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「あら、小説家なの? 凄いね。物書きさんだ」
丸メガネをかけて、ボサボサした黒髪の先生は、僕の目の前で気だるそうに椅子に踏ん反り返り、言う。
そんな軽薄な態度には、あまり好感は感じられないものの、その先生の容姿は細身でスタイルが良く、顔もどこか外人じみていて、男の僕から見てもとても色っぽく、男前だった。
「いや、それは趣味の欄ですよ。ちまちまwebで投稿してるだけで特に人気は無いし。本業は……というか、そこに書いてあると思いますけど、フリーターですよ。秋葉原の裏道にある小さな本屋でアルバイトをしてます」
僕は頭をぐしゃぐしゃ掻きながら、俯いてそう言った。
それを聞き、ふーん。と唇を尖らせた先生は、問診票を抱えたまま、左手で持っていたペンの背を向けて、くるくる円を描く。
「いやーでも、小説書いてるなら小説家でいいんじゃない? ほらバンドマンの連中だって、フリーターだろうが無職だろうが、恥ずかしげなくバンドマンです!って言うしさ。そういう自負とか自己認識は大切だと私は思うよ。特に夢想家には」
ああ、ちくしょう。
夢想家って、言われちゃったな……。ため息を吐いて、あからさまに肩を落とす僕。
「そうですね……夢想家は夢想家らしく、明るく振る舞いたいもんですよ」
その様子に、先生は肩をすくめながら、発言の補足とばかりに素早く口を開いた。
「おいおい、何も夢想家ってのは悪口じゃないよ。ネガティブに捉えないでくれ。そもそもこれを見るに、君はなんだか理屈っぽ過ぎるんだよな。理由とか意味とか、そんなのばっかり求めてるだろ? ちなみに変な事を聞くようだけども、君が理由や意味を求める事に対する、理由ってのはあるのかい?」
先生は長い足を組み直しながら、診察に必要な事なのか、そうじゃないのかもわからない質問を飛ばしてくる。
いや、言葉遊びのマトリョーシカじゃないんだから、変なこと聞くなよな……。
僕は早くもここに来た事を後悔しそうになりながら、とりあえず正直に口を開いてみた。
「単純に不安なんですよ、理由も意味も無いと。例えば、蛇口を捻《ひね》る理由は水が欲しいからです。そして、水で喉を潤すのは意味がある事です。だって飲まないと死んじゃうから」
「そうそう、君は常に逆算的で打算的だよね。そんで、比喩が好きだ。なるべく自分が抱える不安や心情を誰かに伝えて納得させようとしてる。それが主幹のテーマ性となって、尖れば尖る程、大衆性や娯楽性が薄くなっていく訳だ、書いてるのはラブコメディなのにね。はははっ!」
もはや小説の話なのか、僕の話なのかわからない。この人、絶対わざと話を混同させてるだろ。
「こと創作に関してはそうですね。でも、それだけなら僕はこんな“訳の分からないところ“には来ませんよ」
……って、あれ?
僕、小説でラブコメを書いてるなんて、どっかで伝えたっけ……?
「ふふふ。わかってるよ大丈夫だ。今の君は、それが創作だけじゃなく、現実の人生にも影響してどんどん深みに陥ってる。理由や意味をどれだけ探しても、確固たるこれだといったものが見つからなくて、日に日に心の火が弱くなってる。だからこそ私のところに来たんだろう?」
ニヤリと不敵に笑う先生の顔は、訳の分からない看板を掲げた、小さな町医者だとしても、あまり許されるような顔じゃなかった。
目を見開いて笑う。
白い歯を食いしばり見せる。『本当、人間って面白いよね!』
そんな歪んだ意思が見え透いた顔だったのだ。
──でも、口から出た内容はズバリ当たっていた。
そう、僕は自身の創作に対する悩みを大きく膨らまし過ぎて、現実までもがその不安に侵されている。
これを無気力というのか、鬱というのかはわからないが、とにかく理由や意味を重んじていた僕の価値観が、大衆的な娯楽性を拒絶するように歪むにつれて、生命力が低下するのを感じていた。
「あの結局これ、なんなんですか? 病名とか付くんでしょうか? 精神薬とかも飲む感じですか?」また変な質問をされる前に、矢継ぎ早にこちらから質問をした。
すると先生は眉を上げて、少しだけ真面目な顔になる。
「ここは、“精神整形外科“だ。わかるかな? 精神科や心療内科とは違う。それに、僕は手術は出来ない。だから外科でもないのさ。整形外科ってのは、擦り傷とか骨折、そんなのがメインだろう? スッとする塗り薬をだしたり、ギプスで固定したりするけど、結局治すのは患者の仕事だ。私はそれの手助けをするしか出来ない」
「じゃあ、何するんですか。今の口ぶりだと、なんも出来ないみたいな……」
言葉を遮るように、先生は白いゴム手袋を嵌めた人差し指を、僕の目の前に立てた。
「ただ一つ。私にしかできない治療法があるのさ。そして、その為に処方するものがある。それはとてもよく精神に作用し、人によって様々な面白い効果を生む」
「なんですか、それ……?」
「デウス・エクス・マキナ──ご都合主義だよ」 嫌な汗が額に滲むのと同時に。今更気が付いた、白衣の胸にあるネームプレート。
目を見開き、白い歯を見せて笑う“薪無《まきな》“先生は、僕に向かって……
そう、言ったんだ。
* * *
店の裏でタバコを一本吸った後、僕はいつものようにシャッターを開けて、警報装置を解除した。
正面扉から店の中に入ると、店内の半分を埋める中古本のニオイが鼻をつく。
僕はこのニオイが嫌いじゃなかったが、それらは古書と呼ぶにはあまりにも下品な代物で、胸を張って好きだなんて口が裂けても言えなかった。
店の奥のカウンターにカバンを置き、奥から入り口にかけて、電気をつけて行く。
ワンフロアしかない店はそんなに広くは無いが、天井まで伸びた大きな棚が壁面を埋め尽くしており、品数だけは豊富だ。
……地震が来たらまず助からないだろうけど。
僕は順々に開店準備をこなしていき、入り口付近に到達すると、DVDの置かれた棚に派手なピンク色のライトを照らす。
棚には小さなデジタルフォトフレームが何個か設置されており、動画が流れるようになっていた。僕は慣れた手つきでそれの電源を入れる。
すると。画面には、汗に濡れた裸の男女が現れた。
男は女の股に顔を埋《うず》め、ぴちゃぴちゃと激しい水音を鳴らしている。
そして、その水音すらかき消すほどの盛大な女の喘ぎ声が、狭い店内にこだまして僕の鼓膜を揺らした。
──そう。ここは、秋葉原の一角。
アダルト専門のDVDと本を販売する『セル店』と呼ばれる場所。
所謂《いわゆる》……。
──エロ本屋だ。
古書のニオイを放っていたのは、壁にずらりと並んだ中古の成年漫画。
その前には発売されたばかりの新刊が平積みで並んでおり、僕は目当ての一冊を手に取って、カウンターの裏まで持ってきた。
「昨日発売の新刊。あの、もつまる先生が別名義で原作をやってる成年漫画……これを読む為に今日は辛いワンオペを買って出たと言っても過言じゃないぜ」
興奮を抱きながら、表紙の美麗なビジュアルイラストを端から端まで舐めるように眺めて、シュリンクをビリビリと破いた。
ちなみに、もつまる先生とは『|臓物丸 直義《ぞうもつまる ただよし》』と言うラブコメディ小説家だ。なんだか物々しい名前なので、ファンはみんな愛称で呼んでいる。
リアルとフィクションが入り混じった一風変わった学園ラブコメに定評があり、数は多くはないものの根強いファンがいる小説家だ。
そのヒロインは大概、硬そうなガチガチのブレザーとロングスカートに身を包んだ巨乳美少女。男子高校出身の噂があるもつまる先生の、JKに対する変なこだわりが炸裂した素晴らしいヒロイン達である。
「おお! これは黒髪ロングの……! 多分モデルはあの短編の彼女だな! ああっ! こっちはふわふわのクセ毛! 3作目のサブヒロインにそっくりだ! なんと大胆な……! いやいや、こんなプレイしちゃっていいのかよ! 作画もあの伝説のweb絵師『ヒットマン稲沢』が担当してるだけあって、余すとこなく最高だな!」
要所要所に目を通しつつも、パラパラと勢いよく捲っていく僕。
雑誌掲載されていた作品集のページがおわり、単行本書き下ろしの話に入った時、僕は手を止め、ごくりと唾を呑んだ。
前情報のないその部分だけは、どうにも緊張が走った。
何故なら僕は、“あの娘《こ》“がそこにいるのではないかという懸念があったからだ。
もつまる先生はおそらく、自分の小説のヒロインをモデルに、この成年漫画の原作を書いている。
だとすればきっと……“僕の“あの娘も……。
じわりと手汗が滲んで、指先に紙の端が吸い付き、上手くページを捲れない。
その焦《じれ》ったさにやられながら、僕は昨日の薪無先生との会話を思い出していた──
* * * 「ちなみにさ、夢想家の君に聞きたいんだけど、夢についてどう考えてる? 見るもの? 叶えるもの? どっち?」なんだその質問は、馬鹿らしいな。
と思いながら、僕はまたぐしゃぐしゃと頭を掻いた。真剣に答えるか一瞬悩んだが、これも診察なんだと胸の中で言い聞かせて、ちゃんと答える。
「いや、夢はみせられるものでしょ。何を馬鹿な事言ってるんですか?」
僕がハッキリそう言うと、薪無先生は目を見開いて、口角を上げながら白い歯を見せてきた。
薄茶色の光を反射した、ギラギラした目。
虫取り少年が、見た事ない虫でも見つけたかのような、好奇心の爆発した目だ。
「なになに?! それ、詳しく聞かせてよ!」
身を乗り出して、息がかかるほど顔を寄せた薪無先生に、僕は少し照れながら目線を逸らした。
「べ、別に面白い話じゃないですよ。普通に考えればわかるでしょ。夢ってのは、人が寝てる時に勝手に見せられるもんだ。だから人が抱く方の夢も同じで、勝手にみせられてるだけなんですよ」
「お? それは、二つある夢の意味を、君は同じ解釈で捉えてるってコト?」
「大体の人は、抱いた夢の事を、さも自分が主導しているように“見てる“とか言って、叶えたい目標みたいに語るけど、実際には夢の方が酷く格上だ。夢ってのは、本人の意思よりも強く、魅せられるだけのものなんですよ。例えばクラスで一番可愛い高嶺の花の女子みたいに……。一度視界に入ってしまったから意識してしまう。そんなもんだと僕は思うんです」
「おお!! なるほど!! 君の言う夢とは、否応なしに自身が惚れて惹かれるものであって、人はそんな夢の操り人形でしかないって事か! 流石、小説家だね! その考えとっても面白いよ。情け無い君のオーラも相まって超イカしてる! 超クールだ!」
薪無先生は手を叩いて大声で笑うと、流れるように僕の肩をポンポンと二回叩いて、カルテに向かい、勢いよく文字を書き始めた。
カルテと薪無先生の顔の距離は、大袈裟な迄に近く、目が血走る程ギンギンに開けられていて、笑っている。
それはまるで狂気を孕んだ小説家の様だった。
──しかし。
突如、薪無先生は手をピタリと止める。
笑い顔をやめ、僕の瞳を覗きながら真剣そうに言った。
「ちなみにさ、君はセックス好き? 」 唐突過ぎるぶっ飛んだ質問。「は?! せ、せ、せっくす──?!」
僕は素っ頓狂な声を出して、頬と耳に素早く到達する熱を感じていた。
な、何を言い出すんだこの人?!
初対面でする話か?!それを見て薪無先生は、余裕ぶった顔で笑う。
「はははっ! ごめんごめん、びっくりした? でも必要な事なんだ。答えてくれよ。何も童貞って訳じゃないだろ?」
おいおい、これで僕がガチガチの童貞だったらどうするつもりなんだ……。
めちゃくちゃ傷つくと思うぞ、その決め付け。
「ど、童貞ではないですけど……」
「うんうん。わかる、わかってるよ! 君は童貞でもないが、セックスがそんな好きじゃないよね? だからあえて聞いたんだ。辛気臭い君からは、中途半端な自慰のニオイがプンプンするからね!」
楽しそうに話す薪無先生に対して、僕はジト目になって呆れる。
これまでの会話で、数回はキレてもいいくらいの不躾な発言ばかり浴びせられている気がする。
……だが、上手くキレられないのはなんでだろうか。
男前で妖艶なオーラを放つ不思議な人だからか、それとも医者としての信憑性がこの軽薄な態度に滲んでいるのか……。
ともかく薪無先生は、言葉で言い表せない変な魅力を持った人だと感じていた。「セックスってのは何も性行為だけの意味じゃないよ。交わるって意味さ。ほら、君は比喩が好きだろうから、あえてこういう話をしてるんだよ。良く言うだろ? 自己満足の事を自慰行為だって。だとすれば小説を他人に見せて、感想をもらうなんてのは、他人と交わるセックスに他ならない。そうだろ?」
「まあ……たしかに」
少々強引であれ、普段自分が言いそうな比喩表現にむず痒くなり、こめかみをぽりぽり掻いた。
薪無先生の口ぶりに、僕は納得したのだ。
「君も知ってるだろうけど、セックスはただヤればいいって訳じゃない。精神的な交わりの意味もある。相手の気持ちを考えて、相手が何に興奮するのか、何を求めているのかを考える必要がある。そして君もだ、君も相手へ同じように理解を求める。それをちゃんと擦り合わせて……」
薪無先生は僕の右手を掴むと、自身の手のひらと僕の手のひらをくっ付けて、しっかりと重なるように押し付け、整えた。
「こうやって、合わさった時……」
そこから薪無先生は、今度は付けていた指を曲げて、半分だけハートの形を作る。
「ほら、やって……ハート、作れるでしょ?」
「え、ああ……はい……」
僕も指を曲げて、ハートのもう半分を作った。
一昔前の恋人がプリクラでやる様な、酷くチープなハートが完成すると、また薪無先生は目を見開いて、口角を上げた。
「やっと、愛が生まれるのさ」
そう言って、満面の笑みを向けてくる薪無先生。
おい、なんだよこれ……、勘弁してくれ。
男同士で何やってんだ僕は、アホらしい……。そんな事を思いながらも、薪無先生のボサボサした前髪が、少しだけその切れ長の目にかかっているのを見る。
それが妙に艶っぽくて、僕はなんだか堪らなく悔しくなった。
「いいか、少年! 自分を解放し、相手の解放をみるセックスは、超気持ちいいぞお!!」
恥ずかしい事を恥ずかしげもなく、唾が飛ぶほどの大声で言い放つ。
「えーと。あの、それはいいんですが。僕、もう今年で21なので、少年ではないんですが……」
それに冷めた口調で返して、僕は即座に手を引っ込めた。
まだ、ハートの形を保っていた薪無先生は、ぽかんとした顔をしたが、また微笑みを取り戻し、椅子の背もたれへと戻って行く。
「男はいつまでたっても、少年なんだよ、少年。そして、“生“を司るのはどこまでも“性“だ。私達はどれだけ高尚でいようとしても、所詮はただの動物だからね」
* * *
──気が付けば、店の開店時間になっていた。
結局僕は、ページを捲ることができず、単行本を閉じて、DVD売り場からこだまする喘ぎ声をかき消すように店内BGMを流す。
「はあ。なんなんだ、あの人……。あんな人に相談したところで、僕のこの不安は本当に取り除かれるのか……?」
小さく呟いて、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしると、入り口の扉が開いた。
客が来たのだ。
「いらっしゃーせぇー……」
開店直後なんて随分と珍しいな……と思った矢先。
僕は入って来た人物の姿に絶句した。
真っ直ぐに伸びた黄金色の長い髪を持った、上品で綺麗な少女。
僕は細胞の全てが震えるように直感した。
そこに立っているのは、僕が狂おしいほどに溺愛し、偏愛した。
“あの娘“なのだと──。
僕は目眩を起こす程に、激しく視界が点滅するのを感じて、脳内に強烈な一つの思考が張り付いた。 ……マイが“あの娘“の事を、知っている。 僕がマイの人格を、“あの娘“として塗り潰そうとしていた事を、全て知っている……。 その事実を認識してしまっただけで、僕の腹にぎゅうぎゅうと収めていた、黒くて汚い内臓は今にも飛び出しそうになっていた。 強烈な吐き気を抑えようと、両手で口を塞ぐ。 とにかく視点がズレて定まらないのは、動揺しているからという理由だけじゃ、ありえない。 僕の体の中の、その奥の奥に眠る、根本の芯の部分から、否が応でも震えて止まらないのだ。 マイは僕をじっとりと見ていた。 上から僕をしっかりと見下《みくだ》していた。 そのマイの視線が、容赦なく心に突き刺さる。 それが針や槍なんて幼稚な物で言うには、生ぬるくて仕方ないと感じるしかなかった。 それは、人を最果てまで追い詰める為に、鋭く斜めに刃を付け、研がれた、分厚い切先で。 触れただけで人の皮膚を簡単に引っ剥がす、極寒の霜に覆われた鉄骨のような厳しさだった。 そんなものを脳天から真っ直ぐに振り下ろされた後には、背骨の髄を撃ち抜いて、細く張り巡らせていた重要な神経の隅に至るまで、雷《いかずち》の如き高圧の電流を素早く流し、全ての感覚を死滅させた。 そうして、やっと知る。 ……僕は夢乃マイの事を誤解していたのだと。 薪無先生に言われた通り、僕は確かに驕っていた。 今までの僕は、マイの事を純粋無垢で何も考えていない存在として、”そういうもの”だと勝手に思い込んでいたのだろう。 もしくは、もっと酷い言い方をするのであれば、マイの事を、抽象的で概念的な“都合の良い人形“とでも、深層心理の中で不器用に積み上げていたとすら振り返り、感じる事ができた。 なので、僕は僕の意志でしかこの物事は進みようが無いのだと、いつからか錯覚し、誤解していたのだ。 たった今、その事実に気付かされたという絶大なショックが、体中を縦横無尽に飛び回りながら混沌として渦を巻いた。 ──だけれども。 そんな事は、僕が真っ向から咎められるべき責任よりも大幅にそれた、実に仕方がない出来事だとも、僕は脳内で冷徹に翻《ひるがえ》り、苛立ってもいた。 何故なら所詮、この話は、僕が主観
鍵を開けたその部屋は、十二畳の1Kだった。 決して広いとは言い難いが、一人暮らしには十分だと感じられるほどの空間だ。「とりあえず、遠慮せずに上がってくれ」 僕は玄関で乱暴に靴を脱いで、いつも通り何も気にせずスタスタと上がるが、マイは僕の放った靴を手早く屈んで拾った上に、それは丁寧に揃えると、玄関の端に並べて寄せた。「失礼します! お邪魔させて頂きます!」 大きな声と共に、ぺこりと綺麗にお辞儀して、申し訳なさそうに壁に手を添えながら、後ろに足をあげ、上品にローファーを脱ぐマイ。 僕はまだ、釈然としない胸のざわつきを抱えて緊張していたが、そういう大袈裟で大胆かつ繊細なところが、なんだかマイらしくて笑えたし、やたらと可愛く思えて、少し辛くなった。 踏み入れた僕の部屋に、物という物は大して多くなんてなかった。 小説や漫画の刺さった本棚とパソコンデスク。 パイプフレームの安いシングルベッドと小さなガラクタ棚。 後は……。 存在感を放つ、一本の水槽が置かれていた。 玄関から部屋に入り、一番目につく位置に置かれた大きなそれは、上面に取り付けられた青白いライトで照らされている。 濾過《ろか》フィルターから循環して戻ってきた水が、表面に水流を作り、波立たせ、閉め切った薄暗い部屋の壁に大きな波紋を映し出していた。 さながらそれは、部屋全体を水没させたと錯覚させるほどの、幻想的な揺らめく淡い光に満たされていて、まるで外界からの影響を受けずに隔離された、永遠の空間にも感じられた。 しかし、こんなのは僕としては日常的な事で、普段から部屋の明かりをつけないものだから、特に見慣れた光景になっていたが、マイは流石にすぐに気がついて、それは強く興味を持った。「な、なんですか?! とても美しいです!」 明るくはしゃいで、うっとりとしたマイは、話を聞かない子供のように慌てて水槽へと駆け寄って跪《ひざまず》くと、ガラスに手を付き、なんなら鼻先までをちょこんと付けて、懸命に中を覗き込む。 だが、その水槽の中には、おそらくマイが期待したであろう、美麗な熱帯魚の群などは泳いでいない。 きっと落胆して肩を落とすかもしれないと懸念して、僕は自分が何も悪く無いにも関わらず、なんだか少々ばつが悪くなるのを感じた。 そこに入っていたのは、深緑色をした丸太のような風体の、
その日は僕の住むアパートの最寄りである、四ツ谷駅で待ち合わせをした。 繁華街ではないものの、サラリーマンの多い新宿通りは、どの時間帯でも人がいて、秋葉原とはまた違った雰囲気の都会感がある。 確かマイは池袋が最寄りだと言っていたので、僕はJRの方ではなく、丸の内線の改札前で待っていた。 それから程なくして、マイは現れた。 僕にとってはだいぶ見慣れてしまったマイの容姿だったが、普段のなんて事はない最寄り駅の情景と重なると、なかなかやはり人混みの中でもよく目立つもので。 長く艶めいた金髪はそれだけで目を引くし、そして何より、その身分を偽って纏った、清楚なロングスカートの制服姿は、軽く周囲をぎょっとさせるくらいには現実味を置き去りにする可憐さがあった。「肯太郎さん! 申し訳ございません! 大変お待たせ致しました!」 パタパタと駆け寄ってきたマイは、近くで見ると淡いピンクの口紅を引いていた。 僕はその唇に、今日という日にかけたマイの期待と覚悟を直視してしまいそうになり、慌てて頭頂部の気の抜けたアホ毛に目を移し、話す。「おはよう。大して待ってないから大丈夫だよ。さあて、どうしようか。すぐに僕の家に行っても、面白いものは無いからつまらないだろうし、どこか飲食にでも入って食事でもしようか?」 待ち合わせしたのは大体、正午だった。 四ツ谷という土地の性質上、サラリーマンが昼休憩を取る正午は、飲食店に彼らがごった返す。 なのでそれをあえて狙って、昼食に誘おうと思ったのだが、マイは僕の提案に勢いよく首を横に振った。「いえ! 肯太郎さんが特に空腹で無いのであれば、ワタシも空腹ではありませんので、どこにも寄らずお家にお伺いする方向で構いません!」 ああ……そうか。だとすると。 このまま直行になってしまうな……。 僕は顎に手を添えて考えたが、確かに僕も変な緊張で空腹感はなく、ここはもう白旗だった。 これの何が白旗なのかと言うと。 正直僕は、少しでも自然に時間稼ぎがしたかったのだ。 先日の僕は、覚悟を持ってマイを家に呼ぶ事に決めたのだが、その後の薪無先生との話で、あの決断が早計だと知らされた。 暗いトンネルを出る為の、もう一つの鍵。 僕の過去に直結する、その鍵を探さなくてはならなかったのだ。 けれども、そんな抽象的すぎるそれに心当たりが
「遂に終幕って感じの顔をしているね。少年」 薪無先生は左手でペンをくるくる回しながら、口角を上げる。「いえ。まだ、何も終わってませんよ。終わるとしたら、これからなんですから」 マイとの予定を明日に控えた僕は、この判断が本当に正しいのかと不安になり、薪無先生の下へと訪れていた。「じゃあ何故にそんなスッキリした顔をしてるんだい。まるでトンネルの出口が見えかけて、光が差してるみたいな様子だ」 僕の顔を見て、薪無先生は唇を尖らせて訝しんだ。 この診察室には鏡がないものだから、僕としては自分が一体どんな表情をしてるのかもわからない。 でも、きっと少し落ち着いた顔なんだろうという事だけは、何となくそれでわかった。 なので、僕はマイと一線を越える覚悟を決めた旨を先生に伝えようとするが、普通に気恥ずかしいもので、尻込みする。 いや、薪無先生ならこれで十分伝わるだろう。 そう思って、僕は端的に述べた。「明日、マイを家に呼びます」 その途端。 一瞬、驚いた顔を覗かせて、あー。と声を漏らし、徐々になんだか渋い顔に変わる薪無先生。 目を瞑って、こめかみをぽりぽり掻いた後。 先生はジト目を僕に向けた。「君は出来ないよ。セックス」 意図が伝わるどころか、その先を読んだようにスパッと一刀両断されてしまった僕は、気が抜けて、ぽかんと口を開けてしまう。「は?」 薪無先生は深いため息を大袈裟に吐いて、呆れた口調で僕に言った。「あのさぁ、前にも言ったでしょ。セックスってのはただ単純に、少年のその焦って硬くした不安をマイちゃんにぶち込めばいいって訳じゃ無いんだぜ? それとも何か? 少年は前戯も無しにいきなりぶち込む畑の人? そういう趣味?」 おい。流石に酷いだろ。 人の事を勝手に激ヤバな強姦魔に仕立て上げないでくれ。 突拍子もない酷い扱いを受けて、僕も思わずジト目を返す。 「いやいや、何もそんな言い方ないじゃないですか! 下品な言い方はよしてくださいよ! 僕はただ、マイの欲求が大きくなって、これ以上溢れ出たらいけないから何とかしようって思って……」「それは奢りだ」「……え?」 いきなり事で、いつそうなったのか僕は気が付かなかった。 薪無先生は笑っていなかった。 鋭く目を細めながら、笑い事じゃないよ。と言いたそうな圧のある目を僕に向ける。「君は
薪無先生から聞いた夢乃マイの生い立ちは、凡俗な僕にはあまりにも理解し難いものだった。 それは決して悲劇的で、衝撃的な過去等ではなく。淡々と緩やかに歪んでいく、一見自然に見えるまでの不気味さからくる不協和を感じた。 まず、マイの両親は幼い頃に他界している。 しかし、こういう言い方もどうかと思うが、それ自体に大した意味はない。 と、いうのも、両親が他界したのは、マイがとても小さな時分の事であり、マイの記憶としては、両親はもういないところから始まっているとの事で。 その後も両親がいない事に対して、特別な負の感情は抱かなかったと、本人が言っていたらしい。 マイの問題とは、こういった何かの喪失や決定的なショックで起こったものではなく、ほんの些細なところのズレと、マイ自身の難儀な性格により発現した事である。 両親の他界後は、未成年後見人として、母親の姉にあたる伯母に引き取られ、その後マイは、特に何不自由ないと言って差支えない生活をしていた。 伯母は一人での生活が長く、貯えもそれなりにあったので、マイはひもじい思いなんかもしていなかった。 だけど残念ながら、ここで一つのズレが生じる事となる。 それは伯母に“子育ての勘“が無かった事だ。 薪無先生は、物事において“勘がない“というのは、何よりシンプルで、何より大きな欠点であると話す。 すなわち、いつまでたっても“勘“が掴めないものの難易度とは、思いの外とても高くなってしまうものなのだ。 所謂、“感覚“というものと同義だろう。 自転車に乗る時、自身の体を自然に制御し、いちいち手元や足元を見なくとも、軽く前に進めるようになるように、人はその“勘“や“感覚“で物事の理解や制御を早め、習得する。 だが、マイの伯母には子育てのノウハウに関して、そういった習得する勘というものが、一切備わっていなかった。 それによってマイは周りとは少し違う、どうにも特殊な環境で育つ事になってしまっていた。 具体的に言えば、伯母はマイを、“子供“としてではなく、“個人“として解釈していた。 伯母は自我の曖昧な子供に向かい、大人と同じような自我がある前提で育ててしまったのだ。 例えば、成人した同い年の友人が、突然仕事を辞めてしまったところで、誰も頭ごなしにすぐに次を探して働けなどと、上から目線で全力をかけて叱咤する事は無
薪無先生からマイの話を聞いた、次の日。 僕は店の裏でタバコを吸っていた。 相変わらず手で巻く事にこだわったタバコは、側から見れば、いつもと同じような重たい煙を上げていたが、それが放つ香りは以前とだいぶ違っていた。 何故なら僕はもう、紅茶の香りのするパラダイスティーを吸っていなかったのだ。 まだ口に馴染まない新しいフレーバーに、僕は戸惑いを感じながらも、ゆっくりと煙を肺に入れて、またゆっくりと煙を吐き出す。 疲れた頭にニコチンを染み渡らせると、わかりやすくクラクラして、寝ぼけた頭のように、ふわふわと不明瞭な自我の糸を綱渡りしながら、僕は頭をぐしゃぐしゃと掻いていた。「肯太郎さーん! おいしょ! あら、あらら!」 左から聞こえるのはマイの声。 格好はあの白いワンピース。 金色のアホ毛を揺らしながら、大きなお尻を金網のフェンスに擦って現れる。 そんなマイは無邪気な笑顔を浮かべていた。「おはようございます! こちらをどうぞ!」 綺麗な角度のお辞儀から差し出される、微糖の紅茶。 僕はそれを見て微笑む。 そう。あれから僕と夢乃マイとの関係は何も変わっていなかった。 ──上野デートの帰り際の事。 僕がトイレで散々吐いて満身創痍になり、ふらふらとそこから出ると、マイはトイレの前で心配そうに僕を待っていた。 大きな目に涙を溜めながら、眉を顰めて胸の前で手を祈るように組む、マイ。 そこにあの狂気の目はもうなかった。 マイは通常のマイに戻っていたのだ。「ああ、肯太郎さん!! お身体は大丈夫でしょうか? どこか具合が悪いのでしょうか? それともワタシが何か肯太郎さんに嫌われるような事をしてしまったのでしょうか? もしその様でしたら大変申し訳ございません!」 マイは僕に駆け寄って、ぎゅっと袖を掴む。 その言葉に嘘や裏は無いのがすぐにわかった。 マイは全力で僕を心配していたのだ。 もう出すものも全部口から出して、めまいと頭痛のピークも去ったと感じた僕は、これ以上の痛みのぶり返しを恐れて、なるだけ何事もなかったように笑ってみせる。「いや、大丈夫だよ。僕の金鶏に対する強い想いにマイも驚いてしまったんだろう。悪いのは僕の方だ。それじゃないなら、せめてはお互い様だ」「い、いえ。肯太郎さんは何も悪くなんてありません。きっとワタシが取り返しのつか