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あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を
あなたが囁く不倫には、私は慟哭で復讐を
Author: 雫石しま

プロローグ

Author: 雫石しま
last update Last Updated: 2025-07-10 10:23:43

 生まれつき弱視の仙石明穂(25歳)は、結婚2年目の専業主婦として穏やかな生活を送っている。高校卒業後、幼馴染で医師の仙石吉高(28歳)にプロポーズされ、愛情に満ちた結婚生活が始まった。吉高の優しさと支えに包まれ、明穂は日々の小さな幸せを大切にしていた。朝の柔らかな陽光の中、吉高が淹れるコーヒーの香りに癒され、共に過ごす時間が心の安らぎだった。

 

 しかし、その穏やかな日常に、微かな波紋が広がり始めていた。彼女の心の奥底で、何かが静かに変わりつつあるのを感じていた。かつては完全に信じていた吉高との未来に、かすかな不安が忍び寄る。明穂はそれが何かをまだ言葉にできず、ただ静かにその感覚を抱えていた。送っていた筈だった、揺るぎない幸せは、どこかでほころび始めているのかもしれない。

「紗央里・・」

 ある晩、吉高が聞き覚えのない女性の名前を口にした。

(さおり、誰?)

 例えようのない不安が、明穂の心に波紋のように広がっていた。

 

 吉高は生真面目で誠実な医師として、病院では看護師たちに慕われ、信頼されていた。その中のひとりと親しげに話す姿が、明穂の胸に小さく刺さったのかもしれない。だが、それだけではない。ここ数週間、吉高の雰囲気が変わったのだ。帰宅時の声のトーンが微妙に低く、笑顔にわずかな硬さを感じる。明穂は弱視ゆえ、視覚を超えた感覚に鋭い。吉高の手に触れたときのわずかな緊張、部屋に漂う見知らぬ香水の残り香、会話の間合いの微妙な変化。それらが彼女の心をざわつかせる。

 

 吉高は変わらず優しく接するが、明穂の繊細な感覚は、言葉にできない何かを捉えていた。不安は静かに、しかし確実に、彼女の穏やかな日常を侵食しつつあった。かつての確かな愛情が、今、かすかな影に揺れている。

 

(こんな時、大智がいたら相談できたのに)

 

 吉高には双子の弟、仙石大智がいた。大智は明穂の初恋の相手であり、彼女の心を深く理解する存在だった。弱視である明穂に対し、周囲は気遣いを見せたが、過剰な優しさは時に彼女を孤立させた。だが、大智は違った。彼は明穂を特別扱いせず、ありのままの彼女を受け入れた。冗談を交わし、共に笑い、彼女のコンプレックスを自然に解きほぐした。大智の率直な態度と温かな眼差しは、明穂に自分を肯定する力を与えた。

 

 そんな二人が恋に落ちるのは、自然な流れだった。明穂が高校に入学した春、桜が満開の校庭で、大智は少し照れながらも真っ直ぐに告白した。「明穂、ずっと一緒にいたい」と。その言葉に、明穂の心は温かな光で満たされた。付き合い始めた二人は、互いを支え合い、ささやかな幸せを重ねていった。だが、その先に待つ運命を、少女の頃の明穂はまだ知らなかった。

 

 実は、吉高もまた、密かに明穂に恋心を抱いていた。だが、大智の告白によってその想いは無残に砕かれ、胸に深い傷を残した。それ以来、明穂、吉高、大智の三人の関係は微妙な均衡を失い、危ういものへと変わっていった。

 

 吉高は成績優秀で医科大学に進学し、将来を約束された医師の道を歩んだ。一方、大智は高校時代に喫煙で停学となり、学業から離れ小さな町工場に就職した。二人の将来は雲泥の差だった。ある日、吉高は感情を抑えきれず大智に詰め寄った。

 

「お前の稼ぎで明穂ちゃんを幸せにできるのか!?」

 

 声を荒げ、苛立ちと嫉妬を露わにした。大智は言葉を失い、ただ拳を握りしめ、吉高へと振り上げた。その一撃は、兄弟の間にあった絆をさらに引き裂いた。明穂をめぐる仙石兄弟の争いは、互いの心に消えない傷を刻み、三人の関係を複雑に絡ませていった。彼女の知らないところで、運命の歯車は静かに動き始めていた。

 

「俺じゃ明穂を幸せになんか出来ねぇ」

 

 大智は小さなバッグにわずかな荷物を詰め、明穂に告げた。

 

「自分で何ができるか試してくる」と。

 

 その言葉は静かだが、決意に満ちていた。明穂は涙を流し、すがるように彼の手を握ったが、大智は優しく、しかし迷いなくその手を振り解いた。

 

 成田空港の搭乗ゲートで、彼の背中は雑踏に溶けるように消えた。明穂は泣き崩れ、弱視の目では見えない飛行機を、心で追い続けた。

 

 ゲートの冷たい空気の中、彼女の胸は喪失感とやり場のない想いで締め付けられた。大智の足音が遠ざかる音すら、彼女には鮮明に響いた。かつての初恋の温もりが、遠い空の彼方へと去っていく。その瞬間、明穂の心にはぽっかりと穴が開いた。見えない未来への不安と、大智のいない日々の孤独が、彼女を静かに包み始めた。それでも、彼女は立ち尽くし、飛び立つ飛行機の音に耳を澄ませていた。

 

 海外からの大智の便りは途絶え、明穂の心は不安と悲しみで揺れ続けた。時は流れ、吉高が医師免許を取得した。彼は迷わず明穂の元へ向かい、誠実な眼差しでプロポーズした。

 

「君を幸せにする」と。

 

 明穂の両親は、行方の知れない大智を待ち続けるより、安定した未来を約束する吉高との結婚を強く勧めた。明穂の心には大智への未練と複雑なわだかまりが渦巻いていた。それでも、吉高の温かな手に縋るように、彼女は新たな一歩を踏み出す決意をした。

 

 吉高の言葉は、まるで暗い海に差し込む一筋の光のようだった。新しい人生の始まりは、穏やかな希望に満ちていたが、明穂の胸の奥には、遠く離れた大智の笑顔がまだかすかに残っていた。彼女はそれを押し隠し、吉高と共に歩む未来を選んだ。新しい生活の中で、彼女は笑顔を取り戻そうと努力を始めた。

 

「紗央里・・・・」

 

 その呟きが明穂の穏やかな暮らしを一変させた。目に見えない何かが静かに、水面に滴る黒いインクのように広がっていった。

 

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