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秋のご馳走

作者: こいたろ
last update 公開日: 2026-10-13 13:10:53

ここは薩摩の国――。

鹿児島県は姶良市。

錦江湾には桜島を望む。

そして――

ここに一匹の、気高く聡明なにゃんこがいる。

その名は――あずき。

⸻

十月の朝。

「ほら、佐助。もうすぐ着くぞ」

孝史の声に、後部座席で寝そべっていた佐助が起き上がった。

窓に鼻を寄せ、くんくんと忙しく匂いを嗅ぐ。

「ワンッ!」

(何か見えた! あっちにも何かある!)

いつも通り落ち着きのない佐助。

隣のあずきは、どっちゃりと座席を占領したまま、窓の外を眺めていた。

「ナァ……」

(騒がしい…)

車窓に、黄金色の田んぼが流れていく。

山の裾まで続く稲穂の向こうでは、コンバインが動いていた。

「今年は刈り取りが早いところもあるな」

孝史が言うと、由乃が窓の外を覗いた。

「孝作さんのところは、間に合いそう?」

「昨日、電話したら、あと少しだってよ」

「じゃあ、今日で終わるといいね」

「兄ちゃんたちが来れば、助かるって言ってたぞ」

「ふふ。毎年それを言われてる気がする」

車の中に笑い声が広がった。

あずきは耳を片方だけ後ろへ向けた。

伊佐へ向かう日は、家族がいつもより早起きする。

あずきにとっては、少々迷惑な話だった。

けれど、出発前におやつをもらえたので、今回は大目に見ることにしていた。

「ナァ」

あずきは目を細め、窓の外へ顔を戻した。

やがて車が家の前に着くと、孝作が玄関から出てきた。

「おーい、待ってたぞ!」

「おう。稲刈りはどうだ?」

孝史が車を降りながら尋ねる。

「今日で片づけたいな。兄ちゃん、午後は頼むぞ」

「はいはい。こっちも働きに来たんだからな」

「口だけじゃなかろうな?」

「言ったな、孝作」

二人は顔を見合わせて笑った。

その後ろから優子が顔を出す。

「もう、玄関で始めないでよ。お茶もまだ出してないんだから」

「おう、優子。久しぶり」

由乃が挨拶すると、優子はにっこり笑った。

「由乃さん、いらっしゃい。お昼はおにぎりにしたよ。豚汁もあるからね」

「わあ、楽しみ。朝から何も食べずに来たの」

「えっ、由乃さんまで働く気満々?」

「もちろん。食べるためにもね」

二人が笑っていると、庭の向こうから声が飛んできた。

「瑞稀ー!」

「綾乃、弥生!」

長靴を履いた双子の姉妹が駆けてくる。

「昨日から来てたの?」

「うん! 昨日は稲を運ぶのを手伝ったよ」

「今日は瑞稀も一緒だね」

「三人でやれば早いよね!」

三人はさっそく話し始めた。

その足元を、白黒の猫が悠々と横切っていく。

「ハナ、踏まれるよ」

優子が声をかける。

ハナは足を止め、三人の長靴を見上げた。

それから、何事もなかったように方向を変えた。

「相変わらずマイペースだなあ」

孝作が笑う。

「ハナちゃん、元気そうね」

由乃がしゃがみ込むと、ハナは尻尾を立てて近づいた。

「ニャ」

由乃の足に体をすり寄せてから、ハナは車のほうへ向かった。

ちょうど、あずきが降りてきたところだった。

ハナが立ち止まる。

あずきも足を止める。

鼻先を寄せ、短く挨拶を交わした。

ハナは十歳。あずきよりずっと年上だ。

「ハナも、もう十歳かあ」

由乃がしみじみ言った。

「うちに来たころは、あんなに小さかったのにな」

孝作が目を細める。

「小さいころから、こいつはこいつだったけどな。気に入らないことがあると、すぐあっちへ行っちまう」

「今もじゃない」

優子が笑った。

そのとき、佐助が勢いよく走ってきた。

「ワン! ワン!」

(ねえねえ! 遊ぼう!)

ハナの尻尾が、ぴたりと止まる。

佐助がもう一歩近づいた。

ハナはすっと横へ避ける。

佐助は勢い余って、そのまま通り過ぎた。

振り返る佐助。

ハナは縁側へ飛び乗り、前足を舐め始めていた。

「佐助、ハナは遊びたくないんだって」

瑞稀が声をかける。

「クゥン?」

(そうなの?)

あずきは二匹を見比べた。

「ナァ」

今度はあずきのところへ走ってきた。

「ワン!」

あずきの前を通過。

「ワン!」

もう一度、通過。

あずきの耳が後ろへ倒れる。

三度目。

「ギロリ」

佐助は急停止した。

「……クゥン」

(あ、ごめんなさい)

ハナの尻尾が、縁側の上でゆっくり揺れた。

「ほら、そろそろ田んぼに行くぞ!」

孝作の声が飛ぶ。

大人たちが長靴を履き、孝成も帽子をかぶって出てきた。

「父さん、今日は無理しないでよ」

孝史が言うと、孝成は鼻を鳴らした。

「誰に言ってるんだ。まだまだ若いもんには負けんぞ」

「その台詞、去年も聞いたな」

「来年も聞かせてやるわ」

典子が玄関から顔を出した。

「二人とも、口を動かす前に手を動かしなさいよ」

孝作が笑いながら歩き出す。

「はいはい、母さん」

佐助も一緒に走っていった。

あずきは庭の日陰へ向かう。

ハナが縁側から降り、少し離れた場所に腰を下ろした。

二匹の間を、秋の風が通り抜けた。

田んぼから機械の音が聞こえる。

遠くで孝作が何か叫び、孝史が笑っている。

佐助は人のあとを追いかけては戻り、また追いかけていた。

「ワン!」

「佐助、そっちは危ないぞ!」

「ワン!」

「だから、そっちじゃないって!」

佐助が立ち止まる。

しょんぼりと尻尾を下げて戻ってきた。

あずきの前で伏せる。

「クゥン……」

(ぼく、役に立ってる?)

あずきは佐助を見下ろした。

「ナァ」

(うるさい…)

佐助はあずきの隣に伏せ直した。

三秒後。

むくりと起き上がった。

「ワン!」

あずきの耳が、ぴくりと動いた。

ハナはとうとう場所を移し、庭の奥へ歩いていった。

昼前、優子の声が庭に響いた。

「ご飯だよー! みんな、戻っておいで!」

「やったー!」

綾乃と弥生が走り出す。

瑞稀も続いた。

田んぼから戻ってきた孝史たちは、手を洗って食卓についた。

大きなお皿に、おにぎりが並んでいる。

漬物と豚汁も湯気を立てていた。

「今年の新米だよ」

典子が言う。

孝作がひとつ手に取り、孝史に差し出した。

「ほら、兄ちゃん。まずは一個」

「自分で取れるぞ」

「いいから食えって」

孝史がかぶりつく。

「……うん、うまい」

「だろ?」

「孝作、顔に出てるよ」

優子が笑う。

「そりゃ、今年の米だからな」

孝成もおにぎりを手にした。

「田んぼで汗をかいたあとに食うと、また格別だ」

「おじいちゃん、朝も食べたんじゃないの?」

綾乃が尋ねる。

「朝は朝だ」

「何それ!」

食卓に笑い声が弾けた。

瑞稀はおにぎりを両手で持ち、大きく頬張った。

「おいしい! これ、何個でも食べられそう」

「豚汁もおかわりしてね」

優子が鍋を持ち上げる。

そのとき、食卓の下で鼻を鳴らす音がした。

「クンクン……」

佐助が、孝作の膝の下から顔を出している。

少し離れたところには、あずき。

姿勢よく座り、由乃を見上げていた。

「はいはい。あずきにも少しね」

由乃がご飯を小皿に取り分ける。

あずきは皿が置かれるまで動かなかった。

そして、置かれた瞬間に一歩進む。

「ナァ」

(待ちかねたぞ)

一口、二口。

あっという間に食べ終えた。

佐助も少しもらい、嬉しそうに尻尾を振っている。

縁側にはハナがいた。

典子が小皿を持っていく。

「ハナ、あんたの分もあるよ」

ハナは典子の手に鼻を寄せ、ゆっくり食べ始めた。

「ハナは慌てないねえ」

典子が背中を撫でる。

ハナは食べながら、尻尾の先だけを動かした。

食卓の下では、佐助がまだ食べている。

あずきはその皿を見た。

佐助を見る。

皿を見る。

「……」

由乃が気づいた。

「あずき、もう食べたでしょう?」

「ナァ?」

あずきは何食わぬ顔で座り直した。

縁側のハナが、ゆっくり顔を上げた。

その目が、あずきと佐助の皿を順番に見た。

そして、再び食事に戻った。

午後の稲刈りが終わるころ、田んぼには刈り取られた稲の跡が並んでいた。

「よし、今日はここまでだ!」

孝作が声を上げる。

「終わったー!」

綾乃と弥生が手を上げる。

瑞稀は腰を伸ばした。

「思ったより疲れた……」

「毎日やってる人は大変だね」

「そうだな」

孝史が汗を拭う。

「孝作、今年もお疲れさん」

「兄ちゃんたちが来てくれたから助かったよ」

「来年も来るさ」

「その言葉、忘れるなよ」

二人が笑い合う。

少し離れたところで、孝成が田んぼを見渡していた。

典子が隣に立つ。

「今年も無事に終わったね」

「ああ。いい米になってくれるといいな」

「きっと大丈夫だよ」

家族が家へ戻るころには、空が赤く染まり始めていた。

佐助はすっかり疲れたらしい。

玄関の前で座り込み、舌を出している。

「ワン……」

(もう走れません……)

あずきはまだ歩いていた。

ハナのあとを追って、縁側の手前までやってくる。

ハナは振り返り、あずきを見た。

あずきも立ち止まる。

ハナは縁側へ上がり、いつもの場所で丸くなった。

あずきも庭の敷物へ戻る。

「おーい、夕飯だぞ!」

孝作の声がした。

佐助が飛び起きた。

「ワン!」

(ご飯!)

さっきまでの疲れは、どこへやら。

あずきの耳も、ぴんと立った。

「ナァ」

夕食の食卓には、炊きたてのご飯が並んだ。

七輪では秋刀魚が焼かれている。

皮がぱちぱちと音を立て、脂の香ばしい匂いが部屋まで届いた。

「うわあ、いい匂い!」

瑞稀が顔を近づける。

「近い近い。熱いよ」

由乃が笑って引き戻した。

孝作が焼き上がった秋刀魚を皿に移す。

「大根おろし、そこにあるぞ」

「はいはい」

優子が皿を並べる。

「お味噌汁もできたよ」

孝成が箸を手に取った。

「さあ、食べよう」

「いただきます!」

みんなが食卓についた。

孝史は秋刀魚の身をほぐしながら、白いご飯をひと口食べる。

それから秋刀魚を口に運んだ。

「うん、これだな」

「何が?」

由乃が尋ねる。

「秋はこれがないとな」

「お父さん、毎年それ言ってる」

瑞稀が笑った。

「毎年うまいんだから、仕方ないだろ」

食卓の下では、あずきと佐助がそれぞれ小さな皿をもらっていた。

孝史がほぐした秋刀魚を少しずつ分けたのだ。

佐助は鼻を近づけ、慎重に匂いを嗅ぐ。

「クンクン……」

それから、ぱくり。

ゆっくりと噛み始めた。

あずきは違った。

ぱくっ。

ごくん。

自分の皿を確認する。

もうない。

佐助の皿を見る。

(………)

あずきの目が、すっと細くなった。

佐助は秋刀魚に夢中だ。

一歩近づく。

佐助は気づかない。

もう一歩。

ハナが縁側から顔を出した。

あずきが首を伸ばす。

ぱくっ。

佐助の皿から、秋刀魚が消えた。

佐助の口が止まった。

自分の皿を見る。

あずきを見る。

もう一度、皿を見る。

「……クゥン?」

あずきは少し離れたところで、悠然と座っていた。

「ナァ?」

「クゥーン……」

佐助の耳が垂れる。

由乃が振り返った。

「あら、どうしたの?」

瑞稀が食卓の下を覗き込む。

「あーっ! あずき、また取ったの?」

あずきは顔を洗い始めた。

「ナァ?」

「いや、今見たから!」

瑞稀が笑う。

孝作も吹き出した。

「佐助、ゆっくり食べすぎたなあ」

「かわいそうに。はい、佐助の分」

由乃が秋刀魚をもう少し取り分けてやる。

佐助はぱっと顔を上げた。

「ワン!ワンっ!」

今度は皿を自分の前に引き寄せるようにして、食べ始めた。

あずきは、その様子を横目で見ていた。

ハナが縁側から降りてくる。

あずきの隣を通り過ぎるとき、ちらりと顔を向けた。

「ニャ」

あずきは尻尾の先をひと振りした。

「ナァ?」

ハナは返事をせず、水を飲みに行った。

食事が終わると、孝作が玄関から大きな袋を運んできた。

「兄ちゃん、これ持って帰れ」

「何だ?」

「今年の新米。家で食べな」

「おお、ありがたい」

孝史が袋を受け取る。

「毎年すまんな」

「何言ってんだ。家族だろ」

孝作が笑った。

優子も玄関まで来る。

「由乃さん、今度はゆっくり遊びに来てね」

「うん。今度は何もない日に来たいね」

「何もない日?」

「稲刈りも楽しいけど、たまにはお茶を飲んでおしゃべりだけする日もいいじゃない」

「それもそうね」

二人が笑っている足元で、あずきが米袋に鼻を寄せた。

くん、くん。

「ナァ……」

佐助も近づいてきた。

「クンクン!」

「これはお前たちのご飯じゃないぞ」

孝史が笑いながら袋を持ち上げた。

あずきは袋のあった場所を見つめた。

佐助は孝史の足元をぐるぐる回っている。

その様子を、ハナが玄関の奥から眺めていた。

「ハナ、また来るね」

瑞稀がしゃがんで声をかける。

ハナは近づき、瑞稀の手に頬をすり寄せた。

「ニャ」

(またおいで)

「うん。またね」

ハナは尻尾を立て、家の中へ戻っていった。

車に乗り込むと、佐助はすぐに丸くなった。

あずきは窓際の席に落ち着き、外を眺めている。

「孝作たちも、元気そうでよかったね」

由乃が言った。

「ああ。父さんも母さんも、まだまだ大丈夫そうだ」

「綾乃ちゃんたちも大きくなったね」

「瑞稀と同い年なのに、しっかりしてるよな」

「お母さん、それどういう意味?」

瑞稀が口を尖らせる。

「さあ、どういう意味でしょう」

由乃が笑った。

車は伊佐の田んぼを抜けていく。

昼間は黄金色に輝いていた稲穂も、夜の中では黒い影になっていた。

佐助はもう眠っている。

あずきも、座席の上でゆっくり体を丸めた。

「ナァ……」

孝史がバックミラー越しに後ろを見る。

「何だ、あずき。楽しかったか?」

あずきは目を閉じたまま、尻尾を一度だけ動かした。

車の荷物置きには、今年の新米。

家族を乗せた車は、秋の夜道を姶良へ向かって走っていった。

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