71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
74 そして次に就いた大手ハウスメーカーでも魚谷は過去の経験を何ら生かす ことなく、同じようなことをやらかして辞めざるを得なくなり追われるよう にして辞職した。 こちら大手ハウスメーカーの事務兼務付きの受付嬢の面接を受けた時から 魚谷はこんどこそこの会社で将来の夫となるべき男性《ひと》をGet するのだとの強い意志を持って臨んでいたこともあり、社内のイベントごと は欠かさず参加し続けた。 そしてそれが功を奏したのか、入社して1年経つ頃には社内のエリート を恋人に持つことに成功した。 大手ハウスメーカーでは雇用時にキャリア籍とノンキャリア籍という 具合にどちらかに選別され雇用される。 これは退職するまで能力がいかに高かろうと変わらないのであった。 抜け目のない魚谷が選んだ相手は住宅総合研究所という部署に所属する 東大卒のエリートだった。 ノンキャリア籍組とは給与が300万以上も違うと言われ 『専業主婦になれる』と魚谷は至極ご満悦であった。 ただ、研究室に閉じこもり建材成分などの分析研究をする仕事柄も 相まって、地味な性格が少し気になるところではあった。……とはいうものの、その恋人雨宮洋平とは順調に交際が続き、付き合って 3年が過ぎた頃両家で顔合わせもし正式な婚約を交わした。 周囲にふたりの交際は公認だったが、婚約した話は結婚をいつ頃にするか 決めてからにしようということで周囲にはまだ発表していないような 状況だった。
75 婚約も終え半年先を見据えた結婚の話も決まりほっと一息ついた魚谷は、仕事も勤めて丸4年になり、たまに緊張する場面もあるものの、普段はこなれた動作で仕事を片付けていて精神的にも物理的にも暇の1文字が頭を掠めるようになるのだった。 婚約者の雨宮も仕事に追われ忙しそうである。 ただの恋人同士だった時には会わないでいると不安でしようがなかったものだが、双六《すごろく》でいうと、まだ盤上にはいるものの、ゴールに到達したも同然。 それゆえ、魚谷はほどよく余裕でいられた。 ……とそんな折に、婚活している学生時代の友人から『お願いがあるのぉ~』と電話が掛かってきた。 東京でセレブリティ《celebrity 》たちが集う豪華パーティーがあるので一緒に付き合ってほしいというものだった。 その週は雨宮との約束がなかったため、保護者の気分と著名人などが集うパーティーというものに今まで縁のなかった魚谷はそういう人たちに会えることにも少し興味があり、二つ返事でOKした。 新大阪駅からなら東京まで新幹線で2時間30分と少し……といったところだろうか。一泊すれば楽勝だ。 誘われた後で、本当に一般人の自分たちが名士や著名人が参加するパーティーという名の集いにそんなに簡単に参加できるものなんだろうかと気になり、ちょっと調べてみた。 真の富裕層などが集うところへは、簡単に参加できないらしいということが わかった。 ……ということは、友人が行くところはどんな人たちの集まりだというのだろう? 小金持ちくらいの集いかもしれないなと魚谷は思った。
76 友人の星野から電話で聞いた話では今回のパーティーは商社に勤める 柿谷さんからの紹介らしかった。 柿谷さんも私たちと同じ大学だったけれどグループが違っていた人だ。 在学中に少し親しくしていたみたいで、たまたま最近繁華街で出会って 立ち話もなんだからとお茶して近況を話し合ってるうちに……ということ らしい。 学生時代からの友人星野は自分とは違い堅実にずっと同じ職場で 頑張っている。 医科大で正社員として勤務している。 昨今大学の事務員というのもほとんどが時給の契約社員とか 日給の派遣社員がほとんどらしいから流石新卒で入社して頑張ってるだけ あるよね、星野は。 私も当初は正規雇用の銀行員だったのにさ、なんでこうなっちゃったん だろうなんて思う日もあったわ。 でも伴侶を見付けるなら大手企業への派遣入社も悪くはないよね。 実際、私は研究員のエリート捕まえたもん。 ここはひとつ星野が良い男性《ひと》と出会えるよう協力を惜しまない つもり。星野ぉ~、あんたいい友だち持ったね~。 ◇ ◇ ◇ ◇ 金曜日の夜に彼女から再度連絡があり、私たちが参加するのは レセプションパーティーで開催時間は17:00からと聞く。 ホテルのチェックインの時間に合わせて行くことに決めた。 夜は少し肌寒くなるかもしれないからとふたりともスプリングコートを 羽織って行くことにしたのでフォーマルなドレスの見せあいっこは ホテルにチェックインしてからになった。 星野はほどよいマキシ丈でウエストにゴムが入っているネイビー色の シンプルだけど華やかさも併せ持つドレス。 ハイネックマキシドレスで襟元のビジューがパールでドレスと相まって 彼女の印象に華やかさをプラスしている。 「星野、いいじゃない、そのドレスと襟元のパールのネックレス、 むちゃくちゃいいわ。きっといい男性《ひと》見つかるね」 「ふふっ、サンキュー。そう言ってもらうと心丈夫だわ」 私はというと、今回クローゼットを覗いて黒のにするか今着ている ペールブルーにするか迷ったけれど、透明感があって袖がシースルーの透け たレース生地になっている清楚系デザインの丈短めドレスにした。 私もネックレスはパールだ。 ふたりでしばし、互いのドレスを褒め合いパーティーに向
77 場所は赤坂にある結婚式場。 駅からハイヤーで10分少々。 私たちは10分前には受付にいた。 はぁ~、素敵な場所で圧倒される。 「独りで来るのはヤバイね」「ほんと、魚谷に付いてきてもらってよかったよ~」 私と星野は窓際に佇み、次々とゲストが入室するのを雑談しながら 眺めていた。 「結構年配の人が多いねー」思ったことを口に出してみた。「今は50代から上でも独身者多いんじゃないかな」「20代とは言わないけど30代、来てくれぇ~」と言いつつ 年寄りしか集まらなかったらやばいよね、と他人事ながら心配になる。……という私の心配をよそに多くはないけれど、20代30代と思しき 男性たちもボツボツ入室してきているようだった。「私のように恋人がいるのに参加してる人っているのかしらね?」「今回この話自体、急に決まっちゃったからさ、私はたまたま独身で 誘える友だちがいなくて魚谷誘っちゃったんだけど、まぁ普通は独身同士で 参加するでしょうね」「だよね」「ねね、顔動かさないで聞いて。 向こうからさ2人組がこっちに向かって来てる……ドキドキしてきた」 「早くも捕獲に来てくれてラッキーじゃん。 星野、頑張ろぉ~。ファィトっ、ゲホホツ」 情けない、力入り過ぎちゃった。「ぎゃははっ、魚谷、力入れ過ぎっ」 緊張感もなく、ふたりで『ぎゃはは』やっているところへ、男性陣が 参戦してきましたよ……っと。「やっ、何やら楽しそうですね。 お仲間に入れてもらえませんか」 私は瞬時に声を掛けてきた男性《ひと》と隣にいる男性《ひと》を ちら見した。 どちらも合格ラインに乗っててラッキー。
78 「あっ、つまんないことで騒いじゃってて恥ずかしいです。 こちらこそよろしくデス」 「じゃぁその辺のテーブル席へ移動しませんか」 今度は隣にいた男性《ひと》が声を掛けてきた。 2人ともなかなかなイケボで、なんだか楽しそうな時間を過ごせそうで よかった。 星野はどっちの人が好みかな。 私は……関係ないけど、隣にいた人がいいと思う。 話を聞くところによると彼らは同じ職場の同期だということらしい。 もちろん恋人なし。 私は星野に合わせて恋人なしということにしておいた。 どうも彼らも未来の花嫁候補をGetする気満々なようで、 食事もそこそこに人懐っこくかつ積極的に私たちに絡んでくれた。 最初に声を掛けてきたのが宮内隆《みやうちたかし》さん、そして もうひとりが柳井寛《やないひろし》さんという。 4人での話は盛り上がり、あっという間にパーティーのお開きの時間に なった。 お開きの後、隣接しているバーへと河岸を変え、私たちはお酒で 喉を潤しつつ、フランクに各々が自分たちのことを互いによく知り合いたい という情熱を傾けて楽しい時間を過ごした。 そして私たちはグループLINEを作り別れた。 彼らは大手不動産(株)勤務で柳井さんは総合職の都市事業ユニット 推進部のグループリーダーをしており、宮内さんは同じ総合職の都市事業 ユニット事業本部の係長ということだった。 宮内さんは眼鏡をかけていてにこやかでおっとり系、一緒にいると 癒される感じ。 柳井さんは近くで見ても遠目に見てもシュっとした鼻筋と綺麗で広めの 額から下がりそこそこ彫を深く見せる目元と盛り上がった頬骨からの顎に かけてのシャープなラインがちょいエキゾチックな雰囲気を醸し出してい る。 星野はどちらが好みなんだろう。 私は宿泊したその夜のホテルでも帰りの新幹線の中でも彼らの話で 盛り上がったものの肝心の星野の意中の相手のことは敢えて聞かなかった。
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。