LOGIN「美女好きでしょう? 巨乳も好き? 大きいお尻とかも好きそうだね。後は綺麗な黒髪とかはどう? 性格はお淑やかな感じがいいかな? それとも快活? ツンデレってのもいいけど、ありゃ自分への好意がわかって無いと、ただの厳しい女子だもんね。読者目線はいいけど、主人公目線だったら本当に自分の事が好きなのか若干不安になりそうだ。そう思わない?」
早口で捲し立てられるとはこの事だった。
猛スピードで質問されて、流石にパンクした僕は頭を抱える。「ちょ、ちょっと待ってください! 一体何の話ですか? さっきから夢がどうとか、セックスがどうとか、もう唐突過ぎてついていけませんよ!!」
薪無先生はカルテを書きながら、形ばかりの申し訳なさを見せた。
「ああ、ごめんごめん! いや、処方するからさ。好みを聞いとこうと思って」
「処方って……さっき言ってた、ご都合主義ってヤツの事ですか?」
「そうそう。でも、言ったように私は手術をして何かを君に付与する事はできない。例えばチートとかスキルみたいなものをあげたりはできないんだ……。うーん、難しい事を言っても理屈っぽい君には理解出来ないだろうし、端的に好みの女の子を処方してあげるって話だよ。ね?」
え? いや、なんだろう……。
説明不足で深くは理解できないけど、この人激ヤバな事を言っている気がするぞ。
「あの……女の子を処方って……それ、なんですか? なんかめちゃくちゃ怖いこと言ってる気がするんですけど……」
額に大量の脂汗を垂らしながら、僕は思った事をそのまま口にした。
すると、あからさまに、あちゃー。といった顔をする薪無先生。
ヤバいって自覚はあるな。これ、絶対。
「ああ……ええと、うそうそ! じゃあ私と好みの女の子の話しようぜ少年。ただの恋バナだよ恋バナ。今、好きな子とかいるの? ん? どう?」
白々しい演技と切り返し。
これはどうしても僕から聞き出す気だな。僕は目を閉じるとともに、思考も全部閉じた。
こうなってしまっては抗っても仕方がない。どうせはぐらかしても問い詰められるんだと観念して、僕は洗いざらいを話す事に決めた。
「います。しかも、ラブコメ小説の中に。艶やかな金髪を持った美少女です。上品で綺麗な言葉遣いの女子高生。ガチガチに整った制服とロングスカートに身を包んで、常に笑顔を絶やさないメンタルと行動力のバケモノ……僕の心の女神です」
薪無先生は茶化さなかった。
真剣な顔の、キリッとした目つきは鋭く、その眼光は見惚れるくらい美しかった。「おっと、思っていたよりさらりと出てきちゃったね。諸悪の根源である、正真正銘の本命が」
そのまま真面目にカルテを書きながら、僕に目線も向けず、質問をする。
「その娘の胸は大きい?」
「はい。そらもう、思春期の男子なら堪らないくらい。服の上から見ても立派なのがわかります」
「お尻は?」
「プリーツスカートの皺が消えるかと思うほどパツパツです。でも、ウエストはちゃんとくびれてるのがわかる、魔法の体系です」
「ほう。じゃあ、唇とかはどうかな?」
「ぷるっぷるのぷにっぷにで、艶々しています。けど、あからさまに分厚い訳じゃない。薄くても上品で吸い付くような唇で、小さく可愛らしい口ですね」
それを聞くと、薪無先生は左手に持ったペンで額を掻き、眉間に皺を寄せて、右手に持った問診票とにらめっこした。
一瞬、僕の彼女への愛情にドン引かれたかと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
「んー、なるほど。ちなみにこれは私の勘なんだけど、それってさ、ただの二次元嫁的な恋心じゃないよね? 小説の登場人物にしては解像度が高すぎる……。一体、何があるの? その娘に」
訝しんだ薪無先生の顔に、僕はバツが悪くなって、少々の沈黙を挟む。
流石、精神科医というべきか、察しがいい。
どうしよう……正直に伝えるべきか、否か。──それでも。
「……現実の、初恋の人に似てるんです。高校の時の同級生……。いや、もちろんそっくりそのままではないですけど、かなりの要素が被ってる。それをずっと引き摺ったまま僕は大人になり、過去の少ない思い出に、小説の中の彼女を重ねながら、日々卑しく生きているんです」
気が付けば……何故か僕は、全てを吐き出してしまっていた。
その話に薪無先生は、渋い栓が抜けたみたいに明るくなり、声のトーンが上がる。
「おおー! そのパターンだったか! 理解した! 大丈夫、何も恥じる事じゃないよ。類似感覚というのは、その元の解像度が高ければ高いほど、共通性を強く紐付けようとするものだからね。そして、人の好みというものはそう簡単に変えられるものじゃない。特に初体験というのは、自身の心に強烈な印象を残す。思春期なら特にだ」
僕を慮《おもんぱか》ってか、軽い口調で励ましてくれた。
だが、それで安心はできない。
何故なら僕は何年も前の初恋の相手を、小説のキャラに重ねて溺愛している。
これは明らかなリアルとフィクションの混同。
僕だってこんなのは異常な事だと分かっているんだ。「先生はさっき、諸悪の根源って言ってましたけど、やっぱりこの漠然とした不安には、“あの娘“の存在が関係あるんですか?」
「うーん。そうだね。関係ある。ただ、それを取り除くとかそういう事で解決される訳じゃない。どちらかと言えば……まあ、塗り潰すかな」
椅子から立ち上がった薪無先生は、一歩だけ近づいて、また僕に顔を寄せた。
「明日、君は“あの娘“に会う。そして恋をする。いいね? それが治療だから、その不安を治したいんだったら抗わないでね。経過は通院で報告して、いつ来てもいいから。じゃ!」
それだけ言って、診察室の奥へと向かって歩いて行く。
「え? いや、もう意味不明なのはいいんですが。あの。一応、病名とかは?」
その問いに振り返らず。
片手を上げてめんどくさそうに、薪無先生は溢した。「あー、ラブコメディ失調症でどう?」
* * * 店内に入って来た、金髪の女子高生の姿を見た時。僕は全身に電気が駆け巡るような感覚を覚え、そんな訳の分からない会話を思い出した。
彼女は、卑猥で異様な空気を放つ店の中を、眉をひそめながら、キョロキョロと見回す。
「き、君! ちょ、ちょっとまって!!」
奥のカウンターから勢いよく飛び出し、声を上げて制止させながら、僕は彼女の下へ向かった。
「え? あ、はい……」
肩を窄め、胸の前に手を持ってきた彼女は、酷く怯えて見えた。
入り口で立ち往生した彼女の目の前に立つと、その姿をしっかりと確認する。
腰ほどまである、長くしっとりとした黄金色のストレートヘアー。
不安そうに僕を上目遣いで見る顔は、色白であり、小さく端正で美しい。
大きな目に茶色の瞳。
艶めいた上品な唇。 はっきりわかる豊満な胸。 腰のくびれから、また膨らむ魅力的なお尻。纏う学制服は分厚いブレザーで、くるぶし程まである清楚なロングスカートは、時代錯誤を匂わせた。
間違いなかった。
間違うはずなかった。何せ、僕が何年も何年も想い続けた初恋の人。
“あの娘“が、目の前に居るのだから。「ウソ……」
思わず、ぽつりと呟いていた。
彼女は不思議そうに首を傾げ、言う。
「いえ、嘘じゃありませんけど……」
その一言。
その一言だけで、僕は途端にパニックに陥り、堪らず頭をぐしゃぐしゃと激しく掻きむしる。
おかしい。何かがおかしい。
あり得ない。こんな事はありえない。だって……だって、彼女はあの日……。
──その時。僕は店の裏で吸った一本のタバコを思い出す。
もしや、あれは……。
“幻覚作用のある煙“だったのかと──疑った。
薪無先生から聞いた夢乃マイの生い立ちは、凡俗な僕にはあまりにも理解し難いものだった。 それは決して悲劇的で、衝撃的な過去等ではなく。淡々と緩やかに歪んでいく、一見自然に見えるまでの不気味さからくる不協和を感じた。 まず、マイの両親は幼い頃に他界している。 しかし、こういう言い方もどうかと思うが、それ自体に大した意味はない。 と、いうのも、両親が他界したのは、マイがとても小さな時分の事であり、マイの記憶としては、両親はもういないところから始まっているとの事で。 その後も両親がいない事に対して、特別な負の感情は抱かなかったと、本人が言っていたらしい。 マイの問題とは、こういった何かの喪失や決定的なショックで起こったものではなく、ほんの些細なところのズレと、マイ自身の難儀な性格により発現した事である。 両親の他界後は、未成年後見人として、母親の姉にあたる伯母に引き取られ、その後マイは、特に何不自由ないと言って差支えない生活をしていた。 伯母は一人での生活が長く、貯えもそれなりにあったので、マイはひもじい思いなんかもしていなかった。 だけど残念ながら、ここで一つのズレが生じる事となる。 それは伯母に“子育ての勘“が無かった事だ。 薪無先生は、物事において“勘がない“というのは、何よりシンプルで、何より大きな欠点であると話す。 すなわち、いつまでたっても“勘“が掴めないものの難易度とは、思いの外とても高くなってしまうものなのだ。 所謂、“感覚“というものと同義だろう。 自転車に乗る時、自身の体を自然に制御し、いちいち手元や足元を見なくとも、軽く前に進めるようになるように、人はその“勘“や“感覚“で物事の理解や制御を早め、習得する。 だが、マイの伯母には子育てのノウハウに関して、そういった習得する勘というものが、一切備わっていなかった。 それによってマイは周りとは少し違う、どうにも特殊な環境で育つ事になってしまっていた。 具体的に言えば、伯母はマイを、“子供“としてではなく、“個人“として解釈していた。 伯母は自我の曖昧な子供に向かい、大人と同じような自我がある前提で育ててしまったのだ。 例えば、成人した同い年の友人が、突然仕事を辞めてしまったところで、誰も頭ごなしにすぐに次を探して働けなどと、上から目線で全力をかけて叱咤する事は無
薪無先生からマイの話を聞いた、次の日。 僕は店の裏でタバコを吸っていた。 相変わらず手で巻く事にこだわったタバコは、側から見れば、いつもと同じような重たい煙を上げていたが、それが放つ香りは以前とだいぶ違っていた。 何故なら僕はもう、紅茶の香りのするパラダイスティーを吸っていなかったのだ。 まだ口に馴染まない新しいフレーバーに、僕は戸惑いを感じながらも、ゆっくりと煙を肺に入れて、またゆっくりと煙を吐き出す。 疲れた頭にニコチンを染み渡らせると、わかりやすくクラクラして、寝ぼけた頭のように、ふわふわと不明瞭な自我の糸を綱渡りしながら、僕は頭をぐしゃぐしゃと掻いていた。「肯太郎さーん! おいしょ! あら、あらら!」 左から聞こえるのはマイの声。 格好はあの白いワンピース。 金色のアホ毛を揺らしながら、大きなお尻を金網のフェンスに擦って現れる。 そんなマイは無邪気な笑顔を浮かべていた。「おはようございます! こちらをどうぞ!」 綺麗な角度のお辞儀から差し出される、微糖の紅茶。 僕はそれを見て微笑む。 そう。あれから僕と夢乃マイとの関係は何も変わっていなかった。 ──上野デートの帰り際の事。 僕がトイレで散々吐いて満身創痍になり、ふらふらとそこから出ると、マイはトイレの前で心配そうに僕を待っていた。 大きな目に涙を溜めながら、眉を顰めて胸の前で手を祈るように組む、マイ。 そこにあの狂気の目はもうなかった。 マイは通常のマイに戻っていたのだ。「ああ、肯太郎さん!! お身体は大丈夫でしょうか? どこか具合が悪いのでしょうか? それともワタシが何か肯太郎さんに嫌われるような事をしてしまったのでしょうか? もしその様でしたら大変申し訳ございません!」 マイは僕に駆け寄って、ぎゅっと袖を掴む。 その言葉に嘘や裏は無いのがすぐにわかった。 マイは全力で僕を心配していたのだ。 もう出すものも全部口から出して、めまいと頭痛のピークも去ったと感じた僕は、これ以上の痛みのぶり返しを恐れて、なるだけ何事もなかったように笑ってみせる。「いや、大丈夫だよ。僕の金鶏に対する強い想いにマイも驚いてしまったんだろう。悪いのは僕の方だ。それじゃないなら、せめてはお互い様だ」「い、いえ。肯太郎さんは何も悪くなんてありません。きっとワタシが取り返しのつか
「あなたが薪無一郎《まきな いちろう》先生ですよね?」 足を踏み入れた小さな診療室の扉を閉めた後、私はすぐに彼へと話しかけた。 背を向けていた彼は、豪華な革張りの大きなソファに座っており、そのままくるりとソファを回転させ、こちらを向く。「おお!もしかして、本当に来てくれたのかい? いやぁ、良かった。待っていたよ! ささ、座って! 座って!」 促されるまま、私は遠慮なく椅子に座った。「薪無一郎先生。いきなり呼び出された立場として、一つ聞いてもよろしいでしょうか? あなたが私をこのタイミングで呼び出したのは、やはり何か、訳があっての事なのですか?」 私の質問に薪無先生はそのボサボサした頭をつまみながら、にへらにへらと軽薄に笑う。「いやいや。この度はいきなり呼び付けてしまって申し訳ない。いや、なに。そろそろ君にも話を聞かないといけないと思ってね。たぶん、現場が煮詰まってくる頃だからさ。そういう君も何となくの状況はわかっているんでしょ?」 それを聞いて、その何となくと言った事情をすぐに察した私は、なるほど。と頷いた。「それにしても先生は、よく私だってすぐにわかりましたね。私はSNSに顔も載せていないし、本名だって公開していないはずなのに」 「いやぁ、それは確かに君からみれば驚くのも無理はないよ。でも、私も今まで様々な患者を見てきたからね。まあ、簡単に言えば経験則ってやつかな。勘だよ。勘」 私は薪無先生の言った、『経験則』という言葉に疑いは持たなかった。 多分本当にこの先生は、今までの経験から来る研ぎ澄まされた勘で、私の事を見つけ出したのだろう。 しかし、こうもあっさりと見つけ出された事に、私は釈然としない気持ちもあった。 今までこんな事は一度もなかったからだ。 だから私は、次の言葉に少しばかりの皮肉を添えた。「そうですか。先生はお若そうなのに随分とまあ、良い経験をお持ちなようで」「あら、君から見てもそんなに若そうに見える? それは嬉しいね。私はあまり格好や外見に頓着する方では無いけども、ルックスはいいに越した事ないからね。患者もその方が安心するしさ。ねえ、君もそう思うでしょ?」「いえ、私はお若そうと言っただけで、別に先生のルックスを褒めたわけではありませんよ」「なーんだ。それは残念。釣れないねぇ」 つんと唇を尖らせて不貞腐れる薪無先
僕に処方されたご都合主義。 夢乃マイはとても素直な娘だった。 明るく、無邪気でいて、どんな些細な事でも全身で感情表現をする彼女。 その恥ずかしいまでの幼稚な振る舞いすら難なく許せるくらいに、マイは非常に可愛らしい女性だった。 小さな背丈でありながら、スタイルも良く。 大きな目、白い肌、小さな口、高い鼻。 現代の美的な要素を申し分なく、その顔に宿している。 腰ほどまである長い金髪は、前髪を真っ直ぐ切り整えた、艶のあるストレートヘアーで。 性格の隙を感じさせるような、頭頂部の揺れるアホ毛がまた愛らしく、ハキハキと喋る姿はなんとも誠実そうな印象をうける。 だからきっと、夢乃マイは何もなくたって、大衆の誰もが羨む可憐な美女なのだろう。 だが、僕はそんなマイの過去を全く知らない。 それどころか、誕生日も家族構成も、例えば好きな食べ物の一部ですら、僕はまだ知らないのだ。 ──擦り合わせ。 そうだ。 本来ならわかり合おうとするべきなのだ。 本来なら向き合おうとするべきなのだ。 僕は真っ直ぐに“夢乃マイ“を覗くべきなのだ。 それが薪無先生の言う、本来のセックスの意味なのかも知れない。 されども、残念ながら。 こんな僕はやっぱり、独りよがりな自慰行為しか出来ないのだろうか。 小説と同じように、自分の思想や価値観をそこに押し付ける事しか出来ないのだろうか。 そんな事に頭を悩ませていた。 ……それでも、ただ。 この僕の行いを、完璧な間違いだとは。 決してこの世の誰も、言えやしないのだろう。 それだけは都合良く。 僕はこの世界の懐の深さを── 信じている。* * * 夜の森を出た僕達は西園に渡り、更に様々な動物を見た。 ハシビロコウは一切動じず。 コビトカバは意外と大きく。 オカピは何だか良く分からず。 アイアイは思いの外醜かった。 僕とマイはその一つ一つを指差して。 驚いたり、笑ったり。 慄いたり、白けたり。 僕達の二人の関係が、訳の分からないご都合主義だなんて事は全部忘れて。 ただただ当たり前に。ごく普通に。 恋人としての距離を、真っ当に縮めていた。 しかし、その最中であっても、僕の足元に留まる影の中には、何やら不穏な得体の知れない物体が蠢いているのを感じざるを得なかった。 緩い風に乗って、ふ
待ち合わせ場所には、少し早く着いてしまった。 普段は殆ど来ない上野駅周辺を、先にぶらりと見て回ろうかとも思ったが、初夏の厳しい日照りがそれをやめさせた。 僕は震えるスマホをポケットから取り出すと、相変わらずマイからの細かいメッセージが入っていた。 ──今、駒込を出ました。 GPSなど付けなくても、勝手に位置情報を共有してくれるのは、こういう場合にとってはありがたい事だった。 まだマイが到着するまでの時間があるとわかった僕は、そのままスマホでSNSを開く。 「やっぱり、もつまる先生は更新してないな」 何度確認しても、ずっと更新されないもつまる先生のSNSを見て、そういえば僕も、長らく文章を綴っていない事を思い出した。 初対面で薪無先生に夢想家なんて呼ばれた事もあったが。 実際、僕には小説を書いて、世間の大衆から分け隔てなく絶賛されたいなどと思うほどの志は特に無かった。 誰にでも受ける大衆性や娯楽性とは、僕にはやはり無縁だったからだ。 僕が文章を綴るのは、常に僕の思考を押し付けるだけの極めて独りよがりな自慰行為に他ならない。 きっと僕は、最高に気持ちの良い極上の自慰行為を、世間の目先で見せつけて、よがりたい。 ただ、それだけなのだ。 それでも、僕の小説を見て共感を表してくれる、かけがえの無い読者がぽつぽつといるというのは、純粋に嬉しい限りで。 簡単に個人の発言が許されて、なんだか声が大きくなってしまったマイノリティの、そのまたさらに先にあるような、限りなく孤独に近い人々の思想の分母を拾い上げている感覚になり、まだまだ世間も捨てたもんじゃ無い。などと勝手に都合良く解釈する事もあった。 そんな中。 僕は本当は初恋の“あの娘“の事が書きたかった。 埃っぽい思い出を記憶から掘り起こし、その芳醇な香りを鼻いっぱいにすするように、僕は僕の文で“あの娘“を生かしたかった。 でも、不思議な事に何度書いても、もつまる先生の“あの娘“を超えられないのだ。 僕はそこに大衆性と娯楽性の絡んだ魅力というものを見出していて、決して僕には描《えが》けない、理想的な“あの娘“という圧倒的な存在に恋焦がれてしまったのだ。 つまるところ、現実に虚構を程良く絡めたものは、全てを凌駕すると悟っていた。 だから僕は、今ならなんとなく。 人が何故、その背
土曜日だった。 僕のバイト先であるセル店には、土日にイベントという物があり、それはAVのセクシー女優を招き、ファンサービスをするという物だった。 もちろん当たり前だが、なにも性的なサービスをするわけではない。 水着で写真撮影したり、握手したり、サインを書いたりと、大体やる事はファンと近しいアイドルなんかと一緒だ。 僕が出会った女優は、基本的に皆、愛想が良く綺麗な人が多かった。 それでも、中にはごく稀に横暴な人もいたし、それでなくとも、ファンから貰った贈り物の一部は捨てて帰る人が多かった。 それは特に食べ物の類だ。 口に運ぶものはどうしても仕方がないのだ。 何故ならそれが安全という確証が全くないのである。 ファンの皮を被って、何がきっかけか、恨みを抱いた人物の悪意というのは、一体何をしでかすかわかったものではない。 だから、毎回イベント後には沢山の供物が店に残り、僕はいつもそれをありがたく貪っていた。 そう、僕にとっては、万が一毒が盛られていようが知った事ではなかったのだ。 もし、この程度のくだらない事で死ぬのならば、その時はその時だと、腹を括っていた。 それほどまでに最近の僕は、特に生にしがみついてなどいないのだ。 そして、イベントが無事終わり、女優が帰った後、今日残されたものは、なんだか見た事もない洒落たドーナツだった。 一切口をつけられずに、寂しく残されたそれを、僕は箱のまま家に持ち帰ろうと準備した。 そんなシフトを終えた夕方。 僕が店を出て駅の方へと少し歩いたところで、その声は聞こえた。「肯太郎さん! お疲れ様です! さあ、こちらをどうぞ!」 差し出されたのは、微糖の紅茶。 差し出したのは、あの制服に身を包んだマイだった。「おいおい、なんでマイがいるんだ? しかもまた制服だし……」 いきなりの事で感謝の言葉をかけるのも忘れた僕は、ひとまず紅茶を受け取る。 しかし、マイはなんだか複雑そうな顔をしていた。「すみません! 明日のデートが待ち遠しくなり、会いに来てしまいました! しかし、ワタシはとんでもないものを見てしまったのです! まさか肯太郎さんがそんな人だとは思ってもみませんでした!」 怒っているのか、なんなのか。 マイはカクカクとしたぎこちない動きで、金色のアホ毛をゆらしながら、強めに言い放つが、僕はその