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『慌しい哺乳類の飛翔』

last update Last Updated: 2025-12-03 18:28:34

 次の休みの日。

 僕と彼女は、上野駅で合流をした。

 その日、彼女は私服だった。

 白い襟付きのロングワンピースに身を包んだ彼女は、学校にいる時よりも一層美しく、長い金髪も相まって、遠目から見てもわかるほどに際立っていた。

 僕はそれを見て、美術部員の悲しき男子共を出し抜いたという優越感が立ちのぼり、鼻を伸ばす。

 ただし、僕はただの夏制服だった。

 その中でせめてもと思い、ワイシャツだけはおろしたてにしたものの、待ち合わせ場所までの道中に初夏の厳しい日の光を浴びてしまい、結局は汗で萎びてしまう。

 この着飾る事への美的感性を持たないあたりが、やはり僕も悲しき男子共と変わらない大衆の一部である事を思い知らされ、ため息を吐いた。

「それでは行きましょうか」

「……うん」

 互いの感想も特にないまま、口数も少なく歩き始めた僕達は、何とも言わずに美術館の方へと向かった。

 僕は最初、何故いきなり上野に誘われたのかと不審に思ったが、まあ美術部で上野と言ったら美術館で間違い無いだろうと思い、調べた結果、特別展の内容を見て納得した。

 フェルメール展がやっていたからだ。

 それは、僕が拾ったウルトラマリン──。

 フェルメールブルーの件だろう。

 彼女は、その絵の具が使われた作品を見せるために、今日僕を誘ったのでは無いかと考えた。

 だから昨晩の僕といったら、ろくすっぽ寝ずにフェルメールについて調べ、朝を迎えていた。

 それはなにも知識をひけらかしたかったわけじゃない。ただ、彼女と同じ立ち位置で絵を見たかっただけなのだ。

 ──しかし。

 程なくして、美術館の前にたどり着いた時。

 なんと、彼女は美術館に目もくれず、そのままスタスタと速度を落とさずに道を進んで行くではないか。

 それに驚いた僕は、思わず声をかけた。

「ちょ、ちょっと!? あの、美術館ここだけど……フェルメール展を見るんじゃないの?」

 すると振り向いた彼女は、不思議そうな顔をして僕を見つめていた。

「美術館? いえ、そこに用事はないですよ」

 おい、マジか。

 美術部の僕達が、美術館を素通りするのは流石におかしいだろ。

 ウルトラマリンをあんなに大事そうに抱えておいて、君の目当てはフェルメールじゃないって言うのかよ。

「ウソ……」

 じゃあ、僕のあの努力は一体……。

 絶望した僕は、ぽつりと一言呟いてしまう。

 だが、彼女はしっかりと僕の目を見て言った。

「いえ、嘘じゃありませんけど……」

 それは少し色素の薄い、淡い赤茶色をした目だった。

 大きな丸い目。意志の強い眉。

 やはり僕は彼女の目力に魅了されていた。

 石化してしまったようにその場で固まった僕は、ただただ彼女の言葉を待つ事しかできず、それに気が付いた彼女は、うふふ。と小さく笑う。

「一緒に動物園へ行きましょう。ワタシは肯太郎さんと見たい動物がいるのです」

 そうして彼女は、僕を手を取り急かしたのだ。

* * *

 なんでも構わない。

 と言ったら嘘になるが、僕はくだらなくてもいいから、理由が欲しかった。

 思えばずっとそうだった。

 大体のニ〜六歳くらいの子供に訪れる『なんで期』をどうしようも無く引きずったかのように、僕はあらゆる事に、理由という疑問を投げかけては意味を探していた。

 だから結局、彼女が何故僕を選んで誘ったのかが気になって仕方がなかったのだ。

 最大のヒントであったフェルメールをすかされた僕は、もはや彼女が僕を誘う理由の心当たりがなくなってしまった。

 釈然としない、もやもやとした気持ちを胸に抱きながら、僕は彼女と一緒に入園口から伸びる長い列の最後尾に並ぶ。

 隣の彼女はきっと、腕を組みながら、眉間に皺を寄せた僕の姿を見たのだろう。

 彼女はとても察しが良かった。

「肯太郎さん。動物が好きそうだったので」

「え? 僕が?」

 驚いた。

 確かに僕は動物が好きだった。

 幼少期から生き物には強い興味があったと覚えている。

 当時から僕は、一般としては馴染みの無いような、不思議な熱帯魚を自室で飼育していたし、社会から忌み嫌われる、風変わりな生き物も総じて好きだった。

 彼らの存在に、理由と意味を考え、納得を見出す事が、僕はやっぱり好きなのだ。

 しかし、そんな事は誰にも話した事のない情報で、一体どこから僕にそんな印象を受けたのか分からず、疑問は更に深まってしまう。

 すると、彼女はまた口を開いた。

「展示会に出す絵。鳥を描いていたのは肯太郎さんとワタシだけでしたから」

 なるほど。そういう事か。

 彼女の言葉を聞き、少しだけその理由に歩み寄れた気がした。

 だが、それでもやっぱりズレているところがあった。

 彼女の言う展示会とは、区で行う夏の展示会の事で、小さなコンテストのような実に下らないものだ。

 最近は、その展示会用に作品を描いていた訳だが、新入生である僕達一年生にはざっくりとテーマが与えられていた。

 それは『空と翼』である。

 このテーマに沿って部員達は皆、思い思いに筆を走らせていたが、背中に羽の生えた人物画や、天使の様な架空のものを描いているばかりで、現生動物を描いているやつなんぞは思い返せば他にいなかった。

 でも、残念ながら僕が描いていたのは、鳥じゃない。

 その無知な勘違いに呆れた僕は、ため息混じりに彼女へと言った。

「勘弁してくれ……コウモリは鳥じゃないよ。翼を持った哺乳類だ」

 そう、僕が描いていたのは、都会の夕陽に舞う小さなアブラコウモリの絵だったのだ。

 途端に彼女は目を丸くし、小動物のように首を傾げていた。

「ええ? あれは鳥じゃないんですか? 空を飛べるのに?」

 やれやれと額に手を当てながら、仕方なしに説明をする。

 ややこしい話は省き、なるべく端的に伝えようとだけ心がけた。

「空を飛ぶ事が出来るのは、なにも鳥や虫だけじゃない。滑空という意味まで含めれば、トビウオだって飛べるし、モモンガやムササビも飛ぶ。他にも小さなトカゲやヘビですら、木から木へ飛ぶやつはいるよ」

 真剣な僕の話に、彼女は、ほえー。と言ったようなマヌケな顔をする。

 上品で美人な彼女のゆるんだ顔は、酷く情けなかったが、長く直視できないほど可愛かった。

 照れを面に出さないように、目線を外しながら僕は話を続けた。

「でも、哺乳類の中で唯一、自力で飛ぶ力があるのはコウモリだけだ。だから人間は分類を超えて鳥にはなれなくても、いつかコウモリにはなれるかも知れない。そしたら空を飛べるだろ?」

 それに彼女は手のひらを合わせて、顔に寄せながら、呑気に微笑むばかりだ。

「うふふ。肯太郎さんは、なんだかロマンチストなんですね。初めて知りました」

 僕は、自分の放った言葉の解釈をやたら純粋に受け取られたように感じて、少々焦り、慌てた。

「ちがうよ、皮肉だ。みんなが簡単に人間の背中に羽を生やして、漠然と空に憧れたりするものだから。だったら僕はちゃんとした飛べる理由が欲しいと考えたんだ。まあ、それであっても、僕には、人が空を目指す意味はわからないけどね」

 ──それでも。

「まあ、肯太郎さんはとても現実主義なんですね。教えて頂きありがとうございます」

 彼女の態度は特に変わらなかった。

 にこにこと愛想の良い顔をむけて、こくりこくりと頷いている。

 意味がわかったのか、わからないのか。

 それがわからない僕は、暖簾に腕押しを感じ、聞こえない程度のため息を吐くしかなった。

「別に礼を言われるほどの事じゃないよ。でも、これで少しは勉強になった? コウモリの事」

 なんでこんな話してるんだろ。と冷静になって頭をぐしゃぐしゃと掻く。

 その時。

 彼女は僕の目を覗いて、真っ直ぐに言った。

「いえ、肯太郎さんの事をよく知れましたので、ワタシはお礼を言いました」

 ぴたりと時が止まってしまう。

 おい。

 なんだよ、それは。

「はあ?! 意味がわからない! 今、僕の話なんかしてないぞ!」

 人混みだということも忘れ、反射的に大きく声を張ってしまった僕。

 そしてそれは、丁度入園のタイミングだった。

「うふふ。今日はたくさんお話をしましょう。もっとワタシに教えて下さい。肯太郎さんの事を」

 それだけを言って、長い金髪を揺らしながら歩を進める彼女。

 その後ろで、混乱した頭と心臓を労りながら、しっかりと一歩半、出遅れて行く。

 僕は、彼女が僕をここへ誘った意味を考えていたのだ。

 まさか、彼女は……。

 僕の事が知りたいとでも言うのか……?

 漠然と抱いた、そんな淡い期待。

 僕は胸を熱くさせながら──

 進むしかなかった。

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