった場所に初めて触れてもらったという、安堵のようなものが広がっていた。キスは一瞬だった。けれど、それは言葉よりも確かに、深く心に残るものだった。ありがとう。愛してる。全部言葉にしなくても、その一瞬の感触が伝えてくれていた。音ではなく、温度で交わされた感情が、鏡の中に静かに溶けていく。まぶたを開いた小阪と、河内の視線がまた交差した。鏡の中で、それぞれの表情が重なる。小阪の瞳の奥には、まだ消えきらない不安も揺れていたけれど、そこには確かな光が宿り始めていた。河内の瞳は、そんな彼を一瞬も逸らすことなく見つめていた。「……なあ」河内が低く、けれど優しく口を開いた。「これからは、そんなん全部…言わんでも伝わるように、したいと思ってる」小阪は答えなかった。ただ、ほんの少し唇の端を緩めた。それだけで、河内は十分だった。言葉より先に、こうして気持ちが
部屋のなかには、電子音もテレビのノイズもなかった。まるで外界と切り離されたような静けさだった。窓の外では、冬の朝の光が淡く差し込んでいる。カーテン越しの陽射しが、床の一角をゆっくりと照らしていた。テーブルの上には、河内が入れたばかりのコーヒーがある。湯気はもう薄れ、口をつけられぬまま冷えていく。対して、小阪の手元には何もなかった。ソファから立ち上がって窓辺に向かい、それきり動かない。背を向けたままの小阪の姿は、どこか夢の中の人のようで、輪郭が霞んで見えた。河内は、ただ見つめていた。何か言わなければと思いながらも、喉の奥に引っかかるものが重くて、声が出ない。声にしてしまえば、この静寂を壊してしまいそうだった。あるいは、壊れるのが怖かったのかもしれない。小阪の肩が、かすかに動いた。ゆっくりと左手が上がり、耳元へと触れる。濡れた髪はすでに乾いていて、肌にかかる前髪が朝の光に揺れる。指先が触れたのは、左耳のピアスだった。その動作は、自然なようでいて、どこか意味を含んでいた。問いかけのようでもあり、ためらいのようでもあり…いや、むしろ意志の現れだったのかもしれない。河内の胸の内に、見えない何かが張り詰めていく。沈黙は、きしむほどに重かった。言葉一つ発すれば、どちらかが崩れてしまう気がして、河内は息を飲んだまま動けなかった。小阪がゆっくりと振り返る。その目は、驚くほど穏やかだった。怒りも悲しみもない。ただ、何かを受け入れる準備を済ませた人間の顔だった。そこには「泣き尽くした夜」を越えた静けさがあった。「……外して。これ」小さな声だった。だが、その音は部屋の隅々までしっかりと響いた。問いではなかった。命令でもなかった。ただ、委ねるような、差し出すような、そんな響きだった。河内は息を呑んだ。すぐには動けなかった。心のどこかが、強く揺れた。こんなふうに、小阪から何かを“頼まれる”ことがあるとは思っていなかった。彼はいつも、自分で閉じ、自分で背負ってきた人だった。誰にも頼らず、痛みすら誰にも見せなかった。その彼が、今、自分に「外して」と言った。
ベランダの空気は、まだ湿り気を含んでいた。雨上がり特有の匂いが、どこか懐かしく肺を満たす。手すりに触れた指先に、残っていた水滴がひとしずく、肌の温度に触れながら滑り落ちた。ふたりのあいだにある空白は、もはや気まずさではなく、呼吸の余白になっていた。小阪は静かに煙草を持ち上げる。フィルターの向こう側には、赤く灯った火がまだ息づいている。唇に咥え、ゆっくりと吸い込んだ煙は、深く喉の奥まで熱を連れていった。吐き出す瞬間、小阪は視線を横にずらす。河内がすぐそばにいた。肩がほんのわずかに触れ合う距離。目の前にある体温と、肌の気配。そして、煙。小阪は口の端を少しだけ上げると、軽く顎をあげて、ふうっと煙を河内のほうへ吹きかけた。朝の空気に溶けていく白い煙。その向こうに、河内の目元が、微かに細められるのが見えた。「ほら、吸う?」冗談のように、でもどこかくすぐるような口ぶりで言いながら、小阪は手にしたタバコを差し出した。フィルターの端は、さっきまで自分の唇が触れていたところ。差し出す手に迷いはなかった。けれど、その動きには確かな“意味”が込められていた。河内は一瞬、ほんのわずかに目を見開き、それから小さく笑って、何も言わずにそのタバコに口を寄せた。フィルターに唇が重なり、煙を吸い込むと、タバコの先がふたたび赤く光る。唇の湿り気が、ほんの一瞬、タバコ越しに伝わった。それはキスではなかった。けれど、直接のキスよりも、ずっと濃密なものがそこにあった。「……朝からやらしいわ」河内がぽつりと呟く。その声は笑っていたが、どこか照れ隠しのようでもあった。そのまま、小阪の髪にそっと手が伸びる。濡れた前髪を優しく払うように、指先が額の生え際をなぞった。小阪はその手を避けることもなく、されるがまま、穏やかに受け入れた。そして目を伏せてから、空へと視線を上げた。「別にええやん」その言葉は、反論でもなく、挑発
タバコの箱に触れたとき、何か特別な意味を持たせようとしたわけじゃなかった。ただ、その形が視界に入った瞬間、手が自然と動いていた。ベランダの片隅、灰皿のそばに無造作に置かれたセブンスター。角が少し潰れたその箱は、河内がいつもポケットに入れていたものだ。中指と人差し指で、一本をそっと引き抜く。指に馴染む重さと紙の手触りが、懐かしい記憶を呼び起こす。もう何年も、こうしてタバコを吸うことからは距離を置いていたのに。ライターを手に取る。マッチの代わりに河内が使っている、銀色の古いジッポ。蓋を開けると、金属の軋む音が小さく響いた。火花が弾け、青白い炎が瞬いた。タバコの先端をその火に近づける。吸い込むと、細く赤く光る。煙を口に含み、肺へと流し込む。その一瞬、頭の奥がじんわりと痺れた。胸の奥に重たい熱が広がる。吐き出した煙が、朝の冷たい空気に溶け込んでゆく。小阪は目を細めて空を仰ぐ。雲がまだ残る灰色の空。けれど、どこかで陽の光が輪郭を滲ませている。吐息のような煙がもう一度、細く長く立ちのぼる。火をつけたその瞬間から、小阪のなかで何かが変わっていた。逃げ場としてのタバコじゃない。誰かの代わりでも、誰かに見せつけるためでもない。ただ、自分の意思で、選んで火をつけた。その煙が、ようやく自分の胸の内と繋がったような気がした。「よう似合うな、俺より」背後から聞こえた声は、低く、少しだけ掠れていた。振り向かなくても、それが河内の声だとすぐにわかった。小阪はベランダの手すりに背を預けたまま、ほんのわずかだけ肩を上げる。河内はTシャツ姿のまま、寝癖もそのままの髪でベランダに立っていた。手には何も持っていない。タバコも、飲み物も。目元に少し眠気を残しながら、小阪を見ていた。「そうか?」ぽつりと返す。声に感情を乗せるのが、少しだけ恥ずかしかった。言葉よりも、煙のほうがよほど雄弁だった。小阪がもう一度、タバコを咥えてゆっくり吸い込む。肺の奥に熱が届く感覚が、河内との距
小阪が目を覚ましたとき、部屋はまだぼんやりと夜と朝の間にあった。カーテン越しに射し込む光は、真昼のような強さではなく、どこかやわらかで曖昧な色をしている。まぶたをゆっくりと開け、ぼやけた視界の中で天井をしばらく見つめていた。布団の端に腕を伸ばすと、まだ河内の体温がわずかに残っている。自分の肌の奥には、昨夜の熱がしっかりと刻まれていた。そのまま静かにベッドを抜け出す。河内を起こさないように、足音を忍ばせて洗面所へ向かう。鏡のなかに、見慣れたはずの自分の顔。昨夜より少しだけ、唇の端が上がっている。冷たい水で顔を洗い、髪を手ぐしで整える。目の下のクマが薄い。眠気と安堵が同居する、どこか現実感のない朝だった。Tシャツを引っかけて、キッチンでグラスに水を注ぐ。口の中をゆすぐように一口、もう一度ゆっくりと飲み込む。ベッドのほうを振り返れば、まだ眠っている河内の寝顔が見える。寝癖のついた髪と、静かな横顔。心臓が、ぽつりと音を立てる。窓辺へと歩み寄る。裸足の足の裏に、フローリングのひんやりとした感触が心地よい。ベランダのガラス戸を開けると、湿った朝の空気が流れ込んできた。昨夜降った雨の名残が、手すりや床にまだ残っている。空は曇りがちだが、どこか晴れ間の気配もある。一歩外に出る。湿気を含んだ空気が足の裏に絡む。グレーがかった空を仰ぎながら、深呼吸をする。雨上がりのにおいが鼻の奥に沁みる。手すりに両手を置き、静かにため息をついた。胸の奥には、まだ火照りのような熱が残っている。それは、夜の名残でもあり、たしかな幸福でもあった。無理に朝食を作ろうとも思わない。ただ、今はこのまま、少しだけ静かな朝を味わいたい。ふと横目でガラス戸の向こうを覗くと、ベッドの上の河内が見える。寝返りをうった彼の首筋が、シーツの影に白く浮かんだ。自分が河内の横顔をこんなに愛しいと思う日が来るとは、ずっと前は想像もできなかった。ずっと誰のことも信じず、何も望まないふりをしてきた。けれど今は、こうしてぼんやりと眠る相手のぬくもりさえ、惜しいほど胸に染みてくる。昨夜の記憶が、体の奥からじんわりと蘇る。ベッドの軋む音、交わした声、名を呼ばれたときの熱、
シーツの上でふたりの体温が重なり合うたび、部屋の静けさが少しずつ別の響きに塗り替えられていった。ベッドの軋む音が、ふたりの息遣いとともにリズムを刻む。小阪の肌に河内の手のひらが滑るたび、ほんのわずかに鳥肌が立つ。その肌理まで河内は丁寧に確かめ、指先で肩甲骨から腰へ、脇腹をなぞっては静かに圧をかける。肌と肌がこすれ合い、湿度を帯びた夜の空気が、その全てを抱き込んでいく。小阪の瞳は、まっすぐ河内を捉えていた。これまでのように遠くを見るでも、どこかに逃げるでもなく、まるで自分の中にあるすべてを曝け出すような、素直なまなざし。河内もまた、その瞳から目を逸らさない。どちらが先に目を閉じるか、どちらが先に声を漏らすか、それさえも今夜は重要だった。「……陸」小さく名前を呼ぶ声に、小阪の喉が震える。ふと、抑えきれずに漏れる息が部屋に響く。それは、苦しさでも、痛みでもなかった。むしろ初めて自分の体が自分の意思で反応しているのだと、小阪自身がはっきりと感じていた。河内がゆっくりと動きを深めるたび、小阪の体がわずかに反り、背中がベッドの上でしなった。シーツが小さくきしみ、その音がふたりの間を結ぶ新しい言語になる。小阪の吐息が、熱を持って唇から零れ落ちる。「……ん、あ、」時折抑えきれないほどの声が、唇の隙間からこぼれる。その音を聞くたび、河内の動きがさらにゆっくりと、しかし深く刻まれるようになる。「陸、」無意識に名前を呼ぶ声が、身体の奥底にまで響いてくる。河内の指が小阪の髪をそっと撫で、顔を近づけてキスを重ねる。その唇は、これまでのどの夜よりもやわらかく、熱を持っていた。「……見て」河内が、低く囁く。小阪は一瞬戸惑いながらも、ゆっくりとまぶたを開ける。ふたりの視線が重なり、その刹那、どちらともなく微笑みが浮かぶ。「きれいや」河内の声に、小阪の頬がまた赤く染まる。体が自然に、河内の方へと引き寄せられていく。そのまま深く繋がり合った瞬間、小阪はこれまでにないほどの快感に襲われ、押さえきれない声を上げた。「&helli