「紗央里・・」
ある晩、吉高が聞き覚えのない女性の名前を口にした。
(さおり、誰?)
(ーーーー明穂) そんな中、面白くないのは吉高だった。明穂を心配しながらもそれは口先だけで終わっていた。行動力の有る弟の隣で無邪気に笑う明穂の姿が居た堪れなかった。 (ーーーークソっ、俺の方が学力は上だ!) 高等学校3年の進路指導で、吉高は国公立大学の医学部への進学を希望し、博士号を目指した。明穂と結ばれる未来を思い描き、安定した収入と揺るぎない生活基盤を築くため、真剣な眼差しで勉学に励んだ。一方、謹慎処分を受けた大智は大学進学を諦め、地元の中小企業への就職が決まった。自由奔放な彼は、堅実な道より自分らしい生き方を優先した。明穂は吉高の堅実な夢に尊敬を抱きつつ、大智の気ままな選択に親しみを覚えた。カメラを手に、明穂は二人の異なる未来を思い、複雑な心持ちでシャッターを切った。吉高の真剣な眼差しと大智の笑顔が、明穂の胸で交錯した。(なんで!なんで大智なんだ!?) ところが、明穂が高校に入学した春、両親公認で大智と交際を始めた。赤らむ頬の明穂と手を繋ぎ、軽やかに出掛ける大智の後ろ姿に、吉高は胸を締め付ける激しい嫉妬を覚えた。夕暮れの部屋で、明穂と母親がデジタルカメラの画面を親子仲良く眺め、その隣で無邪気に笑う大智の姿が、吉高にはどうしても許せなかった。明穂の幸せを願う一方、彼女を独占したい思いが心を乱した。吉高は医学部への夢をさらに固め、安定した未来で明穂の心を取り戻そうと決意した。だが、カメラのシャッター音が響くたび、明穂と大智の絆が深まる現実に、吉高の胸は静かに軋んだ。(絶対!絶対医者になってやる!) 高等学校卒業後、地元の中小企業に就職した大智に明穂を奪われたことで、吉高の人生設計は大きく狂った。国公立大学医学部で博士号を取得し、安定した未来で明穂の心を取り戻す夢は、彼女と大智の手をつないだ笑顔に揺らいだ。吉高の胸は嫉妬と無力感で締め付けられた。明穂がカメラで切り取る日常・・・・・大智と過ごす楽しげな瞬間が、吉高の心に突き刺さった。それでも、吉高は医学への情熱を捨てず、努力で未来を切り開こうと決意した。だが、明穂の幸せな笑顔と大智の気楽な声が、吉高の心に複雑な影を落とし続けた。「おまえじゃ明穂を幸せに出来ない!」「なんでだよ!」 ある日、些細な出来事——明穂が大智と笑い合う姿を目にした瞬間、吉高の抑えていた感情が爆発した。自分より劣ると感じて
田辺明穂は仙石家の双子の兄、吉高を《吉高さん》と丁寧に呼び、弟の大智を《大智》と呼び捨てにした。年齢を重ねるごとに、四角四面で過保護な吉高とはどこか距離感が生じ、会話もよそよそしくなった。一方、自由奔放ながらも温かく見守ってくれる大智とは心の距離が縮まり、気軽に冗談を交わす仲に。明穂は大智のざっくばらんな性格に安心感を抱きつつ、吉高の真面目さにも尊敬の念を持っていた。それでも、双子の異なる魅力に挟まれ、明穂は自分なりのバランスを探し続けていた。「明穂ちゃん、何処でも勝手に行っちゃ駄目だよ」「如何して駄目なの」「何処に行っているのか心配だよ」 明穂は息が詰まりそうだった。「何処って、学校に行ったり公園に寄ったりするだけよ」「公園に変な人がいたらどうするの」 吉高は幼い頃から明穂の行動範囲を細かく把握しようとした。登下校のルート、友達との予定、帰宅時間まで、逐一確認するその態度は、明穂への深い愛情からくるものだと頭では理解できた。だが、吉高の過保護な視線は、まるで水中に沈められるような息苦しさをもたらした。明穂は自由を求める心と、吉高の真剣な心配を拒めない葛藤の間で揺れ動いた。一方、大智の気楽な笑顔が、明穂にほのかな解放感を与えていた。それでも、吉高の真摯な姿勢には、どこか心を動かされる温かさがあった。(・・・・・・ふぅ)「なに、なに溜め息ついてんだよ!」「だって、吉高さん・・・お父さんみたいなんだもの」 大智は日々繰り返す2人の遣り取りを見て呆れ失笑した。「吉高は心配しすぎ、明穂も(放っておいて!)とか言えば良いのに」「でもそんな事言えないし」「明穂にそんな事言われたらあいつ立ち直れないだろうな」「そうだよね」 しかし、年頃を迎えた明穂の変化に、大智もまた心を寄せていた。自由奔放な彼だが、明穂の安全と笑顔を願う気持ちは強く、良い案を思いついた。お年玉と小遣いをコツコツ貯め、デジタルカメラを買い、明穂の手にそっと握らせた。「これで、おまえのその日あったことを撮ってこいよ」「・・・・なに?」 と笑う大智。その気遣いは、吉高の過保護さとは違い、明穂に自由と信頼を与えた。「なにこれ、四角くて小さい、それに冷たい」「デジタルカメラ」「これは明穂の目、その日何処に行ったか何を見たのか俺も知りたい」「私の、目」 カメラを手に、明穂
明穂は生まれつき弱視で、視界は常に曖昧だった。手に取った林檎の赤や輪郭はぼんやりと「見える」が、テーブルの向かいで話す人の顔は、まるですりガラス越しのように曖昧で、面差しを「感じる」程度にしか捉えられない。それでも、彼女は相手の微妙な表情の変化や感情の揺れに驚くほど敏感だった。声の僅かな震え、息遣いの変化、漂う香水のほのかな違い、嗅覚や聴覚も鋭く、目に見えない心の動きを捉えた。 たとえば、吉高が疲れて帰宅した夜、彼の声のトーンや椅子の軋む音から、言葉にしない悩みを察した。あるいは、大智がそばにいた頃、彼の笑い声に隠れた緊張を聞き分け、胸にそっと寄り添った。明穂のこの鋭さは、弱視ゆえに磨かれた感覚であり、彼女の世界を豊かにする一方で、時に見えない真実に心をざわつかせた。彼女はそんな自分を抱きしめ、静かに日々を紡いでいった。「吉高くん、学校で何かあったの?」 明穂の声は柔らかく、しかし心配そうに響いた。彼女の弱視の目では、吉高の顔はぼやけていたが、声の僅かな震えと沈黙から、彼の戸惑いと落胆が鮮やかに伝わってきた。「・・・・・・」「また教科書が無いの?」「無かった」 吉高は小さく答えた。明穂は彼の肩がわずかに落ちる気配を感じ、心が締め付けられた。「ごめんね、一緒に探してあげられなくて」と彼女は囁くように言った。吉高は少し間を置き、「もう一度探してくるよ」と答えたが、その声には力がない。明穂は微笑み、「気を付けてね」と優しく送り出した。「うん」と短く返す吉高の足音が遠ざかる中、明穂は彼の背中に宿る不安を確かに感じていた。彼女の鋭い感覚は、吉高が口にしない悩みを捉え、心の奥でそっと寄り添った。吉高の屈んだ背中が、夕暮れの教室に消えていくのを、彼女は静かに見守った。 明穂の隣家には、3歳年上の幼馴染、仙石吉高が住んでいた。彼は生真面目で融通が利かない性格で、どこか孤独を好む少年だった。学校では、同級生の男子たちが下世話な話で盛り上がる中、吉高は教室の窓辺で静かに小説に没頭していた。古びた文庫本のページをめくる音だけが、彼の周りに穏やかな空気を作り出した。しかし、その孤高な態度は同級生の目に異質に映り、自然といじめの標的となった。たびたび彼の教科書が隠されたり、嘲笑が教室に響いたりした。「また御本を読んでいらっしゃるんですかぁ?」同級生の嘲るような声が
生まれつき弱視の仙石明穂(25歳)は、結婚2年目の専業主婦として穏やかな生活を送っている。高校卒業後、幼馴染で医師の仙石吉高(28歳)にプロポーズされ、愛情に満ちた結婚生活が始まった。吉高の優しさと支えに包まれ、明穂は日々の小さな幸せを大切にしていた。朝の柔らかな陽光の中、吉高が淹れるコーヒーの香りに癒され、共に過ごす時間が心の安らぎだった。 しかし、その穏やかな日常に、微かな波紋が広がり始めていた。彼女の心の奥底で、何かが静かに変わりつつあるのを感じていた。かつては完全に信じていた吉高との未来に、かすかな不安が忍び寄る。明穂はそれが何かをまだ言葉にできず、ただ静かにその感覚を抱えていた。送っていた筈だった、揺るぎない幸せは、どこかでほころび始めているのかもしれない。「紗央里・・」 ある晩、吉高が聞き覚えのない女性の名前を口にした。(さおり、誰?) 例えようのない不安が、明穂の心に波紋のように広がっていた。 吉高は生真面目で誠実な医師として、病院では看護師たちに慕われ、信頼されていた。その中のひとりと親しげに話す姿が、明穂の胸に小さく刺さったのかもしれない。だが、それだけではない。ここ数週間、吉高の雰囲気が変わったのだ。帰宅時の声のトーンが微妙に低く、笑顔にわずかな硬さを感じる。明穂は弱視ゆえ、視覚を超えた感覚に鋭い。吉高の手に触れたときのわずかな緊張、部屋に漂う見知らぬ香水の残り香、会話の間合いの微妙な変化。それらが彼女の心をざわつかせる。 吉高は変わらず優しく接するが、明穂の繊細な感覚は、言葉にできない何かを捉えていた。不安は静かに、しかし確実に、彼女の穏やかな日常を侵食しつつあった。かつての確かな愛情が、今、かすかな影に揺れている。(こんな時、大智がいたら相談できたのに) 吉高には双子の弟、仙石大智がいた。大智は明穂の初恋の相手であり、彼女の心を深く理解する存在だった。弱視である明穂に対し、周囲は気遣いを見せたが、過剰な優しさは時に彼女を孤立させた。だが、大智は違った。彼は明穂を特別扱いせず、ありのままの彼女を受け入れた。冗談を交わし、共に笑い、彼女のコンプレックスを自然に解きほぐした。大智の率直な態度と温かな眼差しは、明穂に自分を肯定する力を与えた。 そんな二人が恋に落ちるのは、自然な流れだった。明穂が高校に入学した春、桜が満開の校庭