80 そして、この会話のあった次の週末は久しぶりに4人で会うことになる。 4人が出会ったのはたまたま東京でのパーティーでだったのだが、居住地は皆関西ということで大阪梅田に近いホテルで落ち合うことになる。 ディナーとお酒を時間を掛けて楽しもうと一泊の予定が組まれた。 星野と魚谷は念入りに化粧を施し、目いっぱいドレスアップした。 少し早めに着いたので部屋に入る前に4人揃ってラウンジで飲み物を頼み当たり障りのない会話をしていた時である。「えっと、俺の親友がたまたま近くの書店まで来ててさ、ちょっと挨拶だけしてもらっていいだろうか。 星野さんと魚谷さんのことを可愛いっていう話をしたらぜひっ、拝ませて……じゃなかった、お会いしてみたいだと」「「え――っ、可愛いだなんてそんなぁ~、ほんとのこと言ってどうするんですかぁ~」」「ブッ、そこハモる~?」 宮内が女性軍を弄る。 ほのぼのとした幸せな光景があった。 そして4人はテンション高く浮かれていた。 4人は互いのパートナーと向かい合って座っており、女性たちは入り口に背を向けて座っていた。「あっ、噂をすれば……だ。来た来たっ。こっち、こっち」 柳井が入り口付近に向かって声を掛けた。「あいつ、婚約者がいるんたけどさ、今日は誘って先約があるからと断られて可哀そうな奴なんで、皆でヨシヨシしてやろう」 柳井は3人に向けて告げた。 柳井の親友とやらがテーブルに近づいたのを見計らって星野と魚谷は席を立ち挨拶の体勢に入った。「彼が俺の親友で雨宮。 で、こちらが同期の宮内とその彼女の星野さん、それと俺の彼女の魚谷さん」と柳井が親友に紹介をした。 宮内と星野はふたりの様子から雨宮と魚谷の挙動を視線で追いかける。 紹介していたため、柳井は気がつかないでいる。 雨宮はずっと魚谷を見ていて、魚谷はオロオロしたあと俯いてしまった。
81「魚谷さん、いつから柳井の彼女になったのかな? あなた確か、俺の婚約者ではなかったかな? 俺の誘いを断って柳井たちと会ってたってわけだ。 柳井には話してるの? 婚約者がいること……って話してないよね、たぶん」「洋平さん、黙っててごめんなさい。 いつか話さなきゃって……」 「柳井、その人俺の婚約者……だった人かな。 悪いけど帰るわ。また連絡する。 皆さん楽しいところに水差すような形になってすみません。 失礼します」 「雨宮、婚約したのいつだ?」「先月の頭」「魚谷さん、出会った時付き合ってる人いないって言っ……いたんだ、 参ったな」 柳井の呟きを聞くや否や雨宮は踵を返していた。 星野が宮内のほうを見ると首を横に振り小声で 「部屋に行こう」 と囁き、その場から星野を連れ出した。 「星野さん、知ってた?」 「つい最近までっていうか、えっとそうじゃなくてぇ、まず婚約者が いるって話はレセプションに行く少し前に知ったって感じかな。 魚谷とは久しく会ってなかったから。 だいたい柳井さんとのことを知ったのが最近、宮内さんから聞いて 知ったの。 知ってから私も焦っちゃって……。 それで柳井さんにはまだ話せてないっていうの聞いて、せめて雨宮さん には心変わりしたことを伝えた方がいいよって話してたところっていうか……。 話す前にこんなことになったっていう感じかなぁ~。 どうしたらいいんだろう、私がレセプションに誘ったばっかりに。 雨宮さんに申し訳なくて」「星野さん……」「はい?」「星野さんまで他に誰か恋人がいるなんてこと……」「ありません。いません、いませんよ。信じて下さい」 「分かった、ほっとしたよ。 あとは柳井の気持ちひとつだな。 多分もう結論は出てると思うけど」 「えっ、柳井さんの気持ちがそんなに簡単に分かるの?」「時々聞かされてたからね、雨宮さんのこと。 彼とは大親友らしい。 柳井なら親友の婚約者とどうこうはないと思うね。 例え、魚谷さんが柳井推しでもね。 今回の場合なら間違いなく男同士の友情を取ると思う。 すごく魚谷さんのことを気にいってたから辛いだろうけど。 そこはまだ付き合いも始まったばかりだし、なんとか踏ん張って 気持ちを立て直すんじゃないか
82 雨宮が去り、気を効かせて宮内と星野もテーブル席から離脱、その場に 残された魚谷と柳井のふたりは、成す術もなくしばらく無言で 立ち尽くした。 「ほんとにごめんなさい。 最初に恋人はいない、というシチュエーションでレセプションに 参加したせいで、本当のことが言えなくなってしまって。 柳井さんから念押しされた時にちゃんと話せばよかったのにって 思うけど、だけど多分あの時私は婚約者がいることをあなたに 知られたくなかったんだと思います。 あなたから声が掛かればいいのにと思ってしまったから。 近々雨宮さんに話さなきゃって思ってたところだったの。 話す前にまさか今日こんな形で知られることになるなんて」「君のいうことを信じたいけど、まるっと信じられるほど俺は子供でもなく 純粋でもないのでね。 君は天秤に掛けてなかったって言い切れるのか? 本当に近々雨宮に報告するつもりだったのかなぁ。 俺とのことがちゃんとした正式な交際の形になるまでは、雨宮のこと保険 にしておこうってそんなふうな考えが少しもなかったって言える?」 「えっ、私がふたりのことを天秤にかける?」 私は柳井さんの鋭い言葉に反論できなかった。 彼らふたりに話すチャンスがなかったわけじゃないのに話さず 時間稼ぎしていたのだからそう思われてもしようがない? 自分の気持ちを振り返ってみるに、そうじゃないわとも思うし、 そうなのかもとも思えて、混乱してしまった。 「ね、俺あなたのことは忘れる、だから雨宮に謝罪して戻ってやって。 一時の気の迷いだと言って。 頼むよ、俺は……雨宮とは一生の友だちでいたいんだ。 俺たちってまだ付き合い始めたばかりでしょ? そんなに深いところまでいってなくて、元いた場所まで すぐに戻れるから。 俺あなたとは親友の奥さんとして付き合っていけるから、俺のことは 忘れて」 私は柳井さんの言葉を一言、ひと言、噛み締みて聞いた。 彼の言うことが正しい。 正しくない方へ踏み出していた私を正しい道に戻してくれるのだ。 彼が正しい。 だけど、この切なくてやり切れない感情とどうやって向き合えばいいのか 分からなかった。
83 私は翌朝、独りで皆より一足先にホテルを後にした。 星野が一緒に帰ると申し出てくれたけど、折角なのにもったいないから 宮内さんとちゃんと楽しんでから帰ってほしいと告げて自分だけで 帰路についた。 馬鹿だなぁ~、雨宮さんとのことが知られても柳井さんに振られるなんて ことは思ってもみなくて、私っておめでたい女だわ。笑えるー。 こういうの過大評価? 自信過剰っていうんだったっけ? 私は人から見ればとんでもないことをやらかしているにも係わらず、 自分の手から抜け落ちて行くのはふたつの内のひとつだけと考えていた。 当初、柳井さんとの結婚を夢見て、雨宮さんとのことをいつ切ろうかって 考えてた。 だけど頼みの綱の柳井さんから迷いなくいとも簡単にお別れを 言い出され、ぼーっとした頭でじゃあこのままやっぱり雨宮さんと結婚 するのだと単純に考えて帰宅した。 柳井さんも言ってたようにまずは謝罪しないとね。 すぐに連絡を入れて謝罪しないとと思うものの、どうしても 連絡を入れることができなかった。 あんなに私にご執心だった柳井さんから簡単に手放すと言われ、 私はとても落胆したのだ。 好きになった人から、好きだと言ってきた人からそんなふうに扱われ、 悲しくて惨めで……人の気持ちのなんと脆いこと。 自分の悲しさに浸り、雨宮さんのことまで私は頭が回らなかった。 酷いことを仕出かして傷つけた人に思い遣りも持てない自己中な人間、 それが私だった。 私は自分の汚さもこの時知ってしまった。 もし柳井さんが普通の一般家庭の人だったらどうだっただろうって 考えてしまったせい。 雨宮さんとの婚約を破棄してまで付き合いたいとは思わなかっただろうと そう結論づけたから。
84 その週の真ん中に母親から電話が夜に入った。『理生、さっきね雨宮さんのお母さんから電話があってね、週末両家6人でお会いしたいって。 どんなことなのか一切内容はおっしゃらなかったけど、なんかいい話という雰囲気でもなくてね、理生、何かあったの? 心当たりある?』『あるけど、今話すとややこしくなりそうだからちょっと待って。 はっきりしたら言うから』『そう? 折角の良縁が駄目になったりしないわよね?』『お母さん、悪いけど今は何も言えないの。ごめん、電話切るね』 母からの電話で、今まで呆けていた頭がキーンってクリアになっていく。 雨宮さんは私には直接何も言わず、両家に話を移そうとしている。 大変なことになりそう。 私はここで初めて彼に連絡を入れた。 着信拒否されていた。 ことここにきて、謝罪もさせてもらえないのだということに気がついた。 だとすると、両家の話合いというのは『婚約破棄』が濃厚だ。 私は前回の失敗を何も生かせていなかった。 同じようにふたりの男性の間で気持ちが揺れてどちらとも上手くいかなかった。 優柔不断で当時はそのような結果になってしまい、今回は自分の狡さと不誠実さが招いた結果なのだ。 私は頭を抱えた。 その週は週末まで仕事も手に付かずずっと心ここに非ず状態で過ごした。
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。