LOGIN次の休みの日。
僕と彼女は、上野駅で合流をした。その日、彼女は私服だった。
白い襟付きのロングワンピースに身を包んだ彼女は、学校にいる時よりも一層美しく、長い金髪も相まって、遠目から見てもわかるほどに際立っていた。
僕はそれを見て、美術部員の悲しき男子共を出し抜いたという優越感が立ちのぼり、鼻を伸ばす。
ただし、僕はただの夏制服だった。
その中でせめてもと思い、ワイシャツだけはおろしたてにしたものの、待ち合わせ場所までの道中に初夏の厳しい日の光を浴びてしまい、結局は汗で萎びてしまう。
この着飾る事への美的感性を持たないあたりが、やはり僕も悲しき男子共と変わらない大衆の一部である事を思い知らされ、ため息を吐いた。
「それでは行きましょうか」
「……うん」
互いの感想も特にないまま、口数も少なく歩き始めた僕達は、何とも言わずに美術館の方へと向かった。
僕は最初、何故いきなり上野に誘われたのかと不審に思ったが、まあ美術部で上野と言ったら美術館で間違い無いだろうと思い、調べた結果、特別展の内容を見て納得した。
フェルメール展がやっていたからだ。
それは、僕が拾ったウルトラマリン──。
フェルメールブルーの件だろう。彼女は、その絵の具が使われた作品を見せるために、今日僕を誘ったのでは無いかと考えた。
だから昨晩の僕といったら、ろくすっぽ寝ずにフェルメールについて調べ、朝を迎えていた。
それはなにも知識をひけらかしたかったわけじゃない。ただ、彼女と同じ立ち位置で絵を見たかっただけなのだ。
──しかし。
程なくして、美術館の前にたどり着いた時。
なんと、彼女は美術館に目もくれず、そのままスタスタと速度を落とさずに道を進んで行くではないか。
それに驚いた僕は、思わず声をかけた。
「ちょ、ちょっと!? あの、美術館ここだけど……フェルメール展を見るんじゃないの?」
すると振り向いた彼女は、不思議そうな顔をして僕を見つめていた。
「美術館? いえ、そこに用事はないですよ」
おい、マジか。
美術部の僕達が、美術館を素通りするのは流石におかしいだろ。
ウルトラマリンをあんなに大事そうに抱えておいて、君の目当てはフェルメールじゃないって言うのかよ。
「ウソ……」
じゃあ、僕のあの努力は一体……。
絶望した僕は、ぽつりと一言呟いてしまう。
だが、彼女はしっかりと僕の目を見て言った。「いえ、嘘じゃありませんけど……」
それは少し色素の薄い、淡い赤茶色をした目だった。
大きな丸い目。意志の強い眉。 やはり僕は彼女の目力に魅了されていた。石化してしまったようにその場で固まった僕は、ただただ彼女の言葉を待つ事しかできず、それに気が付いた彼女は、うふふ。と小さく笑う。
「一緒に動物園へ行きましょう。ワタシは肯太郎さんと見たい動物がいるのです」
そうして彼女は、僕を手を取り急かしたのだ。
* * * なんでも構わない。と言ったら嘘になるが、僕はくだらなくてもいいから、理由が欲しかった。
思えばずっとそうだった。
大体のニ〜六歳くらいの子供に訪れる『なんで期』をどうしようも無く引きずったかのように、僕はあらゆる事に、理由という疑問を投げかけては意味を探していた。
だから結局、彼女が何故僕を選んで誘ったのかが気になって仕方がなかったのだ。
最大のヒントであったフェルメールをすかされた僕は、もはや彼女が僕を誘う理由の心当たりがなくなってしまった。
釈然としない、もやもやとした気持ちを胸に抱きながら、僕は彼女と一緒に入園口から伸びる長い列の最後尾に並ぶ。
隣の彼女はきっと、腕を組みながら、眉間に皺を寄せた僕の姿を見たのだろう。
彼女はとても察しが良かった。
「肯太郎さん。動物が好きそうだったので」
「え? 僕が?」
驚いた。
確かに僕は動物が好きだった。幼少期から生き物には強い興味があったと覚えている。
当時から僕は、一般としては馴染みの無いような、不思議な熱帯魚を自室で飼育していたし、社会から忌み嫌われる、風変わりな生き物も総じて好きだった。
彼らの存在に、理由と意味を考え、納得を見出す事が、僕はやっぱり好きなのだ。
しかし、そんな事は誰にも話した事のない情報で、一体どこから僕にそんな印象を受けたのか分からず、疑問は更に深まってしまう。
すると、彼女はまた口を開いた。
「展示会に出す絵。鳥を描いていたのは肯太郎さんとワタシだけでしたから」
なるほど。そういう事か。
彼女の言葉を聞き、少しだけその理由に歩み寄れた気がした。
だが、それでもやっぱりズレているところがあった。
彼女の言う展示会とは、区で行う夏の展示会の事で、小さなコンテストのような実に下らないものだ。
最近は、その展示会用に作品を描いていた訳だが、新入生である僕達一年生にはざっくりとテーマが与えられていた。
それは『空と翼』である。
このテーマに沿って部員達は皆、思い思いに筆を走らせていたが、背中に羽の生えた人物画や、天使の様な架空のものを描いているばかりで、現生動物を描いているやつなんぞは思い返せば他にいなかった。
でも、残念ながら僕が描いていたのは、鳥じゃない。
その無知な勘違いに呆れた僕は、ため息混じりに彼女へと言った。
「勘弁してくれ……コウモリは鳥じゃないよ。翼を持った哺乳類だ」
そう、僕が描いていたのは、都会の夕陽に舞う小さなアブラコウモリの絵だったのだ。
途端に彼女は目を丸くし、小動物のように首を傾げていた。
「ええ? あれは鳥じゃないんですか? 空を飛べるのに?」
やれやれと額に手を当てながら、仕方なしに説明をする。
ややこしい話は省き、なるべく端的に伝えようとだけ心がけた。
「空を飛ぶ事が出来るのは、なにも鳥や虫だけじゃない。滑空という意味まで含めれば、トビウオだって飛べるし、モモンガやムササビも飛ぶ。他にも小さなトカゲやヘビですら、木から木へ飛ぶやつはいるよ」
真剣な僕の話に、彼女は、ほえー。と言ったようなマヌケな顔をする。
上品で美人な彼女のゆるんだ顔は、酷く情けなかったが、長く直視できないほど可愛かった。
照れを面に出さないように、目線を外しながら僕は話を続けた。
「でも、哺乳類の中で唯一、自力で飛ぶ力があるのはコウモリだけだ。だから人間は分類を超えて鳥にはなれなくても、いつかコウモリにはなれるかも知れない。そしたら空を飛べるだろ?」
それに彼女は手のひらを合わせて、顔に寄せながら、呑気に微笑むばかりだ。
「うふふ。肯太郎さんは、なんだかロマンチストなんですね。初めて知りました」
僕は、自分の放った言葉の解釈をやたら純粋に受け取られたように感じて、少々焦り、慌てた。
「ちがうよ、皮肉だ。みんなが簡単に人間の背中に羽を生やして、漠然と空に憧れたりするものだから。だったら僕はちゃんとした飛べる理由が欲しいと考えたんだ。まあ、それであっても、僕には、人が空を目指す意味はわからないけどね」
──それでも。
「まあ、肯太郎さんはとても現実主義なんですね。教えて頂きありがとうございます」
彼女の態度は特に変わらなかった。
にこにこと愛想の良い顔をむけて、こくりこくりと頷いている。
意味がわかったのか、わからないのか。
それがわからない僕は、暖簾に腕押しを感じ、聞こえない程度のため息を吐くしかなった。
「別に礼を言われるほどの事じゃないよ。でも、これで少しは勉強になった? コウモリの事」
なんでこんな話してるんだろ。と冷静になって頭をぐしゃぐしゃと掻く。
その時。
彼女は僕の目を覗いて、真っ直ぐに言った。
「いえ、肯太郎さんの事をよく知れましたので、ワタシはお礼を言いました」
ぴたりと時が止まってしまう。
おい。
なんだよ、それは。「はあ?! 意味がわからない! 今、僕の話なんかしてないぞ!」
人混みだということも忘れ、反射的に大きく声を張ってしまった僕。
そしてそれは、丁度入園のタイミングだった。
「うふふ。今日はたくさんお話をしましょう。もっとワタシに教えて下さい。肯太郎さんの事を」
それだけを言って、長い金髪を揺らしながら歩を進める彼女。
その後ろで、混乱した頭と心臓を労りながら、しっかりと一歩半、出遅れて行く。
僕は、彼女が僕をここへ誘った意味を考えていたのだ。
まさか、彼女は……。 僕の事が知りたいとでも言うのか……? 漠然と抱いた、そんな淡い期待。僕は胸を熱くさせながら──
進むしかなかった。
薪無先生から聞いた夢乃マイの生い立ちは、凡俗な僕にはあまりにも理解し難いものだった。 それは決して悲劇的で、衝撃的な過去等ではなく。淡々と緩やかに歪んでいく、一見自然に見えるまでの不気味さからくる不協和を感じた。 まず、マイの両親は幼い頃に他界している。 しかし、こういう言い方もどうかと思うが、それ自体に大した意味はない。 と、いうのも、両親が他界したのは、マイがとても小さな時分の事であり、マイの記憶としては、両親はもういないところから始まっているとの事で。 その後も両親がいない事に対して、特別な負の感情は抱かなかったと、本人が言っていたらしい。 マイの問題とは、こういった何かの喪失や決定的なショックで起こったものではなく、ほんの些細なところのズレと、マイ自身の難儀な性格により発現した事である。 両親の他界後は、未成年後見人として、母親の姉にあたる伯母に引き取られ、その後マイは、特に何不自由ないと言って差支えない生活をしていた。 伯母は一人での生活が長く、貯えもそれなりにあったので、マイはひもじい思いなんかもしていなかった。 だけど残念ながら、ここで一つのズレが生じる事となる。 それは伯母に“子育ての勘“が無かった事だ。 薪無先生は、物事において“勘がない“というのは、何よりシンプルで、何より大きな欠点であると話す。 すなわち、いつまでたっても“勘“が掴めないものの難易度とは、思いの外とても高くなってしまうものなのだ。 所謂、“感覚“というものと同義だろう。 自転車に乗る時、自身の体を自然に制御し、いちいち手元や足元を見なくとも、軽く前に進めるようになるように、人はその“勘“や“感覚“で物事の理解や制御を早め、習得する。 だが、マイの伯母には子育てのノウハウに関して、そういった習得する勘というものが、一切備わっていなかった。 それによってマイは周りとは少し違う、どうにも特殊な環境で育つ事になってしまっていた。 具体的に言えば、伯母はマイを、“子供“としてではなく、“個人“として解釈していた。 伯母は自我の曖昧な子供に向かい、大人と同じような自我がある前提で育ててしまったのだ。 例えば、成人した同い年の友人が、突然仕事を辞めてしまったところで、誰も頭ごなしにすぐに次を探して働けなどと、上から目線で全力をかけて叱咤する事は無
薪無先生からマイの話を聞いた、次の日。 僕は店の裏でタバコを吸っていた。 相変わらず手で巻く事にこだわったタバコは、側から見れば、いつもと同じような重たい煙を上げていたが、それが放つ香りは以前とだいぶ違っていた。 何故なら僕はもう、紅茶の香りのするパラダイスティーを吸っていなかったのだ。 まだ口に馴染まない新しいフレーバーに、僕は戸惑いを感じながらも、ゆっくりと煙を肺に入れて、またゆっくりと煙を吐き出す。 疲れた頭にニコチンを染み渡らせると、わかりやすくクラクラして、寝ぼけた頭のように、ふわふわと不明瞭な自我の糸を綱渡りしながら、僕は頭をぐしゃぐしゃと掻いていた。「肯太郎さーん! おいしょ! あら、あらら!」 左から聞こえるのはマイの声。 格好はあの白いワンピース。 金色のアホ毛を揺らしながら、大きなお尻を金網のフェンスに擦って現れる。 そんなマイは無邪気な笑顔を浮かべていた。「おはようございます! こちらをどうぞ!」 綺麗な角度のお辞儀から差し出される、微糖の紅茶。 僕はそれを見て微笑む。 そう。あれから僕と夢乃マイとの関係は何も変わっていなかった。 ──上野デートの帰り際の事。 僕がトイレで散々吐いて満身創痍になり、ふらふらとそこから出ると、マイはトイレの前で心配そうに僕を待っていた。 大きな目に涙を溜めながら、眉を顰めて胸の前で手を祈るように組む、マイ。 そこにあの狂気の目はもうなかった。 マイは通常のマイに戻っていたのだ。「ああ、肯太郎さん!! お身体は大丈夫でしょうか? どこか具合が悪いのでしょうか? それともワタシが何か肯太郎さんに嫌われるような事をしてしまったのでしょうか? もしその様でしたら大変申し訳ございません!」 マイは僕に駆け寄って、ぎゅっと袖を掴む。 その言葉に嘘や裏は無いのがすぐにわかった。 マイは全力で僕を心配していたのだ。 もう出すものも全部口から出して、めまいと頭痛のピークも去ったと感じた僕は、これ以上の痛みのぶり返しを恐れて、なるだけ何事もなかったように笑ってみせる。「いや、大丈夫だよ。僕の金鶏に対する強い想いにマイも驚いてしまったんだろう。悪いのは僕の方だ。それじゃないなら、せめてはお互い様だ」「い、いえ。肯太郎さんは何も悪くなんてありません。きっとワタシが取り返しのつか
「あなたが薪無一郎《まきな いちろう》先生ですよね?」 足を踏み入れた小さな診療室の扉を閉めた後、私はすぐに彼へと話しかけた。 背を向けていた彼は、豪華な革張りの大きなソファに座っており、そのままくるりとソファを回転させ、こちらを向く。「おお!もしかして、本当に来てくれたのかい? いやぁ、良かった。待っていたよ! ささ、座って! 座って!」 促されるまま、私は遠慮なく椅子に座った。「薪無一郎先生。いきなり呼び出された立場として、一つ聞いてもよろしいでしょうか? あなたが私をこのタイミングで呼び出したのは、やはり何か、訳があっての事なのですか?」 私の質問に薪無先生はそのボサボサした頭をつまみながら、にへらにへらと軽薄に笑う。「いやいや。この度はいきなり呼び付けてしまって申し訳ない。いや、なに。そろそろ君にも話を聞かないといけないと思ってね。たぶん、現場が煮詰まってくる頃だからさ。そういう君も何となくの状況はわかっているんでしょ?」 それを聞いて、その何となくと言った事情をすぐに察した私は、なるほど。と頷いた。「それにしても先生は、よく私だってすぐにわかりましたね。私はSNSに顔も載せていないし、本名だって公開していないはずなのに」 「いやぁ、それは確かに君からみれば驚くのも無理はないよ。でも、私も今まで様々な患者を見てきたからね。まあ、簡単に言えば経験則ってやつかな。勘だよ。勘」 私は薪無先生の言った、『経験則』という言葉に疑いは持たなかった。 多分本当にこの先生は、今までの経験から来る研ぎ澄まされた勘で、私の事を見つけ出したのだろう。 しかし、こうもあっさりと見つけ出された事に、私は釈然としない気持ちもあった。 今までこんな事は一度もなかったからだ。 だから私は、次の言葉に少しばかりの皮肉を添えた。「そうですか。先生はお若そうなのに随分とまあ、良い経験をお持ちなようで」「あら、君から見てもそんなに若そうに見える? それは嬉しいね。私はあまり格好や外見に頓着する方では無いけども、ルックスはいいに越した事ないからね。患者もその方が安心するしさ。ねえ、君もそう思うでしょ?」「いえ、私はお若そうと言っただけで、別に先生のルックスを褒めたわけではありませんよ」「なーんだ。それは残念。釣れないねぇ」 つんと唇を尖らせて不貞腐れる薪無先
僕に処方されたご都合主義。 夢乃マイはとても素直な娘だった。 明るく、無邪気でいて、どんな些細な事でも全身で感情表現をする彼女。 その恥ずかしいまでの幼稚な振る舞いすら難なく許せるくらいに、マイは非常に可愛らしい女性だった。 小さな背丈でありながら、スタイルも良く。 大きな目、白い肌、小さな口、高い鼻。 現代の美的な要素を申し分なく、その顔に宿している。 腰ほどまである長い金髪は、前髪を真っ直ぐ切り整えた、艶のあるストレートヘアーで。 性格の隙を感じさせるような、頭頂部の揺れるアホ毛がまた愛らしく、ハキハキと喋る姿はなんとも誠実そうな印象をうける。 だからきっと、夢乃マイは何もなくたって、大衆の誰もが羨む可憐な美女なのだろう。 だが、僕はそんなマイの過去を全く知らない。 それどころか、誕生日も家族構成も、例えば好きな食べ物の一部ですら、僕はまだ知らないのだ。 ──擦り合わせ。 そうだ。 本来ならわかり合おうとするべきなのだ。 本来なら向き合おうとするべきなのだ。 僕は真っ直ぐに“夢乃マイ“を覗くべきなのだ。 それが薪無先生の言う、本来のセックスの意味なのかも知れない。 されども、残念ながら。 こんな僕はやっぱり、独りよがりな自慰行為しか出来ないのだろうか。 小説と同じように、自分の思想や価値観をそこに押し付ける事しか出来ないのだろうか。 そんな事に頭を悩ませていた。 ……それでも、ただ。 この僕の行いを、完璧な間違いだとは。 決してこの世の誰も、言えやしないのだろう。 それだけは都合良く。 僕はこの世界の懐の深さを── 信じている。* * * 夜の森を出た僕達は西園に渡り、更に様々な動物を見た。 ハシビロコウは一切動じず。 コビトカバは意外と大きく。 オカピは何だか良く分からず。 アイアイは思いの外醜かった。 僕とマイはその一つ一つを指差して。 驚いたり、笑ったり。 慄いたり、白けたり。 僕達の二人の関係が、訳の分からないご都合主義だなんて事は全部忘れて。 ただただ当たり前に。ごく普通に。 恋人としての距離を、真っ当に縮めていた。 しかし、その最中であっても、僕の足元に留まる影の中には、何やら不穏な得体の知れない物体が蠢いているのを感じざるを得なかった。 緩い風に乗って、ふ
待ち合わせ場所には、少し早く着いてしまった。 普段は殆ど来ない上野駅周辺を、先にぶらりと見て回ろうかとも思ったが、初夏の厳しい日照りがそれをやめさせた。 僕は震えるスマホをポケットから取り出すと、相変わらずマイからの細かいメッセージが入っていた。 ──今、駒込を出ました。 GPSなど付けなくても、勝手に位置情報を共有してくれるのは、こういう場合にとってはありがたい事だった。 まだマイが到着するまでの時間があるとわかった僕は、そのままスマホでSNSを開く。 「やっぱり、もつまる先生は更新してないな」 何度確認しても、ずっと更新されないもつまる先生のSNSを見て、そういえば僕も、長らく文章を綴っていない事を思い出した。 初対面で薪無先生に夢想家なんて呼ばれた事もあったが。 実際、僕には小説を書いて、世間の大衆から分け隔てなく絶賛されたいなどと思うほどの志は特に無かった。 誰にでも受ける大衆性や娯楽性とは、僕にはやはり無縁だったからだ。 僕が文章を綴るのは、常に僕の思考を押し付けるだけの極めて独りよがりな自慰行為に他ならない。 きっと僕は、最高に気持ちの良い極上の自慰行為を、世間の目先で見せつけて、よがりたい。 ただ、それだけなのだ。 それでも、僕の小説を見て共感を表してくれる、かけがえの無い読者がぽつぽつといるというのは、純粋に嬉しい限りで。 簡単に個人の発言が許されて、なんだか声が大きくなってしまったマイノリティの、そのまたさらに先にあるような、限りなく孤独に近い人々の思想の分母を拾い上げている感覚になり、まだまだ世間も捨てたもんじゃ無い。などと勝手に都合良く解釈する事もあった。 そんな中。 僕は本当は初恋の“あの娘“の事が書きたかった。 埃っぽい思い出を記憶から掘り起こし、その芳醇な香りを鼻いっぱいにすするように、僕は僕の文で“あの娘“を生かしたかった。 でも、不思議な事に何度書いても、もつまる先生の“あの娘“を超えられないのだ。 僕はそこに大衆性と娯楽性の絡んだ魅力というものを見出していて、決して僕には描《えが》けない、理想的な“あの娘“という圧倒的な存在に恋焦がれてしまったのだ。 つまるところ、現実に虚構を程良く絡めたものは、全てを凌駕すると悟っていた。 だから僕は、今ならなんとなく。 人が何故、その背
土曜日だった。 僕のバイト先であるセル店には、土日にイベントという物があり、それはAVのセクシー女優を招き、ファンサービスをするという物だった。 もちろん当たり前だが、なにも性的なサービスをするわけではない。 水着で写真撮影したり、握手したり、サインを書いたりと、大体やる事はファンと近しいアイドルなんかと一緒だ。 僕が出会った女優は、基本的に皆、愛想が良く綺麗な人が多かった。 それでも、中にはごく稀に横暴な人もいたし、それでなくとも、ファンから貰った贈り物の一部は捨てて帰る人が多かった。 それは特に食べ物の類だ。 口に運ぶものはどうしても仕方がないのだ。 何故ならそれが安全という確証が全くないのである。 ファンの皮を被って、何がきっかけか、恨みを抱いた人物の悪意というのは、一体何をしでかすかわかったものではない。 だから、毎回イベント後には沢山の供物が店に残り、僕はいつもそれをありがたく貪っていた。 そう、僕にとっては、万が一毒が盛られていようが知った事ではなかったのだ。 もし、この程度のくだらない事で死ぬのならば、その時はその時だと、腹を括っていた。 それほどまでに最近の僕は、特に生にしがみついてなどいないのだ。 そして、イベントが無事終わり、女優が帰った後、今日残されたものは、なんだか見た事もない洒落たドーナツだった。 一切口をつけられずに、寂しく残されたそれを、僕は箱のまま家に持ち帰ろうと準備した。 そんなシフトを終えた夕方。 僕が店を出て駅の方へと少し歩いたところで、その声は聞こえた。「肯太郎さん! お疲れ様です! さあ、こちらをどうぞ!」 差し出されたのは、微糖の紅茶。 差し出したのは、あの制服に身を包んだマイだった。「おいおい、なんでマイがいるんだ? しかもまた制服だし……」 いきなりの事で感謝の言葉をかけるのも忘れた僕は、ひとまず紅茶を受け取る。 しかし、マイはなんだか複雑そうな顔をしていた。「すみません! 明日のデートが待ち遠しくなり、会いに来てしまいました! しかし、ワタシはとんでもないものを見てしまったのです! まさか肯太郎さんがそんな人だとは思ってもみませんでした!」 怒っているのか、なんなのか。 マイはカクカクとしたぎこちない動きで、金色のアホ毛をゆらしながら、強めに言い放つが、僕はその