97 花は入社したばかりで相馬との遣り取りに神経をほぼ集中して過ごして いるため、凛の父親が広い同じフロアーで仕事をしている相原清史郎だとは 気が付けないでいた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 短期間で相馬付きの派遣社員が立て続けに辞めてしまったことで 周囲と同様、野次馬根性を特別持っているわけではない相原清史郎も 次に着任した掛居花と相馬との仕事振りだとか仕事中の彼らの様子について それとなく気になっていた。 ……なので、娘のお迎えに行った時、娘を連れて彼女が目の前に現れた時 は非常に驚いた。 表向き平静を装いつつも心の中で叫んだ第一声が 『ここで? 何してるんだ?』 だった。 凛を受け取ろうとしたら彼女は一瞬逡巡して、奥にいた芦田さんに 何やら訊きに? 確認のためか、足早に目の前を去って行った。 ヌヌっ、もしや、自分は不審者と間違われたのか、参ったなぁ~。 同じフロアーで働いているのに俺の顔は覚えてないらしい。 呆れた。何ということ。 待っていると芦田さんが凛を抱いて連れて来てくれていつものように 『お疲れ様です』 と労いの言葉と共に凛を渡してくれた。 凛を片手に抱いて帰ろうとした俺の背中に彼女の声が届いた。「失礼して申し訳ありませんでした」と。「おぉ、ちゃんと礼儀正しい婦女子ではないか、よきよき!」 俺は彼女に向けて片手を振り、気にするなと意思表示した。 ちょっとかっこつけ過ぎただろうか。
98 週明け私は席に付くと、周囲を見渡した。 始業30分前、人はまだまばらなだけに凛ちゃんのパパらしき人物は 見つけられない。 15分前に珍しく寝ぐせをつけた相馬さん登場~、待ってたよ~。「おはようございます」 「おはよう~。週明け早々、元気だね掛居さん」「はぁ、まぁ、それだけが取り柄なものでぇ~って、待ってたんですよ~」「ナニナニ、僕をでしょうか?」「ええ、ええ、相馬さまをです」「ンで? 何でしょう」「あのぉ~、相原さんって男性社員の方、もしかしてこの同じフロアーに いたりしますか?」 「うん? いるよー。 えっとね、ここから数えて5つほど島を越えたところにいますよ~。 まだ知らなかったんだ、びっくりですわ」「まだまだ知らない人だらけですよ、たぶん。 相馬さんとの仕事に集中するだけで今は精一杯ですもんっ」「あっ、そうだよね、ごめん、嫌な言い方して。 それだけ僕の仕事に集中してくれてるってことで、有難いことです。 謝謝……謝謝。 相原さんのことで何かあった?」 「話せばちょっと長くなりそうなのでお昼休みに説明するね」「わかった。じゃあ、さっそく本日の業務に入りますか」「OKです。それではこの書類から整理してまとめていきますね」「助かるよ、その間僕は外回りできるので。 後少ししたら、クライアントのところまで出向く予定だから」「……ということは、1日がかりで帰社は17時頃になりますね」 相馬さんとの1日の予定のすり合わせをして週明けから、また新しい 1週間が訪れようとしていた。 始業時間になって再度私は遠目に見える島を見渡してみた。 いたーっ、凛ちゃんパパ。 ほんとにいたよ。 今日も残業で凛ちゃんは遅くまで待ちぼうけかな。 小さいのに可哀そうだな。 ……ってそんなこと考えるなんて頑張ってる親御さんに申し訳ない、 よね。 でもお父さんだと母親よりも残業が多いというイメージは払拭できない ので、やっぱり凛ちゃんが可哀そうだ。 そう思いつつ、そんな気持ちでいたのもつかの間、仕事に忙殺されて 昼休み直前になると、私はランチのことばかり考えていた。
99 仕事も順調に多忙を極める中、相方という言い方は不遜かもしれないけど仕事上のパートナーにも恵まれ仕事そのもの以外のところで悩まされることなく働けて、仕事大好きな私は充足感に包まれていた。 そんな状況の中でのこと。 ちょうど週末に夜間保育を頼まれた日から2週間目の週末のことになる。 小一時間ほど残業をこなして仕事を終え、1階に降りて来てビルの出入り口に向かう途中で声を掛けられた。「掛居さぁ~ん、ちょっとお話させてもらってもいいかしら……」 誰かと思えば芦田さんだ。「はい、いいですよ」 私たちは場所を移して保育所内で話をした。 話の内容は、私自身の仕事が残業などなく早めに切り上げられる日があればその時に夜間保育のラスト1時間でもいいから保育の仕事を手伝ってもらえないだろうかというものだった。 芦田さんは最近ホルモンのバランスが崩れるといわれる更年期障害に悩まされており、特に夕方になると身体が辛くなるとのこと。芦田さんが万が一倒れでもして夜間保育ができなくなると子供を預けることができなくて困る人たちがいるわけで、とても断ることなどできなかった。 小さなチビっ子たちはどの子も可愛いくて、私は戸惑いながらも『週一でよければ』と返事をした。 更年期と戦いながら働き続ける人を少しでも助けることができればいいなぁと思った。 週一の、それも2時間の夜間保育だけじゃ大した助けにもならないと思うのに芦田さんは喜んでくれた。 ほんとは今の自分の状況だと週三くらいは可能かもしれない。 とは言え、最初から頑張り過ぎて続かなくなるっていうのは非常にまずい悪手になると思うのでまずは週一からと決めた。 相馬さんにも相談をしてこの先の仕事を微調整しつつ将来的には週三くらいにできればと考えている。
100 まぁ、相馬さんとの仕事も時期によって波があるからねぇ~。 そんな訳で、私は8月の最後の金曜日と翌9月の末日までに併せて6回、 夜間保育に係わった。19時までにお迎えに来られた人たちに対しては芦田さんにそのまま 休憩してもらい私が対応、最終の20時に来られる人たちにはどのみち 起きて帰り支度をしなければならないので芦田さんが対応するという形に なった。 凛ちゃんは6回とも最終まで残っていた。 ……なので相原さんがお迎えに来た時はいつも私は一歩下がって 芦田さんの後ろから芦田さんと一緒に『お疲れ様です』と声掛けして 相原親子を見送った。 ……そのため彼と直に遣り取りすることは一度もなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして10月に入ると相馬さんとも相談しながら夜間保育の仕事を 週2でするようになった。 私が助っ人に入る日、芦田さんは大抵奥の部屋で横になっている。 ……なので必然的に子供たちの先生は私になる。 先生ぶって子供たちの子守をするのは楽しかった。 まさか、普通の会社員が保育園の先生の真似事ができるなんて、 ナァ~イス! 手間のかかるオムツ替えや食事は夜間保育の始まる前に他の保育士さん たちが済ませておいてくれるから、ストレスも全くない。 私は子供たちが怪我をしたり勝手に誤って部屋の外に出て行かないよう 見守りしているだけでよかった。 可愛いチビっ子の可愛い顔をたっぷりと堪能し、時には膝に乗って くれたり、抱っこできたり、普通ならできない幼児との触れ合いは ほんとに心が癒される。
101 夜間保育の手伝いを始めてから2か月めに入った頃、通常業務中に 給湯室に行こうとブース横の通路を歩いていると外回りから帰って 来たのか相原さんとすれ違う恰好になった。 私は軽く会釈をして給湯室に向かおうとしたのだけれど、相原さんに 呼び止められた。『なんだろう……』 「君さ、時々遅くに保育所にいるよね、なんで? 保育士の資格持ってるの?」 いきなり予想外の人物から無防備な状況で矢継ぎ早に質問され、 一瞬私は怯《ひる》んだ。 あまりのことで完全に私の脳はショートしたようだった。 口の中はカラカラ、いつもの明晰な思考回路は何としても作動してくれず、 立て板に水の如し……とまではいかずとも、なんとかして体裁の整う返事を したいと思うのにどうにもならないのだ。 『しようがない……』 「申し訳ありませんが上手く説明できないので芦田さんに訊いて いただけますか。スミマセン」 そう私が返事をすると相原さんが何故か困った表情をした。 そんな彼をその場に残し、私は給湯室に向かった。 私は誰もいない個室スペースに入るとドッと疲れを感じた。『やだ、なんかあの人やりづらい~』 ◇ ◇ ◇ ◇ 親しみを込めたつもりで気軽に声を掛けたのにスルーされた形になり、 気落ちする相原だった。『自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか』と少し ガックリときた。 普段相馬との遣り取りなんかを見た感じと初日に声を掛けてきた感じか ら、もっと話しやすい相手だと思っていたのだがそうでもなかったようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それほど親しくもない相手に上手く話せそうになく、芦田さんに 訊いて下さいと言ったものの、本当は相原さんにちゃんと説明できれば 良かったのかもしれない。 ……とはいうものの後で冷静になって考えてみると、あながち間違っても なかったかなと思えた。 芦田さんが更年期であることをペラペラ自分がしゃべっていいことでは ないからだ。 相原に上手く説明できなかったことに対してモヤモヤしていたけれど この考えに行き着いたことで、花の胸の中にあったモヤモヤ があっさりと雲散霧消していくのだった。 またこの日を境に花は相原に対して苦手意識を持つように なってし
102 『あと1日出勤したら休みだぁ~、あと1日がんばっ、そしたらたっぷり 朝寝して過ごせる休みなのよぉ~』 と仕事帰りにも係わらす身も心も軽やかなまま、花は下へ降りる エレベーターに飛び乗った。 体制を変えて振り向くと、目の前にあとから乗って来た相原が目の前に 飛び込んで来た。 『えっ、えっ、どどっ、どうしよう』 私が押すはずだったボタンを彼が押した。 「掛居さん、何か俺のこと避けてない?」『するどい、避けてますぅ~、なんて言えないよね。 ……じゃなくって避けてたとして何が悪いの。 どんな不都合があるっていうのだ。 元々仕事だって被ってないし、凛ちゃんのことがなければ 接点などなかったのだからそんなふうに絡まれる筋合いなどないはず』 「私に絡む……の、やめてください」『それに相原さん何故にボタンから手を放さず、しかも何か威圧的な 体制になってるぅ~。 近い、近過ぎる。 箱の中で逃げ場がない場所で詰問されるのは精神的にキツイ』「君こそただ訊いただけなのに絡むとかって、なんかすごく 大事にしてない? そういうのが男を落とす君の手管なのかな?」 「何を……もうそれっ、セクハラですよ」 花はそう言い放つもすでに涙目になっていた。「私はここへは仕事をしに来てるんです。 男を落とすとか、失礼なこと言わないで!」「あれっ、だけど掛居さん相馬と付き合ってるんでしょ?」 私は彼の言い草を聞いて目が点になってしまった。 何ですと、私は相馬さんとはよろしくやってる癖に相原さんの気を引く ためにわざともったいぶって避けてるんだろ? ってそう言いたいわけ? マジ、最悪。 何なのだろう、この拗らせセクハラ親父め! しかも今だエレベーターのボタン押したまま…… 私を閉じ込めたまま……。 とんでもない男だ。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。
102 『あと1日出勤したら休みだぁ~、あと1日がんばっ、そしたらたっぷり 朝寝して過ごせる休みなのよぉ~』 と仕事帰りにも係わらす身も心も軽やかなまま、花は下へ降りる エレベーターに飛び乗った。 体制を変えて振り向くと、目の前にあとから乗って来た相原が目の前に 飛び込んで来た。 『えっ、えっ、どどっ、どうしよう』 私が押すはずだったボタンを彼が押した。 「掛居さん、何か俺のこと避けてない?」『するどい、避けてますぅ~、なんて言えないよね。 ……じゃなくって避けてたとして何が悪いの。 どんな不都合があるっていうのだ。 元々仕事だって被ってないし、凛ちゃんのことがなければ 接点などなかったのだからそんなふうに絡まれる筋合いなどないはず』 「私に絡む……の、やめてください」『それに相原さん何故にボタンから手を放さず、しかも何か威圧的な 体制になってるぅ~。 近い、近過ぎる。 箱の中で逃げ場がない場所で詰問されるのは精神的にキツイ』「君こそただ訊いただけなのに絡むとかって、なんかすごく 大事にしてない? そういうのが男を落とす君の手管なのかな?」 「何を……もうそれっ、セクハラですよ」 花はそう言い放つもすでに涙目になっていた。「私はここへは仕事をしに来てるんです。 男を落とすとか、失礼なこと言わないで!」「あれっ、だけど掛居さん相馬と付き合ってるんでしょ?」 私は彼の言い草を聞いて目が点になってしまった。 何ですと、私は相馬さんとはよろしくやってる癖に相原さんの気を引く ためにわざともったいぶって避けてるんだろ? ってそう言いたいわけ? マジ、最悪。 何なのだろう、この拗らせセクハラ親父め! しかも今だエレベーターのボタン押したまま…… 私を閉じ込めたまま……。 とんでもない男だ。
101 夜間保育の手伝いを始めてから2か月めに入った頃、通常業務中に 給湯室に行こうとブース横の通路を歩いていると外回りから帰って 来たのか相原さんとすれ違う恰好になった。 私は軽く会釈をして給湯室に向かおうとしたのだけれど、相原さんに 呼び止められた。『なんだろう……』 「君さ、時々遅くに保育所にいるよね、なんで? 保育士の資格持ってるの?」 いきなり予想外の人物から無防備な状況で矢継ぎ早に質問され、 一瞬私は怯《ひる》んだ。 あまりのことで完全に私の脳はショートしたようだった。 口の中はカラカラ、いつもの明晰な思考回路は何としても作動してくれず、 立て板に水の如し……とまではいかずとも、なんとかして体裁の整う返事を したいと思うのにどうにもならないのだ。 『しようがない……』 「申し訳ありませんが上手く説明できないので芦田さんに訊いて いただけますか。スミマセン」 そう私が返事をすると相原さんが何故か困った表情をした。 そんな彼をその場に残し、私は給湯室に向かった。 私は誰もいない個室スペースに入るとドッと疲れを感じた。『やだ、なんかあの人やりづらい~』 ◇ ◇ ◇ ◇ 親しみを込めたつもりで気軽に声を掛けたのにスルーされた形になり、 気落ちする相原だった。『自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか』と少し ガックリときた。 普段相馬との遣り取りなんかを見た感じと初日に声を掛けてきた感じか ら、もっと話しやすい相手だと思っていたのだがそうでもなかったようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それほど親しくもない相手に上手く話せそうになく、芦田さんに 訊いて下さいと言ったものの、本当は相原さんにちゃんと説明できれば 良かったのかもしれない。 ……とはいうものの後で冷静になって考えてみると、あながち間違っても なかったかなと思えた。 芦田さんが更年期であることをペラペラ自分がしゃべっていいことでは ないからだ。 相原に上手く説明できなかったことに対してモヤモヤしていたけれど この考えに行き着いたことで、花の胸の中にあったモヤモヤ があっさりと雲散霧消していくのだった。 またこの日を境に花は相原に対して苦手意識を持つように なってし