تسجيل الدخولここは薩摩の国――。
鹿児島県は姶良市。 錦江湾には桜島を望む。 そして―― ここに一匹の、気高く聡明なにゃんこがいる。 その名は――あずき。 * それは、あずきがまだ一歳になる前のこと。 生後半年ほどだった。 場所は、霧島市隼人町。 少し高い丘の上にある、鹿児島県の動物愛護センター。 その日、佐々木家は家族でそこを訪れていた。 「ここが愛護センターなんだね」 瑞稀が建物を見上げる。 「いろんな事情で保護された猫や犬がいるんだって」 由乃が答える。 孝介は辺りを見回した。 「犬とか猫がいるの?」 「ああ、そうだよ」 孝史が答えた。 この日は日曜日、孝史と由乃は子供達の社会見学を兼ねて家族で来ていた。 * 施設の中へ入る。 職員から説明を受けながら、家族は犬や猫たちの様子を見て回った。 元気な犬。 静かにこちらを見つめる猫。 人の気配を感じると、そっと近づいてくる子もいる。 それぞれに事情があり、ここで新しい家族との出会いを待っている。 そんな中――。 瑞稀の足が止まった。 「……あれ?」 視線の先。 そこに、一匹の三毛猫がいた。 まだ幼い。 生後半年ほど。 それでも、顔には特徴的な模様があった。 ふっとい眉毛のような模様。 そして―― 妙に鋭い目。 チラッ。 三毛猫がこちらを見る。 瑞稀と目が合った。 「……」 瑞稀も見つめ返す。 三毛猫は逃げない。 ただ、じっと見ている。 ギラリ。 その目には、幼猫とは思えない妙な貫禄があった。 「この子……」 瑞稀が小さく呟いた。 由乃も近づいてくる。 「三毛猫ね」 「かわいい」 孝介も覗き込む。 三毛猫は、孝介を見る。 チラッ。 そして―― ぷいっ。 「無視された」 孝介が苦笑する。 由乃も笑った。 「人見知りなのかな?」 すると職員が声をかけてくれた。 「その子は人には慣れていますよ」 「そうなんですか?」 「はい。今はふれあい猫として、人と触れ合う活動をしています」 家族が顔を見合わせる。 「ふれあい猫?」 「はい。来館された方に触れてもらったり、人と過ごす経験を積んでもらっています」 そう言われると、三毛猫はまるで聞こえていたかのように立ち上がった。 そして、こちらへ歩いてくる。 小さな身体。 短い足。 まだ幼い体つき。 けれど、その歩き方だけは妙に堂々としていた。 てくてく。 てくてく。 佐々木家の前まで来る。 そして―― 座る。 ギロリ。 孝介が一歩下がった。 「……なんかやたらと堂々としてない?」 「ふふ」 由乃が笑う。 瑞稀はしゃがみ込んだ。 「こんにちは」 三毛猫は動かない。 瑞稀が手を差し出す。 三毛猫は、その手の匂いを嗅ぐ。 くん。 くん。 そして―― すり。 小さな頭を、瑞稀の手に寄せた。 「……」 瑞稀の顔がほころぶ。 「触っていい?」 職員が頷く。 瑞稀が頭を撫でる。 三毛猫は目を細めた。 ゴロゴロ……。 小さな喉の音。 「かわいい……」 由乃もそっと背中を撫でる。 三毛猫は逃げない。 孝史も近づく。 そして、孝介も。 家族みんなの手が、三毛猫の身体に触れる。 その間も、三毛猫は静かだった。 ただ、気持ちよさそうに目を閉じている。 * しばらくして、職員が説明を始めた。 「もし、この子を家族として迎えることを考えていただけるのであれば、いくつか手続きがあります」 家族は顔を見合わせた。 「すぐに連れて帰れるわけではないんですか?」 孝史が尋ねる。 「はい。保護された動物を譲渡する前に、飼育についての講習を受けていただく必要があります」 譲渡前講習。 動物を家族として迎えるために必要なこと。 食事。 健康管理。 避妊去勢。 室内飼育。 最後まで責任を持つこと。 家族として暮らすということ。 一時間ほどの講習を、家族は真剣に聞いた。 その間も――。 三毛猫は、ふれあいスペースで人と触れ合っていた。 子どもが近づく。 三毛猫は逃げない。 優しく撫でられる。 目を細める。 別の人が近づいてくる。 また、静かに身体を預ける。 けれど、時折こちらを見る。 チラッ。 その視線の先には―― 佐々木家。 まるで、 「まだいるのか」 と確認しているようだった。 * 講習が終わった。 家族が戻ってくる。 瑞稀は、真っ先に三毛猫の姿を探した。 「あ……いた」 三毛猫もこちらを見る。 チラッ。 そして―― ゆっくり歩いてくる。 瑞稀がしゃがむ。 「また来たよ」 三毛猫は、その前に座った。 ナァー。 「覚えてくれてたのかな?」 由乃が笑う。 「そうかもしれないね」 孝史が職員に尋ねる。 「この子を迎えることはできますか?」 職員が頷く。 「もちろんです」 その言葉を聞いた瞬間。 家族の間に、静かな空気が流れた。 もう、ほとんど決まっていた。 この子と暮らしてみたい。 この子を家族にしたい。 そんな気持ちが、みんなの中に生まれていた。 * 手続きを終えた。 小さなキャリーが用意される。 三毛猫は、その前に座っている。 職員が優しく声をかける。 「今日から新しいお家ですね」 三毛猫は、その声を聞いて顔を上げた。 ナァ。 そのまま佐々木家の家族と一緒に車に乗った。 ただ、人の気配。 知らない匂い。 知らない場所。 それでも―― 佐々木家の人たちが近くにいる。 キャリーの中へ入った子猫に瑞稀が話しかける。 「行こうね」 三毛猫は瑞稀を見る。 チラッ。 それから、ゆっくり目を細めた。 * 車が走り出す。 窓の外を流れていく景色。 霧島市隼人町の丘。 その上にある愛護センターが、少しずつ遠ざかっていく。 キャリーの中から、三毛猫が外を見ている。 初めて見る景色。 初めて乗る車。 初めて向かう場所。 不安なのか。 それとも、ただ眠いだけなのか。 三毛猫は小さく欠伸をした。 ナァ……。 (まあ、なるようになろう) 佐々木家の車は、ゆっくりと進んでいった。 * それからしばらくして。 佐々木家。 新しい家族を迎えた日。 三毛猫は部屋の中を慎重に歩いていた。 匂いを嗅ぐ。 家具を見る。 壁を見る。 窓を見る。 そして―― 部屋の真ん中で座った。 ギラリ。 家族を見渡す。 孝介が笑う。 「なんか、偉そうだな」 あずきは孝介を見る。 ギロリ。 「……ごめん」 一人。 いや―― 一匹。 けれど、寂しそうには見えなかった。 由乃が用意した器を見る。 水。 食事。 寝床。 全部、自分のために用意されている。 子猫はしばらく眺めていた。 そして―― 「フワァァ。」 その日の夜。 あずきは用意された寝床で丸くなった。 家の中は静かだった。 外から聞こえる車の音。 遠くの生活音。 知らない場所。 知らない匂い。 昼間、自分を撫でてくれた人たち。 目を閉じる。 ゴロゴロ……。 小さな喉の音が響く。 家の中を一通り見て回った三毛猫は、部屋の隅でちょこんと座っていた。 「名前、どうしようか?」 由乃が言う。 「三毛だから……みけ?」 孝介が言うと、三毛猫が、 チラッ。 と孝介を見る。 「……却下かな?」 瑞稀が笑った。 「もっと、この子らしい名前がいいよね」 家族みんなで考える。 けれど、なかなか決まらない。 三毛猫は匂いを嗅ぐ。 今まで嗅いだことのない美味しそうな匂いが皿からしていた そして、静かに食べ始めた。 その姿を見ていた由乃が、ふと思いついたように言った。 「あずき……っていうのはどう?」 「……あずき?」 「うん。なんとなく、この子に似合う気がする」 瑞稀も三毛猫を見る。 「いいかも」 孝史も頷いた。 「じゃあ、あずきにするか」 その瞬間。 三毛猫が顔を上げた。 チラッ。 家族を見る。 そして―― ナァ。 小さく鳴いた。 まるで、 (その名、承知した) とでも言うように。 こうして、佐々木家に迎えられた生後半年の三毛猫は―― あずき という名前をもらった 生後半年の三毛猫は、佐々木家の家族になった。 そして現在。 一歳になったあずきは、いつもの窓辺にいる。 ふっとい眉毛のような模様。 立派なドッチャリ体型。 窓の外を眺めながら、ゆっくり尻尾を動かす。 ナァ……。 (あの日から、ずいぶん時が経ったものだ) そこへ、佐助がやって来る。 まだ八ヶ月。 あずきより二ヶ月遅れて、この家にやって来た後輩である。 ワン! (あずき、何してるの?) あずきは振り向く。 チラッ。 そして、再び窓の外を見る。 ナッ。 (何でもない) 佐助は隣に座る。 あずきは追い払わない。 外には鹿児島の空。 遠くには、いつもの景色。 あの日、霧島市隼人町の丘の上から始まった小さな縁は、今も続いている。 愛護センターで、人と触れ合っていた一匹の三毛猫。 その子が今では―― 佐々木家の窓辺を、自分の場所としている。 あずきは目を細めた。 ナァ……。 今日も、あずきの日和は穏やかに過ぎていく。ここは薩摩の国――。鹿児島県は姶良市。錦江湾には桜島を望む。そして――ここに一匹の、気高く聡明なにゃんこがいる。その名は――あずき。*十月。朝晩の風に、少しずつ秋の気配が混じるようになった。夏の頃は朝から元気だった蝉の声も、今ではすっかり聞こえなくなっている。代わりに庭から聞こえてくるのは、どこか涼しげな虫の声。佐々木家の窓辺では、あずきが外を眺めていた。一歳の三毛猫。ふっとい眉毛のような模様を浮かべた顔に、今日も変わらぬ貫禄。そして――どっしり。ドッチャリ。窓辺に収まる、その姿。ナァ……。あずきの毛並みを撫でる風が、以前より少し涼しくなっていた。あずきは目を細める。チラッ。庭を見る。木の葉が一枚、ひらりと落ちた。その葉を目で追い――ぷいっ。興味をなくした。昼過ぎ。台所から、いつもとは違う匂いが漂ってきた。あずきの耳が動く。鼻がひくひく。ナァ……。(何やら、良い匂いがする)匂いの正体を確かめるべく、あずきは窓辺から降りた。どすん。床に足をつける。そして、ゆっくり台所へ向かう。てくてく。廊下を進む。角を曲がる。すると――由乃が台所で何かをしていた。「今年も栗が出てきたね」テーブルの上には、秋の味覚。栗。いくつもの栗が並んでいる。瑞稀も手伝っている。「結構あるね」「今日は栗ご飯にしようか」「いいね」その会話を聞きながら、あずきは少し離れた場所に座った。チラッ。栗を見る。ナァ。さらに近づく。くん。くん。鼻を近づける。硬い。丸い。そして、ほんのり土と木のような匂いがする。前足でチョイチョイとつついてみる。、ナッ。由乃が笑う。「あずき、栗が気になるの?」あずきは顔を上げる。チラッ。由乃を見る。ナァー。由乃は栗を一つ持ち上げた。「これ、栗だよ」あずきの目が栗を追う。右へ。左へ。栗が動くたび、あずきの頭も動く。瑞稀が笑った。「すごい見てる」あずきは少しだけ姿勢を正した。ギラリ。栗を見る。まるで獲物を見定める武士のようだ。しかし――栗は動かない。しばらく見つめたあと、ぷいっ。あずきはその場を離れた。どうやら、興味を失ったらしい。*夕方。台所から、また良い匂いがしてきた。今度は先ほどとは違う。あずきは再
ここは薩摩の国――。鹿児島県は姶良市。錦江湾には桜島を望む。そして――ここに一匹の、気高く聡明なにゃんこがいる。その名は――あずき。*それは、あずきがまだ一歳になる前のこと。生後半年ほどだった。場所は、霧島市隼人町。少し高い丘の上にある、鹿児島県の動物愛護センター。その日、佐々木家は家族でそこを訪れていた。「ここが愛護センターなんだね」瑞稀が建物を見上げる。「いろんな事情で保護された猫や犬がいるんだって」由乃が答える。孝介は辺りを見回した。「犬とか猫がいるの?」「ああ、そうだよ」孝史が答えた。この日は日曜日、孝史と由乃は子供達の社会見学を兼ねて家族で来ていた。*施設の中へ入る。職員から説明を受けながら、家族は犬や猫たちの様子を見て回った。元気な犬。静かにこちらを見つめる猫。人の気配を感じると、そっと近づいてくる子もいる。それぞれに事情があり、ここで新しい家族との出会いを待っている。そんな中――。瑞稀の足が止まった。「……あれ?」視線の先。そこに、一匹の三毛猫がいた。まだ幼い。生後半年ほど。それでも、顔には特徴的な模様があった。ふっとい眉毛のような模様。そして――妙に鋭い目。チラッ。三毛猫がこちらを見る。瑞稀と目が合った。「……」瑞稀も見つめ返す。三毛猫は逃げない。ただ、じっと見ている。ギラリ。その目には、幼猫とは思えない妙な貫禄があった。「この子……」瑞稀が小さく呟いた。由乃も近づいてくる。「三毛猫ね」「かわいい」孝介も覗き込む。三毛猫は、孝介を見る。チラッ。そして――ぷいっ。「無視された」孝介が苦笑する。由乃も笑った。「人見知りなのかな?」すると職員が声をかけてくれた。「その子は人には慣れていますよ」「そうなんですか?」「はい。今はふれあい猫として、人と触れ合う活動をしています」家族が顔を見合わせる。「ふれあい猫?」「はい。来館された方に触れてもらったり、人と過ごす経験を積んでもらっています」そう言われると、三毛猫はまるで聞こえていたかのように立ち上がった。そして、こちらへ歩いてくる。小さな身体。短い足。まだ幼い体つき。けれど、その歩き方だけは妙に堂々としていた。てくてく。てくてく。佐々木家の前まで来る。そし
ここは薩摩の国――。 鹿児島県は姶良市。 錦江湾には桜島を望む。 そして―― ここに一匹の、気高く聡明なにゃんこがいる。 その名は――あずき。 * 朝から、あずきは玄関にいた。 いつもならお気に入りの場所で丸くなっている時間なのに、今日は玄関のたたきに座り、外をじっと眺めている。 三毛猫らしい模様の顔。 その中にある、ふっとい眉毛のような模様。 そして、一歳の雌猫とは思えない、堂々たるドッチャリ体型。 座っているだけなのに、妙な貫禄がある。 ナァー。 その声に、由乃が振り向いた。 「今日はお天気もいいし、あずきも一緒に行こうか」 あずきの耳がぴくりと動く。 チラッ。 由乃を見る。 それから、何事もなかったように外へ視線を戻した。 ナッ。 そのすぐ後ろでは、佐助が大喜びしていた。 ワン! (お出かけ! お出かけ!) 尻尾をぶんぶん振りながら、玄関を行ったり来たりする。 あずきが横目で見る。 ギロリ。 佐助の動きが、一瞬だけ止まった。 ワン……。 あずきは満足したように、再び外を見る。 * 車で向かった先は、なぎさ海浜公園。 錦江湾に面した海辺の公園である。 車から降りると、潮の香りがした。 風が心地よく頬を撫でていく。 あずきはキャリーから出ると、すぐには歩き出さなかった。 鼻をひくひく。 耳を動かす。 草の匂い。 海の匂い。 鳥の声。 遠くから聞こえる人の話し声。 そして―― かすかに混じる、猫の匂い。 あずきの目が変わった。 ギラリ。 ナァ……。 瑞稀がその様子を見て笑った。 「あずき、何か見つけたの?」 もちろん、人間にその意味は伝わらない。 あずきは答える代わりに、歩き始めた。 てくてく。 ゆっくりとした足取り。 その後ろから佐助がついてくる。 ワン! (待ってよ、あずき!) あずきは振り返らない。 ただ、ほんの少しだけ歩く速度を落とした。 * 公園の木々が並ぶ一角。 あずきが突然、足を止めた。 少し先に、一匹の茶白猫がいる。 茶白猫も、あずきを見ていた。 互いに近づくこともなく、しばらくその場にいる。 やがて茶白猫がゆっくり歩いてきた。 あずきも一歩進む。 鼻先を近づけ、互いの匂いを確かめる。 そして―― 額が、そっと触