LOGIN十五歳のあの頃、僕は美術部だった。
僕は別段、芸術に執着していた訳でもなかったが、流れ着いた美術部の空気は悪くなかった。
そこには、大勢の中の孤独というものがあり、群れをなしていても、唾を飛ばす事はなく、各々は黙々と自身の制作に努める。
あの、一種の修行というか、瞑想というか、そんなものにも通ずるような、半端に重い空気感が僕は嫌いじゃなかった。
そこでは僕は、絵を描いていた。
絵は常に勝手な妄想を許そうとした。
筆を走らせ、白紙のもとへ滲む、色とりどりの個性と感性は、その一切を他者の価値観に縛られる事なく。
誰もが理解に苦しむだろう、局所的な偏愛をも、おおらかに受け入れるような顔をしていた。でも、そんな無垢すぎる白紙の、何ものでも受け入れようとするその素振りが、僕を深い母性で包み込むと同時に、途方も無い不安を押し付けようとした事を覚えている。
白無地とは、時に
“あの娘“もそこにいた。
目を引く金髪の彼女は、とても上品であり、所謂《いわゆる》、お嬢様という印象だった。
ただそれも、今思えば。というところであり、当時の僕は彼女がお嬢様だなんて、特に思った事はなかった。
彼女は、明るくて、優しく。
それでいて、意志は強く。行動力がある。その上また、部の中でも群を抜いて美人でいて可愛いものだから、芸術の美的感覚なんぞを知った気になっている悲しき男子共は、気品漂う彼女の存在に、すべからく骨抜きになっていた。
そんな、常に人の輪の中心に咲く彼女の筆は、油彩であった。
学生の時分で絵を描くものにとって、真っ先に油彩を取るというのは、大袈裟に言えば、富の象徴だったと思う。
油彩とは、画材に酷く金がかかる物だからだ。
そういうところで見ても、やはり彼女は金銭に困窮する事とは無縁のお嬢様という存在であった事に気付かされる。
一方。
人々の片隅に、ひっそりと潜んだ僕はと言えば、小悪党にも満たないちんけな悪ガキで。
人がいない間に教材室の鍵を拝借しては、そこからバレない様、使いたい色の水彩ガッシュを一本、二本とくすねて使い、金を浮かせていた。
──そういう、二人。 水彩を描きむしる哀れな僕と。 油彩を厚く伸ばす可憐な彼女。僕は、彼女に興味など無かった。
それは文字通り、決して交わる事の無い。 水と油のようだと思っていたのだ。見ている世界も、生きる世界も違う。
不思議な壁に隔たれた。
現実と夢のようだ。とも思って──僕は。
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしるばかりだった。
* * * 初夏に差し掛かった、とある日の事だった。僕は部室の前の階段で、奇妙な物を拾った。
それは小さくて硬い、黒い紙の箱で。
一見するとつまらない化粧品の様にも思えた。──だが。
その箱を開けてすぐに、それがとんでもない代物だと僕は気が付く。
そしてたちまち、ニヤリと顔を歪ませた。
これを手癖の悪い僕が拾ってしまったのは、元の持ち主の運が相当に悪かったと思ってしまうほどだ。
なので、次の瞬間にはもう、僕はどうやってこれを金に変えるかだけを考えていた。
誰にも見られぬように警戒しながら、すぐさま学ランのポケットに仕舞って、何食わぬ顔で部室の扉を開ける。
すると、真っ先に艶やかな黄金色の髪が見えた。
その日は珍しく、彼女一人だけだった。
椅子に座り、姿勢を正してキャンバスに向かっていた彼女は、突如として入って来た僕に驚いたのか、びくりと体を震わせると、こちらを一瞥して、とりあえず微笑む。
反して、僕の顔は険しかったと思う。
別に入って来ただけだ。
無視をしとけばいいものの、そうやって律儀に挨拶なんてするものだから、他の悲しき男子共は勘違いを起こすんだ。
そう思って、僕は特に会釈もしなかった。
イーゼルを避けながら彼女の傍を通り、自分の席へと座る。
いつも僕は、彼女の真後ろの席で描いていた。僕はベニヤに貼った自分の絵にため息をかけると、その奥で小刻みに揺れる金髪を見る。
落ち着きのない様子は明らかに不審だ。
それに僕はなんだか気味が悪いとすら思い、嫌悪したのを覚えている。
初夏で蒸し暑くなりたての、ただ広い無音の部室で、小さく縦に並んでしまった僕達。
気まずくなって、僕が水を取りに行こうと立ち上がった時。
彼女は僕の袖を引いた。
「すみません、榊さん。大切なものを落としてしまったのです。心当たりはありませんか?」
僕は心臓が飛び跳ねるのがわかった。
いきなり彼女に袖を引かれた事も、喋りかけられた事も、僕にとっては不測の事態だったからだ。
一瞬の沈黙を経て、僕はしらを切った。
「大切な物? 一体何を落としたんだ?」
僕は彼女の方へしっかりと向かないままだったが、視界の端で彼女が俯くのだけを感じていた。
「ラピスラズリです」
……やはりか。
彼女の言葉に思わず僕は、ごくりと唾を飲んだ。
だが、それでもとぼけて見せた。
「ラピスラズリ? それは青い石の事か? 残念だけど、それなら見ていないよ」
彼女は頭を横に振る。
「天然のラピスラズリを砕いて作られたウルトラマリンです。小さな黒い箱に入っていました」
──そう。
僕が拾ったあの箱の中身は絵の具だった。
それもただの絵の具じゃない。天然石ラピスラズリを砕いたウルトラマリン。
海を越えて来たという意味から、ウルトラマリンと名付けられ、画家フェルメールが借金までして使ったと言われる、世界に愛された青。
別名──フェルメールブルー。
僕の浅知恵でもわかる程に有名なそれは、嘘か誠か知らないが、時代によっては金《きん》より価値を成した、世界で一番高い絵の具と呼ばれる代物だった。
それが今、僕のポケットの中に入っている。
正直、僕は苛立った。
こんな高いものを学生身分で平然と手に入れる彼女の経済力に嫉妬した。
そしてなにより、そんなものを落とすなどという平和ぼけしたぬるい神経が、気を張って生きている僕にとっては特に気に食わないものだった。
「そうか、君はあのウルトラマリンを使うほどの絵を描くのか。そんな絵、僕も見てみたいね」
皮肉を込めた台詞は、とてもじゃないが彼女の好感などを気にして吐いてはいなかった。
むしろ嫌われろとすら思っていたのだ。
だから僕は、わざと彼女の顔を真正面から覗いてやった。
さあ、歪め。さあ、憤れ。さあ、嫌え。
さあ、さあ、さあ!
──なのに、彼女は……。
そんな僕に向かって満面の笑みを向けたのだ。「はい! 生きているうちに必ず!」
──その時。その時だった。
はっきりとわかる。
深く思う。僕の胸の奥が、太陽のように熱くなり。
身体の熱は、口の水分を蒸発させる。波動する鼓動が、直接自分の鼓膜を犯し。
得も言われぬ感情が、僕の小さな脳を焼いた。……そうだ。
あれを見てしまったのが、全ての始まりだったんだ。
何故なら僕は── 恋よりも深く。愛よりも濃く。 もう、どうしようもない程に。彼女の美しさに、“魅せられて“しまったのだから──。
「……無くなってしまったら困るんです。あれはそう簡単に手に入るものではありませんから」影を落とした彼女の表情に、僕は先程までと打って変わって、痛みを伴うまでになっていた。
直前までの僕は、彼女にウルトラマリンを返す事に、何の理由も意味も無いと思っていた。
だけど、この一瞬で見出してしまった。
僕が彼女にウルトラマリンを返すのは、可憐な彼女を悲しませたくないという幼稚な理由で。
その先には、彼女の描く絵を見て見たいという、漠然とした意味になっていたのだから……。
「ああ、これの事かな。部室の前に落ちていたから拾ったよ。水彩の僕には必要の無いものだから、どちらにしても、油彩の君に渡すつもりだったんだ。大切な物なら落とさないようにしなよ」
そう言って、当然の顔をして黒い箱を渡す。
心のパレットで調色をするように、嘘を交えた言葉を投げた僕は、ちゃんと卑怯者だなと思った。
でも、こうも簡単に卑怯者になってしまうほどには、もう既に、僕は彼女に好かれたくて堪らなくなっていたのだ。
突然現れた黒い箱に、目を丸くして驚いた彼女は、心配事の闇が晴れたのだろう。
恥ずかしげも無く、無邪気な笑みを浮かべて喜んでいた。
「あっ! ありがとうございますっ!! 良かった、本当に良かった!! 本当に感謝します!」
大事そうに箱をぎゅっと握りしめた彼女の姿を見た僕は、不思議と感じたことのない幸福感で満たされる。
これで良かったんだと安堵して、僕だけに向けた彼女の美しい笑顔に、ただただ見惚れるばかりだった。
──それから。
しばらくして、ぞろぞろと部員達がやって来ると、いつもの変わらぬ部活動が始まった。
その最中は大して変わりはしなかった。
時折、彼女が女子と親しげに話をしたり、勘違いを起こした悲しき男子に絡まれたりするのを、僕は後ろから眺めながら、黙々と絵に向かいその鬱憤を晴らしていたと思う。
ああ、遂に僕も、高嶺の花である彼女に魅せられ、下らない大衆に取り込まれてしまったんだな。
そう思って憂いていたのだ。
それに気がつくと僕は途端にやるせなくなり、筆の調子はみるみる下がった。
ダメだ、鈍った。
自分の弱さに呆れた僕は、今日は早めに帰ろうと片付けを始めて、最後に汚れた水を捨てるために立ち上がり、彼女の傍を通る。
そこでまた、彼女は僕の袖を引いた。
「あの、肯太郎さん。今度一緒に上野へ行きませんか? ワタシ、一緒に見たいものがあるんです」
ぴたりと固まる僕。
「え? ああ、構わないけど……」
不意の事に混乱した僕は、彼女の誘いの意図もわからず、生返事をした。
だからその時、気が付いていなかった。
彼女が多くの部員の中で、僕だけを──下の名前で呼んだ事に。
──あなたの事を愛しているからですよ。 そのマイの一言に。 僕の頭はもう、実態のあやふやで、すぐに溶け出してしまう綿菓子が詰め込まれたかのように、何もかもが幻の如く、不明瞭な不確かさで埋め尽くされていた。 マイは存在証明を求めていた筈だった。 シュレーディンガーの猫である筈だった。 その為の僕であり。 その為の交接であり。 それこそが、暗いトンネルから出る為の、マイの望む“結果“である筈だった。 なのに……。 そこに、確かな愛情が芽生えていた。と言う、“予想外れの期待“が、僕の胸を存分に掻き乱した。 マイの目から滑り落ちた涙が、嘘のように煌めいたのを見る。 それが地に落ちる時に、マイは口を開いた。「ワタシの交接への強い願望を前に、あなたがただただ逃げているだけだなんて、ワタシは決して思っていやしませんよ。あなたはちゃんと自分の視点からワタシを救おうとしていた。なのに、結局の問題はあなた自身にある。そこ原因を紐解く事こそが、ワタシの出来る最大限の手引きなのだと、つい先程、ワタシは心を決めた次第です」 まさに、上出来だった。 野暮な思想や言葉を全て蔑ろにする、途方もない抱擁がそこにはあった。「なんだそれは……。まさか君はこんな情け無い僕の事を、打算的な感情を一切持たずして、嘘偽りなく本当に愛していたというのか?」 また体が震え始める。 だが、それは先までの恐怖とは違った。 マイの底知れない寛容さに、震えたのだ。 そんな事あってたまるかという思いもあった。 僕がマイに求めたものは、どこまでいっても“あの娘“の影の断片だと言うのに。 それに気が付きながらも、マイは僕の事を心から想い、真っ当に恋をしていたというのならば、僕がこんなにも小さな気持ちになるのは、避けられない仕打ちだった。 涙を搾るように目を瞑ったマイは、僕との心の距離を測り、残された言い訳を全て踏み潰そうとしたのだと察した。 それからマイは、僕に向かって真剣で低い声をかけた。「肯太郎さん、よく聞いて下さい。人が人に惹かれ、恋をして、愛情を抱くのは何も当たり前の事なんかじゃありません。そこには糸のような細くて拙い、“理由や意味“があり、その先には、必ず相手と残したい“結果“が存在する……」 微笑みを隠さずに、マイは丁寧に言葉を紡いだ。「経済的、もしくは文化
僕は目眩を起こす程に、激しく視界が点滅するのを感じて、脳内に強烈な一つの思考が張り付いた。 ……マイが“あの娘“の事を、知っている。 僕がマイの人格を、“あの娘“として塗り潰そうとしていた事を、全て知っている……。 その事実を認識してしまっただけで、僕の腹にぎゅうぎゅうと収めていた、黒くて汚い内臓は今にも飛び出しそうになっていた。 強烈な吐き気を抑えようと、両手で口を塞ぐ。 とにかく視点がズレて定まらないのは、動揺しているからという理由だけじゃ、ありえない。 僕の体の中の、その奥の奥に眠る、根本の芯の部分から、否が応でも震えて止まらないのだ。 マイは僕をじっとりと見ていた。 上から僕をしっかりと見下《みくだ》していた。 そのマイの視線が、容赦なく心に突き刺さる。 それが針や槍なんて幼稚な物で言うには、生ぬるくて仕方ないと感じるしかなかった。 それは、人を最果てまで追い詰める為に、鋭く斜めに刃を付け、研がれた、分厚い切先で。 触れただけで人の皮膚を簡単に引っ剥がす、極寒の霜に覆われた鉄骨のような厳しさだった。 そんなものを脳天から真っ直ぐに振り下ろされた後には、背骨の髄を撃ち抜いて、細く張り巡らせていた重要な神経の隅に至るまで、雷《いかずち》の如き高圧の電流を素早く流し、全ての感覚を死滅させた。 そうして、やっと知る。 ……僕は夢乃マイの事を誤解していたのだと。 薪無先生に言われた通り、僕は確かに驕っていた。 今までの僕は、マイの事を純粋無垢で何も考えていない存在として、”そういうもの”だと勝手に思い込んでいたのだろう。 もしくは、もっと酷い言い方をするのであれば、マイの事を、抽象的で概念的な“都合の良い人形“とでも、深層心理の中で不器用に積み上げていたとすら振り返り、感じる事ができた。 なので、僕は僕の意志でしかこの物事は進みようが無いのだと、いつからか錯覚し、誤解していたのだ。 たった今、その事実に気付かされたという絶大なショックが、体中を縦横無尽に飛び回りながら混沌として渦を巻いた。 ──だけれども。 そんな事は、僕が真っ向から咎められるべき責任よりも大幅にそれた、実に仕方がない出来事だとも、僕は脳内で冷徹に翻《ひるがえ》り、苛立ってもいた。 何故なら所詮、この話は、僕が主観
鍵を開けたその部屋は、十二畳の1Kだった。 決して広いとは言い難いが、一人暮らしには十分だと感じられるほどの空間だ。「とりあえず、遠慮せずに上がってくれ」 僕は玄関で乱暴に靴を脱いで、いつも通り何も気にせずスタスタと上がるが、マイは僕の放った靴を手早く屈んで拾った上に、それは丁寧に揃えると、玄関の端に並べて寄せた。「失礼します! お邪魔させて頂きます!」 大きな声と共に、ぺこりと綺麗にお辞儀して、申し訳なさそうに壁に手を添えながら、後ろに足をあげ、上品にローファーを脱ぐマイ。 僕はまだ、釈然としない胸のざわつきを抱えて緊張していたが、そういう大袈裟で大胆かつ繊細なところが、なんだかマイらしくて笑えたし、やたらと可愛く思えて、少し辛くなった。 踏み入れた僕の部屋に、物という物は大して多くなんてなかった。 小説や漫画の刺さった本棚とパソコンデスク。 パイプフレームの安いシングルベッドと小さなガラクタ棚。 後は……。 存在感を放つ、一本の水槽が置かれていた。 玄関から部屋に入り、一番目につく位置に置かれた大きなそれは、上面に取り付けられた青白いライトで照らされている。 濾過《ろか》フィルターから循環して戻ってきた水が、表面に水流を作り、波立たせ、閉め切った薄暗い部屋の壁に大きな波紋を映し出していた。 さながらそれは、部屋全体を水没させたと錯覚させるほどの、幻想的な揺らめく淡い光に満たされていて、まるで外界からの影響を受けずに隔離された、永遠の空間にも感じられた。 しかし、こんなのは僕としては日常的な事で、普段から部屋の明かりをつけないものだから、特に見慣れた光景になっていたが、マイは流石にすぐに気がついて、それは強く興味を持った。「な、なんですか?! とても美しいです!」 明るくはしゃいで、うっとりとしたマイは、話を聞かない子供のように慌てて水槽へと駆け寄って跪《ひざまず》くと、ガラスに手を付き、なんなら鼻先までをちょこんと付けて、懸命に中を覗き込む。 だが、その水槽の中には、おそらくマイが期待したであろう、美麗な熱帯魚の群などは泳いでいない。 きっと落胆して肩を落とすかもしれないと懸念して、僕は自分が何も悪く無いにも関わらず、なんだか少々ばつが悪くなるのを感じた。 そこに入っていたのは、深緑色をした丸太のような風体の、
その日は僕の住むアパートの最寄りである、四ツ谷駅で待ち合わせをした。 繁華街ではないものの、サラリーマンの多い新宿通りは、どの時間帯でも人がいて、秋葉原とはまた違った雰囲気の都会感がある。 確かマイは池袋が最寄りだと言っていたので、僕はJRの方ではなく、丸の内線の改札前で待っていた。 それから程なくして、マイは現れた。 僕にとってはだいぶ見慣れてしまったマイの容姿だったが、普段のなんて事はない最寄り駅の情景と重なると、なかなかやはり人混みの中でもよく目立つもので。 長く艶めいた金髪はそれだけで目を引くし、そして何より、その身分を偽って纏った、清楚なロングスカートの制服姿は、軽く周囲をぎょっとさせるくらいには現実味を置き去りにする可憐さがあった。「肯太郎さん! 申し訳ございません! 大変お待たせ致しました!」 パタパタと駆け寄ってきたマイは、近くで見ると淡いピンクの口紅を引いていた。 僕はその唇に、今日という日にかけたマイの期待と覚悟を直視してしまいそうになり、慌てて頭頂部の気の抜けたアホ毛に目を移し、話す。「おはよう。大して待ってないから大丈夫だよ。さあて、どうしようか。すぐに僕の家に行っても、面白いものは無いからつまらないだろうし、どこか飲食にでも入って食事でもしようか?」 待ち合わせしたのは大体、正午だった。 四ツ谷という土地の性質上、サラリーマンが昼休憩を取る正午は、飲食店に彼らがごった返す。 なのでそれをあえて狙って、昼食に誘おうと思ったのだが、マイは僕の提案に勢いよく首を横に振った。「いえ! 肯太郎さんが特に空腹で無いのであれば、ワタシも空腹ではありませんので、どこにも寄らずお家にお伺いする方向で構いません!」 ああ……そうか。だとすると。 このまま直行になってしまうな……。 僕は顎に手を添えて考えたが、確かに僕も変な緊張で空腹感はなく、ここはもう白旗だった。 これの何が白旗なのかと言うと。 正直僕は、少しでも自然に時間稼ぎがしたかったのだ。 先日の僕は、覚悟を持ってマイを家に呼ぶ事に決めたのだが、その後の薪無先生との話で、あの決断が早計だと知らされた。 暗いトンネルを出る為の、もう一つの鍵。 僕の過去に直結する、その鍵を探さなくてはならなかったのだ。 けれども、そんな抽象的すぎるそれに心当たりが
「遂に終幕って感じの顔をしているね。少年」 薪無先生は左手でペンをくるくる回しながら、口角を上げる。「いえ。まだ、何も終わってませんよ。終わるとしたら、これからなんですから」 マイとの予定を明日に控えた僕は、この判断が本当に正しいのかと不安になり、薪無先生の下へと訪れていた。「じゃあ何故にそんなスッキリした顔をしてるんだい。まるでトンネルの出口が見えかけて、光が差してるみたいな様子だ」 僕の顔を見て、薪無先生は唇を尖らせて訝しんだ。 この診察室には鏡がないものだから、僕としては自分が一体どんな表情をしてるのかもわからない。 でも、きっと少し落ち着いた顔なんだろうという事だけは、何となくそれでわかった。 なので、僕はマイと一線を越える覚悟を決めた旨を先生に伝えようとするが、普通に気恥ずかしいもので、尻込みする。 いや、薪無先生ならこれで十分伝わるだろう。 そう思って、僕は端的に述べた。「明日、マイを家に呼びます」 その途端。 一瞬、驚いた顔を覗かせて、あー。と声を漏らし、徐々になんだか渋い顔に変わる薪無先生。 目を瞑って、こめかみをぽりぽり掻いた後。 先生はジト目を僕に向けた。「君は出来ないよ。セックス」 意図が伝わるどころか、その先を読んだようにスパッと一刀両断されてしまった僕は、気が抜けて、ぽかんと口を開けてしまう。「は?」 薪無先生は深いため息を大袈裟に吐いて、呆れた口調で僕に言った。「あのさぁ、前にも言ったでしょ。セックスってのはただ単純に、少年のその焦って硬くした不安をマイちゃんにぶち込めばいいって訳じゃ無いんだぜ? それとも何か? 少年は前戯も無しにいきなりぶち込む畑の人? そういう趣味?」 おい。流石に酷いだろ。 人の事を勝手に激ヤバな強姦魔に仕立て上げないでくれ。 突拍子もない酷い扱いを受けて、僕も思わずジト目を返す。 「いやいや、何もそんな言い方ないじゃないですか! 下品な言い方はよしてくださいよ! 僕はただ、マイの欲求が大きくなって、これ以上溢れ出たらいけないから何とかしようって思って……」「それは奢りだ」「……え?」 いきなり事で、いつそうなったのか僕は気が付かなかった。 薪無先生は笑っていなかった。 鋭く目を細めながら、笑い事じゃないよ。と言いたそうな圧のある目を僕に向ける。「君は
薪無先生から聞いた夢乃マイの生い立ちは、凡俗な僕にはあまりにも理解し難いものだった。 それは決して悲劇的で、衝撃的な過去等ではなく。淡々と緩やかに歪んでいく、一見自然に見えるまでの不気味さからくる不協和を感じた。 まず、マイの両親は幼い頃に他界している。 しかし、こういう言い方もどうかと思うが、それ自体に大した意味はない。 と、いうのも、両親が他界したのは、マイがとても小さな時分の事であり、マイの記憶としては、両親はもういないところから始まっているとの事で。 その後も両親がいない事に対して、特別な負の感情は抱かなかったと、本人が言っていたらしい。 マイの問題とは、こういった何かの喪失や決定的なショックで起こったものではなく、ほんの些細なところのズレと、マイ自身の難儀な性格により発現した事である。 両親の他界後は、未成年後見人として、母親の姉にあたる伯母に引き取られ、その後マイは、特に何不自由ないと言って差支えない生活をしていた。 伯母は一人での生活が長く、貯えもそれなりにあったので、マイはひもじい思いなんかもしていなかった。 だけど残念ながら、ここで一つのズレが生じる事となる。 それは伯母に“子育ての勘“が無かった事だ。 薪無先生は、物事において“勘がない“というのは、何よりシンプルで、何より大きな欠点であると話す。 すなわち、いつまでたっても“勘“が掴めないものの難易度とは、思いの外とても高くなってしまうものなのだ。 所謂、“感覚“というものと同義だろう。 自転車に乗る時、自身の体を自然に制御し、いちいち手元や足元を見なくとも、軽く前に進めるようになるように、人はその“勘“や“感覚“で物事の理解や制御を早め、習得する。 だが、マイの伯母には子育てのノウハウに関して、そういった習得する勘というものが、一切備わっていなかった。 それによってマイは周りとは少し違う、どうにも特殊な環境で育つ事になってしまっていた。 具体的に言えば、伯母はマイを、“子供“としてではなく、“個人“として解釈していた。 伯母は自我の曖昧な子供に向かい、大人と同じような自我がある前提で育ててしまったのだ。 例えば、成人した同い年の友人が、突然仕事を辞めてしまったところで、誰も頭ごなしにすぐに次を探して働けなどと、上から目線で全力をかけて叱咤する事は無