17 いうて、向阪茂は旧三居掛友財閥の総裁である。 さまざまな分野、方面に知り合いが多数いる。 今回孫娘の花をどうやれば心の苦しみから救えるのか茂にはすぐに ある人物の顔が浮かんだ。 そしてその治療を花に受けさすため親子を連れ、信州へと向けて 出かけたのだった。 信州へ向けて出発↑ 向かったのは身体的にも精神的にもリラックスして、潜在的な意識が 顕在化している意識レベルよりも優位な催眠状態で実施する心理療法の 一つである催眠療法の権威、増井隆三セラピストの元へだった。 彼は顕在意識を催眠状態に誘導して潜在意識に直接アクセスすることに 特化した、代替医療の一種である潜在意識を書き換えるヒプノセラピーを 患者に施すことのできるセラピストである。 施術に入るに際して…… 花本人、祖父の向阪茂(旧財閥総帥)、父親の掛居 智久、母親の花乃子(向阪茂の娘)の4人で増井隆三医師のカウンセリングを聞く。「記憶を思い出すことを抑制したり記憶を整理したりする方向での治療などといろいろなメソッドがありますが……今回わたくしは花さんのお話を聞いて取捨選択の結果、あった記憶は消せませんが気持ちの持ちようを変えてみたり相手を許せるように誘導するという方法をとろうかと考えています。 別の女性とデートしていてもそれが自分の好きな男性じゃなかったら どうです? ふ~んてなもんで過呼吸なんておこしませんよね? 怒りを持つと悲しみや苦しみに支配されて幸せな気持ちになんて なれやしません。 だけどどうです? 許すと心が落ち着き穏やかな気持ちでいられますよね。 記憶はあるのですがその懇意にされていた男性に万が一遭遇したとしても 慌てず騒がず、花さんは対処できるかと思います。 もう相手は嘗てのように好きな相手ではなくなっていますから。 記憶の操作です。 この催眠療法を8~10年間かけておいて、あとは自然と過去の記憶を全て 思い出せるようにしておきましょう。 その頃には人生経験も積み、催眠療法など効いてなくてもお相手のことを ある程度許せて、ご自身の動揺もほとんどなく過ごせると思います。 簡単に言えば今花さんが受け止めきれない問題を数年先延ばしにするという療法ですね」
18 話を聞き終えた茂が花に訊く。「花、どうする? おじいちゃんはいい方法だと思うが」「おじいちゃん、それで今の胸の痛みが取れるのだったらぜひ セラピー受けたい」 これでGOサインは放たれた。 増井医師より母親の花乃子に同室して花を見守りリラックスさせてあげてほしいとの要望があり、花乃子は花のセラピーに付き添うこととなる。 家族の予想に反してセラピーはそんなに時間はかからず、施術は完了した。 「どうだ、花」「不思議な感覚。 胸の痛みが嘘みたいだけど取れたよ、おじいちゃん。 おじいちゃんと先生のお蔭です。 おじいちゃん、ありがとう。 先生、ありがとうございました」「花、匠吾くんのことは覚えてる?」 母親からの質問に……「記憶は大丈夫、覚えてる。 バカだよねぇ~、あんな根性ババ子に唆《そそのか》されてさぁ~、ふふふ」 「あなた……」 花乃子は夫の智久に驚嘆の言葉を口にした。 夫と互いの視線を絡ませ二人は安堵の吐息を吐いた。「いやぁ~すごいですなぁ。流石増井くんだ、ありがとう。 後日改めて礼に伺わせていただきますよ」 「よかったです。 花さんから明るい言葉を聞けて私も安堵しました」 花自身も半分疑心暗鬼だったものの、施術後 『はぁ~い、終わりました。ゆっくりとこちらの世界へ戻りましょう』 と言われ目を開けたわけだが。 不思議な感覚としか言いようがない。 セラピーに入る前に感じていた悲しみ苦しみが嘘のように消えていたのだから。 そして気付いたことがあった。 匠吾の名前を聞いても相手を弄《いじ》れるほど他人事なのだ。 自分の中から匠吾に対する恋焦がれるほどの好きという気持ちが なくなっているなんて。 しかし、あんな苦しみを味わうことに比べれば瑣末なことだ。 花はそれを残念だとは思わなかった。
19 古くは戦国・江戸時代から続く名門、旧財閥の末裔である。 旧財閥は戦後の財閥解体で資産没収されたものの財閥企業は企業グループへと高度成長の波に乗って組織形態を変化させ集客を広げ利益を増やしてきた。 向阪茂はその財閥の中で頂点を極める存在で総帥ともフィクサーとも呼ばれ、知る人ぞ知る畏れられる存在であった。 フィクサーとは政治、行政や企業の営利活動における意思決定の際に 正規の手続きを経ずに決定に影響を与える手段、人脈を持っている 人物のことである。 ◇ ◇ ◇ ◇ さて、信州では一泊してすぐに自宅へと戻って来た茂は 花の一件が片付いたところで、すでに次の一手を考えていた。 それはもう一人の全く血の繋がりのない孫、匠吾のことだった。『世が世なら、詰め腹切らせるところじゃ』 との大層立腹した様子が茂の部屋の窓越しからでも分かるほどだった。 『だから言わんこっちゃない。 息子の洋輔には当時散々沙代との結婚は止めておけと言うたのになぁ~』 口に出して呟いたら何やら言葉尻がへなっと弱くなってしまった。 そこに茂の苦悩が見え隠れするのだった。 大岡越前(茂)之介、この裁きをどうつけようぞぉ~~。 ******** 息子の洋輔には週の真ん中あたりで父の茂から家族全員で週末、 自分たちの息子《匠吾》が仕出かしたことへの申し開きに来いとの お達しがあった。
20 洋輔から話を聞いた沙代はそうなるだろうとは思っていたが、 何を言われるのかと憂鬱だった。 当日息子の匠吾が驚きのあまりテンパってはいけないと、 この際だから匠吾の出生の秘密を本人に話すことに決めた。 その日職場から帰宅した匠吾に沙代は、夫の洋輔抜きで話をした。 先ずは祖父の茂からの招集が掛かったこと、それでその前にどうしても 話しておかなければならないことができたことなどを説明した。 「匠吾はおじいちゃんのことをどの辺まで知っているのかしらね。 まぁ世が世なら元は華族様で旧財閥の総帥って辺りまではなんとなく 知ってると思うけど……」 「うん、そうだね。知ってる」「おじいさまにはね、裏の顔っていうのがあって、ここ関西一円で力を持つ フィクサーでもあるの」 「マフィアのボスみたいな?」 「マフィアはどうだろう、微妙に違うような気もするけれど 私もちゃんとした説明は難しいわ。 簡単にいうと忠誠を誓い懐にいる時は困った時いつでも助けてくれる人、だけど……具体的にいうと可愛い孫娘を裏切ったりすると即座に敵に なって沈められる? 物騒だけどそういうこと」 「身の危険があるっていうこと?」 「お父さん《洋輔》の前では言えないけど、そういう可能性は あるんじゃないかと私は思ってる」「だけど、花と同じで俺も孫だよ」 「そう花ちゃんと同じ孫なら痛み分けにしてくれたかもしれないんだけど……」 「えっ……もしかして違うの?」 「匠吾、落ち着いて聞いてね。 お父さんは初婚だけど私はあなたを連れての再婚なのよ」「じゃあ、俺って……」「そう表向きは孫だけど、おじいさまともお父さんとも血の繋がりはないの。 私はあなたが花ちゃんと結婚したらその後に本当の話をしようと 思っていたの。 だけど今回おじいさまに詫びを入れなきゃならなくなってしまって そうもいかなくなってしまったわ。 きっとおじいさまはあなたの実の父親の話を出してくると思うから、 その時にあなたが動揺しないよう先に話しておくことにしたの」 「父親のこと話して……」
21「あなたが生まれてすぐにあなたの父親一樹さんが浮気をしてしまい 『本気じゃないから許してほしい』って土下座して懇願されたけど 私はガンとして許さなかった。 その後しばらくして大学の同級生だった洋輔さんと結婚したのよ。 その時ね、おじいさまが『浮気するような男の子供を連れた女など 向阪家の嫁にはできぬ』とおっしゃってね、それはもう大層ご立腹だったわ。 でもね、洋輔さんが一歩も引かなくて、『承諾は無くても結婚します』と言ってくれて素敵だったのよ」 『こんな時に惚気るなんてお母さま、頼みますよ~』 「で、その俺の本当の父親やらとはその後どうなったの?」 「私が再婚するとすぐに後を追うように浮気相手だった女性と結婚したの。 だけど結婚した後その女性がホストに嵌り、借金が嵩み泡嬢に落ちて いったらしいわ。詳しいことは分からないけどたぶんその女性とは離婚 したんじゃないのかな」 「なんか、悲惨~カッコ悪い末路だな」 ◇ ◇ ◇ ◇ 沙代の元夫一樹が致した浮気はほんの出来心で、沙代と元の鞘に戻りたく散々沙代に謝罪したのだが、沙代の心を取り戻すことはできず…… そうこうしているうちに学生時代からの友人である洋輔と沙代が さっさと再婚してしまい、何を血迷ったのか一樹は結婚など微塵も考えていなかった浮気相手の荻島和子と自分も沙代と張り合うように再婚をした。 だが和子と暮らす日々に平穏な生活など一日たりともなかった。 和子という女はトキメキがないと生きていけない属性の人間で 結婚後すぐにホストにド嵌り。 借金を作りお定まりの風俗嬢におちていった。 沙代に振られてからというものどうでもいいような生き方をしていた一樹も流石にあきれ果てたのか振り回されてばかりだった和子と縁を切るのだった。 その後も何人かの女性と縁はあったものの、沙代に向けていた同じ熱量で愛せる女性に巡り合うことはなく、残りの長い人生を共に生きていきたいと 思えるような女性には出会えず、50代の今になっても独りの生活、おひとりさまで生きている。
22 匠吾は父洋輔と血が繋がっていないなんて夢にも考えたことはなかった。 それほど洋輔には大事にしてもらってきたのだ。 花と自分はいとこ同士であり祖父から見れば同じ孫、同等に愛され 向阪財閥の中で花や父親、叔母などと同じ立ち位置にいたと思っていたのに そうではなかったのだ。 血の繋がりのない他人で、その上目に入れても痛くないほど愛おしんできた花を裏切った裏切り者……となってしまったことを知る。 いざ決戦の日、向阪洋輔、沙代、匠吾の三人は神妙な面持ちで 祖父茂の住む応接室で主《あるじ》を待っていた。 茂が椅子に腰かけるのを見計らって沙代Loveの洋輔は 息子の為というよりは妻が詰られはしないかと心配で『面談に参加するよ』と言うのだが茂に『その必要なし』と一刀両断の元、ばっさりと断られてしまう。 そのように断られ参加は叶わずの洋輔は別室で妻子を待つこととなった。 大層立腹の茂は開口一番、沙代と匠吾親子に物申すのだった。 「沙代さん、洋輔がどうしてもあなたと一緒になりたい、結婚させてくれたら一生私に尽くすと言うから、訳アリのあなたとの結婚をしぶしぶ許した」 母親から聞いた話と違うのかぁ~などと思いながら匠吾は 次の言葉を待った。 「だがどうだ。 血の繋がった花同様私は匠吾のことも目をかけてきたというのに。 私の大事な花を……花を裏切り、心を壊してしまいおってからに。 私はね、洋輔が何と言おうと今回はあなたとあなたの息子を許しはしないよ。 私の目の黒いうちは息子もあなたも針の筵……その上からは逃れられまいよ。 匠吾はやはり実の父親と同じようなことをやらかしたな。血は争えんな」
23 「お義父様、お許しください。花さんを甚《いた》く傷つけたことは 申し開きようもございません。 また身体の関係がなかったにせよ、婚約者がおり嫌な気持ちにさせることは容易に想像がつく中で別の女性と夜の街で一対一で会うなど言語道断、 甘んじて処罰は受けます。 ですが息子の為に一言言わせていただきたいのです。 私の元夫は浮気をしましたが息子は浮気心は持ったかもしれませんが、 その相手と一線は越えておりません。 それだけは……それだけはご承知おきください」 「匠吾、ほんとか? 命に掛けてそう誓えるか! 事と次第によってはその命失くすやもしれんぞ。 花が匠吾を好いておるから私もお前を大切に想ってきたが 花の心を壊したお前は今、私の敵になった。 私や花に対する詫びはどうするかね?」「……」 突然の質問に言葉が詰まって何も言えない匠吾に代わり 母親の沙代が答えた。 「総帥様、お時間をいただきたく存じます。 1年か2年、私たちに時間をいただけますよう」 「よかろう。良い報告を待ってるよ、ではこれでな。 期限は2年与えよう」 ◇ ◇ ◇ ◇ 緊張して臨んだ親子での祖父との面談、何とか今回は 事なきを得たと言ってもいいのだろうか。 しかし、本当の意味で事なきを得るには『詫び』とやらを 入れねばならないらしい。
24 年上の大人の女性にほんの少し興味がなかったとは言い切れないが、 ただ一度の『飲み』でここまで話が大きく拗れるなんて普通有り得ない話だ。 しかも目的がなかったわけじゃなく、島本玲子の要請で時間を割いて 出向いて行った自分に対してこの仕打ち。 恩を仇で返されるとはまさしくこのこと。 彼女がはっきりと社内試験用の問題集を借りるために俺を呼び出した形で会い、酒を飲んだあとはそのまま解散したのだと説明してくれればよかっただけのこと。 それをあいつ《島本》は俺たちふたりの間にまるで何かあったと 思わせるような思わせ振りな返事を花にしたはず。 おまけに社内の人間たちに向けて俺とのツーショットをメールで 一斉送信という追撃まで。 返す返すも油断した自分が歯がゆく、花を悲しませた日から 胸が苦しくて痛くて後悔と自責の念に苛まれるという日々を過ごしている。 祖父には母親があのように詫びを入れると約束していたが……。 俺はどうすればいいのだろう。 ◇ ◇ ◇ ◇ 匠吾が将来を憂いていた頃、母親の紗代も八方塞がりの現状に 臍を噛む思いでいた。 * 幼い頃からきょうだいのいない花は、匠吾のことを兄のように慕っていて中学生になるとバレンタインに本命チョコを渡すようになり 3年の時には付き合ってほしいとメモ書きを付けて渡してきた。 この時それを知った匠吾の両親は総帥の茂に息子が花と正式に交際を始めてもよいかと伺いを立て、了承してもらったという経緯がある。 この時沙代も洋輔も、向阪の血は引かぬもののこれでようやく匠吾が 向阪一族の人間として誰憚ることなくこのまま陽の当たる場所に いられると安堵したものだ。
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。